銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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皇帝となったアルブレヒトは、アナスタシアへの批判を許さないという苛烈な命令を下す。
その冷酷な裁断の直後、彼はエリザベートの出産へ駆けつける。
血塗られた命令書に署名した同じ手で、新たな命を抱き上げる皇帝。
その日、帝国の未来を背負う皇子が生まれた。


血の命令書と、正義の皇子

【帝都オーディン】

 

アルブレヒトはデスクの奥に身を沈め、感情の欠落した瞳で報告書を見下ろしていた。

ページをめくる乾いた音だけが、等間隔に響く。

 

デスクの正面。内務尚書ハイドリッヒ・ラングは直立不動を装いつつ、胸の前で両手を擦り合わせていた。

 

額には滝のような冷や汗。それでもハンカチを取り出すことすらできず、眼前の覇王からの言葉をひたすらに待つ。

 

アルブレヒトは沈黙を武器にしていた。相手の精神を極限まで削り、圧倒的な優位を確立する。

 

三分。

五分。

十分。

 

ラングの理性が限界を迎えようとした瞬間、アルブレヒトは口を開いた。

 

「……おい、ラング」

 

「は、ははっ!なんなりと!!」

 

「手がうるさい。摩擦熱でここを燃やす気か。火気厳禁だぞ」

 

「も、申し訳ございません閣下!畏れ多くも皇帝陛下の御前にて、過度の緊張と歓喜により手が勝手に……!」

 

ラングは両手を背中に隠し、卑屈な笑みを浮かべる。視界に入れるだけで胸焼けを起こしそうなほどの、どぎつい愛想笑いだった。

 

「で、どうだ。俺が広場で登極の宣言をした時、アナを処刑しろと声を上げた奴らと、その扇動者たちの特定は出来たか」

 

ラングの顔に張り付いていた卑屈な笑みが、自信に満ちた生々しいものへと変わった。治安維持と反体制派の弾圧こそ、彼の独壇場である。

 

「はい。もちろんでございます、陛下」

 

ラングは隠していた手を再び前に出し、ゆっくりと擦り合わせながら語り始めた。

 

「内国安全保障局の監視網、群衆の映像解析を完璧に行いました。あの広場に集まった群衆は数十万の規模。しかし、私にお任せいただいたからには一切の妥協はいたしません。裏通りのネズミ一匹見逃さない情報網を再構築いたしました」

 

「帝都中の監視カメラと中継用ドローンの映像データを集約し、最新鋭のAIによる顔認証システムと読唇術のエキスパートを総動員いたしました。口の動き、声紋、骨格、歩き方の癖に至るまで徹底的にクロスチェックを実施。匿名で群衆に紛れていた卑怯者ども一人一人の身元を、完全に割り出した次第でございます。冤罪なく、百パーセント確実に確認できております」

 

だが、アルブレヒトの反応は薄かった。

 

「そうか。ご苦労」

 

「はっ!ありがたき幸せにございます!」

 

アルブレヒトは報告書を無造作に掴み、机の端へ放り投げた。数枚が床に舞い落ちるが、意に介さない。

 

「処刑しろ。本人だけではない。家族、親類、すべてだ。根絶やしにしろ」

 

ラングの手の動きが止まる。

 

「……へ?」

 

間の抜けた声が漏れた。

 

「ん?」

 

「ええっと……」

 

ラングは己の耳を疑う。弾圧や処刑は日常茶飯事だ。しかし、今下された命令は彼の常識を遥かに超えていた。

 

「も、申し訳ございません、陛下。私の耳が少し遠くなっているのかもしれません。今、なんとおっしゃいましたでしょうか。あの不敬極まりない扇動者どもをギロチン送りにする、というところまでは理解できたのですが……」

 

「本人だけではないと言っている。家族、親類、すべてだ。根絶やしにしろ」

 

「…………」

 

ラングの顔から血の気が失せる。

自信も、卑屈な笑みも剥がれ落ちた。

 

「……すべて、でございますか」

 

「リストの中には、老人や、まだ物心もつかぬ赤子、女たちも含まれております。それらもすべて、例外なく、ということでございますか」

 

通常であれば首謀者と直系の家族で終わる。親類縁者まで含めれば、処刑される数は桁違いに跳ね上がる。数百、数千の血が流れる。

 

ラングでさえ、その無差別な虐殺には逡巡した。

 

「俺は既に命令を下したぞ」

 

