銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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戦争も権力も、すべてを置いていけるなら。
これは、銀河の中心から逃げ出した二人の物語です。


IF:最終話 銀河を捨てた日

【宰相府】

 

「……アナスタシアを呼べ」

 

「直ちに」

 

「それと」

 

「はっ」

 

「誰も近づけるな。ロイエンタールも、ケスラーも、サビーネちゃんも、ラインハルトもだ」

 

「御意」

 

リューネブルクの気配が、深い影の中へと沈み込むように消失する。

 

数分後。

 扉の向こうにわずかな衣擦れの音が立つ。静かに開かれた扉から、アナスタシアが姿を現した。寝巻きの上にガウンを羽織っただけの装いだが、少し乱れた髪の先まで計算されたかのような隙のなさを纏っている。身重の腹部を労わるような足運びには母性が滲むものの、視線の奥に潜む猛毒は健在だ。

 

 夫への絶対的な服従。そして、呼び出されたことへの微かな疑念。

 相反する二つの感情が、彼女の美貌の裏で静かに揺らいでいる。

 

「アル様」

 

彼女が示したのは、夫に対する妻のそれではなく、帝国宰相に仕える内務尚書の礼だった。

 アルブレヒトの視線が、扉の傍らで控える影へと向けられる。

 

「下がっていてくれ、リューネブルク」

 

無言のまま、リューネブルクの視線がアルブレヒトを射抜く。ただ一度の交錯。それだけで、彼は全てを察したのだろう。鉄面皮の奥底で微小な葛藤が泡立ち、そして消えた。

 

「……はっ」

 

扉が閉まる。

 微かな音とともに、この空間は世界から完全に断絶された。

 

「アル様、どうしたのです?こんな夜更けに……。まだ政務が残っておいでですか?」

 

艶やかな声が、冷たい月明かりの差し込む床へと落ちる。

 

「政務なら、山ほど残っている」

 

「ではお手伝いします。貴方は少し働きすぎです。去年も一昨年も、怠けたいと仰るわりに、妙に真面目に働いておられますから」

 

「俺の人生最大の矛盾だな」

 

「存じております」

 

いつもの、何気ない夫婦の会話。ほんの数秒だけなら、そう錯覚できたかもしれない。

 アルブレヒトはデスクを背にし、妻の目の前へと歩み寄った。

 

「アナ。俺はお前を愛している」

 

突然の言葉に、彼女の呼吸がほんの少しだけ乱れる。

 

「……??存じております。私もアル様を心から愛しております」

 

「ラインハルト達を、殺そうとしているな」

 

静寂が、鼓膜を圧迫する。

 アナスタシアの表情が強張る。常人であれば見逃すほどの、ごく僅かな時間。だが、アルブレヒトの網膜はそれを確実に捉えてしまった。

 

気づきたくなかった事実が、残酷なほど鮮明に突き刺さる。

すぐに、彼女は完璧な微笑を浮かべた。

 

「…………はい」

 

隠蔽もない。弁明もない。

 いっそ嘘をついてくれれば、怒りに任せて問い詰めることもできただろう。だが、愛の告白すら思わせる透き通った声で、彼女は己の罪を肯定した。

 アルブレヒトの胸を、鋭利な刃で抉られるような痛覚が支配する。

 

「………俺のためか?」

 

「はい」

 

そこに一切の迷いは介在しない。

 

「私のすべては、アル様のために。貴方の御身と権力を守るためです」

 

「……それは、俺の心を殺すぞ」

 

伸びてきた温もりが、アルブレヒトの頬に触れる。義手ではない、生身の温かい手。だが、至近距離で見つめ合う彼女の瞳には、紛れもない狂気が宿っていた。

 

「わかっています。でも、私がいます。私がいれば、貴方の傷はいつか癒される日が来る」

 

「癒えると思うのか」

 

「癒します。私が。何年かかっても。どれほど貴方が泣いても、怒っても、私を憎んでも、最後には私の腕の中で眠れるようにします」

 

「それは治療ではない」

 

「愛です」

 

「便利な言葉だな」

 

「ええ。貴方が家族という言葉を便利に使うように」

 

