銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
だが、その根底にあるのは、結局のところ人の繋がりである。
【ローエングラム侯爵邸 私室】
空間は十分な広さを持っているはずだった。しかし今のこの部屋には、肌を圧迫するような奇妙な狭さが蔓延している。
窓辺に立つラインハルト・フォン・ローエングラムの沈黙が、目に見えない重力となって場を支配しているためだ。秀麗な面差しが硬く引き結ばれている時、それは不用意な接近を拒む明確な警鐘となる。
長く彼に付き従うキルヒアイスでさえ、言葉の糸口を探るのに微かな躊躇いを覚える。
その緊迫の源は、今しがたもたらされた報告書の内容そのものにあった。
「何」
「アナスタシア姉上が、あのハイドリッヒ・ラングを登用し、内国安全保障局なる組織を作っただと」
キルヒアイスは視線を伏せ、静かに肯定を示す。
「はい……。現状、我らが帝国に、秘密警察を動員しなければならない不穏分子は存在しないはずですが」
「存在しないからこそ、気味が悪い」
「治安が乱れているから秘密警察を増やす、なら理屈は通る。だが今は違う。ならば今いる敵より未来の敵を見ている。我々を疑っているのか?」
「あるいは」
キルヒアイスの声音がわずかに沈む。
「疑いたい……もしくは、将来的な禍根として排除したいという意思の表れかもしれません。あるいは、表面通りのただの政治的な治安対策かもしれませんが……」
「それならば、憲兵総監であるケスラーに話をつけないのはおかしい」
「ケスラーは兄上の法務面の懐刀だ。それを飛び越えてラングを重用するなど、裏があるとしか思えん」
「承知しました。私どもの方でも、内密に探りを入れてみましょうか」
「痛くもない腹を探られるのは気分が悪い……。下手に動けば、それこそラングの罠に嵌る。やめておいては」
思考の天秤が、行動のリスクを重く見積もっている。
怒りに任せて剣を抜く段階は、とうに過ぎ去っていた。玉座に近い場所で過ごす時間は、感情の爆発よりも先に、盤面の構図を俯瞰する視座を強要する。それは成長であると同時に、純粋さを削り落とす作業でもあった。
キルヒアイスは、親友の内に生じたその不可逆の変化を正確に理解している。だからこそ、無理に背中を押すことはしない。
「承知しました。……ですが、こちらが静かであっても、向こうが静かとは限りません」
「それが問題なのだ。兄上の周りは、どうにも『愛しているから疑う』という種類の面倒が多すぎる」
「……よろしいですか、あなた」
「ああ、大丈夫だ。ヒルダ、お前は工部尚書として、そして妻としてどう思う」
カップに注がれる紅茶の香りが、思考の輪郭をわずかに明瞭にする。
「おそらくは、将来における権力分裂への牽制でしょう」
「ファルケンハイン宰相閣下の権力は盤石に見えますが、実態はラインハルト様と閣下との二頭体制と言っても過言ではありません」
事実を事実として提示する。
「お二人の個人的な連携と信頼が深いだけで、内戦前と権力構造に根本的な変化はないのです。アナスタシア閣下は、そこを懸念しての予防措置を取られたのかと」
「俺が兄上に弓を引くとでも。益もない。内戦前ならいざ知らず、今はそんな野心はない」
「だからこそ、でしょう」
ヒルダの眼差しが、真っ直ぐにラインハルトを射抜く。
「内戦前なら、いずれ貴方は門閥貴族を打倒する予定があった。しかし『今は』ない。……アナスタシア閣下から見れば、貴方の牙は抜けておらず、ただ隠しているだけに見えるのです」
「随分と信用がないな」
「信用ではなく、評価です。貴方が優秀である、という評価」
「嬉しくない」
「今はそうでしょうね」
そこにキルヒアイスの声が重なる。
「では当然、その真意はファルケンハイン宰相閣下もご存知で」
「知らないでしょう」
ヒルダは紅茶を置き、断言した。
「閣下は、身内の裏切りをもはや疑っていないでしょう。アナスタシア閣下の独断です」
「では、兄上に直接相談してみるか。姉上の暴走を止めてもらうよう……」
「得策ではないかも知れません。現段階でそれをすれば……」