ラングの背筋に悪寒が駆け抜けた。ここで少しでも反論すれば、己の命が消える。本能がそう告げていた。

 

「はっ!!直ちに手配いたします!!今すぐ、ただちに、一人残らず!!」

 

「非道は一度に終わらせる」

 

「その点において、アナは完全に正しい。チマチマと小出しに弾圧を繰り返せば、民衆の恨みは蓄積し反乱の火種となる。やるなら一息に、徹底的に、息の根を止めるまでやらなければ意味がない。これで、帝国において俺に逆らうものは、もはやおるまい」

 

平伏したままのラングが、恐る恐る口を挟んだ。

 

「……陛下。差し出がましいようですが、恐怖というものは長続きしないものでございます。過度な弾圧と恐怖政治は一時的に反抗を抑え込みますが、長期的には必ずや反発を生む土壌となります。歴史がそれを証明しておりますが……」

 

為政者としては真っ当な懸念だった。

しかしアルブレヒトは振り返りもせず切り捨てる。

 

「勘違いするな、ラング。俺は、民衆のすべてを恐怖で支配しようなんていう面倒な真似をするつもりは毛頭ない」

 

「は?では……」

 

「ただ、アナスタシアへの批判に対する恐怖だけでよい」

 

「俺の愛する妻を傷つけること、彼女を批判すること、彼女に触れること。それに対する恐怖だけを、帝国の臣民全員の骨髄の底まで徹底的に植え付けろ。アナの悪口を言えば、親戚一同すべてがこの世から消滅するという絶対のルールを刻み込むのだ。税金が高いだの、労働環境が悪いだのといった内政不満については、俺の手腕でコントロール出来る。ガス抜きの手法などいくらでもある」

 

妻への批判には一族郎党の皆殺しをもって報い、政治不満には真摯に対応する。極端すぎる統治の方針だった。

 

「承知いたしました。陛下のご意思のままに、完璧に執行いたします」

 

「念を押しておくぞ、ラング」

 

「情に流されて、物心つかない赤子だから見逃すなどということが絶対にないようにせよ」

 

「はっ」

 

「甘い対応は命取りになる。その生き残った赤子が成長し、復讐のために王朝を打倒しにくる展開は歴史上に腐るほどある。生存者の怨念が奇跡を起こす確率はゼロではないのだ」

 

「……ははっ。そのような事態は根元から絶ち切っておきます」

 

ラングは額の汗を拭いながら頷いた。

 

「はっ!……しかし、よろしいのですか」

 

「何がだ」

 

「皇后陛下の処刑につきましては、リストにある扇動者たちだけではございません。帝国宰相であるロイエンタール元帥、そして軍務尚書であるリューネブルク元帥も、かつて閣下にアナスタシア様の処刑を行うようにと進言したと聞き及んでおりますが……」

 

政敵を蹴落とそうとする卑劣な野心が透けていた。

 

「事実だ。あいつらは確かにそう言った」

 

「法の平等と恐怖の徹底を敷くのであれば、たとえ元帥であろうと例外ではないはず。彼らもまた、皇后陛下を害そうとした者として粛清の対象となるべきでは。それをお見逃しになるのは示しがつかないのでは」

 

末端を根絶やしにするのであれば、大元である側近も処罰しなければ筋が通らない。

 

「ロイエンタールは俺の半身だ。リューネブルクは俺の右腕だ」

 

「……はい?」

 

「お前は馬鹿か、ラング」

 

「いいか。お前が道を歩いていて、石につまずいて転びそうになったとする。その時、とっさに手が前に出て地面をつき、顔面を打つ防いでくれた。お前はその後、なぜ俺の許可もなく勝手に動いたんだと怒って、自分の手を切り落とすのか」

 

「えっ……いや、それは……」

 

「彼らがアナの処刑を進言したのは、帝国と俺の地位を守るためという彼らなりの正当な手当てだ。やり方はともかく、彼らは俺という体を守るために機能した手足に過ぎない。俺の手足を、俺自身が切り落とす理由がどこにある。法の下の平等?そんなものは俺の都合の良いように書き換えれば済む話だ」

 

ラングは己の思慮の浅さを悟り、床に額を激しく打ち付けた。

 

「出過ぎた事を申しました!浅知恵でお耳を汚し、誠に申し訳ございません!平にご容赦を!!どうか私の顔面を地面に打ち付けさせてください!!」

 

錯乱したような謝罪を口にするラング。

アルブレヒトは面倒そうに手を振った。

 

