銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

215 / 224
フェザーンを突破したマルガレータ艦隊が、ハイネセンへ迫る。
首都防衛はほぼ不可能。降伏か、抗戦か。
その時、ヨブ・トリューニヒトは最も正直で、最も見栄えの悪い選択を口にする。
同盟は、逃げることでヤンの勝利を助けることになる。


正直な悪徳政治家と第二の長征一万光年

少しばかり時を遡る

 

 

【ハイネセン 高等参事官室】

 

 

「高等参事官閣下!!緊急事態です!!」

 

待ちわびた演目の幕が上がったかのような、静かな高揚感が胸を掠めた。

 

「ふむ、どうしたのかね?そんなに慌てて。まあ、座りたまえ。紅茶を入れよう」

 

「紅茶など結構!!」

 

卓が震え、カップの液面が揺らぐ。トリューニヒトは陶磁器の繊細な振動を惜しむように目を伏せた。

 

「ふむ……珈琲派かね?いけないなあ。我らがヤン総統は熱烈な紅茶党であらせられる。あのような濁り水を軍の高官が飲んでは、思想的忠誠を疑われるよ?」

 

クブルスリーは額に手を当てる。焦燥が思考の輪郭を焼き焦がしていくような感覚に苛まれていた。

 

「……ならば、閣下が今飲んでおられるのは何なのですか?」

 

「カフェオレだが?」

 

「いやいや!今はそれどころではないのだった!」

 

己の焦りが相手の緩やかな歩調に絡め取られていることに気付き、クブルスリーは強引に会話の舵を切る。

 

「帝国のヘルクスハイマー元帥がフェザーンを電撃的に占拠し、一路こちらへ向かっているとのことだ!!」

 

「なるほど。マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマー元帥が、ね。……フェザーンを取っただけではなく、ハイネセンへ向かっていると」

 

「そうです!」

 

「現在、首都防衛に回せるのは第一艦隊しかおりませんな。……勝てますか?クブルスリー提督」

 

クブルスリーの胸中に、戦力差という非情な現実が鉛のようにのしかかる。

 

「敵は精強な三個艦隊だ!無理に決まっているでしょう!!」

 

「流石はクブルスリー提督だ。自分の力量を客観視できる。正直でよろしい」

 

「褒められている気がしません」

 

「褒めているとも。軍人が勝てない相手を勝てると言い張る時ほど、政治家にとって迷惑なことはない。で、統合作戦本部長のロボス元帥には報告を?」

 

言葉が喉に詰まる。軍の正規ルートを逸脱した己の行動に、遅ればせながら気付かされた。

 

「これからです。まずは政治的トップである閣下に……」

 

「順序が逆だよ。そういう軍事の危機は、まず本部長に言い給え。もっとも、君がここへ来ることも想定内ではあるがね」

 

「想定内?」

 

「危機の時、人は一番話が通じそうな相手のところへ来る。君がロボス元帥より私を先に選んだことは、軍組織としては問題だが、現実対応としては実に正しい」

 

「その理屈は、かなり不敬では?」

 

「不敬ではない。実務的なのだ。さあ、会議室へ行こうか」

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

【統合作戦本部 大会議室】

 

 

ロボスの目は半ば閉じられているが、思考の火は微かに燻っている。

 

「なるほど……困りましたな。ヤン総統が不在の時に限って」

 

「困ったではありませんぞ!!同盟存亡の危機です!!」

 

壁際のシェーンコップが、唇の端を歪める。

 

「そうでしょうかね?」

 

「どういうことかね!?シェーンコップ大将!首都が落ちるかもしれないのだぞ!」

 

「簡単な事実です。現在のところ、我が軍の艦隊で正面から敗れたものは一つもおりません。ヤン総統の主力も、ビュコック提督も、ホーランド元帥も、まだ戦っている。であれば、敵はただ単にガラ空きの隙を突いて来たということです」

 

「それが危機だと言っておるのだ!」

 

「危機ではあります。しかし敗北ではありません。ヤン総統が反転してくれば、いずれ蹴散らせる」

 

ロックウェルの顔面から血の気が失せていく。生存本能が警鐘を鳴らしていた。

 

「ここは……無抵抗で降伏すべきだろう。市民の命と、我々の命を守るために……」

 

「なんだと!この売国奴め!戦わずして国を売る気か!」

 

