銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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戦いの後に残るものは、勝敗だけではない。
 そこに生きる人間たちの、歪で滑稽な日常である。


帰還と、帝国の風物詩

【オーディン 宇宙港】

 

本日は、ただの帰還ではない。

 長旅を終えた旗艦《ロンゴミニアド》が、その巨大な質量を伴って降下してくるのだ。魔術師ヤンとの苛烈な神経戦を終え、猛毒を潜ませた和平案と要塞を抱えて帰還する帝国宰相夫妻を出迎えるとなれば、現場の緊張は限界に達する。

 

敬礼の指先の角度ひとつにすら、己の進退がかかっているのだ。何しろ、宰相の機嫌次第で帝国の明日が揺らぎ、内務尚書の冷ややかな視線ひとつでその場の寿命が削り取られる錯覚に陥るほどなのだから。

 

 その殺気立った宇宙港のタラップの前で、ラインハルトは静かに獲物を待つような視線を上方へ向けていた。

 白銀の意匠が施された軍服には一糸の乱れもなく、黄金の髪は光を受けて眩いほどに輝いている。数日前まで、鼻の奥にこびりつくような焼きネギの甘ったるい匂いに包まれ、高熱にうなされてシーツの海に沈んでいた男とは到底思えない完璧な威容だった。

 

 やがて、金属音とともにタラップが降りる。

 

 心からの敬意と僅かな悔恨を胸に、誰よりも深く、その頭が下げられる。

 

「兄上、ありがとうございます。そして、多大なるご迷惑をおかけしました。魔術師との交渉、誠に見事な手腕でした」

 

 本来であれば、ここは帝国の歴史を彩る美しい名場面になるはずだった。覇業を歩む弟が兄の労をねぎらい、兄がそれを鷹揚に受け流す。周囲の兵士たちはその光景に胸を熱くする。それが理想的な権力者たちの姿だ。

 

 だが、アルブレヒトという男の精神は、そうした作り物めいた絵図をひどく嫌悪するようにできている。

 

「おお!大いに気にしろよ!お前がネギを首に巻かれて情けなく寝込んでいるせいで、俺は過労死の淵を彷徨いながら帝国を横断する羽目になったんだからな!」

 

(そこを言うのか。しかも、ネギまで)

 

 端正な顔立ちが、屈辱に微かに引きつる。

 

「……そこは、大人の余裕というもので『気にするな』と応じる場面ではありませんか?」

 

「大人の余裕?」

 

「肝心な局面でウイルスごときに負ける、自己管理の欠落した軟弱な弟には、これくらいの嫌味を擦り込んでやってちょうどいい。だいたいお前は昔から――」

 

 脳の奥で、理性の糸が鋭く弾け飛ぶ音がした。

 靴底が硬い床を強く蹴りつけ、怒りに任せて前へ踏み出してしまう。

 

「ファルケンハイン!!貴様!!」

 

 売られた喧嘩をやり過ごすほど、老成しているわけではない。怒気を孕んだ瞳が、弟を真っ直ぐに睨み据え返した。

 

「なんだ!やる気か、金髪の孺子が!!」

 

 次の瞬間、帝国の最高権力者たちが、何万という将兵の眼前で互いの軍服を掴み合っていた。

 

 周囲を取り囲む兵士たちは、前方に視線を固定したまま一切の表情を消去した。砲火が降り注ぐ最前線に立たされた時と同じ極限の緊張感をもって、「自分は何も見ていない」という強固な意志を貫き通す。士官学校で上官の兄弟喧嘩を無視する訓練など受けてはいないが、軍人としての生存本能が彼らを無機質な彫像へと変えていた。

 

「……この人達は……またですか」

 

「まあ……もうオーディンの風物詩と呼んでも差し支えないでしょう」

 

「平和であることの何よりの証拠ですわ」

 

「その平和の証拠が、宇宙港のど真ん中での殴り合いというのは、いささか頭の痛い帝国ですね」

 

 静かな抗議の声が上がる。

 

「でも、血みどろの戦場でこれを始められるよりは、よほどマシでしょう?」

 

「それは、おっしゃる通りです」

 

