銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
だが、その終わりが次の始まりでないとは限らない。
【イゼルローン要塞】
帝国暦四八九年末、宇宙暦七九八年末。
向こうに広がる圧倒的な星海を前にしても、アルブレヒトの心は晴れない。本来ならば、百五十年に及ぶ血みどろの歴史に終止符を打つ、栄光の和平条約調印式だ。仮面のような笑顔を貼り付け、握手と署名をこなし、メディアに向けて歴史的意義を語らなければならない。
「……ミッターマイヤー。ラインハルトが、また熱を出したと聞いたか?」
「そのようです。例の、ヤン・ウェンリーとの通信交渉の時期から、度々原因不明の発熱を繰り返しているようですね。今はヒルデガルド様とキルヒアイス国務尚書が付きっ切りで看病しているとのことですが」
「またネギを巻かれていなければいいがな」
「閣下、そこは心配する方向が少し違うのでは」
「いや、大事だぞ。病人の尊厳に関わる」
軽口を叩いてはみたものの、アルブレヒトの脳裏にこびりつく不安は少しも軽くならない。
「ああ。最高峰の軍医たちに見せても、『ただの過労と風邪の悪化だろう』と言うばかりだ。……だが、あいつはそれほど虚弱な男ではない。むしろ俺より体力がある。……これで何度目だ?」
「お心が痛むのは分かります、閣下。ですが、今は……」
「分かっている。今日は帝国を代表して、俺が笑ってサインをしなければならない日だ。……だが、嫌な予感が拭えんのだ」
「医師の見立てでは、重篤な病ではないとのことです」
「医者というのは便利だな。分からないものを全部『過労』で包める。政治家が分からない問題を全部『民意』で包むようなものだ」
「それはかなり乱暴な比喩ですな」
「乱暴だが当たっている」
視界の端に映るイゼルローンの光景よりも、アルブレヒトの意識は遥か遠く、オーディンの病室に横たわる金髪の弟に縛り付けられていた。
妻の操る秘密警察の動向、若き元帥の野心、そしてこれから対峙する同盟側の腹の底。処理すべき情報が脳を圧迫し、思考の限界を告げている。
「閣下」
「もしラインハルト閣下のご病状に何かあれば、キルヒアイス国務尚書が必ず知らせてくださいます。今ここで閣下が崩れれば、帝国側全体が揺れます」
「わかっている。俺が嫌なのは、正しいことを言われることだ」
「では、正しいことを言い続けます」
「疾風ウォルフめ。昔から足だけじゃなく、正論も速いな」
「恐縮です」
◇◇
【同盟側控室】
「……和平反対派の過激組織がいたって?」
式典の直前に突きつけられた現実は、あまりにもグロテスクだ。
対照的に、ヨブ・トリューニヒトの纏う空気には微塵の揺らぎもない。芳醇なコーヒーの香りを楽しみながら、まるで他人事のように冷酷な事実を語る。その完璧すぎる精神の均衡が、アッテンボローにはおぞましくさえ感じられた。
「うむ。帝国に家族を殺され、恨みを持つ層が一定数いるのは、民主国家としてある程度は仕方ない。だが、今回の調印式典そのものに、大規模な爆弾テロを狙った集団がいたそうだ」
「民主国家として仕方ない、の範囲が広すぎませんかね」
「不満を表明する自由はある。爆弾を置く自由はない。そこは線引きが明確だ」
「線引きの話をそんな上品にされても困るんですが」
引きつった笑いで応じるアッテンボローの胸中には、言いようのない悪寒が渦巻いていた。
「で、それを新設された『特高』……ユリアンの手腕で、見事事前に御用にしたと。流石はヤン先輩の懐刀だな」
「御用、ではないよ。その者達は昨夜、ハイネセンの地下施設で既に全員が銃殺されたそうだ。法的な手続きは後回しにしてね」
「……苛烈だな」
肺の奥に残っていた空気を、どうにか押し出す。
「あの純粋だったユリアンが、そこまで冷酷な判断を……。あまり気負いすぎないでくれるといいのだが。ヤン先輩が知ったら倒れるぞ」
「その点は抜かりない」
「ユリアン君には、ドワイト・グリーンヒル元帥をお目付け役につけることにした。彼のような実直な軍人が側にいれば、少しはストッパーになるだろう。裏の仕事は、精神の均衡が何より大切だからな」
「特高に精神的支柱をつけるって、かなり変な組織設計ですよ」
「若者に泥を被せるなら、せめて洗い場くらいは用意するべきだろう?」
「高等参事官殿がそんなまともなことを言うと、俺は逆に怖いんですが」
「失敬な。私はいつもまともだよ」
だが、その背後に隠された深淵を、アッテンボローは理解していた。
ユリアン・ミンツという少年が何を背負わされ、どれほどの業を重ねようとしているのか。汚れ仕事とは、手を下す者だけでなく、それを覆い隠す者の魂をも汚染していく。トリューニヒトはその構造を完全に掌握し、なおかつ微塵も痛痒を感じていない。
