銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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同盟軍は再びイゼルローン回廊へ進軍し、ミッターマイヤー率いる帝国軍と対峙する。
要塞砲トールハンマーを前に、ヤン・ウェンリーが選んだ手段は、正面突破ではなかった。
そして戦場には、ホーランド元帥のあまりにも芸術的な艦隊運動が炸裂する。


トールハンマー沈黙す

【イゼルローン要塞 司令室】

 

ガイエスブルク攻防戦から三週間ほど遡る。

 

スクリーンには、回廊を埋め尽くすほどの同盟艦隊の光点が並んでいる。多すぎる。それはもはや光点というよりも、人工的な星空がそのまま嫌がらせに押し寄せてきたような光景だった。

 

「敵はホーランド直衛艦隊、第二、第十一、第十三の合計四個艦隊です!こちらに向かって一直線に進撃中!」

 

ミッターマイヤーは司令席から立ち上がった。

『疾風ウォルフ』と呼ばれる男の瞳に、迷いの色は微塵もない。だが、その眉間には苛立ちを隠せない深い皺が刻まれていた。

 

「和平条約から百日程度でこれか。まったく、歴史という奴はせっかちだな」

 

バイエルラインが血の気を失った顔を向ける。

 

「閣下、敵は四倍です。イゼルローン要塞にこもり、トールハンマーで迎撃した方が」

 

「馬鹿を言え」

 

「要塞の表面に肉薄されてからでは、艦隊も出せず身動きが取れなくなる。要塞は強い。だが、強すぎる城は時に棺桶にもなるのだ。それよりは、機動力で相手の出足を挫く方が先決だ」

 

「しかし、要塞砲の射程を捨てることになります」

 

「捨てるのではない。使うために距離を作るのだ。艦隊を出撃させるぞ。要塞砲の死角を補い、流体金属層の前面で迎え撃つ」

 

「相手はヤン・ウェンリーです。しかもホーランドもおります。艦隊運動は、報告書を読むだけで酔いが回ります」

 

「報告書で酔うなら、実物を見れば吐き気を催すだろうな」

 

ミッターマイヤーは口角をわずかに上げた。

 

「だが、こちらにも意地というものがある。疾風の名にかけて、同盟の連中に我々の健在ぶりを見せつけてやる」

 

「はっ!」

 

「それと、艦隊の全員に通達しろ。ホーランド艦隊の陣形名を聞いて笑うな。笑った瞬間に死ぬぞ」

 

「え?」

 

「以前、奴の陣形名を読んだことがある。人間は理解できない言葉を聞いた時、つい笑い声を漏らす。その一瞬が戦場では命取りだ」

 

「了解しました。敵の陣形名を聞いても決して笑いません」

 

「よし。これが今日一番重要な命令かもしれんな」

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ホーランド艦隊旗艦 エピメテウス】

 

一方、イゼルローン回廊を物理的に押し潰すような勢いで進む同盟軍では、ホーランドが旗艦の艦橋で指揮棒を振り回していた。指揮棒など軍事的には一切不要の代物だが、本人の昂る気分を表現するためには不可欠らしい。

 

艦橋の士官たちは、もはや誰も異議を挟もうとしない。下手に口を挟めば、三十分ほど艦隊美学の講義が始まることを骨の髄まで理解しているからだ。

 

「ガハハハ!イゼルローンとの戦い方は、俺たちは腐るほど慣れているわ!全艦、恐れず突撃だ!!野蛮な帝国軍に、芸術的艦隊運動を見せつけてやれ!!」

 

副官が恐る恐る口を開く。

 

「元帥、ヤン総統からは、あくまで包み込むように圧力をかけろとの」

 

「わかっている!包み込むのだ!優雅に!大胆に!美しく!クロワッサンのようにな!」

 

「またクロワッサンですか」

 

「またとは何だ。クロワッサンは戦術芸術の基本だ。外はサクサク、中はしっとり。艦隊運動も同じだ!」

 

「違うと思います」

 