「なら良いのです」

 

「決して良くはないと思いますが」

 

 力任せに襟元が締め上げられる。

 

「貴様、少しばかり熱を出した程度で軟弱とは何だ!俺はすでに完治した!完全にだ!」

 

「完治した人間は、兄の顔を見た途端に激昂したりはしない!」

 

 弟の腕が乱暴に弾き飛ばされた。

 

「だいたいお前、ネギの匂いが気に食わんだの、兄上助けてだの、高熱に浮かされてずいぶんと情けない泣き言を漏らしていたそうじゃないか!」

 

「なっ!?」

 

 白い頬が、瞬時に沸騰したように朱へ染まり上がる。

 

「だ、誰からそれを聞いた!?」

 

「ヒルダちゃんとアナだ」

 

「ヒルダぁぁぁぁ!!」

 

「おい、自分の妻に八つ当たりをするな!」

 

宇宙港の空気は、いよいよ居たたまれないほどに歪んでいく。

 

 しかし、誰も止めに入ろうとはしない。不用意に割って入れば、両者の牙がこちらへ向くことは火を見るより明らかだからだ。必然的に調停役を担わされるはずの副官は、もはや絶対的な静観の構えを崩さなかった。彼にとってこの程度の衝突は、日常の延長線上に過ぎないのだ。

 

 一方で、事態を煽る声は心底楽しそうに響き渡る。

 

「アル様、そこです!その輝く金髪を押さえつけてしまって!」

 

「奥方様、お願いですから応援しないでください!」

 

 たまらず悲鳴のような制止の声が上がる。

 

「だって、どのみち止めても無駄でしょう?」

 

「それはそうですが!」

 

「ならせめて、最後が美しく決まるように見守るしかありませんわ」

 

「喧嘩の結末に美しさなど必要ありません……」

 

 やがて、互いの荒い呼吸音が響き始めると、警戒するように間合いが取られた。

 整っていた軍服の襟は乱れ、黄金の髪も白銀の髪も汗に濡れて肌に張り付いている。口では互いを罵り合ってはいるものの、打撃の応酬はすでに底をついていた。

 乱れた息を整えながら、冷ややかな声が放たれる。

 

「兄上の嫌味の品のなさは、相変わらずですね」

 

「お前の沸点の低さも、相変わらず成長がない」

 

「一体誰のせいだと思っているのです」

 

「大方、俺のせいだろうな」

 

「自覚はあるのですね」

 

「ああ」

 

 乱れた袖口が直され、平然と首が縦に振られる。

 

「だが、微塵も反省はしていない」

 

「……腹立たしい男だ!」

 

「元気になった証拠だ。喜ばしいことだな」

 

 さらなる反撃の言葉が紡がれようとした瞬間、意図的な小さな咳払いが背後から聞こえた。

 

 ただそれだけで、肩からすっと余分な力が抜け落ちる。黄金の覇者は、ただ一人の親友に対してのみ、恐ろしいほど素直な制動装置を備えていた。

 

「……ともかく」

 

 軍服の皺が伸ばされ、威厳を取り戻した声が空気を震わす。

 

「無事の帰還、お疲れさまでした。今夜はせめて、泥のように眠ってください」

 

「お前に心配されると背中が痒くなるが、まあ、そうさせてもらう」

 

「兄上」

 

「何だ」

 

「今度からは、独りで限界を迎える前にご相談を」

 

「お前も、寝込む前に医者を呼べ」

 

「ぐっ……」

 

「ほらみろ。これで互角だ」

 

「全く互角ではありません!」

 

 静かな眼差しが、そのやり取りを見守っていた。

 この兄弟は、こうして言葉と拳をぶつけ合う。己の感情を剥き出しにしてぶつかり合えるうちは、まだ彼らは大丈夫だ。余計な疑心暗鬼や冷たい遠慮が降り積もるくらいなら、宇宙港のど真ん中で殴り合ってくれるほうが、精神の均衡を保つ上ではよほど好ましい。

 

ひどく歪な関係性ではあるが、帝国の頂点に立つ彼らには、時にこうした乱暴な感情の排気口が必要なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ファルケンハイン元帥府 サロン】