「しかし、ユリアンもなあ」
「昔は紅茶を淹れて、提督の食生活を心配していた少年だぞ。今では特高の首班か。成長って怖いな」
「君も昔は反抗的な若手士官だったが、今は方面軍司令官だ。成長とは怖いものだよ」
「俺は人をこっそり銃殺したりしません」
「必要なら命令は出すだろう?」
「……それを今言うの、卑怯ですよ」
「政治とは時に卑怯な会話でできている」
行き場のない感情を誤魔化すように、アッテンボローの精神はひどくささくれ立っていた。
「やれやれ。和平の日に、和平の裏側で血の匂いを嗅がされるとはね」
「嗅いでおいたほうがいい。嗅げなくなると、それはそれで危ない」
「犬扱いですか」
「猟犬はすでに別にいる。君はまだ、表の軍人でいてくれたまえ」
表の軍人。
その役割を演じ続けることすら、遠からず困難になるという確信があった。
◇◇
両国の威信を懸けた調印式の舞台は、圧倒的な空間の広がりを持っていた。
巨大な国旗が見下ろす中央のテーブルに向けられ、夥しい数のカメラが照準を合わせている。平和を切り取るためのレンズが、さながら殺戮兵器の砲列のように立ち並ぶ光景は、歴史のアイロニーに満ちていた。
アルブレヒトとヨブ・トリューニヒトが、相対する。
帝国宰相と、同盟全権代理。
国家の威厳を纏った造形美と、あらゆる裏の事情を呑み込んだ上での遊戯。どちらも信用に足るものではないが、歴史という見世物には不可欠な小道具だった。
「銀河帝国は、自由惑星同盟を対等な『国家』と認め、ここに不可侵および平和条約を締結するものである」
「自由惑星同盟も、銀河帝国に対して深い敬意を払い、対等の貿易および文化交流を開始することを宣言する」
交わされる言葉は虚飾に満ちている。
万年筆が走る微かな摩擦音が、百五十年にわたる狂気の殺戮に、ひとまずの幕を下ろした。
「……これだけの、たったこれだけの当たり前のことに、百五十年もかかるとはな。人間の歴史というのはつくづく不器用だ」
アルブレヒトの意識は、笑顔の形を保ったまま冷笑していた。
「とっくに死んだ人間の意地やメンツのせいで、我々生きている人間が煩わされるのは、全くもって気分が良くありませんな。……良い時代にしましょう、ファルケンハイン宰相」
「貴官がそれを言うと、良い時代が妙に営業文句に聞こえるな」
「商売は平和の証です」
「そこは同意する」
「ランズベルク先生の新刊も、これで正式に両国へ流せます」
「やはりそこへ戻るか」
「民意ですから」
「便利な言葉だな」
「お互い様でしょう」
カメラが捉えているのは、歴史的な和解の象徴。
彼らの背後では、ミッターマイヤーとアッテンボローの視線が交錯していた。
「百五十年前にも、貴方たちと同じことを考えてくれる人間がいたら、どれほど良かったか……と思いますがね」
「違いありません。我々は軍人ですから、ひとまずはこの『不本意な和平』が一日でも長く守られるべく、現場の人間としては努力をしましょうじゃないですか。疾風ウォルフ閣下」
「不本意なのですかな?」
「そりゃあ、敵がいなくなると軍人は予算の説明に苦労しますから」
「なるほど。そこは帝国も同じですな」
「いやあ、平和って面倒ですね」
「戦争よりはましでしょう」
「それはもちろん」
軍人同士の敬意の裏には、決して消えることのない警戒感が張り付いている。平穏な空気に包まれてなお、彼らは互いの喉首を測り合っていた。
◇◇
【帝国側連絡通路】
式典の熱狂から離れた瞬間、アルブレヒトを支配したのは泥のような疲労感だった。
「やれやれ……。味方の火種が多いと、敵の政治家の優秀さをここまで頼もしく感じるものなのか」
「アナスタシア閣下やマルガレータ閣下のことですか」
「名前をそのまま言うな。俺が言いにくそうにした意味がなくなるだろ」
「失礼しました」
「まあ、その通りだ。トリューニヒトは嫌な男だが、和平を維持する気はある。少なくとも今のところはな。敵の中に『話が通じる嫌な奴』がいると、こんなに楽なのかと感動すらする」
「……同盟に不安要素はないのでしょうか? あのように一枚岩に見えますが」
「少なくとも、帝国のような『分裂の危機』は孕んでいないだろうな」
即座に返した言葉の半分は、自らへの虚しい慰めだった。
「あえて言うなら、ヤン・ウェンリーが事実上の『独裁者』として君臨しながら、表向きは『民主共和政』を謳っているという、パラドックスくらいだ」
「そのパラドックスは、現在は見事に成功していると?」
「そういうことだ。ヤン・ウェンリーを軍事的に打倒するのは無理だ。ミッターマイヤー、卿なら勝てるか?」
ミッターマイヤーの沈黙が、ヤン・ウェンリーという存在の底知れなさを物語っていた。
