銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
そしてその過去は、やがて現在を決定する。
【18年前】
視界を埋め尽くすほどの蒼穹が、ただただ疎ましかった。
背中に伝わる手入れの行き届いた若草の感触も、風が運ぶ甘い花の香りも、ファルケンハイン家の権勢を誇示するようで鼻につく。
十歳のアルブレヒトにとって、瑕疵のない完璧な箱庭は、息が詰まるほどの退屈で満ちていた。
世界は酷く単純だ。
自分と、アナスタシアと、それ以外の背景と同化する有象無象。
周囲の大人たちの語る言葉は鈍重で、結論に至るまでの過程があまりにも遅すぎた。彼らが誤謬に辿り着く速度だけは迅速だが、それに付き合う義理もない。
唯一、アナスタシアだけが思考の速度に追いつき、時として先回りすらしてみせる。幼さを残す輪郭に似合わぬ理知的な瞳で、彼女は当然のようにアルブレヒトの隣に立っていた。
煩わしい事象はすべて彼女に丸投げしてしまえば、この倦怠感も多少は紛れるはずだ。
後年に振り返れば、十歳の思考としてはひどく歪んでいる。
当時の銀河帝国は、門閥貴族による腐敗が極点を迎えていた。退廃と虚栄、歴史の重みだけを拠り所にした妄信。それが遠からず瓦解することは、幼い思考の網目を通しても明白だった。
外圧に屈するまでもない。内側から自壊する。
その滅びの予兆を感じ取りながらも、救済の義務など微塵も感じていなかった。いっそこのまま崩壊してしまえばいいと、心の底から望んですらいた。
微かな衣擦れの音が近づいてくる。
視界の端に映ったのは、身の丈に合わない重厚な書物を抱えたアナスタシアの姿だった。
一糸乱れぬ髪、隙のない立ち居振る舞い。愛らしい容貌の奥には、すでに世界の無駄を削ぎ落とそうとする理に徹した刃のような意志が潜んでいる。
「アル様。お祖父様より、そろそろ幼年学校に行くようにとのお達しが来ております」
芝生の青草を乱暴にむしり取りながら、全身で拒絶の意を示す。
「ふん、俺はあんな汗臭い所には行きたくない!俺は頭が良いんだから、このまま領地でぐーたらして、権力を使って悪政をほしいままにするのだ!!」
「だめです。まだ十歳で、そのような悪徳は許されません」
「何だよ!!じゃあ何歳なら良いんだよ!?」
彼女は冗談を受け流すでもなく、思考の海へと深く潜っていく。
「そうですね……。二十八歳くらいでどうでしょう?」
「何だその微妙な年齢は!!」
「十歳では早すぎます。二十歳でも、まだ若気の至りで済ませられます。二十五歳では少し落ち着きが足りません。二十八歳なら、悪政にも品格が出るかと」
「悪政に品格を求めるな!」
「求めます。ファルケンハイン家の悪政なら、最低限の様式美が必要です」
「いやだ!俺は雑に怠けたいんだ!」
「雑な怠惰は下級貴族のものです。上級貴族なら、怠惰にも計画性を持ってください」
「嫌すぎる教育方針だな!」
「アル様が悪政をなさるなら、私が補佐いたします。ですが、今はまだいけません」
「アナは俺の味方なのか敵なのか、たまに分からないぞ」
「味方です。だからこそ、二十八歳までお待ちください」
「待ったら許すのか?」
「内容によります」
「結局だめじゃないか!!」
「アル様。世界を退屈と思うなら、退屈しないところへ行くべきです。幼年学校も、案外面白いかもしれません」
「汗臭いだろ」
「汗臭いでしょうね」
「じゃあ嫌だ」
「ですが、汗臭い者の中にも、使える者はいるかもしれません」
「使える?」
「ええ。将来、アル様が二十八歳で品格ある悪政をなさる時のために、人材を見ておくのです」
「……それは少しだけ面白いかもしれん」
「でしょう?」
自分が幼年学校へ向かう理由を、怠惰のための人材発掘という奇妙な論理で納得させられていたことに、その時のアルブレヒトは気づいていない。
彼女は最初から、アルブレヒトという人間の動かし方を誰よりも熟知していた。優しく、賢く、そして恐ろしいほどに。
「二十八歳か……遠いな」
「すぐですよ、アル様。きっと、すぐです」
◇◇
【帝都オーディン 宰相公邸】
微かな喉の渇きと共に、現実へと引き戻される。
「……夢か」
帝国暦四九〇年、宇宙暦七九九年三月。
アルブレヒトは、あの日の予言通りに二十八歳を目前に控えている。
だが、望んでいた怠惰な悪政などどこにもない。帝国宰相という重責を背負い、綱渡りのような権力調整に神経をすり減らす日々。品格を装いながら、地獄の釜の蓋を押さえつけるような役回りだった。
隣の温もりに視線を向けると、サビーネが身を丸めて微かな寝息を立てていた。金髪がシーツに零れ、彼女の細い指がアルブレヒトの寝衣を固く握りしめている。
