銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
だが、その揺らぎを抑えるのは、人ではなく構造である。
【宰相府 地下隠し部屋】
照明は落とされ、廊下を行き交う足音も控えめだ。だが、その安らかな静けさを信じる者は、この建物には一人としていない。
地下深く。防音と防諜が徹底された一室で、アルブレヒトは二人を待っていた。
室内は決して広大ではないが、無駄に居心地が良い。身体を包み込むような椅子、適温に冷やされた酒、卓上に用意された葉巻。国家機密という重圧を扱うのならば、せめて肉体への負担は減らすべきだという、彼らしい俗っぽい配慮が満ちている。
扉が開く。
先に入室したのはロイエンタールだ。深夜であろうと、その隙のない立ち姿は健在である。だが、長年の付き合いであるアルブレヒトの目には、彼の目元に微かな疲労の色が滲んでいるのが見て取れた。
続いてケスラーが足を踏み入れる。実務と規律を体現したような男は、深夜の呼び出しにも眉一つ動かさない。もはや憲兵総監という役職そのものが、彼の皮膚に同化しているかのようだ。
アルブレヒトは二人に葉巻を勧めた。
「……ロイエンタール、ケスラー。多忙な折に、深夜の呼び出しに応じてくれて感謝する」
ロイエンタールは手にした葉巻を指先で弄り、唇の端を歪めた。
「ええ。閣下のためとあらば、過労で倒れようとも馳せ参じますとも。……もっとも、最近は少々、毛色の違う面倒が増えましたがね」
「まるで、俺が今までお前を殺しかけていたような言い種だな」
「事実と相違があると?」
「否定しきれんな……」
軍務省に積み上がる書類の山は、物理的な質量以上に、精神を確実に削り取る毒を孕んでいる。
ケスラーは微かに口元を緩める。
「ロイエンタール閣下、手厳しい。……マルガレータ閣下が目覚ましい成長を遂げ、軍務省の執務にも手を貸しておいでではないですか」
「不肖の『娘』だよ、ケスラー上級大将。あのお転婆には、叩き込むべき教えが山ほどある。書類を捌く速度『だけは』一人前だがな」
「普通の上司なら、そこは素直に評価する部分では?」
アルブレヒトの言葉に、ロイエンタールは表情を変えない。
「評価しているからこそ、『だけは』と付けたまで」
「ひどい父親だな」
「無責任に甘やかすよりは幾分マシでしょう」
「一理あるが、両極端すぎる」
マルガレータは既に、軍の三長官に匹敵する実務をこなし始めている。時期尚早か。いや、この状況を利用できるかもしれない。
その僅かな間の生み出した微細な変化を、ロイエンタールの双眸は逃さなかった。
「……ならば、少しは思考を割く余裕もあるだろう。俺の極秘の懸案に知恵を貸してくれ」
「……承知しました。如何なる事案で?」
ケスラーの纏う空気も、一瞬にして張り詰めたものへと変貌する。
「アナが……ラインハルトやマルガレータの『排除』に向けて、動き出した可能性がある」
ケスラーの目が僅かに見開かれ、室内の空気が張り詰める。
「なんと。……確たる根拠は?」
「例の『内国安全保障局』……ラングの登用だ」
「……………そういうことですか。同盟からの思想的流入へのカウンターというのは、あくまで表向きの口実。真の狙いは、政敵を合法的に葬るための特務警察であると」
「やはりそう見えるか」
「私から見ても露骨です」
「看板を掛け替えれば匂いまで消えると思っているあたりが、いかにも古典的な秘密警察の手法です。……もっとも、そういう古典は案外しぶといのですが」
「ラングという時点でな」
「ラベルだけを新調しても、中身は古い毒のままだ」
アルブレヒトの唇から、乾いた笑いが漏れる。
「お前、その比喩は多分アナがすでに使っているぞ」
「ならば、似た者夫婦ですな」
「その言われ方は不本意極まりないな」
「マルガレータは同盟の使節団を相手に、ある種の野心を見せておりますが……もはや閣下に逆らうことはありますまい。……いえ、ラングのような猟犬を使って不当に追い詰めれば、生存のために『牙を剥く』という事態はあり得ますが」
