銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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和平は、あまりにも脆かった。
再び砲火が回廊を照らし、銀河は戦争へと引き戻されていく。


平和の薄氷

【同盟軍旗艦 ヒューベリオン】

 

四月十五日以降、同盟軍の旗艦《ヒューベリオン》は、緊張を孕んでイゼルローン回廊を進水している。

 

艦隊の陣形に乱れはない。

指揮系統も静まり返っている。

 

ホーランド元帥率いる直衛艦隊の動きも、相変わらず洗練の極みにあった。

だが、艦橋の光を浴びる者たちの胸中には、ひとつの淀んだ疑問が渦巻いている。

 

和平は、どこへ消えたのか。

 

百五十年に及ぶ流血を止めてから、わずか三ヶ月余り。両国の砲口は、再び互いの喉元を狙っている。人類は過去から何を学んだのか。

 

フェザーンの暗がりで、悪辣な商人がその学習能力を担保にでもしているのだろうか。

 

「なに。フェザーン回廊で、帝国軍の奇襲により千隻の損害が出た?」

 

 

通信モニター越しに相対するビュコックの双眸にも、静かに燃え盛る怒りの炎が宿っている。若者のような爆発的なそれではない。

 

「うむ。局地戦の小競り合いならともかく、千隻ともなれば、これはもはや看過できぬ。単なる国境警備の暴走ではない」

 

頭上のベレー帽に手を伸ばす。

指先で生地の感触を確かめながら被り直す。

思考の海へ潜るための、ささやかな儀式。

 

「わかりました。ガイエスブルク要塞への侵攻を許可します」

 

ガイエスブルク要塞への侵攻。

それは、危うい均衡を保っていた和平の薄氷を、軍靴で踏み割ることに他ならない。

ビュコックは短く頷く。

 

「うむ。頼んだぞ」

 

「ただし、提督。政治的な大義名分はこちらにありますが、戦術的には慎重に。帝国側に第三者が紛れている可能性はまだ消えません」

 

「わかっておる。老骨は踏み止まるほうが得意じゃ」

 

「それは頼もしいですね」

 

「若造がわしを老人扱いするでない」

 

「提督、ご自分で老骨と」

 

「自分で言うのと他人に思われるのは別じゃ」

 

通信が途切れる。

残されたノイズの余韻の中、ホーランドの鋭い視線がヤンを射抜いた。謀略の気配が濃くなるにつれ、彼の内にある闘争心が苛立ちへと変質しているのがわかる。

 

「ヤン、これはどうなっている?あからさまな謀略じゃないのか?経済戦に移行しようとしていた帝国が、わざわざ向こうから戦端を開くのは不可解だ」

 

ヤンの視線は、手元のカップに注がれた紅茶へと落ちる。

喉は渇いている。だが、今これを口にしても、舌は砂を噛むような味気なさしか感じ取れないだろう。

 

「ええ。アルブレヒト・フォン・ファルケンハインのやり方ではない。あの人は不愉快なくらい合理的だ。戦争をするにしても、もっと嫌なタイミングで、もっと嫌な方法を選ぶ」

 

「褒めているのか?」

 

「敵としては最大級の評価です」

 

「なるほど。で、その最大級に嫌な男がやりそうにないことを、帝国軍がやっている」

 

「そうなります」

 

「ならば罠だ」

 

「でしょうね。しかし、どちらにせよ、このままでは同盟の威信が崩れる。国内の主戦派が暴走して危険だ。和平反対派は既に地下で燻っている。ここで弱腰に見えれば……」

 

「我々はこのまま前進し、イゼルローン要塞を攻略、帝国領へ侵攻する」

 

ホーランドの顔に、隠しきれない驚きが走った。

 

「良いのか?和平のインクも乾いていないぞ」

 

「いずれは……とは思っていましたが、向こうから大義名分をくれたのだから、今は確かに好機だ。据え膳食わぬは男の恥と言いますしね。イゼルローンという出戻りの美女は、我々の手に返してもらいましょうか」

