銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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争いは、力で終わることもある。
 だが本当に終わらせるには、構造を変えなければならない。


三国鼎立編
防波堤は、波を消さない


【ファルケンハイン元帥府 大広間】

 

 

 帝国暦四九〇年、宇宙暦七九九年一月一日。

 

 百五十年に及ぶ戦火が、条約という薄皮一枚の上であれ収束を見た。人類が再び平和という美酒に酔う光の年。その記念すべき新年の幕開けを、帝国の重鎮たちは国家施設でもなく、宮廷でもなく、アルブレヒトの私邸で迎えていた。

 

理由は極めて単純である。アルブレヒトが「宮廷は堅苦しいから嫌だ」とごねたからだ。帝国宰相の私的なわがままに、共同皇帝二人も、元帥たちも、門閥貴族の重鎮たちも、なぜか素直に便乗している。新生帝国の権力構造は複雑怪奇だが、宴会場所の決定権に限れば、ひどく雑にアルブレヒトへと集中していた。

 

年が明ける瞬間、大広間の全員がグラスを掲げた。

 

「フローエス・ノイエス・ヤー!!」

 

幾重にも重なる声。貴族も、軍人も、官僚も、そして皇帝でさえも、今だけは同じ音の中に溶け込んでいる。普段であれば視線一つで腹を探り合う者たちも、アルコールの熱と新年の喧騒にあてられ、相応に人間らしい表情を浮かべている。

 もちろん、あくまで相応に、である。完全な無防備を晒すほど、帝国の政治は甘くない。

 

アルブレヒトはすでに泥酔の極みにあった。ネクタイを頭に巻き、片手にグラス、もう片手には出自不明の干し肉を握っている。誰が渡したのかはわからないし、本人も理解していないだろう。

 

「よし!俺は決めたぞ!今年こそは、俺は絶対に怠けるぞ!怠けるったら怠けるんだ!!ハンモックから一歩も動かん!!」

 

その宣言に、会場のあちこちから呆れを含んだ空気が漂う。帝国宰相の年頭所信表明としては耳を疑う内容だが、ファルケンハイン邸の新年会としてはごくありふれた光景だった。

 

ロイエンタールはグラスを傾けながら、片目を細めてそれを見やる。

 

「閣下はすっかり酔っておられる。……おい、マルガレータ。酒を飲んで騒ぐのはいいが、俺はまだ『爺さん』と呼ばれるつもりはないぞ?子供を作るなら……とっとと作れ!早いとこ諦めをつけてやる」

 

「オスカー父様こそ酔っているな!!」

 

マルガレータは頬に熱を集め、たまらずロイエンタールの軍服の襟元を締め上げた。統帥本部総長であり元帥、今や軍の中枢を握る若き怪物も、父親扱いの男の前では一人の娘に還る。

 

「妾は、子供が欲しい時にはいつでも作るのじゃ!なあ、ジーク!!今からでも!!!」

 

勢いのままキルヒアイスの腕にすがりつく。周囲でグラスの傾く音が危うく揺れた。キルヒアイスだけは慣れた手つきで、彼女の熱情を穏やかに剥がしにかかる。

 

「はいはい。また今度ね。元帥閣下がそんなはしたない真似をしないの」

 

「今度とはいつじゃ!今夜か!明日か!年始めに縁起がよいぞ!」

 

「縁起で子供を作ろうとしない」

 

「では愛で!」

 

「それはもう少し落ち着いてから」

 

「妾は落ち着いておる!」

 

「今、ロイエンタール元帥の胸ぐらを掴んだまま言っている人が口にする台詞ではないかな」

 

ロイエンタールは襟元を乱されたまま、妙に満ち足りた表情を浮かべている。

 

「ふん。少しは淑女らしくなったかと思えば、まだまだだな」

 

「何じゃと!妾は淑女じゃ!」

 

「淑女は宴会場で婚約者へ『今からでも』とは言わん」

 

「父様も『とっとと作れ』と言ったではないか!」

 

「俺は親心だ」

 

「便利な言葉じゃな親心!」

 

周囲ではビッテンフェルトが腹を抱え、ファーレンハイトが水色の袖口を弄りながら視線を泳がせ、ミュラーは「自分に火の粉が降りかかりませんように」と祈るような顔で壁際へ同化しようとしている。黄色特戦隊の過酷な経験が、彼に宴会における高度な危機回避能力を授けていた。

 

アナスタシアは、その混沌とした喧騒を硝子細工のような冷ややかな目で見下ろしていた。手にあるのはアルコールではなく、温かい果実水。身重の彼女が不満を口にすることはないが、周囲の者は皆、彼女の機嫌を損ねまいと飲み物の種類に神経を尖らせている。