「アナはそこまで計算して、あえて追い詰める可能性がある。……ラインハルトでさえ、それを察知して『アレクの嫁に俺の娘が欲しい』と予防線を張ってきた。…………思った以上に、身内に警戒を呼んでいるようだ」
ケスラーの声が一段と低くなる。
「それは、既に危険域に達していますな」
「うむ」
まだ何も起きていない。実害が出ていない以上、アルブレヒトも真正面から妻を咎めることはできない。
「なるほど。しかし閣下の『権力保持・集中』のみを機械的に考えるのであれば、アナスタシア閣下のその手は、決して悪くはない手かも知れませんが」
「よせ」
アルブレヒトの眉間が不快感に歪む。
「物騒すぎる」
「物騒ですが、理屈としてはそうでしょう」
「権力者の周囲へ潜在的な覇者を残さない。歴史の教科書に記される王朝安定策としては、むしろ正道です」
ケスラーが強く首を横に振る。
「いや、短期的にはともかく、長期的に見れば甚大な国力低下を招く。今は同盟との和平が控えている時期だ。帝国に内乱の兆しありと見れば、ヤン・ウェンリーやトリューニヒトが裏でどう動くか……」
「その通りだ」
「国家的にも勇み足だし、何より俺の家族観においては論外だ。俺の個人的な主観において、『家族で殺し合う』など絶対にありえない」
「個人的主観が、随分と国家規模ですね」
「俺の家族が国家の上に乗っているんだから仕方ないだろう」
アルブレヒトは悪びれる様子もない。
僅かな沈黙が降りた。
誰一人として軽口を叩かない。
家族で殺し合うなどありえない。その言葉を政治の舞台に持ち込むことがいかに無謀か、ここにいる二人は熟知している。だが、この男はそれを本気で成し遂げようとしている。
腹心としては底知れず厄介であり、同時に、だからこそ従う価値がある。
◇◇
「閣下から直々に説得を試み、夫婦間の問題として収める……というわけにはいきませんか?」
「止まらんだろうな」
「アナの『予防的粛清』という方針に、一定の正当性を見出す者がいることは、今お前が口にした通りだ」
「それは……理屈としては、です」
「その理屈が通るなら…本来ならアナはそのあたりのバランスを心得た女なのだが…」
「アナは、愛と理屈が混ざり合った時が一番危うい」
「否定はできません」
ケスラーも同意を示す。
「ですが、そのような恐怖政治で敵を作れば、旧王朝の轍を踏むことになります! 閣下……それは絶対に……」
「分かっている」
「分かっているからこそ、お前たちに諮っているのだ。血を流さず、アナの牙を抜き、なおかつ誰も傷つけない策。……何かあるか?」
ケスラーは沈思黙考する。彼は感情論に流されず、運用までを見据える男だ。
「アナスタシア閣下の『不安の払拭』に努めるべきでは? ラインハルト閣下たちが絶対的な忠誠を誓う形を構築すれば……」
「甘いな、ケスラー」
ロイエンタールの声が冷水を浴びせるように響く。
「人の心理というものは際限がない。一度芽生えた疑念は、何度摘み取っても湧き上がる。恐ろしいのは、その疑念が際限なく『拡大』していくことだ」
彼はグラスを呷った。
「もしローエングラム侯やマルガレータが排除されれば、次は俺やケスラー、卿が標的になりかねない。ミッターマイヤーとて安泰とは言えんかもしれん」
ケスラーは反論を持たなかった。それが生々しい現実味を帯びていたからだ。
「俺達の間で、そんなふざけた真似は絶対にさせたくない」
「では、ローエングラム侯に法的な手出しが不可能となる『絶対的な地位』を付与するのはいかがか? 彼に簒奪の野心がないと、閣下が信じられるのであれば……」
「なるほど……!」
「ラインハルトを『公爵』に任じよう。俺と同格だ」
ケスラーの口から息が漏れる。
「公爵……! 皇族に準ずる不可侵の特権階級。皇帝への『大逆罪』以外では、決して罪に問えなくなりますな」
「ああ」
アルブレヒトは頷く。
「理由も『将来、俺の娘を嫁がせる以上、家格を釣り合わせる必要がある』と主張すれば……まあ、ギリギリ通る。義父達に頼んでみよう。貴族院枢密顧問の領分だ」
「妙案です。では、マルガレータ閣下は?」