「勝てぬ戦いを首都で行えば、市民が死ぬ!第一艦隊が壊滅すれば、ヤン総統が戻るまでの時間すら稼げん!」

 

「だからといって降伏か!」

 

「では君は勝てるのか!?」

 

クブルスリーは奥歯を噛み締める。口の中に鉄の味が広がった。勝利の二文字を口にできない己の無力がもどかしい。

 

「勝ち目がないなら降伏もやむなし、だがね。……今は、その時ではあるまい」

 

「ほう。では、高等参事官閣下の崇高なるお考えをお聞かせ願えますかな?」

 

「崇高ではない。むしろ正直で、かなり見栄えの悪い話だ」

 

「シェーンコップ大将の言う通り、我々はまだ負けていない。つまりは反撃に十分な力があるということだ」

 

「な……なるほど……」

 

「不敗のヤン総統がこの事態を聞いて、烈火のごとく反転して戻ってこないわけがない。問題は、彼が戻ってきた時に、我々が何になっているかだ」

 

「何になっているか?」

 

「人質だよ」

 

室内の喧騒が嘘のように掻き消えた。

 

「ロックウェル中将。あなたの頭に帝国軍の銃を突きつけられながら、ヤン総統に退けと脅迫される図を想像したまえ。……嫌だろう?」

 

生唾を飲み込む音が、静寂の中に響く。

 

「…………は?あ……はい。絶対に嫌です」

 

「私も嫌だ。実に嫌だ。私は悪徳政治家だが、敵の交渉材料として首を差し出す趣味はない」

 

「正直な悪徳政治家というのも、なかなか希少種ですな」

 

「希少価値は高いほどよい。さて、分からないのかね?我々が取るべき最善にして唯一の手段は、逃げることだ。ヤン総統の足手まといにならないよう、それも誰よりも素早くね」

 

ロックウェルの視界が、急激に晴れ渡っていく。

 

「……!!逃げましょう!!今すぐに!!」

 

クブルスリーの胸には、拭いきれない葛藤が渦巻いていた。

 

「軍人として、首都を捨てるという選択は……」

 

「捨てるのではない。一時的に預けるのだ。無人の倉庫を占領されても、取り返す時に砲撃しやすい。政府高官、市民、軍関係者の家族が残っていれば、総統は撃てなくなる」

 

「理屈は分かりますな。首都機能を逃がせば、ハイネセンは象徴ではあっても枷ではなくなる」

 

ドーソンの喉が微かに震える。

 

「しかし、市民がパニックを起こせばどうする。数十億の人間が一斉に逃げれば、港湾も航路も麻痺する」

 

「だから、政治家がいる」

 

彼は傍らに立つ少女へ視線を向ける。カーテローゼ・フォン・シェーンコップ、通称カリン。総統警護班の制服を着ているが、すでに別の顔も持つ少女だ。

 

「えーと、カーテローゼ君だったかな?私の演説の準備を。ハイネセンの全ネットだけでいい。放送局に回してくれたまえ」

 

「はい、閣下。直ちに」

 

「小官の娘を顎で使うとは、光栄の極みですな」

 

「彼女は、特高のユリアン君の良い人だそうだからね。将来の権力者に目をかけておくのも、私の大事な仕事だよ」

 

「悪徳政治家の投資感覚ですな」

 

「そうだ。私は長期投資が好きでね」

 

少女の背中が遠ざかる。今は一秒の遅れすら惜しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

【ハイネセン全土ネット】

 

数分後、ハイネセン全土のスクリーン、テレビ、端末に、ヨブ・トリューニヒトの姿が映る。政府公式放送の緊急枠だ。通常なら厳粛な表情で危機を告げる場面だが、彼は最高の作り笑顔を浮かべている。その笑顔が不気味であり、同時に妙に頼もしい。

 

「親愛なるハイネセン市民諸君。私は自由惑星同盟高等参事官、ヨブ・トリューニヒトである。本日は、市民の皆さんにバッドニュースと、グッドニュースを持ってきました」

 

テレビの前で、市民たちが顔を見合わせる。酒場では客が手を止め、家庭では食卓が静まる。避難警報より先に政治家の顔が出るのは、たいてい悪い知らせだ。

 

トリューニヒトはカメラに向かって軽く首を傾げる。

 