あまりに正確な反撃に、アルブレヒトの内奥で乾いた笑いが漏れる。致命所を突かれた時、人間は防衛本能として笑うしかないのだ。

 頬を撫でる彼女の指先から、甘く危険な囁きが伝播する。

 

「思い出してください。幼い頃の、私たちの世界はそうだったではありませんか。この宇宙には『お互い』と、それ以外しか存在しない。私と貴方さえいれば、それでいいのです」

 

重い石が、胃の腑へと沈み込んでいくような感覚。

 

「………そうだな」

 

肯定の意を示すと、彼女の表情にわずかな光が差した。自らの腹部を慈しむように撫でる仕草には、底知れぬ狂信が入り混じっている。

 

「であれば、私は貴方を脅かす『すべて』を排除しましょう。ラインハルトでも、マルガレータでも……誰であろうと」

 

「アナ」

 

「もし将来、このお腹の子が貴方の権力に立ちはだかるようなことがあれば、その時はこの子すらも」

 

呼吸が、一瞬だけ停止した。

 

「……………アナ」

 

「驚くことではありません」

 

彼女の精神は、恐ろしいほどに凪いでいる。

 

「私にとって、最も大切なのは貴方です。子も、帝国も、家門も、皇帝も、貴族も、同盟も、すべてその次です」

 

「母になる女の言葉としては最低だぞ」

 

「知っています。ですが、私は昔から最低の女です。貴方のためなら、喜んで最低になります」

 

恍惚。

 すべてを差し出すかのように、彼女は身一つを夫の前に晒す。

 

「どうします?私を殺しますか?貴方の手で私を裁くというのなら……それも嬉しいことです。私の命は、貴方のものですから」

 

殺意も、罰する意思も、アルブレヒトの中には湧かない。

 

「いや、俺は」

 

「貴方は銀河を統べるお方。そうならなければならない!」

 

熱。

 冷徹な毒蛇の皮を脱ぎ捨て、そこには情念の炎を燃やす一人の女がいた。

 

「そうでなければ、あの日、ぐーたらして生きたいと願っていた貴方を、私が無理に戦場に引きずり出してしまったことと、釣り合いが取れないのです!!」

 

彼女の奥底に淀んでいた、巨大な暗い感情。

罪悪感。

彼を誰よりも愛しているからこそ、怠惰と平穏を奪い、権力闘争の修羅道へと追い立ててしまった自分自身を許せなかったのだ。

 

玉座を与えなければ。

銀河の頂点に立たせなければ。

 

愛と罪の意識が混じり合い、やがて純粋な支配欲と粛清の論理へと変貌していった。

まったく、なんて面倒な女だ。

 

「アナ……俺はな」

 

「さあ!」

 

懇願。

 命令。

 アナスタシアの瞳から、ついに雫が零れ落ちる。

 

「私を殺して銀河の覇者となるか」

 

「私と共に死の道を歩むか」

 

「……さあ!!!」

 

永遠にも似た沈黙。

 月光が、デスク上の書類や皇帝の印璽、元帥杖を冷たく照らし出している。銀河を統べる絶対的な権威の象徴すら、今この瞬間においては無価値なガラクタに過ぎない。

 

「アナスタシア」

 

紡がれたその声は、星々の質量よりも重く響いた。

 

「俺と一緒に、逃げないか?」

 

時間が、完全に停止した。

 彼女の思考回路が焼き切れ、機能不全に陥る音が聞こえるようだった。

 

「……え??」

 

「逃げよう」

 

「……何を、仰って」

 

「帝国から。権力から。俺たちを狂わせる全部から」

 

彼女の計算機のなかに、その選択肢は存在していなかった。

 罵倒、処刑、拘束、あるいは抱擁。あらゆるパターンを予測していた彼女の脳髄に、『帝国宰相がすべてを放り出して逃亡する』というバグにも等しい事態が叩き込まれる。

 

 気がつけば、アルブレヒトは彼女の細い身体を抱え込んでいた。

 壊れるほど強く。けれど、決して傷つけないように。

 甘く、しかし確固たる意志を持った声が、耳元に注がれる。

 