「良い。気にするな。体制の矛盾への気付きや問いはいつでも俺に言え。それをもって不敬の罪として首をはねるようなことはしない。俺は寛大な男だからな。……行け。血の掃除を頼むぞ。リストに載っている連中を一人残らず片付けろ」

 

「はっ。御意のままに!!」

 

ラングは弾かれたように立ち上がり、後ずさりしながら執務室の扉を開け、廊下へと逃げていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

扉が閉まり、静寂が戻る。

部屋の隅、闇の中から人影が音もなく進み出た。

 

軍務尚書、リューネブルク元帥。

彼は一切の気配を絶ち、今のやり取りを見守っていた。

 

「……聞いたか、リューネブルク」

 

「はい。一言一句、すべて漏らさず」

 

その顔には、先ほどのラングの無様な姿に対する呆れが滲んでいる。

 

「あの男はああいう奴だ。隙あらば他人の足元をすくい、自分の権力の限界を探ろうとする。気を抜けば寝首を掻きにくる、実に分かりやすい俗物だ。好ましいじゃないか」

 

リューネブルクは僅かに息を漏らし、肩をすくめる。

 

「俗物だから波長が合うのですかな。類は友を呼ぶ、と言いますから」

 

「ハハハ!違いない。だがな、あれでただの無能であれば適当な理由をつけて切り捨てるのだが、腹立たしいことにアイツは有能だ。汚れ仕事を任せれば期待以上の成果を出す。せいぜい、俺の手足として限界までこき使ってやるとしよう」

 

「……いずれ、用済みになった暁には切り捨てますか」

 

「あいつが俺に従い、役に立っているうちはしないさ。アナがわざわざ実行役に選ぶだけの能力と残忍さがある男だ。俺はアイツを最後まで使いこなしてみせる。それが上に立つ者の度量というやつだろ」

 

そこにあるのは、他者を駒として使い潰すことを躊躇わない権力者の貌だった。

リューネブルクは主君を見つめ返し、軍服のポケットから銀色の懐中時計を取り出した。

 

「……陛下」

 

「ん?なんだ」

 

「それは誠に立派なお覚悟でよろしいのですが、そろそろお時間では」

 

「……時間?」

 

首を傾げる。

リューネブルクは時計の文字盤を指差した。

 

「はい。ご予定の時刻です」

 

アルブレヒトは壁の時計と懐中時計を交互に見比べる。

 

「あっ!!!」

 

「そうだった!!時間だ!!」

 

冷酷な覇王の面影は吹き飛び、完全に焦燥しきった父親の顔に変貌していた。

 

「あとは頼むぞリューネブルク!!適当にやっておいてくれ!!」

 

「はっ?」

 

「待ってろエリザベートちゃん!!!パパがいま行くからねぇぇぇ!!」

 

彼は執務室の扉を蹴り開け、猛然と宮殿の奥へ走り去っていく。その背に皇帝の威厳は微塵もなかった。

 

「あの方は、皇帝になっても変わらないのか。……それとも、変わってしまったのに、変わらないと自ら無理に信じ込もうとしておられるのか……」

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

【ノイエサンスーシ 特別分娩室】

 

皇帝の私室エリアに隣接する最新鋭の医療ブロック。

その最奥にある特別分娩室。

 

純白のシーツに包まれたベッドの上に、一人の女性が横たわっている。

エリザベート。

 

かつて帝国の頂点に立つ共同皇帝として玉座に座らされ、後にその座を追われた廃位された元皇帝。

 

今の彼女はただ一人の疲れ果てた母親だった。

それでも彼女の腕の中には、生まれ落ちたばかりの小さな命が抱かれていた。

 

「おぎゃあ!おぎゃあぁぁぁぁっ!!」

 

しわくちゃの顔で口を大きく開け、手足を動かしながら、赤子は力強い産声を上げている。

その声を聞くたび、エリザベートの胸の奥底から言葉にできない温かい感情が湧き上がる。

 

愛おしい。

守りたい。

自分の命に代えても、この小さな存在を慈しみたい。

 

「よしよし、いい子ですね……。元気に泣いて、偉いですよ……」

 

震える細い指先で赤子の頬を撫でる。

 

伝わる体温に、目から涙がこぼれ落ちた。無事に出産を終えた安堵と、新しい命に出会えた歓喜。

 

周囲を取り囲む帝国最高の医療チームも、その光景を前に胸を撫で下ろし、目頭を押さえている。

 