 

数日後の夜。

そこには、新帝国の空を彩る綺羅星のごとき提督たちが集っていた。

 

 彼らは多忙を極めている。だが、血を吐くような激務の連続だからこそ、こうして理由もなく集い、ただ酒を喉へ流し込む時間が不可欠だった。とはいえ、場末の酒場で安酒をあおるのとはわけが違う。卓上に並ぶつまみは戦略物資ほどの価値がありそうな代物ばかりだが、行き交う会話の卑近さは、驚くほど一般のそれと大差なかった。どれほどの武勲を立てようと、酔いが回れば行き着く先は同じだ。

 

ミュラーはグラスの縁を指先でなぞりながら、静かに言葉をこぼした。

 

「で、イゼルローンは実務者協議を経て、無事に我々の手へ返還されると……」

 

「同盟は『イゼルローン』という名の手のかかる女を抱くのに飽きて、我々に突き返してきたというわけだな」

 

 ロイエンタールが退廃的な色香を纏った皮肉とともに、美しい唇の端に弧を描く。

 

「自分たちの懐事情で女を乗り換えるとは、随分と身勝手な連中だ」

 

 その言葉に対し、グリルパルツァーが極めて生真面目な顔つきで異論を唱える。

 

「閣下……しかし、あの要塞は元々帝国の建造物です。寝取られた女を、力尽くで奪い返したと表現すべきではありませんか?」

 

 サロンの空気が、微かにざわめく。

 ロイエンタールは面白がるように片方の眉を跳ね上げた。

 

「グリルパルツァー」

 

「はっ」

 

「お前は時折、驚くほど語彙の選択が真っ直ぐすぎるきらいがあるな」

 

「申し訳ありません」

 

「いや、退屈しのぎにはちょうどいい」

 

 クナップシュタインが納得したように小さく手を打つ。

 

「なるほど……。では、『出戻りの人妻』といったところですか。いささか手垢はついていますが、その戦略的価値は健在であると」

 

 レンネンカンプから、こらえきれない笑い声が吹き出した。

 

「クナップシュタイン……卿も随分と冗談の腕を上げたな。四角四面な直轄軍にあって、そのユーモアは実に貴重だ」

 

「お褒めいただき、光栄です」

 

「純粋な称賛か、あるいは別の意味で面白がられているのか、判断に迷うところだがな」

 

 レンネンカンプの視線が、新たな要塞司令官となる男へと移る。

 

「しかし、ミッターマイヤー提督。貴方がその『出戻りの人妻』の新しい要塞司令官として赴任されるとか」

 

 ミッターマイヤーは困ったように眉尻を下げる。

 

「ああ。正式な辞令が下りるのはもう少し先になるが、来年にはイゼルローンの主になる予定だ」

 

 そう語る横顔は、不釣り合いなほどにひどく優しい顔つきへと変わっていた。

 

「……エヴァンゼリンを共に連れて行けることだけが、唯一の救いだな」

 

「唯一、というわけでもないでしょう」

 

 ミュラーから和やかな微笑みが向けられる。

 

「立派な栄転ではありませんか」

 

「肩書だけを見ればな。だが、あの純軍事施設を経済と交易の拠点へ作り変えるなど、並の神経なら重圧で押し潰されるに違いない。厄介事の詰め合わせを祝儀として渡されたようなものだ」

 

「それでも、エヴァが傍にいてくれるなら、大抵の困難はどうにかなると思えるのだから不思議なものだ」

 

「筋金入りの愛妻家ですなあ」

 

 レンネンカンプの愉快そうな笑い声が弾ける。

 

「全軍の将兵が羨望の眼差しを向けるわけだ」

 

「羨むだけにしておいてもらいたいな」

 

 ミッターマイヤーから即座に鋭い釘が刺される。

 

「軽々しく真似をされても困る」

 

「なぜです?」

 

 グリルパルツァーから、またしても一切の冗談を排した真顔で問いかけが飛んだ。

 

「愛妻家という在り方は、普遍的な美徳ではないのですか?」

 