「……宰相ご夫婦の仲に、決定的な亀裂を入れることになりかねない……ですね」
キルヒアイスが、ヒルダの懸念を正確に言語化する。
「そうです。ファルケンハイン閣下はアナスタシア閣下を切り捨てない。アナスタシア閣下も閣下に背かない。ですが、その間へ『身内が讒言した』という棘だけは残る」
「最悪だな」
胃の腑に重い泥が落ちたような不快感が広がる。
「それもそうだが、仮に兄上がラングを却下したとしても、姉上からは我々が讒言して敵対行為に及んだと見なされるかもしれん」
「はい。今は隙を作らないこと。そして、ラングの不意の密告にも対応できるよう、ファルケンハイン閣下との家族としての絆を物理的に強めておくこと……それしかありません」
舌を刺す渋みは、茶葉の抽出時間によるものではなく、状況の苦味そのものだった。
「……それはそうかも知れないが、どうする。ただ酒を酌み交わすだけでは防波堤にはならんぞ」
ラインハルトの黄金の髪にそっと触れながら、彼女は告げた。
「……古典的ですが、婚姻はどうでしょうか。私たちの子であるアレクの妻に、ファルケンハイン閣下とアナスタシア閣下の娘をあてがうのです」
キルヒアイスの呼吸が、ほんのわずかに乱れる。
「ヒルデガルド様、その言い方は少々、物のようで」
「政略結婚など、だいたいそんなものです」
微塵の揺らぎもない。
「ですが、意味は絶大です。子が生まれたら縁を結ぶと約すれば、少なくとも我々が家門ぐるみで宰相ご夫妻へ恭順する意思は示せます」
「兄上たちには、まだ子供が生まれる前だぞ」
「ええ」
「いや……『生まれたら』という約束だけでも、姉上に対する恭順の意として、一定の効果はあるか……」
思考の歯車が噛み合い、光明が見え始める。
だがそこで、現実的な懸念がもう一つ提示された。
「ただ、アレク様が将来『僕に選択権は』と言い出した時には、かなり揉めそうですね」
「その時は、まず私が説得します」
「その前に俺が説得する」
父母としての即答だった。
「ご両親が揃って先回りするのですね」
「当たり前だ」
「子の自由恋愛より国家安定だ」
「そこを迷いなく言い切るの、やっぱり怖いですね」
「今さらだろう。今の帝国の上層部で『怖くない人間』など、ミュラーくらいしかおらん」
「そのミュラー提督も、最近は黄色特戦隊ですから」
ふいに、室内の重力が緩む。
「なぜ帝国軍最強クラスの将帥が、色分け戦隊みたいな認識で民衆に浸透しつつあるのだ」
「平和だからでしょう。……そういう意味では、悪くありません」
「悪くないが、胃には負担だ」
緩んだ空気は、次の瞬間にはもう引き締められていた。
「よし。兄上に話す」
「ええ。ただし、あくまで家族としての提案として」
「わかっている。政治の匂いを濃くすれば、兄上はかえって警戒する」
「……そのあたり、もう十分に政治家の発想ですね」
「嬉しくないな」
「ですが必要です」
「そうだな」
◇◇
【宰相執務室】
ラインハルトが急にやってきた。
その表情に張り付いた硬さから、アルブレヒトは瞬時にふたつの予感を嗅ぎ取る。厄介事の気配と、それに対する僅かな好奇心だ。
「何だ、急に改まって」
「話がある」
「大体の話は毎日あるだろ」
「今日のは少し違う」
「そうか。では聞こう。反乱か、結婚か、借金か」
ラインハルトの眼差しが微かに鋭さを帯びる。
「なぜその三択なんだ」
「上にいる人間の相談事は、大体その辺へ収束する」
「その経験則は歓迎できんな。……兄上」
「うん」
「兄上の娘が生まれたら、アレクの婚約者にしてほしい」
数秒の沈黙。
「……おお」
アルブレヒトの表情が、劇的に明るさを帯びる。
「それはまた突然だな」
「突然ではあるが、理由はある。俺と兄上は、義兄弟とはいえ血の繋がりはない……。将来、そのあたりを気にして派閥を作る者たちが出てくることが懸念でな」
理路整然としているが、彼自らが進んで政略結婚を提案するなど、かつてのラインハルトではあり得ないことだ。刃を交えて決着をつけることを選ばず、血縁という名の楔を打ち込もうとしている。
それは成熟の証であり、同時に、彼が抱える重責がそこまで彼を追い込んでいるという事実の表れでもあった。