 

艦橋に、言い知れぬ静寂が降り積もる。

フレデリカがこの場にいれば、どのような反応を見せただろうか。彼女の不在が、ヤンの胸に微かな隙間を作る。

 

「総統閣下も、ずいぶん言い回しが艶っぽくなられた」

 

「私は疲れているんです。変な比喩が出るくらいには」

 

ホーランドの表情に、元の好戦的な光が戻る。

 

「うむ。わかった。俺の艦隊が先陣を切ろう!」

 

「先陣を切るのはいいですが、切りすぎないでください。あなたは時々、勢いが良すぎて航路図より先に魂が突撃する」

 

「そこまで無茶はしない」

 

「以前の報告書に似たようなことが書いてありました」

 

「誰だ、そんな失礼な報告書を書いたのは」

 

「たぶんアッテンボローです」

 

「あいつなら仕方ない」

 

微かな笑い声が伝播し、すぐに溶けて消えた。

誰もが理解している。

 

この先にあるのは、血と鉄の現実だけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【帝都オーディン 宰相府作戦会議室】

 

 

 

正面の星図パネルでは、二つの回廊が赤黒い光を脈打たせている。フェザーンとイゼルローン。両側からの挟撃。戦術的には洗練された構図だが、それが自国の喉元に突きつけられた刃である以上、視界に入れることすら忌まわしい。

アルブレヒトの視線が、赤い明滅を鋭く射抜く。

 

「これは明らかな侵略行為だ。……無論、第三者による謀略の可能性は拭えないが、現実に千隻規模の戦闘が起き、死者が出ている以上、もはや看過できん。昨年の通信だけのブラフとは違う」

 

「同盟側も、同じ理屈で動いているでしょうな。相手にとっても千隻規模の損害は、国内世論を抑えるには重すぎる」

 

ケスラーの声は、どこまでも凪いでいた。

 

「どちらも『先に撃たれた』と認識している。第三者が両軍の通信・識別信号を攪乱している可能性があります。憲兵隊と陸戦隊情報部で洗っていますが、まだ決定的な証拠はありません」

 

アナスタシアの静かな声が響く。

 

「証拠が出る頃には、もう戦争になっているでしょうね」

 

「嫌なことを正確に言うな」

 

アルブレヒトの低い声が跳ね返る。

 

「ですが事実です」

 

「知っている。知っているから嫌なんだ」

 

アナスタシアがわずかに歩み出る。

 

「しかし、誰をもって当たりましょうか。同盟軍はイゼルローンとフェザーン、両面から押し寄せてきています」

 

アルブレヒトの言葉に、淀みはない。

 

「イゼルローンは、俺が行く。……ヤン・ウェンリーが直接出てきている以上、俺かラインハルトでなければ勝ち目はない」

 

その瞬間、金糸の髪を揺らしてラインハルトが前に出た。

体内に熱を抱えているはずだが、その双眸に宿る光は、病魔の影など微塵も感じさせない。

 

「兄上が出るまでもない。俺がヤン・ウェンリーに当たろう。あの魔術師の底、俺が暴いてやる」

 

「気持ちはありがたいが却下だ」

 

「なぜです!」

 

「お前はフェザーン方面を頼む」

 

ラインハルトの眉が、不満げに跳ね上がる。

 

「フェザーン?」

 

「ああ。ガイエスブルクは現在劣勢だが、お前とマルガレータの艦隊が合流すれば押し返せるだろう。そして、その余勢をかってフェザーン回廊を突破し、ヤンを横から急襲するんだ。フェザーンが占領できそうなら、そのまま制圧しろ。それで帝国の戦略的な不利は一気に解消される」

 

「なるほど。イゼルローン正面で閣下が魔術師を拘束し、フェザーン側からローエングラム公爵とヘルクスハイマー元帥が突き抜ける。成功すれば、同盟軍は両回廊の主導権を一挙に失いますな」