 

「アル様。明日には年頭の決裁をしなければならない重要案件がありますので、そのあたりで控えてください」

 

「アナーー!!」

 

アルブレヒトの舌足らずな声が響く。

 

「飲んでるか?俺の可愛いアナ!!もっと飲め!」

 

「妊娠中ですので、お酒は飲めません」

 

「そうだった!!俺の子だ!!俺とアナの子だ!!みんな聞け!!俺は父になる!!いや、もう何度か父になる予定ではあるが、今回も父になる!!」

 

「それ以上おっしゃると、明日の新聞の見出しが悲惨なことになります」

 

ラインハルトはキルヒアイスの隣で、優雅に水割りを口に含んでいた。体調不良の影は微かに残るが、今夜の顔色は悪くない。酒量は控えめに、とヒルダから厳命されているため、グラスの中身は水が大半を占めている。

 

本人は不服そうだが、逆らえばネギを押し付けられる未来が見えているため、大人しく従っていた。

 

「アナスタシア姉上は、夏頃にはご出産だとか」

 

「ええ」

 

アナスタシアは穏やかな声音で応じる。しかし、その双眸の奥には油断のならない光が泥濘のように沈んでいた。

 

「できれば、アル様の跡を継げる健康な息子であってほしいですね」

 

ラインハルトは唇の端に笑みを留める。

 

「俺としては、美しい娘であってほしいな。我が子・アレクの妻になるのだから」

 

「……ファルケンハインの家督を継ぐほうが先です。ローエングラム侯」

 

ラインハルトは表情を崩さない。だが内側では、冷ややかに思考を回していた。やはり姉の警戒心は未だ解けていない。

 

酒席という無防備な場であっても、この女は隠し持った刃の切っ先を研ぎ澄ませている。死角からのみ放たれるその殺意は、底知れず厄介だった。

 

少し離れた場所で視線を交錯させる二人へ、ケスラーがごく自然な足取りで割り込んだ。憲兵総監というよりも、もはや熟練の防火壁である。

 

「アナスタシア閣下、今年は同盟との和平も結ばれました。ぜひとも『血を見る』ことなく、穏やかに過ごしたいものですな」

 

アナスタシアの唇が、ふっと弧を描く。

 

「ええ、ケスラー上級大将。……余計な手出しや『野心』さえなければ、最低限の血で済ませたいものです」

 

「最低限でも血は見る前提なのが怖いですね」

 

キルヒアイスの微かな呟きを背に受けながら、ラインハルトは苛立ちを隠しきれず、矛先をアルブレヒトへ向けた。

 

「兄上!!いい加減にシャンとしてください!宰相の威厳が台無しです!」

 

アルブレヒトは焦点を定まらない眼差しを、ラインハルトへ向ける。

 

「ん?ラインハルトが三人いるぞ??おい!ミッターマイヤー!!お前の『疾風』で、この増殖した金髪の孺子を一人に戻すんだ!!」

 

「閣下」

 

控えめに右手を挙げたのはミュラーだった。

 

「あの……閣下。ミッターマイヤー元帥は、要塞司令官としてすでにイゼルローンに赴任されております」

 

アルブレヒトが、はっと息を呑む。そして、ミュラーを指差した。

 

「ミュラー!!お前!!!!」

 

名指しされたミュラーは、反射的に直立不動の姿勢をとった。

 

「は……はっ!!」

 

「俺の貴族直轄軍を抜けて……ヘルクスハイマー元帥府に行くとは……。何という裏切り!!おのれ!!俺の有能で可愛い副官だった、あのミュラーはどこに行ったんだ!?」

 

「はっ……あの……それは、閣下ご自身が出された命令でして……」

 

「この!!黄色特戦隊め!!」

 

ミュラーの顔が一瞬にして朱に染まる。

 

「……っ!それは言わない約束です!!!」

 

「黄色い!黄色いぞミュラー!貴様、正月から縁起が良いな!」

 

「縁起物ではありません!!」

 

ビッテンフェルトが腹を抱えて笑い声を上げる。

 

「黄色特戦隊!良いではないか!覚えやすい!」

 

「貴方は黒のままだから言えるんです!」

 

ファーレンハイトが水色の袖口を弄りながら、静かに援護射撃を入れる。

 

「ミュラー提督、その苦しみはわかる。水色水兵団も、年始から親戚に『爽やかだね』と言われた」

 

「それは辛い……」

 

「やめよ、二人とも」

 

マルガレータが、なぜか誇らしげに胸を張る。

 

