銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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平和は、何もせずに保たれるものではない。
 その裏では、必ず誰かが汚れ役を担っている。


猟犬は静かに牙を研ぐ

【帝都オーディン 内務省】

 

部屋は薄暗い。

節電ではない。彼女が醸し出す気配そのものが、光を呑み込んでいるかのようだ。

 

机や椅子、壁の絵画はいずれも上等だが、そこに漂う空気は優雅さとは無縁に冷え切っている。

 

ここに呼ばれる者は二種類。褒められるか、骨の髄まで見透かされるか。大半は後者だ。

執務室の中央で、初老の男が恭しく頭を垂れていた。

ハイドリッヒ・ラング。

 

帝都の裏社会においてすら、関わりを避けられる官僚の上位に位置する男だ。

揉み手と柔らかい口調。一見すればどこにでもいる古参の役人だが、その両目は濁りながらも異様な鋭さを放っている。

 

他人の隠し事を探り当てる歓喜を知り尽くした、ひどく不快な眼差しだ。

アナスタシアはデスク越しに、静かに男を見下ろした。

表情は淡く、声のトーンも平坦だ。

 

「あなたを呼んだのは他でもありません」

 

退路を断つような、静かな響き。

 

「貴方には、私の直属として新たな『組織』を作って欲しいのです」

 

ラングの肩がわずかに揺れた。

野心の昂ぶりか、それとも緊張か。

 

「心得ております」

 

彼は揉み手をしながら応じた。

 

「……治安維持、思想統制、そして反逆の芽を摘むお仕事でございますね」

 

「言い方が古いですね」

 

「露骨すぎます」

 

「これは失礼を」

 

ラングは恭しい表情を作る。表層を取り繕う能力だけは極めて高い。

 

「しかし本質は変わりますまい。国家が求める仕事は大体そのあたりに収束いたしますゆえ」

 

「だから嫌われるのですよ」

 

「でしょうな」

 

ラングはあっさりと同意した。

 

「秘密警察の類は、どうしても民衆に嫌われます」

 

「これからの時代、見た目も中身も新しくしなければなりません」

 

ラングがわずかに視線を上げる。

 

「御意。古い酒を捨てる必要はございませんが……今の時代に合わせて新しく見せましょう。ラベルは少々カビが生えておりますがね」

 

アナスタシアの口元に微かな歪みが浮かぶ。

 

「ラベルの古さは実績の証です」

 

「……同盟関連のことは厳しく監視しなさい。それに伴い、社会秩序維持局の名前も変えなさい」

 

ラングの目が細まる。

中身を残し、表面の匂いだけを消す。その意図は十分に伝わっていた。

 

「では……『内国安全保障局』というのはいかがでしょうか」

 

すでに用意していたかのような答えだった。

 

「いかにも国家と市民を守る、清潔な響きかと」

 

「許可します」

 

迷いなく頷く。

 

「……言っておきますが、出世したいなら励むことです。結果だけを評価します」

 

「もちろん」

 

ラングは深く一礼した。

 

「この命に代えましても、閣下に忠節を尽くします」

 

「命は安売りしなくて結構。結果だけを持ってきなさい」

 

「はっ」

 

簡潔なやり取りの中に、すべての指示が圧縮されている。何を摘み、何を見逃し、何を綺麗に包み直すか。

 

アナスタシアは立ち上がり、窓外の帝都を見つめた。

整然とした美しい街並み。だが彼女の目は、その下で蠢くものを捉えている。

 

「……同盟との和平がなれば、当然、人や物資と共に文化も流入します」

 

ラングは沈黙を守る。相手の言葉の切れ目を探るように。

 

「ランズベルク伯の小説だけでは終わらない」

 

声が低く沈む。

 

「同盟の思想、価値観、政治形態……。それらは、まだこの帝国には早い。劇薬すぎます。下手をすれば、アル様を頂点とする門閥貴族の統治が根底から揺らぎかねない。分かりますね?」

 

「自由と平等……」

 

「無知な大衆にとって、あれほど耳心地の良い甘い響きはありませんからな。感染力が強すぎます」

 

「そう」

 

「内戦の前から、この国の本質は変わりません。帝国は、アル様を筆頭とする門閥貴族のものです」

 

信念と執着、そして愛情が入り混じった歪な響き。

 

「ラインハルト様はかつてそこに抵抗した……。本来であれば、先の内戦ですべてが滅び、どちらかしか残らないはずだったのですが……」

 

「アル様の優しさが、それを許した。……今さらそれを言っても仕方ありませんね」

 

ラングは探るような視線を向けた。

 

「……では。ローエングラム侯陣営の隙を探せと?」

 

アナスタシアの眼差しが鋭く突き刺さる。

 

「そうは言ってません」

 

ラングは内心で舌を巻いた。不用意に触れてはならない逆鱗だ。

 

「……アル様は、殊の外ラインハルト様やキルヒアイス国務尚書、マルガレータ司令長官をご信任です。確たる証拠もなく彼らを疑うことは、私の立場をも悪くしかねません」

 

「なるほど」

 

ラングは即座に身を引いた。

 

「……では、確たる証拠を……」

 

「私は何も命じていません」

 

「……命じていませんが、万が一、何かが出たときには、国家のために毅然として対処しなければならないでしょう」

 

「承知いたしました」

 

ラングは深々と頭を下げる。

 

「では、これにて……」

 

男が退室し、扉が閉まる。

一人残されたアナスタシアの瞳に、昏い光が宿る。

公的な仮面の下にある、生々しい執着。

 