「違わん!」

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

【第十一艦隊旗艦 レオニダスⅡ】

 

その常軌を逸したやり取りを通信越しに聞き流しながら、ラップは冷静に指示を飛ばしていた。

 

「第十一艦隊もホーランド元帥に続くぞ。だが、元帥の芸術に巻き込まれすぎるな。陣形を崩すな。ヤン総統の指示通り、強固な壁として機能するんだ」

 

「ホーランド元帥の芸術に巻き込まれすぎるな、という命令は、かなり実用的ですね」

 

「実用的だが、軍の正式命令文には残したくないな」

 

「後世の士官学校で教材にされるかもしれません」

 

「その時は、芸術鑑賞ではなく危険回避の授業にしてくれ」

 

 

 

【同盟軍旗艦 ヒューベリオン】

 

 

「敵の司令官は、あのミッターマイヤー元帥だ。機動戦に持ち込まれないように注意しろ。こちらは大軍だ。包み込むように圧力をかければいい」

 

アッテンボローが皮肉げに口元を歪める。

 

「疾風ウォルフですからね。正面から追いかけっこをしたら、こっちが靴擦れを起こします」

 

「宇宙艦隊に靴はないけどね」

 

「比喩です」

 

「知っているよ」

 

「総統!我が軍、帝国艦隊主砲の射程に入りました!しかし、要塞主砲の射程からは出てきません!このままではトールハンマーの的になります!」

 

艦橋に走る緊張。

イゼルローンのトールハンマーは、同盟にとって長年の悪夢だった。かつては敵として恐れ、奪取後は味方として頼り、今はまた敵に回っている。人間関係に例えるなら泥沼そのものだ。

 

ヤンは紅茶を静かにすすり、平然と告げた。

 

「無視しろ。そのまま突撃だ。一歩も引くな」

 

「総統、本当に?」

 

「本当に。私だって、好き好んで要塞砲の正面に艦隊を並べたいわけじゃない。そんな趣味があったら、軍医に診てもらうよ」

 

「では」

 

「鍵は預けたままだよ、アッテンボロー。帝国が家に入ったあと、合鍵がまだポケットに残っていたというだけさ」

 

「泥棒の理屈ですね」

 

「不動産管理の不備と言ってほしい」

 

「どちらにしろひどい」

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

一隻の目立たない小型工作艦。

艦名すら戦術図では極小サイズで表示され、誰も注意を払わないようなその艦内に、ユリアン・ミンツの姿があった。

 

彼は暗号化されたコンソールへ向かい、猛烈な速度でタイピングを続けている。

 

周囲には数名の特高系技術官が控えている。表向きは通信保守班という名目だが、その目つきは保守作業員にしては少しばかり黒い。平和な組織の技術者は、もう少し肩の力が抜けているものだ。

ユリアンの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。

 

「要塞を帝国に明け渡した時に、システムの奥底に仕込んでおいた手が、こんなに早く使うことになるなんてね」

 

技術官が声を潜める。

 

「局長、バックドアの接続確認。帝国側はまだ気づいていません」

 

「そりゃそうだよ。入り口に『これは裏口です』なんて札はつけてないからね」

 

「パスフレーズ入力を」

 

ユリアンは一瞬だけ、本当に楽しそうな表情を見せた。

 

「まさか、本当にこのパスワードが役に立つとは」

 

「なぜ、この文言に?」

 

「ヤン提督が絶対に忘れない言葉だからだよ」

 

「つまり、非常に安全性が低いのでは?」

 

「本人にしか意味が分からないから大丈夫」

 

「本当にそうでしょうか」

 

ユリアンは肩をすくめ、ヤンの口調を真似た。

 

「食後に一杯の紅茶を……とね。蜂蜜で」

 

そして、迷いなくエンターキーを叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【イゼルローン要塞 司令室】

 

同盟軍がトールハンマーの射程圏内に完全に入った。

ミッターマイヤーは訝しげに眉をひそめる。あまりにも無防備だった。ヤン・ウェンリーともあろう者が、正面から要塞砲の的になるなどあり得ない。あり得ないはずなのだが、現実にはそのようにしか見えない。