「色とは誇りじゃ!妾の元帥府は、色彩によって結束しておる!」

 

「僕は絶対に赤として加入しないからね」

 

「ジークは追加戦士枠じゃ!」

 

「断る」

 

「なぜじゃ!」

 

「愛しているからこそ、断ることもあるんだ」

 

「深いようで浅い拒絶じゃな!」

 

宴は果てしなく騒がしい。だが、その喧騒の裏側には、確かな安堵の気配が満ちていた。

 長きにわたる戦争が終わった。凄惨な内戦も乗り越えた。和平は結ばれた。だからこそ今、彼らは酒席で他愛のない言葉を交わし合える。戦場では決して口にできない冗談は、血の匂いのしない平和な空間でしか生まれない。

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

大広間の片隅では、メックリンガーがピアノの鍵盤を軽く叩いていた。紡がれる旋律はごく短く、周囲の騒音にすぐ掻き消されてしまう程度のものだが、彼はその儚さすらも楽しんでいる。

 

「相変わらず騒がしいものですね。だが、それも良い。これが平和の音色というものです」

 

ルッツがグラスを傾ける。

 

「俺としても、ローエングラム閣下がああやってムキになって兄君とはしゃいでいる姿を見ると、やはり先の内戦で和解の道を選んでよかったと心から思うよ」

 

ワーレンが深く頷いた。

 

「まあ、内戦は内戦で、我々の絆を確かめるために必要だったとは思うが……。もう二度と御免だな」

 

「同感です」

 

メックリンガーの指先が鍵盤から離れる。

 

「芸術としても、内戦は題材が重すぎる。正月の宴に似合うのは、酔った宰相と泣きそうな黄色特戦隊くらいで十分でしょう」

 

「メックリンガー提督まで!」

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに別の一角では、ブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム公が、メルカッツやファーレンハイトと穏やかに談笑していた。喜劇のような光景だが、新生帝国においてはこれが現実であった。

 

「実にめでたい!」

 

ブラウンシュヴァイクが上機嫌で紫煙を吐き出す。

 

「エリザベート陛下も懐妊されたとはな!!」

 

リッテンハイムも負けじと声を張り上げる。

 

「いやいや、我が娘サビーネ陛下も懐妊だ。アルブレヒト君も、夜の政務は若いということよ!ガハハハ!」

 

ファーレンハイトが水色の袖口から視線を逸らし、メルカッツはただ苦笑いを浮かべるしかない。

 

「これで帝国の未来は、後継者の意味でも安泰というわけですな」

 

「おお!メルカッツ提督!」

 

「貴族直轄軍の副司令官就任、おめでとう!卿のような実直な男がいてくれれば、軍も引き締まる」

 

「はは……ありがとうございます。正式発表は明日ですが」

 

「正式発表前に祝うのが貴族の嗜みよ!」

 

リッテンハイムが鷹揚に頷く。

 

「それは情報漏洩では?」

 

ファーレンハイトの生真面目な指摘に、

 

「堅いことを言うな、水色の君!」

 

「その呼び方はやめていただきたい」

 

「我々の立場も安泰!門閥貴族の未来も安泰!腐敗も取り除かれ、素晴らしいものだな。今の帝国は!」

 

通りかかったシュタインメッツが、手元のグラスを軽く掲げる。

 

「門閥貴族の方々も、特権に胡座をかかず、貴族の義務に邁進される姿は、平民の我々から見ても流石ですな」

 

「ふふ……皮肉を言うでない。以前は我々も、権力に目が眩んでひどいものであったからな。……アルブレヒト君様々よ。彼に感謝せねばな」

 

「感謝の印に、明日の年頭決裁を代わって差し上げては?」

 

ファーレンハイトが微かな意地悪さを込めて言うと、二人の公爵は同時に笑みを引っ込めた。

 

「それは別だ」

 

「うむ、政務は若い者がやるべきだ」

 

「都合の良いノブレス・オブリージュですね」

 

ふと、メルカッツが思い出したようにブラウンシュヴァイクへ視線を向ける。

 

「……時にブラウンシュヴァイク公。ローエングラム侯を『公爵』に、との声が貴族院であるとか」

 

「うむ。特に問題もあるまい」

 

ブラウンシュヴァイクはあっさりと肯定した。

 

「いずれアナスタシア君の娘の夫となる家だ。実質的に皇族と言って差し支えないだろう」

 

リッテンハイムも同意を示す。

 

「内戦での敵対は、かえって我々『旧体制』の結束を強くし、彼ら『新興勢力』の力を認めさせた。その点も踏まえて、相応の地位を与えて飼い慣らすのも、また政治よな」

 

「飼い慣らす、ですか」

 