よろしくお願いしますよ、ラング。

 

胸中で呟く。

 

……………この帝国に、覇王は一人でいい。

 

誰に聞かせるわけでもない、自身への誓い。

 

それなのに、今の帝国には素質がある者が三人もいる……。

 

アルブレヒト。

ラインハルト。

マルガレータ。

 

銀河は、狭すぎるのです。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

【自由惑星同盟首都 ハイネセン 元最高評議会議長執務室】

 

トリューニヒトの執務室は光が入り、家具も上品だ。だが、部屋の主の腹の底は全く見えない。

 

ユリアン・ミンツ。

ヤン・ウェンリーの懐刀であり、底知れない忠誠心を秘めた若き軍人。

 

「良いかな? ユリアン君」

 

ひどく穏やかな声。

 

「ヤン総統というお方は、歴史という望遠鏡を持っている。明日のことはよく見えるし、昨日のこともよく分かっている。……しかし、そういう人間は得てして、足元の今日のことは見えないものなのだよ」

 

ユリアンは瞬き一つせず、真っ直ぐに男を見返す。

 

「閣下。僕に、何をせよと?」

 

無駄のない問いかけ。

トリューニヒトは口元を綻ばせた。

 

「現在、総統閣下の汚れ役は、この私やシェーンコップ大将が引き受けている……」

 

「ええ」

 

周囲がそれを担うことで、同盟政権は回っている。

 

「だからこそ、ヤン総統のあの絶大な支持率は清廉なまま保たれている」

 

「だが、我々だけで済まない時がいずれやってくるだろう。……その時には、誰かが総統の背中を守る必要がある」

 

ユリアンの目に迷いはない。

 

「なるほど……僕に、ヤン提督の毒見役になれとおっしゃるんですね」

 

トリューニヒトはわずかに目を見開き、満足げに笑った。

 

「……ふふふ。流石はヤン総統の懐刀だ。話が早い」

 

「いい人選をしますね、閣下」

 

「喜んで引き受けますよ。ヤン提督のためなら」

 

その躊躇のなさに、トリューニヒトの背筋を微かな戦慄が駆け抜ける。

理屈を超えたヤンへの傾倒。必要とあらば、いかなる一線も越える危うさ。

 

「頼むよ」

 

「君は本日付で、イゼルローン方面軍からハイネセンへ異動だ。表向きは、総統直下の次席副官として動いてもらう」

 

「わかりました」

 

「首席副官はフレデリカ夫人が務めるから、君が側にいても自然だ。……だが、裏向きには、国家の内部崩壊を防ぐため『自由惑星同盟・特別高等警察』を創設し、ユリアン・ミンツ、君を大佐待遇でその首班に置くこととする」

 

ユリアンの眼光が鋭さを増す。

 

「特高……ですか」

 

「嫌かね?」

 

「いいえ」

 

即答だった。

 

「言葉が古くて、格好悪いとは思いますが」

 

「そこかね」

 

トリューニヒトは肩を竦める。

 

「いっそ特命政治浄化局とかのほうが悪役っぽくてすっきりしますが」

 

「君、意外と趣味が悪いね」

 

「提督のためなら、たいていの趣味は受け入れられます」

 

この少年、やはり危ない。

だが、使える。

 

「この特高の存在を知っているのは、私とキャゼルヌ元帥、シェーンコップ大将、アッテンボロー元帥、そしてヤン夫人だけだ」

 

声を落とす。

 

「総統は知らない。知る必要がない。……分かるね?」

 

「はい」

 

ユリアンの瞳に、静かな炎が宿る。

 

「ヤン提督の理想は提督のものです。でも、その理想を阻むヤン提督の敵は……僕が全て潰します」

 

迷いのなさが、かえって異様さを際立たせる。

 

「頼もしいね」

 

トリューニヒトは頷く。

 

「帝国との和平がなれば、当面は戦争の危機はなくなるかもしれない。しかし、ここまで政体の違う者同士が交われば、必ず激しいイデオロギーの闘争が始まる」

 

「わかります。僕たちは今、事実上、ヤン・ウェンリーによる軍事独裁政権です」

 

「そこをそんなにはっきり言うかね」

 

「事実ですから」

 

ユリアンの表情は微塵も揺るがない。

 

「でも、ヤン総統の政治基盤はそれでも民主共和政の理念に寄っている。矛盾しているんです。……ならば、その矛盾を突いてヤン提督を揺るがす危険性は、僕が秘密裏に排除する」

 

「幸いにも、同盟の首脳部は一枚岩だ。ロボス元帥やホーランド元帥も、ヤン総統に心服している……。内部の反乱を気にしなくてよいのは幸せじゃないかね?」

 

「ええ」

 

ユリアンは静かに同意する。

 

「だからこそ、提督が余計な政治闘争の泥を押し付けられないように……僕が泥を被ります」

 

トリューニヒトは窓外に広がる空を見つめた。

 

「そして、もう一つ」

 

政治家としての気配が戻る。

 

「防御だけでは勝てない。……敵国には、我々から崩壊の種を撒くこと……だよ」

 

「承知しました」

 

逡巡はない。ヤンのためという大義が、すべての倫理を塗り潰していた。

 

帝国では初老の猟犬が放たれ、同盟では若き猟犬の檻が開かれた。

国家の安全保障という名目の下で。

 




ここまでお読みいただきありがとうございます。
 今回の裏側の動きについて、どのように感じられたでしょうか。
 ぜひご感想をお聞かせください。
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