室内の空気は新しい命の祝福に満ちていた。

誰もが、この静寂が続くことを祈っていた。

 

直後、物理的な破壊音が空間を粉砕した。

 

轟音が響き渡る。防爆仕様の合金製の扉が、外側からの凄まじい衝撃で蝶番ごと吹き飛ばされ、壁に激突してひしゃげた。

 

「ひっ!?」

 

「な、なんだ!?テロか!?」

 

「敵襲か!?近衛兵を呼べ!!」

 

突然の事態に医療スタッフたちは恐慌状態に陥る。エリザベートも身を震わせ、咄嗟に赤子を抱きしめて毛布を被せた。

 

立ち込める粉塵の向こうから、猛烈な足音が近づいてくる。

そして、粉塵を切り裂いて一人の男が室内に飛び込んできた。

 

「エリザベートぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」

 

鼓膜を打つ大音量。

顔面を涙と汗で濡らし、軍服のボタンを引きちぎり、マントを破いた状態で息を切らしている男。

 

第38代皇帝アルブレヒトその人であった。

 

「へ、陛下!?」

 

「ひぃぃっ!皇帝陛下ご自身が!?」

 

医療スタッフたちが腰を抜かしてへたり込む。

 

だがアルブレヒトの視界には周囲の人間など入っていなかった。彼の目はベッドのエリザベートと、腕の中の赤子だけを捉えている。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……!間に合ったか!?いや、終わってるな!産まれてるな!」

 

「でかした!でかしたぞ、エリザベート!!」

 

歓喜に声を震わせ、両腕を天に突き上げる。

 

「無事に産まれたか!!男か!?女の子か!?いや、どっちでもいい!どっちでも最高だ!!うおおおおおおおっ!!俺の子供だ!!俺とエリザベートちゃんとの愛の結晶だぁぁぁぁっ!!」

 

「おぎゃあ!おぎゃあぁぁぁぁっ!!」

 

大声に驚いたのか、赤子がさらに声量を上げた。

 

「おおっ!いい声だ!元気いっぱいじゃないか!さすがは俺の子供だ、肺活量が帝国規格外だぞ!!医者!お前らよくやった!全員に特別ボーナスだ!年俸の百倍を支給してやる!!あとでラングのところに行って金をもらってこい!!」

 

「ひゃ、ひゃくばい!?」

 

「あ、ありがとうございます陛下ぁぁぁっ!!」

 

桁外れの恩賞に、怯えていたスタッフたちも手のひらを返し、歓喜の涙を流して平伏する。

 

「本当によく頑張ってくれた!痛かっただろう、苦しかっただろう!代わってやれなくてごめんな!!でも本当にありがとう!!俺は今、宇宙で一番幸せな男だ!!」

 

「アル、様……」

 

エリザベートは嬉しさと恥ずかしさの入り交じった笑みを浮かべる。

 

「本当に、無事でよかった。母子ともに健康なんだな。どこか具合が悪いところはないか。少しでも痛いところがあったらすぐ言えよ、世界中の名医を首に縄をつけてでも引っ張ってくるからな」

 

「大丈夫です……少し疲れただけですから。それに、ほら……元気な男の子ですよ」

 

エリザベートは赤子をそっと差し出す。

アルブレヒトは息を呑み、壊れ物を扱うように震える手で受け取った。

 

「おお……おおお……!男か……!そうか、男の子か!!」

 

「でかしたぞ、エリザベート!!無事に男の子を出産したか!!この子は間違いなく俺の跡継ぎだ!!次の銀河帝国を背負って立つ、偉大な次期皇帝の誕生だぞ!!」

 

彼にとっては何の疑いもない、心からの喜びの発露だった。愛する女性が産んだ男の子なのだから、当然跡を継ぐ皇太子になる。絶対的な真理として完結していた。

 

しかし。

跡継ぎという言葉を聞いた瞬間、エリザベートの肩が大きく震えた。

 

「……え?」

 

異変に気づいたアルブレヒトが首を傾げる。

エリザベートは直視できず、悲しげに目を伏せシーツを握りしめた。

 

「……アル様」

 

「なんだ。どうした、エリザベート。やっぱりどこか痛むのか。医者!早く診ろ!」

 

慌てるアルブレヒトを、エリザベートは力なく首を振って遮った。

 

「違います……体は、大丈夫です。ただ……」

 

「ただ?」

 

「……私のような……罪人の産んだ子を、皇太子として、本当によろしいのですか」

 