「でも、エリザベートちゃんとの間にできる子は、将来の皇帝になることが決まっている。そうなると、ローエングラム家があからさまに帝室の簒奪を狙っていると疑われるぞ」
「兄上はそれでもいいと思うのか」
「俺はそれでもいいと思うが。どうせ世間は何をしても疑う。なら、せめて身内は仲良くしておいたほうがましだ」
ラインハルトの肩から、微かに力が抜ける。
「サビーネ陛下の子も、帝国宰相を継ぐことになっているのだろう」
「まあ、多分な」
「俺の息子・アレクは、帝国軍最高司令官の地位を継ぐ……はずだ。なら、アナスタシア姉上との間にできる娘が良い」
アルブレヒトは机を叩くような勢いで身を乗り出した。
「うん、それなら良いな。アナの娘なら、軍のトップの嫁としても申し分ないし、アナも絶対に喜ぶだろ。そうなれば、俺とお前も名実ともに本当の家族だ。それは嬉しいことだな。よく言ってくれた」
安堵が、ラインハルトの口元に柔らかな弧を描かせる。
「ああ。俺も、兄上との仲を疑われるような要素は排除したいし、純粋に嬉しい」
「そうだろうそうだろう。お前もやっと一端の貴族の父親みたいな根回しを覚えたな」
「褒めているのか」
「半分くらいは」
「残り半分は」
「昔のお前なら、こんなこと絶対に言い出さなかったという感慨だ」
「それは褒めていない」
「いや、成長だ。政治的な面倒を、正面から殴る前に縁で潰す発想を持てるようになったんだからな」
口の中に残るほろ苦さを噛み締めながら、ラインハルトは応じる。
「自分で言っていても、あまり楽しい成長ではない」
「大人になるってのはそういうものだ」
「兄上は妙に含蓄のあることを言う時と、俗っぽい時の差が激しすぎる」
「両方本当だからな」
飾り気のない言葉が、ラインハルトの胸の内にある強張りを解かしていく。
この選択で正しかったのだと、その瞬間だけは疑いなく信じることができた。
◇◇
【宰相夫妻 私室】
寝台に横たわり、妻の肩を引き寄せながら、アルブレヒトの感情は高揚していた。
「アナ、喜べ。ラインハルトが、アレクの嫁に俺とアナの娘が欲しいってよ。あいつめ、一端に貴族の父親みたいな根回しをしやがって……」
しかし、返ってきたのは淡々とした響きだった。
「……よろしいかと存じます。アル様」
「だろ。そのためにも、俺たちも子作り……頑張らないと……な」
胸元を押し返す、かすかな抵抗。
「その件は、もう不要です。アル様は、エリザベートちゃんやサビーネちゃんと励んでくださいませ」
思考が停止する。
「えっ。それって……」
「はい。子供ができました。今朝、軍医の診察で確認しました」
空白の数秒。
そして。
「……でかした!」
弾かれたように身を起こし、天井に向かって拳を突き上げる。
「一度言ってみたかった。でかした!!アナ!!」
「ええ、ありがとうございます」
「いや、これは本当にでかした案件だろう。俺、宰相になった時より今のほうが嬉しいぞ」
「それは流石にどうかと」
「いや、マジで」
再びその身を抱き寄せる。
「最高だ、アナ」
「ありがとうございます」
「いや、そこでありがとうって言われると、俺が褒めて伸ばす係みたいになるな」
「実際そうでは」
「否定しきれん」
だが、密着した体温の裏側で、ふたつの思考は全く別の軌道を描いて加速していた。
アナスタシアの意識は、氷のように静かに冴え渡っている。
『ラインハルト様が、このタイミングで血の繋がりを求めてくる……。ラングの動きを警戒しての防波堤でしょうか。……できることなら排除しておきたいのですが、私たち家族に恭順の姿勢を示すのなら、今は生かしておきましょう』
公私の境界が溶け合った、統治者としての無機質な判断。
一方、アルブレヒトの脳裏にも警戒信号が点滅していた。
『……アナの様子がおかしい』
この不可解なまでの淡白さと、ラインハルトの焦り。パズルのピースが不吉な像を結び始める。
『……嫌だな。流血を伴う権力闘争なんぞ、家族でやりたくない』
腕の力を強めるが、表情は微塵も崩さない。
妻が自分を裏切ることはないという確信はある。だが、周囲の障害を物理的に排除するという極端な形はありえるかもしれない。