「美徳ではあるが、真似をするならまず結婚という段階を踏め」

 

 ミッターマイヤーの呆れ果てた声が返される。

 

「そこをすっ飛ばして『愛妻家』の肩書だけを欲しがるな」

 

「なるほど」

 

 グリルパルツァーは深く納得したように首を縦に振る。

 

「では、まず妻を娶るところから」

 

「順序としては、そうなるな」

 

「大変、勉強になります」

 

「一体何の話をしているんだ、お前は……」

 

「ミッターマイヤー提督は、全軍が羨む愛妻家でいらっしゃる」

 

 ケスラーの落ち着き払った声音が切り出した。

 

「しかし、イゼルローンは軍事拠点であると同時に、今後は民間施設も拡大していく。魔術師が残した、同盟の息のかかった不穏分子も潜伏しているはずです。防諜には、これまで以上に神経をすり減らすことになりますな」

 

「まさに卿の言う通りだ」

 

「ケスラー、卿の麾下にある優秀な捜査官を、何名かイゼルローンへ出向させてもらえれば非常に心強いのだが……」

 

 ケスラーの口元に、微かな笑みが浮かぶ。

 

「なるほど……。では、我が憲兵隊から可能な限り『高値』で貸し出せるよう、とびきり鼻の利く猟犬たちを見繕っておきましょう」

 

「恩に着る」

 

 ミッターマイヤーの快活な笑い声が応じた。

 

「その高いレンタル料は、財務省に回してくれ」

 

「では、遠慮なくそうさせていただきます」

 

「おい、やめろ」

 

 ロイエンタールの鋭い言葉が差し挟まれる。

 

「財務省が悲鳴を上げる」

 

「軍務尚書がそれを仰いますか」

 

 ケスラーから冷ややかな笑みが返された。

 

「軍務省が提出してくる予算要求書は、毎年目眩がするほど暴力的だと耳にしておりますが」

 

「軍備の維持に必要な経費だ」

 

「我が憲兵隊の予算も、治安維持に必要な経費です」

 

「憲兵隊の言う『必要』は恐ろしいからな」

 

「気づけば、壁の向こう側に耳が増えているような錯覚に陥る」

 

「最高の誉め言葉として受け取っておきましょう」

 

「どうしてそうなるんだ」

 

 誰もが完全に気を抜いているわけではない。だが、極限の緊張状態から一時的に精神を解き放つ術を、彼らは知っている。青春のすべてを戦火の中で消費してきた世代だからこそ、こうした安価な冗談の応酬がなければ、とうの昔に心がすり減っていただろう。

 

 ミッターマイヤーは琥珀色の液体を喉へ流し込みながら、ふとロイエンタールへと視線を向ける。

 

「そういえば、ロイエンタール。オレばかりではなく、マルガレータも統帥本部総長という重責を担うそうではないか。若くして軍令の頂点に立つとは、誠に喜ばしいことだ」

 

「ふん……。あのお転婆は、宰相閣下の過分な寵愛を受けているにすぎん。……大局を見透かす視野など、まだまだひよっこだ」

 

 ミュラーから和やかな苦笑が漏れる。

 

「相変わらず、ご自身のお嬢様には過酷な評価ですね。あれだけ見事に、魔術師の仕掛けた罠を見破ってみせたというのに」

 

「見破った、のではない」

 

 ロイエンタールから即座に否定の言葉が飛ぶ。

 

「見え透いた罠に足を踏み入れなかっただけだ。軍人として最低限の基準を満たしたにすぎん」

 

「その最低限の基準とやらが、我々からすれば随分と高すぎるのですぞ」

 

 レンネンカンプの朗らかな笑い声が響く。

 

「帝国元帥にして宇宙艦隊司令長官、さらには統帥本部総長を兼任するほどの傑物に対して、父親としての評価が厳しすぎるのではありませんかな」

 

「厳しくして何が悪い」

 

「甘やかせば、刃は途端に鈍る」

 

「父親という生き物は、娘が己の手の届かない場所へ昇っていくと、急激に視力が低下する傾向にあるらしい」

 

 クナップシュタインがグラスを見つめながら、真面目なトーンの分析をぽつりと呟いた。

 