 

「おいおい、ヤン・ウェンリーともあろう者がどうしたんだ。正面から要塞砲の的になるとは」

 

「罠でしょうか」

 

「罠だろうな。だが、撃たない理由にもならん。撃たなければ、相手は肉薄してくる。……いいだろう、挨拶代わりだ!トールハンマー、発射!!」

 

その瞬間だった。

要塞内の全照明が一斉に命を絶たれたように消えた。

司令室が深い闇に沈み込む。メインスクリーンが完全にブラックアウトし、次いで非常灯が不気味な赤い光を瞬かせた。

 

警告を告げる電子音が悲鳴のように鳴り響き、複数の端末が制御を失って再起動を繰り返す。

 

「こ……これは……!外部からのハッキング通信で、要塞の全システムがダウンしました!!トールハンマー、沈黙!主砲撃てません!防御システムも完全停止!!」

 

「何だと!?ヤンの罠か!これは!」

 

「要塞引き渡し時に仕込まれたものかと!」

 

「合鍵を作ってから家を売る奴があるか!」

 

「ヤンならやりそうです!」

 

ミッターマイヤーは奥歯を強く噛み締めた。

要塞の利が失われたどころの話ではない。防御システムまで停止してしまえば、ただの巨大な的でしかない。

 

「これでは勝負にならん!!このままでは全滅するぞ!味方を直ちに救出し、回廊を後退して撤退するぞ!!」

 

「要塞は」

 

「放棄する!兵の命を最優先しろ!」

 

「はっ!」

 

ミッターマイヤーは忌々しげに吐き捨てる。

 

「ヤン・ウェンリーめ。食後の紅茶どころか、家の鍵まで持っていくとはな」

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

【同盟軍旗艦 ヒューベリオン】

 

要塞の機能停止を確認したヤンは、間髪入れずに動いた。

 

「今だ。敵に要塞を物理的に破壊される恐れがある。ミッターマイヤーの艦隊に救出と破壊の暇を許すな。全軍、攻撃」

 

アッテンボローが嬉々として頷く。

 

「はいきた!敵を引っかき回してやれ!パニックを誘え!!」

 

「ただし、要塞そのものはできるだけ傷つけない。後で使う」

 

「再利用精神ですね」

 

「家計に優しい戦争をしたいんだよ」

 

「戦争の時点で優しくないです」

 

「それはそうだ」

 

 

前方では、ホーランド艦隊が常軌を逸した軌道を描き、帝国艦隊の側面へと深く食い込んでいた。

ホーランドは旗艦の艦橋で両手を大きく広げ、まるで舞台俳優のように高らかに宣言した。

 

「見よ!!これぞ我が芸術の極致!!トリニティ・クロワッサン・ボトムだぁぁぁ!!」

 

一瞬、同盟艦隊内の通信回線にすら奇妙な沈黙が落ちた。

ラップの艦橋で、副官が呆然と呟く。

 

「今、何と?」

 

ラップは表情を変えずに答えた。

 

「聞かなかったことにしろ。戦場では心の防御も必要だ」

ホーランド艦隊は三つの分艦隊に分かれ、クロワッサンのような三日月型に湾曲しながら、底面から掬い上げるように猛烈な砲火を浴びせる。

 

名前のセンスはさておき、その動きは恐ろしく鋭かった。帝国艦隊の側面に斜めから火力が突き刺さり、退路を容赦なく乱していく。

 

帝国軍の通信回線には、かつてないほどの混乱が広がっていた。

 

『敵分艦隊、下方より急速接近!』

 

『下方とは何だ、宇宙に上下はない!』

 

『戦術図上の下です!』

 

『敵陣形名、トリニティ・クロワッサン・ボトム!』

 

『何だそれは!』

 

『笑うな!ミッターマイヤー閣下の命令だ!』

 

『無理です!』

 

『笑った艦から撃たれています!』

 

『本当に!?』

 