『なら、まずは……マルガレータ。……しかし、彼女はキルヒアイス国務尚書と婚約し、さらにはアンネローゼ様とも繋がっている……。手を出すのは容易ではありません。……それでも、もし粛清するなら、一気に……』
そんな危険な思惑を巡らせながら、彼女は愛する夫の胸に頬を寄せている。
アルブレヒトもまた、決意を固める。
『今はこの結婚の約束で、ラインハルトを安心させて押し通すしかない。俺が何があっても、あいつら全員を守ればいいんだ。……しかし、マルガレータの野心についても、アナは危険視しているだろうな。……明日、ロイエンタールとケスラーに極秘で相談しよう。妻の手を、汚させないためにな』
平和を享受するためなら、誰よりも奔走する。その矛盾を抱えたまま。
「アル様。そんなに嬉しいですか」
「嬉しいに決まってるだろ。お前との子だぞ」
その真っ直ぐな言葉の熱が、アナスタシアの冷徹な計算をわずかに融かす。
「……そうですか。では、産みます」
「産んでくれ」
「はい」
「元気な娘がいいな」
「男の子かもしれませんよ」
「それでもいい。でも、できればアナに似た賢い子がいい」
「貴方に似たら、もう少し愛嬌が出るかもしれません」
「それはどういう意味だ」
「そのままの意味です」
「俺に愛嬌があると」
「ありますよ。たまに」
「たまにか」
「かなりたまに」
小さな笑い声が交差する。
背後に渦巻く暗い思惑が、今この瞬間だけは輪郭を曖昧にしている。
「名前、どうするかな」
「気が早すぎませんか」
「いいや、大事だ。名前は最初の呪いだからな」
「祝福、ではなく」
「祝福にもなるが、親の願望が混ざると大抵呪いにもなる」
「自覚があるのですね」
「ある。だからこそ慎重にやる。剣みたいに強くなれとか、銀河を統べろとか、そういう重いのはやめよう」
「珍しくまともです」
「いつもの貴方なら、『最高のファルケンハイン二号』くらい言いそうです」
「……少し考えた」
「やはり」
「だが却下した」
「それは良かったです」
自らの腹部に手を添え、アナスタシアの視線が微かに緩む。
「普通の子がいいですね。笑って、食べて、眠って、私たちがいなくても生きていける子」
その言葉の奥底にある切実な願いを、アルブレヒトは正確に捉える。
冷酷な手段を辞さない彼女の根底には、そのような無垢な祈りが眠っているのだ。
「……そうだな。普通が一番むずかしい」
「本当に。我が家だと特に」
「否定できんな」
権力という魔物は、常に疑心暗鬼の影を落とす。
愛するがゆえに疑い、守りたいがゆえに排除を企てる。幸福と不穏が背中合わせに存在する、あまりにも厄介で愛おしい関係。
アルブレヒトは、妻の髪にそっと唇を落とした。
「明日は少し早く帰る」
「仕事が終われば、ですが」
「終わらせる」
「本当に?」
「ロイエンタールを働かせる」
「それはいつも通りですね」
「ケスラーも働かせる」
「彼も普段から働いています」
「じゃあ俺が倍働いて、早く終える」
「それは少し心配です。張り切った貴方は、妙に余計なところまで片付けたがるからです」
「否定しづらいな」
「誰に最初に言います」
「うーん……。多分、最初に嗅ぎつくのはロイエンタールだな」
「なぜです」
「俺の機嫌が良すぎると、あいつはすぐ『気持ち悪い』って言うから」
「それは確かに」
「次がヒルダちゃんかマルガレータ。女はそういう空気に敏い」
「自分の妻も含めて、随分と雑なくくりですね」
「経験則だ。ただ、明日いきなり『俺、父になるんだ』と叫ぶのはやめる」
「それが無難です」
「でも顔には出るかもしれん」
「もう出ています」
「そうか」
「ええ。今の貴方、少しだけ馬鹿です」
「少しだけか?」
「かなりです」
アナスタシアの掌が、再びそっと腹部を覆う。
まだ形を成さない、確かな光。
その光を守るためなら、自らはどれほど深い闇にでも沈む覚悟がある。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回の『家族と国家』の話、どのように感じられたでしょうか。
ぜひご感想をお聞かせください。