アナスタシアとエリザベートは共に懐妊しており、身体への負担を懸念した医師団と侍女たちの鉄壁の包囲網によって、同室で夜を過ごすことを禁じられていた。
サビーネもまた身籠っているものの、彼女の場合は一人にすると不安で泣き崩れてしまうため、医学的見地よりも家庭内の力学が優先された結果だ。
寝衣を握る彼女の髪にそっと触れながら、夢の残滓を反芻する。
――アナの言った通り、俺は今二十八歳になる。そして今、銀河の頂点で権力調整を強いられている。
現状を暗闘の危機と捉えるのは、過剰な警戒だろうか。
否、相手がアナスタシアである以上、最悪の事態を想定して余りある。
――もし本当に血が流れるなら、エリザベートちゃんは間違いなくアナの側に付く。彼女は、アナの障壁となるマルガレータやラインハルトを容認しないだろう。
エリザベートの優しさは、すべてアナスタシアへの献身へと収束している。それは政治的な忠誠を超えた、信仰に近い狂信。国家運営の計算式に組み込むには、あまりにも不安定な要素だ。
――では、副宰相のロイエンタールは安全か?彼は俺の腹心だが、アナとの距離も近い。警戒される余地はないのか……。
有能すぎるがゆえの危うさ。流麗な容姿と野心の気配は、アナスタシアの排除リストに載る条件を十二分に満たしている。
――かと言って、このままサビーネちゃんに権力が集中するのも危険だ。保守派貴族の支柱はアナであり、何よりブラウンシュヴァイク公の血を引くエリザベートの子こそが、正当なる次期皇帝となる。
門閥貴族の血筋と正統性は、未だ帝国の根底に根を張っている。平和な時代が訪れれば訪れるほど、その呪縛は強まるだろう。
――その時代が到来した時、俺が死んでいれば……確実に血の粛清が起きる。
――サビーネの父であるリッテンハイム公は開明的になり、今や正規軍の兵器の多くが彼らのブランドだ。貴族と平民の融和という俺の望みは叶いつつあるが……。
蒔いたはずの希望の種が、次なる闘争の火種へと変貌していく。良かれと思って築いた土台が、新たな血を呼ぶ闘争の足場にされる。
――ラインハルトはどう出る。俺とアナの娘を嫁がせるという約束の時まで、アナの刃からあいつを守り切れるのか。
守り切る。そう断言したい。だが、盤面はあまりにも脆い。
――アナやエリザベートちゃんは、俺を愛している。だから俺自身が害されることはない。だが、俺が彼女たちの計画を阻もうとすれば、アル様は少しお疲れのようです、とでも言って宮殿の奥深くに幽閉することくらい平気でやりかねない。
その光景が、あまりにも鮮明に脳裏に浮かぶ。
アナスタシアが筋書きを書き、エリザベートが涙ながらに頷き、ラングが合法的な書類を整える。宮廷新聞には「宰相閣下、静養へ」と躍るだろう。
思考の海に沈めば沈むほど、胃の腑が締め付けられるような痛みを覚える。
自嘲の笑みが自然とこぼれた。
「……やれやれ。ぐーたらするには、世界は複雑になりすぎたな」
眠りを妨げぬよう、寝衣を握るサビーネの手をゆっくりと解き、ベッドから身を起こす。
その微かな動きに反応し、彼女が不満げに唇を尖らせた。
「アル様……?」
「寝ていろ、サビーネちゃん」
「仕事……?」
「少しだけな」
「怠けるって言ってたのに……」
まどろみの中からの甘い非難に、苦笑が漏れる。
「すまん」
再び深い微睡みへと落ちていく彼女の額にそっと唇を落とし、音を立てずに衣服を身に纏う。
◇◇
厚手の外套を羽織りながら、虚空に向けて低い声を落とした。
「誰かいるか?」
「はっ!」
陸戦隊トップ、ヘルマン・フォン・リューネブルク。
内戦時、レンテンベルク要塞での戦闘によって致命傷を負いながらも、地獄のようなリハビリの一年を経て生還した男だ。
「朝早くから俺の護衛とは、勤勉だな。リューネブルク元帥閣下」
「何分、根が真面目なものでしてな。このきな臭い情勢下で、主君たる閣下の傍を離れるわけにはいきますまい」
「元帥になっても影から出てくる癖は変わらんのか」
「廊下の真ん中に立っておりますと、侍女に邪魔ですと言われます」
「言われたのか」
「三度ほど」
「強いな、うちの侍女」
「閣下の屋敷に勤める者ですからな」
軽口を叩き合いながらも、張り詰めた空気は一切緩まない。彼がわざわざこの時間に現れた意味を、アルブレヒトは理解していた。
並んで歩みを進める。
「……それほどか?」
「それほどですな。……失礼ながら申し上げます。先日の閣下がなされた人事は、あくまで問題の先送りに過ぎません」
足を止め、鋭い視線を側近へと向ける。
「……では聞こう。俺はどうすれば良いと卿は考える?」
「……最良の手段は、閣下には決してできないことでしょうな」