ミッターマイヤーは力強く歯を食いしばった。

 

「これは………無念だ……。疾風の名が泣く」

 

「閣下、敵のクロワッサンが」

 

「二度と言うな!」

 

「はっ!」

 

「全艦、被害を最小限に抑えつつ撤退せよ!フェザーン方面へ逃れるのだ!要塞のシステム復旧は諦めろ。工作班を収容できる範囲で収容しろ!」

 

「しかし、まだ内部に」

 

「全部は救えん!だが、救える者は救え!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラップはホーランド艦隊の予測不可能な軌道を見ながら、呆れた顔で通信モニターを見つめていた。

 

「……相変わらず無茶苦茶な陣形だが、敵の陣形を崩すには最適か。第十一艦隊は独自に動きます。ホーランド艦隊の隙間を埋めるように前進し、敵の退路を絞り込め!」

 

「ホーランド元帥の隙間を埋める、という命令は非常に実務的ですね」

 

「問題は、隙間が芸術的すぎて予測しづらいことだ」

 

「芸術は難しいですね」

 

「戦場では、もう少し簡単であってほしい」

 

要塞は沈黙し、ミッターマイヤーは撤退へ移行しつつある。ホーランドが敵陣を乱し、ラップが退路を絞り、第二、十二艦隊が圧力をかける。ここまでは完全に想定通りだった。

アッテンボローが軽口を叩く。

 

「先輩、ほぼ無傷でイゼルローン奪還ですね」

 

「ほぼ、という言葉を大事にしよう。誰かは必ず傷ついている」

 

「そうですね」

 

「それに、ミッターマイヤー提督を取り逃がす。あの人は逃げるのも速い」

 

「疾風ですから」

 

「まったく、嫌な異名だ。追撃する側の気持ちも考えてほしい」

 

「先輩も魔術師って呼ばれてますよ」

 

「私は嫌がっている」

 

「向こうも嫌がっているかもしれません」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

要塞内では、ユリアンが復旧用の制御権限を次々と確保していた。

帝国側の緊急遮断プログラムも、彼の前ではわずかな時間稼ぎにしかならない。合鍵で堂々と入り込んだ後、内側から鍵穴ごと交換してしまうような手際の良さだった。

 

「要塞中枢制御を掌握。トールハンマー発射権限をこちらへ移します」

 

「安全ロックを三重に。ヤン提督が近くにいる時、間違って発射したら僕が死にたくなる」

 

「物理的にですか、精神的にですか」

 

「両方」

 

「了解しました」

 

ユリアンはふと、モニターに映る撤退中の帝国艦隊に目をやった。ミッターマイヤーの艦隊は乱れてはいるが、決して崩壊していない。さすがだ、と彼は静かに感嘆する。だからこそ危険だった。

 

「追撃はほどほどに。あの人を本気で怒らせると、後が怖い」

 

「ヤン総統ではなく、局長が判断を?」

 

「これはシステム班の一般所見だよ」

 

「一般所見にしては物騒です」

 

「同盟の一般は最近、少し物騒なんだ」

 

こうして同盟軍は、『食後に一杯の紅茶を』というふざけたパスワードによるハッキングと、芸術的すぎるクロワッサン戦法により、ほぼ無傷でイゼルローン要塞を奪還した。

 

ホーランドは満面の笑みを浮かべていた。

 

「ヤン!見たか!トリニティ・クロワッサン・ボトムの威力を!」

 

「見ました。名前以外は素晴らしい」

 

「名前も素晴らしいだろう!」

 

「後世の歴史家が苦労します」

 

「苦労すればよい!芸術とは理解されるまで時間がかかるものだ!」

 

アッテンボローが横から口を挟む。

 

「理解される前に笑われる可能性が高いですね」

 

「笑いもまた芸術の入口だ!」

 

「強いな、この人」

 

ラップは目頭を押さえながら言った。

 

「作戦としては有効でした。しかし、今後この名称が正式報告書に載るのですか?」

 

ヤンは瞬時に言葉を返した。

 

「載せない」

 