生まれたばかりの赤子の未来を母親自身が否定する発言だった。

しかし彼女にとっては避けて通れない事実だった。

 

「私のような、かつて国を乱し、玉座から引きずり下ろされた元皇帝。帝国の歴史に汚点を残した大罪人である私が産んだ子供が、次期皇帝として玉座に座るなど……帝国の民が、貴族たちが納得するはずがありません」

 

自虐というより諦念だった。

 

「アナ姉様が産んだ、あの聡明で可愛らしいカタリーナを次期女帝とするか……あるいは、正統な皇后であるアナ姉様が次に産むであろう男の子を嫡男としたほうが……絶対に、帝国のためには……」

 

彼女なりの国家論であり、我が子を政争の具にしたくないという悲痛な願いだった。

 

だが。

その悲壮な決意は、アルブレヒトの逆鱗に触れた。

 

「……黙れ」

 

空気が圧死するほどの恐ろしい変化に、エリザベートは心臓を鷲掴みにされたような恐怖を覚える。

 

「ひっ!」

 

顔を引きつらせ、ベッドで後ずさろうとするが体が動かない。

アルブレヒトは赤子をベビーベッドに隙のない動作で寝かせると、ゆっくりと振り返りエリザベートを見下ろした。

 

「……おい」

 

「俺に命令するのか。エリザベート」

 

怒りではなく、純粋な疑問と圧力が込められていた。

 

「い、いいえ……」

 

恐怖の涙が溢れ出す。

震えながら必死に首を振った。

 

「違います……決して、そのような、おこがましいことは……。私は……私は、廃位された罪人です。貴方のただの臣下に過ぎない、つまらない女です……。だから、貴方や、アナ姉様の邪魔になりたくなくて……っ」

 

「……違う」

 

短く吐き捨てるとベッドに身を乗り出し、顔を近づける。

エリザベートの細い顎を強引にすくい上げた。

 

「あ……っ」

 

逃げ場を失い、視線を合わせられる。

 

「違うと言っているんだ、エリザベート」

 

「お前は罪人なんかじゃない。俺の臣下でもない。……お前は、俺の妻だ」

 

「……え?」

 

「アナも、サビーネも、お前もだ。世間がどう言おうと、法律がどうなっていようと関係ない。お前たちは等しく、この俺が命を懸けて愛する、俺の妻だ。誰一人として優劣なんてないし、日陰者なんかにもしない」

 

アルブレヒトは本気だ。一ミリの疑いもなく信じ込んでいる。だからこそ、有無を言わせぬ絶対的な説得力と暴力的な圧力が伴っていた。

 

「だから、お前はただ俺の言うことだけに従っていればいいんだ。自分が罪人だとか、国のために身を引くとか、そんな余計な政治の心配など、お前が一秒たりともする必要はない。お前はただ、俺の妻として、俺の子供の母親として、俺に守られながら幸せに笑っていればいい。……分かったな」

 

「……っ」

 

「はい……」

 

顎を掴まれたまま、涙声で深く頷いた。

 

「はい、アル様……。私、余計なことはもう言いません……。貴方の妻として……貴方に、従います……」

 

その返事を聞き、アルブレヒトの瞳から狂気が嘘のように引いていった。

 

「……よし。いい子だ」

 

満足そうに口角を上げると手を離し、今度は彼女の涙で濡れた頬を慈しむように撫でた。

 

温度差の激しさに、周囲のスタッフたちは息を潜めて見守ることしかできない。

アルブレヒトは立ち上がると、手足を動かしている赤子の元へ歩み寄り、再び抱き上げた。

 

「いいか、エリザベート。政治のことは俺がすべて完璧に整える。だから安心しろ」

 

赤子の頭を撫でながら、日常会話のような口調で国家の未来を語り始める。

 

「アナのところのカタリーナはな、いずれあのラインハルトの息子の嫁にするつもりだ。あいつら歳も近いし、顔の作りも良いから絶対にお似合いのつがいになる。これで文句は言えまい。完璧な政略結婚だ」

 

「まあ……カタリーナちゃんが、アレクサンデル様と……」

 

エリザベートは涙を拭いながら相槌を打つ。

 

「そうだ。そして……」

 

「この子は俺の血を引く正統な後継者として、次期皇帝になる。……最初からそう決まっていたことだ。誰の反対も許さない。反対する奴がいれば、一族郎党すべて物理的に消し飛ばすだけのことだ」

 

「………はい。貴方の、お心のままに」

 