「……勝てる、と胸を張って言いたいところですが、正直なところ自信はありません」
「俺もそうだ。勝てても被害は甚大だろうさ。そして、政治的に打倒するのも隙がない。何故なら、今の同盟には不満分子が台頭する土壌がないのさ。うちのように、ラングのような秘密警察を用意して弾圧する必要すらない。……あの国は、完璧に平和だよ」
「完璧、ですか」
「ああ。少なくとも表面はな」
「表面が完璧すぎる時ほど、裏で何かが動くこともあります」
「卿までそんな嫌なことを言うようになったか」
完璧な平和。
その響きの裏に潜む歪みを、アルブレヒトの直感は嗅ぎ取っていた。
「ラインハルトの熱も、同盟の平和も、アナの動きも、全部気にしなければならない。俺の頭は便利な倉庫じゃないんだぞ」
「閣下、倉庫よりは整理されているかと」
「それは褒めているのか?」
「半分くらいは」
「やっぱり流行っているな、その返し」
疲労感を散らすための軽口の中にも、不吉な予感が澱のように残る。
◇◇
【同盟側司令室】
司令室の空気に身を預けたトリューニヒトの精神にも、わずかな軋みが生じていた。だが、その疲労を微塵も表に出さない徹底した自己管理が、彼の怪物性を証明している。
「アッテンボロー元帥。要塞は帝国に返還したとはいえ、ここからが本番だ。イゼルローン方面軍の重要性は、ますます増してくるぞ」
「わかってますよ。経済圏をイゼルローンに移そうとしてくる帝国との、虚々実々の駆け引きをやれと言うんでしょう? 全くもって胃が痛くなりそうです。いっそ、高等参事官ご自身が引き受けてくれませんかね?」
「やりがいのある仕事かもしれんが、私とてそればかりにかかりきりというわけにもいかないさ。誰か優秀な文官をよこすとしよう。……しかし元帥。そこまで盤面が分かっているなら、貴方にも十分に職務はできると私は思うのだがね」
「いえ……買いかぶりです。俺はだいたい、戦場で逃げ道を探すのが得意なだけです。経済戦とか、物流とか、税率とか、聞くだけで眠くなる」
「逃げ道を探す能力は、政治にも経済にも役に立つよ」
「その言い方、少し嫌ですね」
「褒めている」
「半分くらいは?」
「流行っているのかね、その返しは」
「帝国側でも使っていましたよ」
「なら外交用語に登録しておこう」
「ところで高等参事官。帝国では『内国安全保障局』なる、実質的な秘密警察が創設されたと……あの腹黒流通からの情報があったそうですね」
「耳が早いじゃないか。やはり君も特高のレポートを……。いや、事実だ」
「いま一瞬、俺を裏の人間扱いしましたね」
「君は表の軍人だよ。今はまだ」
「最後が不穏すぎる。帝国は、我々自由惑星同盟からの『文化流入』をそこまで懸念していると?」
「『我々と同じ理由』だな」
トリューニヒトの意識は、壁の向こう側、帝国の深奥へと向かっていた。
「……しかし、私は文化流入への懸念は建前だと見ている」
「なぜでしょう? イデオロギーの戦いになることは、特高を創設した我々にだって通じると思いますが……」
「『種』は蒔いておいたからね。……それが芽吹いたと言うところだろう」
「帝国軍内部の、貴族直轄軍と正規軍。門閥貴族と平民。そして、若き権力者たちの野心。……その対立軸は、和平が結ばれた今も決して消えていないのだよ」
「やれやれ……。この平和は、果たして続くのでしょうか?」
「こちらが内部からかき回しておいて何だが、あとは相手次第さ」
「今、自覚ある悪党みたいなことを言いましたよ」
「自覚のない悪党よりはましだろう?」
「それはそうですが」
「そして、ヤン総統からの密命を伝える」
その名が発せられた瞬間、アッテンボローの精神は完全に臨戦態勢へと移行した。
「『もしも』の時には、すぐに出撃できる準備を整えつつ、決して帝国に悟られるな……と」
「…………わかりました」
「ヤン先輩は『人類が一つの政体に統一される必要はない』と常々言っていますが……」
「民主共和政が銀河を統一したとて、帝国側にはいくつかの自治区を作ることになるだろう……とのことだ。確認してみるかね?」
「いえ……大丈夫です。軍人として、俺だって『戦いたいとき』はありますから。その時は、盛大に暴れさせてもらいますよ」
「ただし、今は暴れるなよ」
「わかっています。今日くらいは平和の顔をしておきます」
「結構」
百五十年の闘争が形ばかりの終焉を迎えた日。
光の当たる場所で歴史が書き換えられるのと同時に、深き闇の中で、新たな血の歴史が胎動している。
それでも、条文の上に記された終止符には意味があるのだと、彼らは信じようとしていた。
冷戦編 完
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