「なぜだ!」

 

「軍務文書の品位を守るためです」

 

「俺の芸術を検閲する気か!」

 

「はい」

 

「判断が早すぎる!」

 

「総統権限です」

 

「独裁者め!」

 

「こういう時だけ独裁者呼ばわりしないでください」

 

張り詰めていた空気が緩み、将官たちの間に柔らかな笑い声が広がる。

だが、ヤンはすぐに表情を引き締めた。

 

「諸将の働きに感謝する。さて、ここからが本番だ。帝国軍は間違いなく、我が方の侵攻を察知して大軍を動かしているはずだ」

 

その一言で、室内の空気が再び冷え込んだ。イゼルローン奪還は確かに大きな戦果だ。だが、それは戦争の終わりを意味しない。むしろ、真の激乱の始まりだった。

 

「ホーランド元帥、ラップ提督、パエッタ提督。お三方は艦隊を率いて、このままイゼルローン回廊から帝国辺境星域の占領へ向かってください。帝国の注意と戦力をこちらに引きつけるのが目的です」

 

ホーランドは力強く胸を張った。

 

「承知した!帝国の辺境に芸術の雨を降らせてやろう!」

 

「できれば通常の砲火でお願いします」

 

「芸術的砲火だ!」

 

「通常の範囲で」

 

「我々は帝国辺境へ圧力をかけ、敵主力を分散させる。深入りしすぎないようにします」

 

パエッタも重々しく応じた。

 

「イゼルローン方面の守りも必要ですな。補給線を切られれば、こちらが危うい」

 

「その通りです」

 

ヤンはユリアンへと向き直った。

 

「ユリアンは、このイゼルローンの守備と、システムの完全復旧を頼む」

 

「はい。お任せください、総統!」

 

「それと、変な裏口はもう増やさないように」

 

ユリアンの笑顔が、一瞬だけピクリと固まった。

 

「……必要最低限にします」

 

「増やす気だね?」

 

「防衛上の必要性です」

 

「君までトリューニヒトみたいな言い方をしないでくれ」

 

「気をつけます」

 

ヤンはほんの少しだけ不安そうな視線を向けた。だが、今はユリアンを信じて任せるしかない。彼は有能だ。有能すぎる。そこが頼もしくもあり、少しだけ恐ろしいところでもあった。

 

「私とアッテンボローは、第十三艦隊を率いて、回廊を抜け、ガイエスブルク要塞を側面から叩く。……帝国軍の本隊が来るまでの時間との勝負だ。急ごう」

 

アッテンボローが、悪戯を思いついた子供のようににやりと笑う。

「要塞の横っ面を叩く。先輩らしい嫌な作戦ですね」

 

「正面から叩くと痛いからね」

 

「また痛い理論ですか」

 

「軍事の基本だよ」

 

「士官学校では習いません」

 

「私が教官なら教える」

 

「絶対に人気講義になりますね」

 

「寝ながら聞けるからかな」

 

将官たちはそれぞれの持ち場へと散っていく。

 

ヤンは一人、司令室のスクリーンに映し出された広大な回廊図を見上げていた。

イゼルローンから帝国辺境へと伸びる矢印。フェザーンへと転進する自身の艦隊。その先に待ち受けるガイエスブルク。さらにその奥にいるであろう、ラインハルトとマルガレータ。そして、おそらく別方向から迫り来るアルブレヒト。

 

「やれやれ」

 

ヤンは誰にともなく小さく呟いた。

 

なお、後世の歴史家たちは、この戦いの記録に燦然と輝く『トリニティ・クロワッサン・ボトム』という語彙を前に、かなり長い時間沈黙することになる。

だが、それはまだ少し先の話である。

 




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回はイゼルローン要塞奪還戦と、ヤンの合鍵作戦、そしてホーランド元帥の新戦術が中心の回でした。
ヤン、ユリアン、ミッターマイヤー、ホーランドの描写や、トリニティ・クロワッサン・ボトムの印象について、感想をいただけると嬉しいです。
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