「俺はお前のものだ。お前も俺のものだ。……他に得るものなど、もう何もなくて良い」

 

腕の中で、彼女の身体が小刻みに震え始める。

 

「そ、それは……!帝国宰相として、あまりにも無責任を……!」

 

「無責任?」

 

微かな吐息とともに、笑みが零れた。彼女の髪の柔らかな感触を指先で確かめる。

 

「俺がこの宇宙でただ一つ、本当に責任を負うのは『お前に対して』だけだ」

 

「アル様……」

 

「帝国に対しては、十分やった。戦争を終わらせた。権力も配った。防波堤も置いた。後継もいる。ロイエンタールもいる。ラインハルトもいる。マルガレータもいる。キルヒアイスもいる。サビーネちゃんも、エリザベートちゃんもいる」

 

「ですが」

 

「だが、お前は今、ここにいて、壊れかけている」

 

アナスタシアの呼吸が、嗚咽へと変わり始める。

 

「この銀河帝国がお前の心の足かせになり、お前を狂わせるというのなら……捨てよう。逃げよう、二人で」

 

「地位も、名誉も、玉座も……?」

 

「全部くれてやる」

 

「ファルケンハインの家も?」

 

「くれてやる」

 

「貴族直轄軍も?」

 

「くれてやる」

 

「誰もいない辺境の星で、ただの男と女として暮らそう」

 

「アル様……。本気ですか?この宇宙を手放して……」

 

「ああ。本気だ」

 

「本当に……私だけで?」

 

「お前だけでいい」

 

「でも、貴方は今、銀河で最も多くのものを持つお方です」

 

「だから重いんだ」

 

「皆が貴方を必要としています」

 

「俺もお前を必要としている」

 

「私は、貴方を狂わせてしまうかもしれません」

 

「もう十分、狂わされている」

 

「でも……嬉しい」

 

彼女の指先が、軍服の生地を強く、痛いほどに握りしめる。

 

「わかりました。……もう、貴方の目に映るのは……私だけですか?」

 

こぼれ落ちる涙を指で拭い去り、アルブレヒトは心底からの安堵の笑みを向けた。

 

「昔から、お前以外映ってはいないさ」

 

「嘘です」

 

「嘘じゃない」

 

「サビーネやエリザベートや、ラインハルトや、マルガレータや、ロイエンタールや……たくさん見ていたではありませんか」

 

「見えてはいた」

 

「では」

 

「でも、俺の世界の中心は、ずっとお前だ」

 

再び、彼女の目からとめどない涙が溢れ出す。

 

「ずるいです……。そんな言い方をされたら、私はもう、何も要らなくなってしまうではありませんか」

 

「それでいい」

 

「私は……本当に、全部捨ててしまいますよ?」

 

「捨てよう」

 

「帝国が混乱します」

 

「するだろうな。それでも、逃げる」

 

抱きしめる腕に、さらなる力を込める。

 

「今ここで逃げなければ、俺たちは本当に誰かを殺す。お前を殺すか、皆を殺すか、俺の心を殺すかだ。どれも嫌だ」

 

「では、逃げることは……殺さないための選択なのですね」

 

「ああ」

 

「お互いの為に出来ることが、逃げること……」

 

「格好悪いだろ」

 

「いいえ」

 

アナスタシアが顔を上げる。その表情には、憑き物が落ちたような清らかさがあった。

 

「とても、貴方らしいです」

 

「褒めてるのか?」

 

「心から」

 

「ならよかった」

 

重なり合う二つの影が、月明かりの下で一つに溶け合う。

 かくしてこの夜。銀河の歴史という巨大な奔流から、ファルケンハイン夫妻の存在は誰にも知られることなく消失した。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

【宰相府 執務室】

 

翌朝。

 陽光が降り注ぐ執務室には、主の姿がなかった。

 山積みにされた書類。常に主が不機嫌そうに身を沈めていた椅子。彼特有の気配が完全に払拭された空間は、ひどく空虚に感じられた。

 