 

「成功すればな」

 

 

「失敗すれば、俺たちは二正面で負ける。実に神経を削られる作戦だ」

 

キルヒアイスの視線が、主君の横顔を案じるように彷徨う。

 

「閣下……しかし、ラインハルト様はまだ体調が……。最近も度々発熱されておいででした」

 

ラインハルトは不敵な笑みを浮かべ、その懸念を切り捨てる。

 

「大丈夫だキルヒアイス、熱はもう下がっている!それに、これ以上オーディンのベッドで寝て戦争に出られなければ、退屈で死んでしまうからな!」

 

「退屈では人は死にません」

 

「精神的には死ぬ」

 

「それは甘えです」

 

「キルヒアイス、最近お前は姉上やヒルダに似て冷たい」

 

「看病疲れです」

 

ヒルダの淡々とした声が、二人の間に割って入る。

 

「ラインハルト様。今回は私も同行します。体温計と薬も持参します」

 

「ヒルダ、戦場に何を持ち込むつもりだ」

 

「夫の健康管理です」

 

「私は元帥だぞ」

 

「患者です」

 

「違う!」

 

アルブレヒトが目頭を軽く押さえる。

 

「戦争の会議で夫婦喧嘩をするな。俺だけで十分だ」

 

「兄上も普段しているではありませんか」

 

「だから反面教師にしろ!」

 

張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。

だが、真新しい軍務尚書の軍服を纏ったマルガレータが歩み出ると、場の空気が再び引き締まった。

 

「妾も同行するのじゃ。万が一にも敗北などありえんさ!妾の桃色竜騎兵が同盟軍を蹴散らしてくれるわ!」

 

背後に控えるビッテンフェルトが、力強く頷く。

 

「黒色槍騎兵もいるぞ!フェザーンの通行料を同盟から取り立ててやる!」

 

ファーレンハイトは、水色の袖口に視線を落としながら静かに呟く。

 

「通行料の徴収は財務省の仕事では」

 

「四彗星が揃えば、敵なしじゃ!」

 

キルヒアイスが、周囲に聞こえるか聞こえないかの声で漏らす。

 

「その名乗り、まだ使うんだ……」

 

「当然じゃ!いずれ赤も加える!」

 

「僕は入らない」

 

「ジークは追加戦士枠じゃ!」

 

「入らない」

 

「緊急時じゃぞ!」

 

「戦争より恥ずかしいものもある」

 

アルブレヒトの視線が、キルヒアイスに固定される。

 

「…………心配であれば、キルヒアイス。お前も行け」

 

キルヒアイスの目が、わずかに見開かれた。

 

「はい?いや……しかし、私は国務尚書として内政の……」

 

「事態が事態だ。非常特権をもって現役復帰を命じる。ラインハルトの補佐をしてやれ。……ヒルダちゃんも、参謀長待遇で一緒に行ってこい」

 

ヒルダは流れるような所作で一礼する。

 

「はっ!お任せください!」

 

キルヒアイスの顔には、まだ戸惑いの色が残っている。

 

「ですが、国務省の決裁が」

 

ロイエンタールの肩が軽く上下する。

 

「キルヒアイス国務尚書。書類は私が副宰相権限で一時預かります」

 

アルブレヒトはマルガレータに向き直る。

 

「マルガレータ、お前の元帥府の艦隊、つまり四彗星も含めれば、相手の二倍の兵力になる。十分に完勝できるはずだ。……その後は分かるな?」

 

「はい。心得ております。ヤン・ウェンリーを見事討ち取って、銀河の歴史に妾の名を刻んでみせましょう」

 

「討ち取るのは最後でいい。まずフェザーンだ。通商路を抑えろ。ヤンを横から刺すのは、その後だ」

 

「承知しました」

 

「それと、突撃前にキルヒアイスの言うことを聞け」

 