「娘の長所が、途端に直視できなくなるという病理だ」

 

「その分析は少々失礼かもしれませんが、的を射ている気もしますな」

 

「いやいやミュラー、卿はまだ本質が見えておらん!ロイエンタール元帥はな、『嫉妬』しておられるのだよ!」

 

 ロイエンタールの金銀妖瞳の片割れが、危険な光を帯びて細まった。

 

「……俺が、何に嫉妬しているというのだ」

 

「己の敬愛するファルケンハイン閣下を、実の娘に奪われそうになっているからに決まっているだろう!」

 

 ケンプは胸を張り、自信満々に断言した。

 

「最近のマルガレータに対する閣下の評価は、まさにうなぎ登りではないか!第一の腹心を自負する卿としては、それが面白くないのだろう!」

 

 直後、あちこちから咳払いで誤魔化すような、押し殺した笑いが漏れ始める。

 図星を突かれた人間の反応というものは、いつの時代もひどく滑稽で面白い。

 

「ケンプ……。貴様、要塞を離れて休暇の身でありながら、わざわざ俺の神経を逆撫でするためだけにオーディンまで足を運んだのか?」

 

「いやいや、あくまで家族サービスの一環だ」

 

 ケンプは一切悪びれる様子もない。その豪胆さが、この男の強みだった。

 

「本日はこれから、宰相閣下のご自宅に、家族ぐるみで招待されておるのでな。昔馴染みだけに許された特権というやつだ!」

 

 ミッターマイヤーから感心したような相槌が打たれる。

 

「そういえば、卿こそが閣下のもとへ最も古くから仕える古参であったな。今でも私邸に招かれるとは、その信頼の厚さが窺える」

 

「はっはっは!まあな!あの頃は鬼教官として、アルブレヒトとアナスタシアの二人を徹底的にしごき抜いたものよ!今でもたまに『教官』などと呼ばれると、つい頬が緩んでしまうな!」

 

「少し緩むどころの騒ぎではなさそうだが」

 

 レンネンカンプから呆れたようなぼやきが漏れる。

 

「今の声量を聞けば、卿の有頂天ぶりは嫌でも伝わってくる」

 

 すると、ロイエンタールの内にひどく子供じみた対抗心が燃え上がり始めた。

 

「ふん。俺だって、閣下の私邸には幾度となく招かれて酒を酌み交わしている。書斎の奥にある、酒の隠し場所すら把握しているぞ!」

 

「元帥閣下ともあろうお方が、対抗するポイントがそこですか」

 

 ミュラーたち周囲から呆れ果てた視線が注がれる。

 

「何だ、極めて重要な情報だろう」

 

 ロイエンタール本人は至極真面目だった。

 

「主君との信頼の深さを計る尺度として、プライベートな酒の隠し場所を知っているか否かは、決定的な意味を持つ」

 

「おそらく、決定的な意味など持ち合わせていないかと」

 

 グリルパルツァーの冷静な分析が下される。

 

「むしろ、不法侵入者として疑われかねないリスクを伴う情報かと存じます」

 

「お前は少し黙っていろ」

 

「はい」

 

「だが、全くもって正論だな」

 

 レンネンカンプの肩を揺らして笑う声が響く。

 ミッターマイヤーは底知れぬ徒労感に襲われながら、自らの額へ手を当てる。

 

「……張り合ってどうする。いい年をした大人たちが、上官の寵愛を競い合うな」

 

「競ってなどおらん」

 

 ロイエンタールは不機嫌そうに視線を逸らした。

 

「ただ客観的な事実を述べたまでだ」

 

「事実を並べ立てて優位に立とうとする行為を、世間では競うと呼ぶのだ」

 

 ミッターマイヤーがぴしゃりと切り捨てる。

 

「いい加減、お前も早く身を固めることだな。娘ばかりが、出世の階段も結婚という節目も、お前より先に駆け上がっていくぞ」

 

「…………全くもって余計なお世話だ」

 

「毎回同じ台詞だな」

 

「お前が毎回、余計な干渉をしてくるからだろう」

 