ファーレンハイトが呟く。

 

「……政治としてはわかります……が、それが新たな火種にならないと良いのですが……」

 

「若い者は心配性だな」

 

ブラウンシュヴァイクの笑い声に、影はない。

 

「火種は火種のまま置くから危ない。きちんと暖炉に入れれば、部屋を暖める」

 

「その暖炉が爆発しないことを祈ります」

 

 

 

 

 

 

「誰だ!俺のハンモックを隠したのは!!」

 

「最初からありません!」

 

「ではなぜ俺はハンモックで寝ていない!?」

 

「床で寝ないだけ立派です!」

 

「ケスラー、お前は今年も堅いな!」

 

「閣下は今年も柔らかすぎます!」

 

張り詰めかけた空気は、再び緩やかな笑いの中へと溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

翌日。

 ノイエサンスーシの玉座の間は、昨夜の狂騒とは打って変わって静謐に支配されていた。

 

 磨き上げられた床に整列する貴族たち。微動だにしない軍人たち。玉座にはエリザベートとサビーネが座している。

 

 新年の公式人事が発表される朝である。昨夜まで羽目を外していた者たちも、完璧な仮面を被り直している。アルブレヒトの頭にネクタイはない。それだけで十分な威厳が保たれるのだから、身だしなみというものは偉大だった。

 

エリザベートが、凜とした声で静寂を破る。

 

「軍務尚書、オスカー・フォン・ロイエンタール元帥。……その職を解く」

 

ざわり、と空気が震えた。一瞬にして、玉座の間の温度が数度下がる。

 

 ついにアルブレヒトが腹心すらも切り捨てたのか。そんな推測が、貴族たちの顔に浮かびかける。

 

ロイエンタールは片膝をついたまま、微かに睫毛を伏せるだけで表情を変えなかった。結末を知っているからだ。だが、事情を知らぬ者たちから見れば、その無表情こそが底知れず恐ろしい。

 

エリザベートは一拍の間を置き、言葉を続けた。

 

「……さらに、オスカー・フォン・ロイエンタール元帥を、『帝国副宰相』に任じる」

 

今度は、まったく別の意味でのざわめきが波打った。

 

 切り捨てどころではない。宰相に次ぐ地位。内務尚書より上、各尚書より上。帝国国政の中枢を直接握る、圧倒的な権力の譲渡である。

 

ロイエンタールは恭しく頭を垂れた。

 

「はっ!!」

 

サビーネが言葉を引き継ぐ。

 

「帝国副宰相は、その全責任を宰相と我ら皇帝にのみ負うこととする。卿のさらなる手腕に期待する」

 

アナスタシアは、伏し目がちに表情を殺していた。

 

『……ロイエンタール元帥は良い。アル様の最大の腹心です。副宰相への昇進は、国政の安定化として当然ですね。むしろ私の負担が減ります』

 

その判断は極めて冷静だった。ロイエンタールが上位に立つこと自体は、彼女にとって脅威ではない。少なくとも、この時点では。

 

サビーネが視線を動かす。

 

「次の人事は、我が父より発表するものとする」

 

リッテンハイム公が一歩前に出た。昨夜「夜の政務」と笑っていた男とは別人のような、貴族院の重鎮としての顔がそこにある。

 

「はっ!陛下。……ここに、ラインハルト・フォン・ローエングラム侯爵を、長きにわたる帝国への多大なる貢献から、『公爵』へ任ずることとする!」

 

ラインハルトが静かに片膝をつく。

 

「はっ!ありがたき幸せ!」

 

サビーネの声が、ほんの少しだけ温度を帯びた。

 

「我が夫・アルブレヒトの娘婿となるからには、卿は我が家族も同然。不可侵の公爵として、これからも帝国をよろしく頼む」

 

「はっ!」

 

ラインハルトは短く応じる。その背中には、目に見えない強固な盾が与えられた。これで、法的にはアナスタシアの牙が届きにくくなる。だが、それは彼女との間に横たわる深い溝が消えたことを意味しない。

 

『……これで、大逆罪以外の口実でローエングラム公爵に手を出しにくくなる……か。しかし、それだけです』

 

アナスタシアの胸の内で、冷たい刃はまだ鈍っていない。だが、次の人事で、その刃の置き場そのものが根底から覆されることとなる。

 

サビーネが、玉座の間によく通る声を響かせた。

 

「さらに!マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマー元帥!!」

 

「はっ!!」

 

マルガレータが進み出る。昨夜、キルヒアイスにすがりついていた少女と同一人物とは思えないほどの、軍人としての完璧な立ち姿。

 