 異変を察知した侍従に続き、ケスラー、ロイエンタールが足を踏み入れる。リューネブルクは既に扉の傍らで直立不動の姿勢をとっていた。彼の瞳の奥の光が、事の顛末を雄弁に物語っている。

 

「……どういうことだ」

 

ロイエンタールの喉から、地を這うような低い声が漏れる。

 デスクの上には、帝国宰相と内務尚書の辞表。皇帝の印璽、元帥杖、各種権限証書が、腹立たしいほど完璧に整頓されている。逃亡の瞬間まで事務処理に抜けがないあたりが、あまりにもあの男らしかった。

 ケスラーが一枚の便箋を手に取る。

 

「書き置きです」

 

ロイエンタールがそれを乱暴に奪い取った。

 記されていたのは、たった一言。

 

『愛のために進む』

 

重苦しい沈黙が降りた。

 ロイエンタールは己の額を強く押さえる。

 

「……あの男」

 

「閣下らしい、と言うべきでしょうか」

 

ケスラーの困惑しきった声に、ロイエンタールは忌々しげに吐き捨てる。

 

「言うな。今それを言われると、私は笑うか怒るか分からん」

 

「おそらく両方でしょうな」

 

リューネブルクの感情の読めない声に、ロイエンタールの鋭い眼光が突き刺さる。

 

「貴様、知っていたな」

 

「知っていた、というより、察しておりました」

 

「止めろ」

 

「閣下のご命令は、近づけるな、でしたので」

 

「屁理屈を」

 

「陸戦隊は命令文の解釈に厳密です」

 

ケスラーは耐え切れなくなったように、頭を抱えた。

 

「これは、帝国の心臓部が大混乱に陥りますな」

 

「すでに陥っている」

 

手の中の便箋が、ギリッと音を立てて歪む。

 

「副宰相として申し伝える。全捜索網を敷け。ただし、見つけても捕らえるな」

 

「なぜです?」

 

「捕らえたら戻さなければならん。戻したらまた壊れる」

 

ロイエンタールの表情には、苦渋と、わずかな理解が入り混じっていた。

 

「なら、見つけた者は、ただ確認しろ。生きているか。アナスタシア閣下と共にいるか。それだけでいい」

 

「閣下のご判断に賛同します」

 

直後、病み上がりとは思えぬ勢いでラインハルトが室内に飛び込んできた。背後にはキルヒアイスとヒルダの姿もある。

 

「兄上が消えたとはどういうことだ!!」

 

差し出された便箋を、ラインハルトの蒼氷色の瞳が睨みつける。

 沈黙。

 

「…………あの馬鹿兄上」

 

金髪の若き獅子の声が、微かに震えていた。

 

「何が『愛のために進む』だ!進む方向を間違えている!!」

 

「ラインハルト様」

 

キルヒアイスが、静かにその肩へ手を添える。

 

「キルヒアイス、俺は怒っている。とても怒っている。だが……」

 

便箋から目を離さず、ラインハルトは奥歯を噛み締めた。

 

「少しだけ、安心もしている」

 

「これで、最悪の流血は避けられます」

 

ヒルダの静かな肯定に、ロイエンタールが応じる。

 

「兄上は、自分ごと火種を持って逃げたのか」

 

「おそらくは」

 

「相変わらず、ふざけた男だ」

 

ラインハルトはそう吐き捨てながらも、便箋を乱暴に扱うことはなく、丁寧に折り畳んだ。

 

「……生きているのだな?」

 

「はい。少なくとも、自死の選択ではありません。逃亡です」

 

「ならいい」

 

それ以上は、何も求めなかった。

 

「なら、今はいい」

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

【ノイエサンスーシ】

 

帝国の深枢でも、混乱の波は容赦なく広がる。

 サビーネの泣き声が響き、エリザベートは理性を失いかけ激昂した。

ケスラーの迅速な手配により捜索が開始され、ロイエンタール主導の臨時政務会議が招集される。

 リッテンハイムとブラウンシュヴァイクが的外れな推測を述べる傍らで、メルカッツはただ黙って胃の痛みに耐えていた。

 