「エヴァンゼリンがこのやり取りを聞いたら、『あの人はまた強がっているのね』と一蹴されるぞ」

 

「お前の妻は、なぜそこまで俺の心理に対する解像度が異常に高いのだ」

 

「付き合いが長いからに決まっているだろう」

 

「傍迷惑な話だ」

 

「それはこちらの台詞だ」

 

 再び、ケンプの空気を震わせるような笑い声が響き渡った。

 

「良いではないか!そのうちマルガレータのほうが先に子供を身ごもり、閣下とアナスタシアの御子と共に庭を駆け回る日も来るかもしれんぞ!」

 

 その瞬間、ロイエンタールは心底恐ろしいものでも見たかのように眉間を強く顰めた。

 

「想像したくもない悪夢だ」

 

「なぜだ?」

 

 ケンプは不思議そうに瞬きを繰り返す。

 

「生命力に溢れていて、大変結構なことではないか」

 

「溢れすぎているのが問題なのだ」

 

「濃すぎる血と、あのお転婆の血が同時に増殖するのだぞ。帝国の防壁を何枚分厚くしようと、内側から破壊されるに決まっている」

 

 ミュラーからこらえきれない笑いが吹き出した。

 

「子供の将来よりも、先に国家防衛の心配をするあたり、さすがは軍務尚書ですね」

 

「俺は至極真面目に言っている」

 

 

「……何か温かい飲み物でもお持ちしましょうか」

 

 クナップシュタインはグラスの縁を指でなぞりながら、現実的な懸念をぽつりとこぼした。

 

「しかし、閣下方の御子となれば、その教育係に任命される者の心労は計り知れませんな」

 

「教育の前に、まず誰がその暴走を止めるかの責任を押し付け合う会議から始まりそうだ」

 

 ミュラーの言葉に、グリルパルツァーが小首を傾げる。

 

「止める?」

 

「何を止めるというのです?」

 

「全部だ」

 

「立ち上がり、歩き始めたその瞬間から、あらゆる行動を全力で制止しなければならない」

 

「なるほど」

 

「なるほど、で納得するな」

 

 ケンプが機嫌よく葉巻の灰を落とした。

 

「ところで本日の招待だが、我が妻は朝から『アナスタシア殿のお口に合う茶菓子は何が良いか』と、厨房で大騒ぎをしておったぞ。昔から、あの二人は不思議と波長が合うようでな」

 

「それは少々意外な組み合わせですな」

 

 ミュラーの丸くなった目が向けられる。

 

「一方は太陽のように豪快で、もう一方は氷のように冷艶という印象ですが」

 

「根底にある気質が似通っておるのだ」

 

ケンプは我が事のように胸を張った。

 

「愛した男のためとあらば、一切の躊躇いなく業火の底まで平然と踏み込んでいく。その恐ろしいまでの覚悟がな!」

 

「業火という単語を、家庭の共通の話題のように口にするな」

 

 ロイエンタールの呆れ果てた声が出される。

 

「だが、否定しきれないのが恐ろしいところですな」

 

 レンネンカンプから苦笑が漏れる。

 

「宰相閣下の周囲は、どうにも『愛の質量が重すぎる』人間ばかりで構成されている気がしてならない」

 

 サロンを満たす笑い声は、なおも絶えることがない。

 

 彼らがこうして毒のない冗談を交わし合える時間こそが、何よりも得難い平穏の証明だった。戦火の絶えない冷酷な銀河にあって、無数の命を背負う提督たちが、高級な酒と安価な冗談を同じテーブルの上に並べて笑い合える。その事実だけで、彼らが戦う意味は十分に満たされているのかもしれない。

 

 もっとも、彼ら自身にその高尚な意義を問うたところで、おそらくこんな返答しか返ってこないだろう。

「違う。美味い酒を心置きなく飲むために、平和を守るのだ」と。

 あるいは、

「愛する妻の待つ家へ、一秒でも早く帰るためだ」と。

「生意気な娘に小言を言う権利を維持するためだ」と。

「有能な部下を馬車馬のように働かせるためだ」と。




最後までお読みいただきありがとうございます。
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