「………………………」
アルブレヒトは深い沈黙の後、ロイエンタールを真っ直ぐに見据えた。
「ロイエンタール。お前、軍務尚書をやめろ」
「な……なんですと?」
「聞こえなかったなら、耳の医者を紹介してやるぞ」
「聞こえてはおります!!」
ロイエンタールの声に、稀に見る激情が混じる。
「だからこそ、その真意を図りかねているのです!」
「軍務省をお前が手放し、マルガレータが軍の『三長官』すべてを兼任する。……これならば、宇宙全軍の指揮権が彼女一人に集中する。貴族直轄軍を束ねるアナよりも、権威も実力も完全に凌駕する」
ケスラーが息を呑む。
「まだ早すぎるのでは!? いくらなんでも、十七歳の小娘に帝国の全武力を委ねるなど!」
ロイエンタールの焦燥も無理はない。
「そうかもしれん」
「だから、今年中に何としてもあいつを鍛え上げろ」
「無茶を仰る」
「無茶を通すのがお前だろう」
「閣下に言われると業腹ですな」
「だろうな」
「年末に同盟との和平が結ばれ、ミッターマイヤーがイゼルローンへ赴任すれば、副司令が不在となりアナが動きやすくなる。その機を見計らって一気に抜擢する」
ロイエンタールの視線が刃のように鋭くなる。
「私は?? 御用済みですか? それとも、私も粛清の対象と?」
「わかっていて聞いているだろう? お前、性格が悪いぞ」
「今さらです」
「お前には、帝国『副宰相』として俺に次ぐ権限を持たせる」
ロイエンタールの表情が凍りついた。
「内務尚書のアナよりも明確に上位の立場だ。国政の全責任は、俺と陛下のみが負う。……これでお前たちにも、ラングは絶対に手出しできなくなる」
「副宰相……!」
ロイエンタールの口元が微かに震えた。
想定を遥かに超える信任を、正面から叩きつけられたことへの武者震いだ。
「閣下………。このロイエンタール、生涯をかけてそのご恩に報いましょう」
深く頭を下げる。これほど素直に臣従の意を示すのは珍しいことだった。
「お前は俺の腹心だ。いい目を見させてやらんとな」
「いい目、で済まされる権限ではありませんが」
「細かいことは気にするな」
「それで国家が回るのが不思議です」
「回してるのは大体お前らだからな」
「その自覚がおありで、なぜそこまで雑に振る舞えるのです」
「信頼しているからだ」
「ずるいお方だ」
ロイエンタールが小さく笑う。
「それを言われては、これ以上文句のつけようがない」
だが、ケスラーは冷静に現実を見据えていた。
「しかし閣下。ご自身の権力を削ぎ落とし、周囲の防壁を厚くするような手段に出て、奥方様はどう思われるでしょうか? 逆に、激怒して暴発しないと言い切れますか?」
「俺を排除する……などという事態には、絶対にならないと断言できる」
「その根拠は?」
「簡単だ」
「あいつは、俺を愛しすぎている」
沈黙。
ケスラーは言葉を失い、ロイエンタールは深く眉をひそめた。
「…………閣下」
「何だ」
「そのような箇所で絶対の自信を見せられても、反応に困惑するのですが」
「だが事実だろう」
「事実でしょうが」
「なら良い」
「良くはありません」
ケスラーが苦笑を漏らす。
「ただ、否定もできないのがもどかしいところですな……」
「それに、アナスタシアは内務尚書として優秀だし、将帥としても抜群だが……貴族直轄軍で、アナに『俺の命令を無視してまで絶対服従する』のは……グリルパルツァーくらいだと思う」
「ああ……」
ケスラーも納得を示す。
「確かに、あの若者は良くも悪くも『教官殿』への忠誠が強すぎるきらいがあります」
「ケンプは俺の少尉時代からの最古参だし、レンネンカンプは軍の規律に背くような反乱は絶対に起こさない」
「ミュラーはマルガレータの元帥府に移籍した。クナップシュタインはレンネンカンプが抑え込むだろう」
「となると、最大の要は、ミッターマイヤーの抜けた『貴族直轄軍・副司令官』の座ですな。……そこには誰を?」
アルブレヒトは葉巻の火を静かに揉み消した。
その仕草が、室内の空気を一層引き締める。
「………………………ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ提督に頼むつもりだ」