「貴女に、軍務尚書の席を与える」

 

アナスタシアの喉の奥から、無意識に声が漏れた。

 

「なっ……!」

 

その微小な震えだけで、玉座の間に立つ多くの者が事態を悟った。常に氷のように冷徹な内務尚書が動揺を見せた。ただ事ではない。

 

サビーネが冷ややかにアナスタシアを見下ろす。

 

「どうしました?内務尚書アナスタシア」

 

アナスタシアは顔色を青ざめさせながらも、すぐさま姿勢を正した。

 

「……いえ……何でもございません」

 

エリザベートが、サビーネの袖を小さく引く。

 

「アナ姉様……。サビーネ、少し気を遣いなさい」

 

「式の場です」

 

「気を遣うなら、あとで遣います」

 

「あとで必ずよ」

 

「はいはい」

 

二人の微かなやり取りは、玉座の間に響くことはない。しかし、アルブレヒトの耳には確実に届いていた。政治的な場で姉妹喧嘩めいた会話をする妻たちに、家族としてのささやかな救いを感じていた。

 

サビーネは改めてマルガレータを見据える。

 

「卿の帝国への忠誠、そして軍事・事務の処理能力ともに申し分ないと、夫より聞いている。これより、卿は軍の三長官、すなわち統帥本部総長、宇宙艦隊司令長官、軍務尚書を兼ね、帝国の全軍を束ねて尽くせ。そして、私からの絶大なる信任を与える。励め!」

 

マルガレータの瞳が揺れる。野心、歓喜、誇り、重圧。それらが一度に胸へ押し寄せる。だが、この少女は重圧すらも己の糧とする才能を持っていた。

 

「はっ!我が身の全てを帝国に捧げます!!」

 

その決意に満ちた声は、玉座の間の空気を震わせた。

 

『三長官の兼務……!これで軍の全権は、貴族直轄軍を統べる私ではなく、マルガレータの手に渡った。これほどの人事……アル様が承認していないはずがない……。アル様……貴方は、私から牙を奪ったのですね』

 

悔しさが胸を焼く。怒りもある。

 牙を折られたわけではない。ただ、噛みつく標的を隠されたのだ。誰も血を流さずに済むよう、盤面そのものをひっくり返された。それがアルブレヒトという男のやり方だった。

 

アルブレヒトが静かに立ち上がる。

 

「マルガレータ、卿には期待している。若さを言い訳にせず、まずは励めよ」

 

「はっ!!」

 

マルガレータの顔には、隠しきれない若さと熱気がある。眩しい。だからこそ危険だとアナスタシアは思う。眩しい光は人を集め、集まる人は権力となる。

 

アルブレヒトが振り返り、アナスタシアを見つめた。

 

「……アナスタシア元帥」

 

「はっ……!」

 

彼女は深く頭を下げる。そこにいるのは夫ではなく、帝国宰相としての彼だ。だが、紡がれた声はひどく優しかった。優しいが故に、逃げ場がない。

 

「卿も身重の身ではあるが、軍務尚書となったマルガレータを助けてやってくれ。彼女は若い。だが、才能にあふれている。卿の経験で彼女を正しく導き……帝国に、ひいては『俺達家族』に平穏をもたらしてくれ」

 

その言葉で、アナスタシアは全てを悟る。

 これは命令ではない。願いでもない。その両方だ。アルブレヒトは「家族」と言った。彼が持ち得る、最も重い言葉で彼女を縛ったのだ。

 

「……………御意」

 

列を離れる際、エリザベートがすれ違いざまに声を落とした。

 

「姉様。……大丈夫ですか?私は、姉様の味方ですから」

 

アナスタシアは目を瞠り、エリザベートを見つめる。その瞳は、ただの妹のものではない。共同皇帝の片割れであり、アルブレヒトの妻であり、そしてアナスタシアを本気で案じる一人の女の光が宿っていた。

 

「……エリザベート……」

 

アナスタシアは短く息を吸い込む。

 

「……あとで、話があります」

 

「はい」

 

エリザベートが小さく頷く。その一瞬の交感を、サビーネが横目で捉えた。アルブレヒトも、ロイエンタールも、ケスラーも気づいている。玉座の間という空間は、どうしてこうも些細な動きが大きな意味を持ってしまうのか。

 

アルブレヒトが築き上げた防波堤は、粛清の連鎖を完璧に断ち切った。

 

 

 

だが、防波堤は波を消し去るものではない。受け止め、逸らし、押し返すだけである。




ここまでお読みいただきありがとうございます。
 今回の『人事による統治』の話、どのように感じられたでしょうか。
 ぜひご感想をお聞かせください。
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