帝国は蜂の巣を突いたような騒ぎとなったが、懸念された血の雨が降ることはなかった。

 二人の口座から引き出された資産は、彼らが有していた莫大な権力に比べれば、あまりにもささやかなものだ。逃亡というより、新婚旅行の費用と表現する方が的を射ているかもしれない。

 

【自由惑星同盟・イゼルローン要塞】

 

帝国の極秘情報は、同盟の諜報網をも駆け巡った。

 報告書を一読したユリアンは言葉を失い、ヤンは手元の紅茶を盛大にこぼした。

 

「ファルケンハインが逃げた?」

 

「はい、提督」

 

ユリアンの表情は極めて真剣だ。

 

「妻と二人で、地位も権限も置いて消えました」

 

ヤンの意識は、しばし無機質な天井の染みをなぞる。

 

「……先を越された」

 

「何をですか」

 

「引退」

 

「そこですか?」

 

「そこだよ。彼は本当にやったのか。すごいな」

 

傍らで、フレデリカが呆れたような息を吐く。

 

「感心している場合ではありません」

 

「いや、でもね、フレデリカ。銀河帝国宰相が『愛のために進む』と書き置きして消えるなんて、歴史家が泣いて喜ぶよ」

 

「政治家も泣きます。別の意味で」

 

ヤンの口元に、苦笑が浮かぶ。

 

「だろうね」

 

だが、その眼差しはすぐに深い思索の光を帯びた。

 

「でも、生きているなら、それでいい。彼が本当に逃げたなら……帝国はしばらく混乱するが、内戦は避けられるかもしれない」

 

「捜索しますか?」

 

「形式的にはね。でも、もし見つけても」

 

「見逃しますか?」

 

「まあ、報告書の端へ『似た人を見た』くらいで済ませてもいいんじゃないかな」

 

「提督らしいですね」

 

「たまには、逃げた人間に優しい宇宙であってほしいんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やがて、二人の足取りは完全に途絶えた。

 ある者は農業惑星で不器用に鍬を振るう男を見たと言い、ある者はフェザーンの片隅で小さな店を営む美しすぎる夫婦を見たと言う。またある者は、名もない補給港で定期船に乗り込む家族の姿を噂した。

 

 真実は、誰にも分からない。

 ただ一つ確かなのは、彼らが再び銀河の表舞台に立つことはないという事実だけだ。

 

心地よい風が吹き抜ける、名もなき星の草原。

 草の匂いに包まれながら、身重の女性が、隣で寝息を立てる青年の寝顔を愛おしそうに見つめている。青年の手からは、安っぽい大衆小説が滑り落ちそうになっていた。

 

「アル様、また寝ていますね」

 

青年は、目を閉じたまま気怠げに唇を動かす。

 

「働いた」

 

「五分だけです」

 

「五分も働いた」

 

「立派ですね」

 

「褒めろ」

 

「はいはい。偉いです」

 

「雑だな」

 

「愛です」

 

「便利な言葉だ」

 

「お互い様です」

 

青年が、ゆっくりと片目を開く。

 

「アナ」

 

「はい」

 

「幸せか?」

 

彼女の脳裏を、過去のしがらみが一瞬だけ過る。権力、安全、脅威。かつてはそれらが世界の全てだった。だが今は、草の感触と、胎内に宿る命の重みと、隣で微睡む男の存在だけで、世界は完全に満たされていた。

 

「はい」

 

「そうか」

 

「アル様は?」

 

「俺は今、二十八歳で最高の悪政をしている」

 

「悪政?」

 

「銀河を捨てて、妻を独占している」

 

「それは確かに、銀河に対する悪政ですね」

 

「だろう?」

 

二人の笑い声が、風に溶けていく。

 それは歴史書のどのページにも記されることのない、ささやかな音。だが、二人にとってはそれだけで十分だった。

 

この物語において語るべき「無能なる俗物」は、もうどこにも存在しない。

 そこにいるのは、辺境の草原で微睡む一人の男と、彼を世界の全てとして愛する女だけである。

 

それで、十分だった。




ここまでお読みいただきありがとうございました。
この結末をどう感じたか、ぜひ感想を聞かせていただけると嬉しいです。
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