「どちらから聞きたいですか? ……なに? 悪いニュースは聞きたくない? いやあ、それは困る。いいニュースを伝えるためには、もれなくセットなんだ。仕方なく聞き給え」

 

市民の何人かが吹き出す。緊急放送でこれをやる政治家は、普通なら信用を失う。だがトリューニヒトは普通ではない。彼は嘘で飾らず、悪い話を悪いまま出す。そこに妙な信頼がある。

 

「悪いニュースは……帝国のマルガレータ・フォン・ヘルクスハイマー元帥が、フェザーンを我が軍の隙を突いて電撃的に占拠し、現在こちらへ向かっているとのことだ」

 

ハイネセン全土がざわめく。

 

「何? 同盟にファンクラブのあるヘルクスハイマー元帥が直々に来るなんて、むしろご褒美だ? ……確かに、彼女は素晴らしい美人だ。ならば、グッドニュースは二つだったかな」

 

酒場の市民が笑う。

 

「相変わらずのクソ政治家だぜ!」

 

別の市民が頷く。

 

「でも、嘘はつかないから信用できるな!」

 

トリューニヒトは表情を引き締める。冗談の後の真顔は、よく効く。彼はその効果を知っている。

 

「残念ながら、現在ハイネセンには彼女の艦隊に対抗する手段がない。第一艦隊は勇敢だ。クブルスリー提督も有能だ。だが、精強な帝国軍三個艦隊を首都上空で迎え撃つには、あまりにも条件が悪い」

 

クブルスリーは会議室でその言葉を聞き、拳を握る。屈辱ではある。だが、正確でもある。

 

「よって、第一艦隊と我々政府は、ハイネセンから全力で逃げることにする!!」

 

全市民がどよめく。

 

その言葉はあまりにも直截だ。撤退でも転進でも疎開でもない。逃げる。政治家が、公衆の前で、そう言い切る。

 

「だが、待ってほしい。ここで画面を消して荷物を詰め始めるのは、話を最後まで聞いてからにしてくれたまえ。グッドニュースは、我らがヤン総統は全くもって健在だということだ。今も回廊の向こう側で不敗記録を更新され、現在怒り心頭でこちらに急行されている」

 

市民の表情が変わる。ヤンが健在。その一言は、あらゆる防空システムより強い。

 

「つまりは、我々はここで一時逃げるだけで、後からヤン総統が必ずハイネセンを取り返してくれるのだ。すなわち、我々のこの後退は、ヤン総統の偉大なる作戦の一部なのだ」

 

言い切り方が堂々としている。実際にヤンがそう命じたわけではない。だが、彼ならそう考えるだろうという政治的確信がある。これは嘘ではない。まだ本人の承認を取っていないだけだ。

 

市民たちは「おお」と声を上げ始める。

 

「我々がここに残り、捕まってしまえば、人質となりヤン総統の足かせとなる。諸君は、自分が総統の足首にぶら下がる重りになりたいか?」

 

画面の向こうで市民が叫ぶ。

 

「嫌だー!」

 

「私も嫌だ。非常に嫌だ。だから立てよ市民たち。いや、立ったらまず荷物をまとめよ。我々と共に逃げるのだ。誘導に従ってくれれば、第一艦隊が殿となって皆の船を守ってくれる」

 

クブルスリーは会議室で目を閉じる。自分の艦隊が、市民の逃亡を守る盾になる。勝てぬ戦いより、はるかに意味がある。

 

「これは、建国の父アーレ・ハイネセンが行った長征一万光年の再来である。同盟は負けはしない。ヤン総統は必ず勝つ。我らは逃げることで、総統の勝利を手伝うのだ」

 

「逃げることは恥ではない。捕まって味方を縛ることこそ恥だ。生きて、動いて、邪魔にならず、次の勝利を待つ。これこそ自由市民の責務である」

 

市民たちの顔に熱が戻っていく。

 

「そして将来、子供たちに自慢しようではないか。あの時、ヤン総統を勝たせたのは、我々の見事な撤退だったのだと」

 

歓声が上がる。

 

「我々は自由惑星同盟!! 自由の国だ。我々は我々の自由のために行動しよう。皆!! 逃げろ!! 逃げたい奴だけ、全速力で逃げるんだ!!」

 

放送が終わる前から、ハイネセンは動き始める。

 