「言ってみろ」
「内務尚書アナスタシア閣下を直ちに罷免し、しかるべく処刑なされよ」
遠くで揺らぐ灯りが、アルブレヒトから表情が抜け落ちる様を照らし出す。
「……それだけの証拠は、すでに我々陸戦隊の情報部が掴んでおります」
「ご存知の通り、我が陸戦隊の中から、ハイドリッヒ・ラングの内国安全保障局へ転向した者が多くおります。ラングとて、荒事の戦力が必要ということでしょう。……そのパイプから漏れてきた情報です」
無意識のうちに、両手がきつく握り込まれていた。爪が掌に食い込む痛みだけが、現実を繋ぎ止めている。
「……続きを」
「アナスタシア閣下は、時が来れば、ヘルクスハイマー元帥、ローエングラム公爵、その他もろもろの邪魔者……おっと、これはあくまで彼女の主観においての邪魔者ですぞ?それらを、一息に捕らえ、処刑する計画を立てております」
「……」
「その後は、共犯者であるエリザベート陛下は狂乱により病死したことになり、閣下が唯一の皇帝として玉座に座る……。それが、奥方様の描いた完全なるシナリオです」
「……ふざけるな。俺は、皇帝になりたいわけじゃない」
リューネブルクの口角が、わずかに皮肉な弧を描いた。
「同盟のヤン・ウェンリーも、自分は総統になどなりたいわけではない、と公言しているそうですな。……いやはや、独裁者と言うものは、銀河の方向を問わず同じ詭弁を弄するものらしい」
視線で射抜くように彼を睨む。
「皮肉を言ってくれるなよ、リューネブルク」
「失敬。……ですが、おそらくこの事態は、誰かの首を晒すまでは終わらないことであると、小官は捉えております」
「客観的すぎるぞ」
「熱を込めると判断を誤りますので」
「お前は昔からそうだな」
「閣下も昔からそうです」
「俺がか?」
「ええ。情を排したふりをして、最後の最後で身内に甘い」
リューネブルクは歩みを止めず、淡々と事実を積み上げる。
「奥方様は、サビーネ陛下に何かあった時を想定し、エリザベート陛下の単独権限を用いる準備を進めています。ラングは書類を整えつつあります。局内では、ローエングラム派への監視名目で、拘束対象者の移送計画が作られています」
「キルヒアイスは」
「当然、対象です」
「アンネローゼ様は」
「対象です」
「ケスラーは」
「対象です」
「ミッターマイヤーはイゼルローンだ」
「それゆえ、暗殺または拘束の手順が別枠です」
「……ミュラーは」
「ヘルクスハイマー元帥府に近いので対象です」
絶望の淵を覗き込むような瞳で、暗い廊下の先を見据えた。
「……首になるのは、アナか……。それとも、皆か……」
「決断の猶予はおそらく、あまりないでしょうな。奥方様のお子が生まれる前……すなわち、夏が来る前には、おそらくは動くでしょう」
「子が生まれる前に?」
「身重の時は警戒されます。出産後は周囲が祝賀と継承問題で騒がしくなります。動くなら、その狭間でしょう。あるいは、サビーネ陛下に何らかの不慮を起こすなら、時期はさらに早まります」
「……お前、そこまで読んでいるなら、なぜ俺を叩き起こす前に勝手に止めん」
「閣下の妻です」
迷いのない即答だった。
「小官が勝手に処理すれば、小官の首が落ちるだけでは済みません。閣下の心も折れる」
「知ったような口を」
「存じておりますので」
「嫌な部下だな」
「有能な部下と言っていただきたい」
反論の言葉を持たず、ただ沈黙するしかなかった。
廊下の窓が、次第に夜明けの青を帯びていく。世界は何も知らぬまま、無慈悲に朝を迎えようとしている。
無数の駒が盤面を駆け巡る。
アナスタシア、エリザベート、サビーネ、ラインハルト、マルガレータ、キルヒアイス、ロイエンタール、ケスラー、リューネブルク、ラング、オーベルシュタイン。
彼らは血の通った人間だ。単なる駒のように切り捨てることはできない。だが、人間であるがゆえに、決断を下さねばならない時が来る。
「リューネブルク」
「はっ」
「呼んでもらいたい者がいる。極秘裏にだ。ラングの犬どもに絶対悟られるな」
「承知いたしました。……どなたを?」
迷うことなく、その名を口にする。
「■■■■■■■■■だ」
鉄面皮の男が、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
すぐに深く頭を下げる。
「……ただちに」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回の『決断の前夜』、どのように感じられたでしょうか。
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