銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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キルヒアイス公国は、帝国と共和国という二大勢力に挟まれた小国である。
数で劣る公国が生き残るために必要なのは、兵站と速度だった。
マルガレータは早朝から民間企業ツィマッド社を視察し、公国の未来を変える新型推進器と出会う。


土星の翼、フェザーンに生まれる

【フェザーン】

 

かつて宇宙の経済と情報の中心として自治領主たちが暗躍したこの欲望の渦巻く惑星は、現在、銀河帝国と自由惑星同盟を隔て、あるいは繋ぐ巨大な独立国家としての顔を強めている。

 

現在時刻、午前四時。

人工的なネオンの光が星々の瞬きを掻き消している。昼夜を問わず莫大な物資と金が動くこの星であっても、歓楽街や二十四時間稼働の工場群を除けば、束の間の静寂に包まれる時間帯だ。

 

厳重な警備網に守られた公王宮殿の奥深く。

 

空調システムによって完璧に管理された室内。特注品の家具が並ぶ豪奢な空間の中央に鎮座する、十人が余裕で寝転がれる天蓋付きベッド。

 

公王マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーは、一糸まとわぬ状態で、シーツも掛けずにベッドを占拠し、盛大ないびきを奏でている。

 

手足は限界まで広げられ、口元からは一筋の涎が垂れている。見事なまでに無防備な状態だが、そこに色気を見出すのは至難の業であった。ただただ、野生動物の死骸のような有様である。

 

侍従はクリップボードを持ち、涎を垂らす最高権力者を、道端の不燃ゴミを査定するような視線で見下ろしている。

 

「……起きてください。公王陛下、起きてください」

 

しかし、マルガレータは呼びかけに応じない。だらしなく口元を緩め、何かを呟き始める。

 

「むにゃむにゃ……ジーク……オーベルシュタイン……」

 

「ほう……妾を二人がかりで抱こうとは……ふふっ、殊勝な心がけじゃ……」

 

この公王は、真面目一徹な赤毛の青年と、無慈悲な義眼の参謀を両手に花状態にして、卑猥な夢を見ているらしい。

 

「ジーク、情熱的に妾を愛でるがよい……。オーベルシュタイン、お主はその義眼で妾のあられもない姿を観察するのじゃ……ふふふ……よいぞ、もっと妾を……」

 

寝言はエスカレートし、身をよじり始める。

 

「倒錯した夢にも程があります!」

 

「公王としての威厳以前に、一人の人間としての尊厳を疑うレベルです。さっさと起きてください」

 

マルガレータは肩を震わせるが、目は覚まさない。寝ぼけ眼のままシルクのシーツを引っ張り、頭からすっぽりと被って身を丸める。

 

「…………あと………二時間……」

 

シーツの中から、休日の小学生のような声が漏れる。

 

「二時間後には、公王陛下は既に現地にいなければならない時間です。もう四時なのですよ。今日は早朝から、民間の企業の視察をすると、公王陛下ご自身がスケジュールにねじ込んだのではないですか」

 

しかし、シーツにくるまったマルガレータは唸るだけで起き上がる気配を見せない。

 

「昨夜、遅くまでワインを飲んでくだらないホログラム映画など見ているからこういうことになるのです。自業自得という言葉をご存知ですか。ご存知ないなら今すぐ辞書を引いて差し上げます」

 

「まったく……少しは公王配殿下の爪の垢でも煎じて飲んでいただきたいものです」

 

彼は慈悲の欠片もない瞳で、ベッドの上にはみ出しているマルガレータの無防備な尻に狙いを定める。

そして。

 

「起きろと言っているのがわからないのですか!!」

 

容赦のない前蹴りが、マルガレータの尻にクリーンヒットする。

 

「いったーーーーーッ!?」

 

悲鳴を上げ、蹴られた勢いのままベッドの上を転がり、そのまま床に向かって頭から落下する。鈍い音とともに、見事な顔面着陸を決める。

 

「き、貴様ぁぁぁっ! なにをするのじゃ!!」

 

「公王たる妾の尻を、あろうことか蹴り飛ばすとは……! 不敬罪じゃ! いや、大逆罪じゃ!! 即刻銃殺ものじゃぞ!!」

 

激痛のあまり涙と鼻水を流しながら、マルガレータは全裸でわめき散らす。

しかし、侍従はそんな彼女の抗議など全く意に介さず、淡々と返す。

 

「おや、ようやくお目覚めになったようですね。おはようございます。さあ、すぐにお着替えです。時間が押していますので、早くしてください」

 

「お、お主……妾の言葉が聞こえなかったのか!? 銃殺じゃぞ! クビを物理的に飛ばしてやる!!」

 