だが、それはパニックではない。奇妙な熱を帯びた秩序だ。

 

市民は爆笑しながら、それでも真剣に宇宙船のチケットを予約する。家族に連絡し、最低限の荷物をまとめ、自治体の避難指示を確認する。輸送港には人が殺到するが、政府がすでに用意していた誘導ルートが機能する。学校は児童を集団移送し、病院は重症患者から優先搬送を始める。

 

「ほら、早くパスポートを持て! ヤン総統の足手まといになったら末代までの恥だぞ!」

 

「急げ急げ! 歴史的な第二の長征一万光年の参加チケットだ!!」

 

「おばあちゃん、薬は持った?」

 

「持ったよ。あんたこそ総統閣下の写真集を置いていきな!」

 

「これは士気維持物資だよ!」

 

港湾では第一艦隊の士官が声を張り上げる。

 

「民間船は第三区画へ! 軍属家族は第五区画! 報道関係者は政府船団へ合流! 勝手な航路変更はするな! ヤン総統の邪魔になるぞ!」

 

その言葉は魔法のように効く。皆、自分たちが逃げているのではなく、作戦行動に参加していると思い始めている。

 

統合作戦本部では、ロボスが太い息を吐く。

 

「見事なものですな」

 

「敵前逃亡を愛国行為に変えるとはね。あの男、腐ってはいるが、腐り方が実に有用だ」

 

「褒め言葉として受け取っておこう」

 

ドーソンはまだ半信半疑だ。

 

「これで本当に市民が動くのか?」

 

カリンが端末を確認しながら答える。

 

「すでに主要港湾の出港予約率が八割を超えています。民間輸送会社は臨時便を増発。自治体ごとの避難誘導も開始。大きな暴動は確認されていません」

 

「第一艦隊は殿を務めます。市民船団が安全圏へ離脱するまで、我々が残る」

 

「頼みます。提督。あなたがここで勝つ必要はありません。ただ、負けずに時間を稼げばよい」

 

「難しい注文ですな」

 

「ヤン総統の部下なら、難しい注文には慣れているでしょう」

 

「確かに」

 

ロックウェルが小さく手を上げる。

 

「私は政府船団の護衛管理に回っても?」

 

「逃げ足だけは早いな」

 

「人質にならないための戦略的撤退です!」

 

「その調子だ。言葉は大事だよ、中将。恐怖を秩序に変えるのは、まず言葉からだ」

 

ハイネセンの夜は明るい。普段とは違う光で満ちている。港の誘導灯、臨時便の航行ランプ、避難船団の信号、軍艦の警戒灯。それらが重なり、星の海へ向けて流れていく。

 

財務委員会のレベロは、政府船団の一角で山のような端末を前にしている。避難という言葉は美しいが、実務は金と燃料と船腹量だ。

 

「輸送会社への支払い保証を即時発行しろ。後で議会に怒られる? 議会ごと逃げている最中だ。怒るなら船の中で怒ってもらえ」

 

「民間銀行から、帝国占領時の口座凍結リスクについて問い合わせが」

 

「全主要データを複製して政府船団へ移せ。紙幣より帳簿だ。帳簿があれば国家は戻れる」

 

「高等参事官から、ランズベルク先生の原稿も優先搬送対象に入れるよう通達が」

 

レベロは一瞬だけ目を閉じる。

 

「……それは文化財だ。入れろ。ただし政府準備金より上には置くな」

 

同じ頃、キャゼルヌは補給担当者たちを怒鳴りつけている。

 

「食料、医薬品、酸素カートリッジ、乳幼児用品を優先しろ! 高級酒や美術品は後回しだ! 誰だ、総統府の観葉植物を避難物資に入れた奴は!」

 

若い官吏が震える。

 

「総統閣下が大切にしているかと……」

 

「ヤンが大切にするのは紅茶と昼寝と年金だ! 植物は後だ!」

 

そこへトリューニヒトから通信が入る。

 

「キャゼルヌ元帥、進捗は?」

 

「市民船団の七割は二時間以内に離脱できます。問題は老人施設と病院、それからペット連れの市民です」

 

「ペットも連れて行きたまえ」

 

「よろしいので?」

 

「市民に家族を捨てさせると、秩序が崩れる。政治とは人間の感情も輸送計画に入れる仕事だ」

 