「あの老練なる忠臣が副司令官に座れば、直轄軍は絶対に暴走できない」
「アナが牙を剥こうにも、噛みつく先がないように盤面を組み替える。ラインハルトは公爵位で守る。マルガレータは権限で守る。ロイエンタールは副宰相の地位で守る。直轄軍はメルカッツで封じる。……これで、ラングの仕事は『何も出ないことを毎日確認するだけ』の徒労に終わる」
「それはまた、随分と嫌味な盤面ですな」
「だろ?」
アルブレヒトも自嘲気味に笑う。
「俺は喧嘩が嫌いなわけじゃない。身内同士で血を流し合うのが我慢ならないんだ」
「閣下らしい」
ケスラーが静かに同調する。
「国家の権力構造を根底から書き換える理由が、『家族で殺し合いたくない』ですか」
「十分だろう」
アルブレヒトの意志は揺るがない。
「俺にとっては、それで十分だ」
「ええ」
ケスラーは心の底から頷いた。
「十分すぎます」
◇◇
「しかし閣下。副宰相となれば、私は内務省にも口を出せるわけですな?」
「ああ、出せるな」
アルブレヒトは釘を刺すように言った。
「だが、わざと嫌味っぽく口を出すなよ。アナが余計にへそを曲げる」
「難しい注文です」
「お前のその性格の悪さを、せめて半分くらいは隠せ」
「半分で足りますかな」
「足りるよう努力しろ」
「では私は、法務と憲兵の線で緩衝材となります。ラングが何かを企てようとしても、手続きの段階で一度握り潰す」
「頼む」
「お前はそういう地味で肝要なところが本当に上手い」
「誉め言葉として受け取っておきます」
「実際、褒めている」
「ケスラー上級大将は、目立たぬ壁として理想的ですからな」
ロイエンタールが横槍を入れる。
「お前、それは褒めているのか?」
「半分くらいは」
「最近、その言い回しが流行っているのですか」
「閣下の悪影響でしょう」
「やめろ、俺のせいにするな」
「だが、ロイエンタールの言う通りだ。お前は壁になれる。しかも、相手が激突するまで壁だと気づかれにくい」
「憲兵総監としては誉れですが、一人の人間としては少々複雑ですな」
「悩む必要はない」
ロイエンタールはそこで、ふと軍人の顔に戻る。
「だが閣下。マルガレータへそれほどの権力を委譲する以上、教育は生半可なものでは済みません」
「わかっている」
「容赦なく叩き上げますぞ?」
「やれ」
「泣き言を漏らすかもしれませんが?」
「多分泣かん」
「確かに泣きませんな」
ロイエンタールは唇を綻ばせた。
「むしろ、私に噛みついてきそうだ」
「そこがいい。噛みつく牙を持たない人間を、俺は信用しない」
ケスラーの表情に、微かな憂いが差した。
「閣下、その価値観がおありだからこそ、奥方様とすれ違うのでは……」
「それはそうだ」
「だが、今さら性分は変わらんよ。アナは危険な芽を事前に摘みたがる。俺は育て上げてから使いたがる」
「難儀なご夫婦ですな」
「愛し合っているから、余計にな」
「そこが一番の難題だ」
三人とも、一瞬だけ言葉を失う。
事実である以上、誰も否定できなかったからだ。
「しかし、公爵叙任と副宰相就任、軍三長官の再編ですか……。明日、新聞の一面を飾れば帝国中が卒倒しますな」
「だから明日には発表しない」
「順番にこなす。義父達への根回し、陛下方への説明、全部タイミングをずらす」
ケスラーも同意する。
「で、アナスタシア閣下へは何と?」
「『ローエングラム家を縛り付けるための縁組と格上げだ』という建前を前に出す」
「マルガレータについては『将来の内乱を防ぐために権限を集中させる』で押し切る。副宰相は……そうだな。お前の過労が見ていられない、でいい」
「最後だけ私情が雑に混ざりましたな」
「本音だからな」
「ありがたいお話です」
「ありがたがるな。もっと嫌そうな顔を作れ」
「嫌ではありませんので」
ロイエンタールが口元を緩める。
「そこが腹立たしいところだ」
ケスラーは空になったグラスを静かに置いた。
「閣下」
「ん?」
「身内の争いを未然に防ぐために、これほど大規模な再編を一晩で組み上げるとは……。やはり貴方は、ただの怠け者ではありませんな」