「妾は元帥じゃぞ?」

 

「その元帥が、ジークの言うことなら一番聞くだろうが」

 

「ぐっ……否定できぬ」

 

キルヒアイスの唇から、微かな苦笑が漏れる。

 

「責任重大ですね」

 

「頼むぞ」

 

アルブレヒトの短い言葉に込められた重み。

キルヒアイスの表情から、一切の甘さが消え去った。

 

「はい。必ず、ラインハルト様もマルガレータも無事に連れ帰ります」

 

「それでいい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アナスタシアの視線は、去り行く者たちの背中に注がれている。

その横顔は凪いだ水面のように穏やかだ。

 

『思った事態とは違いますが……これは好機』

 

標的となる者たちが、見事に最前線へと集結していく。

通常であれば危惧すべき事態も、彼女の目には、美しく整理された盤面として映っていた。

 

『彼らが負けて戦死すれば、私の手間が省けてよし』

 

『もし負けて生還すれば、敗戦の責任を問うて全員死罪』

 

『勝って戻ってきたなら、その油断を突いて前倒しで事を運べる。あちこちに散らばっているより、ひとかたまりなら粛清はやりやすい』

 

彼女の愛情は、すべてアルブレヒトただ一人に向けられている。

彼を中心とする世界において、他者は障害物か、あるいは利用すべき駒でしかない。

 

「アル様、私は……」

 

振り返ったアルブレヒトの視線が、彼女の腹部に落ちる。

 

「お前は身重だろ。オーディンに残れ。頼むから、戦場で出産とかやめてくれよ」

 

「私は、出産しながらでも艦隊を指揮してみせます。義手は陣痛の痛みに影響されませんし、指示を出す口は塞がりませんから」

 

「お前ができても、周りの将兵が引いてついてこんよ!」

 

「将兵の精神力が足りません」

 

「そこじゃない!」

 

「出産は自然な営みです。艦隊指揮も慣れた仕事です。二つを同時に行うことは理論上」

 

「理論を閉じろ!その理論書は発禁だ!」

 

「アル様、女性の社会進出を妨げる発言です」

 

「出産中の艦隊指揮を標準化しようとするな!後世の女性士官が迷惑する!」

 

「では、私が前例になります」

 

「だからやめろと言っている!」

 

アナスタシアの眉が微かに寄る。

 

「頼むからここにいてくれ。イゼルローンには俺が行くんだ。俺が留守の間、帝都をお前が守る。……必要だろ?」

 

アナスタシアの瞳が微かに揺れ、やがて柔らかな光を帯びた。

 

「……はい。行ってらっしゃいませ、アル様」

 

「本当に、余計なことをするなよ」

 

「余計なこととは?」

 

「俺が帰ってきた時、帝都の人口が半分になっているとか、そういうやつだ」

 

「それは極端です」

 

「お前の場合、極端が現実味を持つんだよ」

 

「では、なるべく穏当に守ります」

 

「なるべくじゃなくて、絶対にだ」

 

「努力します」

 

「その返事が一番怖い」

 

アルブレヒトが歩み寄り、彼女の腹部にそっと手を添える。

 

「俺が戻るまで、無事でいろ。お前も、子も」

 

「はい」

 

「俺は、お前を信じている」

 

信じている。

それは彼女にとって至上の喜びであり、同時に、逃れられぬ呪縛でもあった。

 

「……はい。アル様」

 

アルブレヒトが踵を返し、部屋を出ていく。

その背中を、アナスタシアは深い情念を湛えた瞳で見送った。

 

『いってらっしゃいませ、私の最愛の人』

 

『……次に貴方がこのオーディンへ帰ってこられる時。その時、貴方は誰に憚ることもない、絶対的な皇帝になっていますからね』




ここまでお読みいただきありがとうございます。
再び動き出した戦局と、帝都に残る不穏な影について、ぜひ感想を聞かせてください。
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