「たまには良いことを言いますな」

 

「いつも言っている。聞き手が信じないだけだ」

 

放送局では、アナウンサーたちが避難情報を読み上げ続ける。画面の下には港湾ごとの混雑状況、推奨航路、第一艦隊の護衛配置、政府船団の集合地点が流れる。

 

「繰り返します。これは敗北ではありません。ヤン総統の反撃を容易にするための戦略的撤退です。市民の皆さんは落ち着いて、最寄りの避難港へ向かってください」

 

別の画面では、コメンテーターが半泣きで叫んでいる。

 

「つまり我々は逃げることで勝つんです! これはもう、ものすごく同盟らしい!」

 

市民の中には、もちろん不安を抑えきれない者もいる。

 

「本当に戻れるのか?」

 

「帝国が居座ったらどうする?」

 

「ヤン総統は間に合うのか?」

 

そのたび、隣の誰かが答える。

 

「だからこそ邪魔にならないように逃げるんだろ」

 

「捕まったら本当に終わりだ」

 

「総統の足を引っ張るくらいなら、荷物を持って走れ」

 

その言葉が人から人へ伝わり、恐怖は行動へ変わる。

 

高等参事官室へ戻ったトリューニヒトは、演説直後から次の指示を飛ばす。彼に陶酔している暇はない。自分の演説に酔う政治家は多いが、彼は自分の演説を道具として扱う。

 

「政府船団の名称はどうしますか?」

 

若い官僚が尋ねる。

 

「臨時自由政府船団。いや、硬いな。市民向けには第二長征船団でよい。歴史と結びつけた名前は強い」

 

「正式文書もそれで?」

 

「正式文書は後でいくらでも直せる。いま必要なのは、人々が自分の行動を恥ではなく誇りだと思える名前だ」

 

「各船団には、必ず政府代表と軍の連絡将校を乗せろ。逃げるだけの群衆にするな。移動する国家にするのだ」

 

官僚たちは一斉に動く。普段なら根回しと稟議に数日かかる案件が、数分で決まる。非常時の独裁的な指揮は危険だが、今この瞬間には必要でもある。皮肉なことに、民主共和政の首都を救うために、最も独裁的に動いているのはトリューニヒトだった。

 

カリンが戻ってくる。

 

「閣下、放送後の反応です。市民の避難協力率は予測を大きく上回っています。ただし、一部で『ヤン総統を待つ』と言って残留を希望する市民がいます」

 

「説得し給え。いや、説得文を出そう」

 

「追加放送だ。『残って総統を待つ』という市民の気持ちは尊い。しかし、その尊さは帝国軍に人質として利用される。総統を愛するなら、総統の射線から退避せよ、と伝えたまえ」

 

「射線から退避、ですか」

 

「分かりやすいだろう?」

 

「非常に」

 

その追加放送は、思った以上に効く。ヤンを待つと言っていた老人たちも、総統の射線を邪魔してはいけないと言われると、杖をつきながら避難列に加わる。

 

「総統の射線に入るな!」

 

その標語は、数時間で避難港の壁に貼られる。誰が作ったのか分からない即席ポスターには、紅茶カップを片手に困った顔をしたヤンの似顔絵まで描かれている。

 

シェーンコップはそれを見て、腹を抱えて笑う。

 

「総統閣下が見たら、かなり嫌な顔をしますな」

 

「だから効くんだ。市民は、総統を困らせたくない」

 

「もはや宗教ですね」

 

「国家とは、そういうものだ」

 

 

ヨブ・トリューニヒトの前代未聞の演説により、市民の多くはパニックを起こすことなく、第一艦隊の護衛のもと整然とハイネセンを脱出する。

 

敵前逃亡を、愛国的な作戦行動に変える。

 

首都放棄を、第二の長征一万光年へと変える。

 

この手腕は、後に何度も論じられる。悪徳政治家だったはずの男が、同盟中興の祖の一人として歴史に名を刻む最大の理由になる。

 

だが、その評価はまだ先の話だ。

 

 

ハイネセンに到着したマルガレータが、空っぽの星を見て絶句するのは、もう少し後の話である。




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回はトリューニヒトがハイネセン市民を避難させる政治回でした。
悪徳政治家としての彼の演説、市民の反応、第二の長征一万光年という展開について、感想をいただけると嬉しいです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。