逆らう意思は微塵も残っていなかった。この温かくて狂った檻の中で、家族と共に生きていくことだけを望んでいた。

 

「さーて!」

 

「跡継ぎの問題はクリアしたとして、次は一番大事なミッションだ。名付けだ、名付け!名前はどうしようかな。色々考えてはいたんだけど、いざ顔を見ると迷うな」

 

赤子をあやしながら室内を歩き回り始める。

 

「やっぱり、皇帝っぽくて強そうな名前がいいよな。例えば……そうだな、ギガント・ブレード・ドラグーンとかどうだ。必殺技みたいでかっこよくないか」

 

「えっ……」

 

「いや待てよ、それだとやりすぎか。じゃあ、アルティメット・エンペラー・ゼウスとか!神の力で銀河を統べる感じが出てて良くないか」

 

「あ、あの……アル様。それはちょっと……」

 

あまりのネーミングセンスに、絶対服従を誓ったエリザベートでさえ引き攣った笑みで返してしまう。

 

「なんだよ、不服か。じゃあエリザベート!何か候補はあるか。お前が身ごもっている間に考えていた名前とかないのか」

 

話を振られ、おずおずと口を開く。

 

「私など、とても次期皇帝のお名前を決める権利は……」

 

「権利なら今俺が与えた。言ってみろ」

 

「は、はい……あの、それでしたら……」

 

頬を染めながら、胸の中に温めていた名前を提案した。

 

「ヴィルヘルム、というのは……いかがでしょうか」

 

「ヴィルヘルム?」

 

「はい。強くて、賢くて、優しい子に育ってほしいという願いを込めて……響きも美しいですし、伝統的な帝国の名前ですから……」

 

期待を込めた上目遣いでアルブレヒトを見る。

しかしアルブレヒトは少し考えてから、あからさまに顔をしかめた。

 

「ん〜……ヴィルヘルム、かぁ……」

 

「あ、あの、お気に召しませんでしたか」

 

「いや、名前自体は悪くないんだが……ちょっと問題があるな」

 

「ヴィルヘルムって言うとさ、どうしてもあのオッサンを思い出しちゃうんだよな。サビーネの親父さん、リッテンハイム公爵の名前と同じじゃないか」

 

「あ……」

 

エリザベートはハッとして口を押さえた。同じ帝国の大貴族であり、もう一人の妻であるサビーネの父親の名前だった。

 

「あのおっさん、見栄っ張りで金に汚くて、すぐ調子に乗るから俺はあんまり好きじゃないんだよなぁ。俺の息子が金ピカおっさんと同じ名前っていうのは、ちょっと角が立つというか、イメージが似てしまうから嫌だな。却下だ、却下」

 

「も、申し訳ありません、私としたことが、そこまで気が回らず……」

 

「気にするな。よし、俺がもっと最高の名前を考えてやる」

 

再び腕組みをし、赤子の顔をじっと見つめながら唸り始める。

 

「強くて、賢くて、優しい……それに加えて、俺の血を引く絶対的な正義を体現するような名前……。正義……公正……正しい……」

 

濁りのない瞳の中に、自分の思い描く帝国の未来の姿を重ね合わせた。

そして、何かが閃いたように指を鳴らす。

 

「よし!決まったぞ!!」

 

「えっ、どのようなお名前に……?」

 

「ユストゥスだ!正義と公正を意味する言葉!この子の名前は今日から、ユストゥス・ライン・フォン・ファルケンハインだ!!」

 

「ユストゥス……」

 

「ユストゥス……。とても、響きの良い、力強いお名前ですね」

 

エリザベートの顔に柔らかな笑みが浮かんだ。

 

「だろ!?俺のネーミングセンスも捨てたもんじゃないな!!よーしユストゥス!お前は今日から帝国のトップだぞー!悪いやつはパパが全部処刑してやるからなー!!」

 

ユストゥスは未来に待ち受ける重責も、父親の血塗られた所業も知る由もなく、ただ無邪気に笑い声を上げていた。

 

血塗られた大量粛清の命令書にサインをしたその同じ手で。

皇帝は今、新たな命を優しく抱き上げ、父親としての顔を見せている。




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回はアルブレヒトの恐怖統治、エリザベートの出産、そして皇子ユストゥスの誕生を描きました。
冷酷な皇帝と父親としてのアルブレヒトの落差、エリザベートの心情、ユストゥスの命名について、感想をいただけると嬉しいです。
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