アルブレヒトの眉間が即座に寄る。
「いや、怠け者だぞ」
「どのあたりがです」
「平和になって皆で仲良くして、俺は一刻も早く仕事を減らしたい」
「動機は怠惰から来ているのかもしれませんが、実行されている事柄が全く怠けておられないのです」
「俺だって、好き好んでこんな複雑な盤面パズルをしているわけじゃない。家族が皆でのんきに飯を食う未来が欲しいだけなんだ」
「そのために帝国の権力構造を書き換えるのですから、やはりスケールが常軌を逸している」
ロイエンタールも呆れ気味に言う。
「閣下の求める『家族団欒』は、国家予算の規模が大きすぎる」
「そこは今後、『国家的娯楽政策』とでも言い換えられませんかな」
ケスラーが真面目腐った顔で冗談を口にする。
「やめろ」
「後世の歴史家が変な誤解をする」
「既に十分されていると思いますが」
「それもそうか」
三人の間に、静かな笑いが広がる。
だが、その笑いが引いた後、室内には別の種類の静寂が満ちた。
この再編は、極めて大規模な賭けだ。
成功すれば、誰の血も流れずに済む。
失敗すれば、取り返しのつかない事態を招く。
しかも、その成否の鍵は、本人たちの善意だけでなく、水面下で渦巻く感情や猜疑心、誤解にまで複雑に絡み合っている。
「……俺は、アナを責めたくない」
ロイエンタールもケスラーも、無言で耳を傾ける。
「責めたくはないが、放置するわけにもいかない。だから盤のほうを作り変える。人間を切り捨てるのではなく、配置を変え、噛みつけないようにして、全員に居場所を与える」
「盤面上での封じ込め、ですな」
「ああ」
「妻の牙を折るんじゃない。噛みつく理由そのものを消し去る」
「随分と甘い」
「そうかもしれん」
「だが、閣下らしい」
「そういうのは褒め言葉として受け取るぞ」
「実際、褒めております」
「ならよし」
二人の足音が遠ざかった後も、アルブレヒトはすぐには部屋を立たなかった。
テーブルの上には、吸い終えた葉巻の吸い殻と、僅かに残った琥珀色の酒、そして、書き換えられる予定の帝国の未来が転がっている。
「ったく……」
「俺は本当に、楽をするための手間だけは惜しまない男だな」
自嘲気味な言葉に、少しだけ嫌気が差す。だが、それが偽らざる本音だ。怠けたい。家族と穏やかに食卓を囲みたい。アナを心から笑わせたい。子供が生まれたら、せめてその子には『この家、なんか怖いな』などと思わせたくない。
彼は立ち上がり、壁に掛けられた星図を見上げた。
帝国。同盟。イゼルローン。フェザーン。ハイネセン。オーディン。
銀河は途方もなく広い。広いというのに、揉め事の種は大概、自分の手の届く身内の周囲から芽吹く。遠くの敵より近くの味方のほうが遥かに厄介だというのは、権力の世界における普遍の真理らしい。実に忌々しい真理だ、とアルブレヒトは内心で毒づく。
「家族くらい、平和にしとけよ……」
拾い上げ、育て、信用し、任せる。そうやって周囲の力を増幅させるたびに、また別の誰かの心に不安の影を落としてしまう。
だが、可能性の芽を未然に摘み取るのは御免だった。摘み取ってしまえば、その時点で未来は閉ざされる。そうやって自らの首を絞め、終わっていった国家の末路を、歴史書の中で散々見せつけられてきたからだ。
それでも、今夜は幾分か気分が軽い。
確かな策は見えた。盤面も組み上がった。あとは、駒を動かすだけだ。
「……よし」
そして願わくば、その「また働く」日々が少しでも早く終わりを告げ、翌晩にはアナの隣で何も考えずに眠りにつけますように、と本気で祈りを捧げる。
帝国宰相ともあろう者の祈りとしては、あまりにも俗っぽすぎる。だが、そういう俗っぽさが心の底に残っているうちは、まだ人の心を失わずにいられるのだろう。
「だが……アナが、あの手に出ないことを祈るばかりだ」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回の統治と家族の話、どのように感じられたでしょうか。
ぜひご感想をお聞かせください。