「ぐだぐだ言っていないで立ってください。風邪を引きますよ。それとも、まだ床の絨毯の感触を味わっていたいのですか?」

 

「ぐぬぬぬ……。この無礼な平民め……。いつか絶対に後悔させてやるのじゃ……」

 

文句を言いつつ、差し出されたバスローブを羽織るが彼の眼は完全に座っている。

 

「……訂正をお願いします、陛下」

 

「あん?」

 

「僕は由緒正しき伯爵家の次男です。間違えないように。どこにでもいる平民の出だと思われたら、実家の父や兄が悲しみますので」

 

「お、お主、貴族じゃったのか……」

 

「道理で態度がデカいわけじゃ……。てっきり、フェザーンの路地裏で拾ってきた無礼で優秀な平民だとばかり思っておったわ」

 

「もし僕が本当に一般の平民であったなら、このような過酷で理不尽な労働環境、しかも主君が自堕落の極みであるこの職場など、とっくの昔に神経をすり減らして辞めています」

 

「伯爵家というプライドと、ノブレス・オブリージュという責任感があるからこそ、こうして陛下の尻を蹴り飛ばしてでもスケジュールを管理するという汚れ仕事を引き受けているのです。感謝していただきたいですね」

 

「……お主、本当に口が減らないのう」

 

「ふむ……。痛い思いをして起きたのだ、それなりの成果は出さねばならん。今日視察に行く民間配送企業のことじゃが」

 

「はい。企業の規模、将来性、技術力、社員の素性など、すべてこちらで事前に調査し、選定を進めております」

 

「ご苦労じゃ。我々キルヒアイス公国は、帝国や共和国という二つの超大国に挟まれた緩衝地帯に位置しておる。そして、軍事的な艦艇の数や兵力では、彼らには到底及ばない。これは歴然たる事実じゃ」

 

「であるから、我々は武力で正面から殴り合うのではなく、経済的に戦うのが上策。フェザーンというかつての経済の中心地の地の利を生かし、資本と物流を完全に掌握し、公国独自の強力な流通網を敷くこと。それが生命線となる」

 

「その通りです。兵站を制する者が戦争を制する。古からの鉄則ですね」

 

「だからこそ、公国の手足となって動く、強力な御用達の流通・開発業者の選定は急務なのじゃ」

 

「リストは夕べのうちに確認しておる。お主が作成した報告書じゃからな、抜かりはないじゃろうが。最終候補に残った二社のうち、そちらの『ツィマッド社』が第一候補だと思っておるが、間違いないか?」

 

「そうですね。対抗馬である『ジオニック社』も、資本力や技術力においては全く捨てがたい優秀な企業ですが……どうにも連中は、企業の思想に問題があります」

 

「思想、じゃと?」

 

「ええ。彼らは物流やインフラ整備よりも、純粋な兵器開発の思想の主張が強すぎるのです。彼らの提出したコンペの企画書には、輸送船の提案の裏に、明らかに人型の巨大機動兵器への転用を前提としたような、怪しげな設計思想が見え隠れしていました。……確か、『ザク』とかいう頓狂な名前の開発コードまで記載されていましたよ」

 

心底呆れたように肩をすくめる。やはり全く敬意は感じられない。

 

「人型兵器じゃと? ばかばかしい。宇宙空間での戦闘において、人型であることの合理的なメリットなど皆無じゃろうに。被弾面積が広がるだけで、ただの的じゃ」

 

まったくもってその通り、しかしロマンはあるかもしれない。

 

「おっしゃる通りです。それに何より、そのような好戦的でマッドサイエンティスト気味な連中が、工部尚書であるヒルデガルド閣下とうまくやれるはずがありません」

 

その指摘に、マルガレータは手を打たずにはいられない。そうでしょうとも。

 

「ああ、なるほど。生真面目なヒルダが、そんなロマン全振りの兵器オタクどもの相手をさせられたら、間違いなく過労で倒れてしまうな。彼女にはただでさえ苦労をかけておるのだ、これ以上のストレス源は排除すべきじゃ」

 

「というわけで、消去法も含めて、より実直に推進器と機動力に特化した開発を行っているツィマッド社を第一候補として推奨いたします」

 

「うむ。ならば、まずはツィマッド社のドックの視察じゃな。善は急げ、出かけるぞ」

 

マントを翻して部屋を出ようとかっこつけるもののすかさずにツッコミが入るのは様式美であろう。

 

「お待ちください。まだ朝食を召し上がっていません」

 

「ええい、構わん! 視察先の企業で出されるであろう高級なコーヒーと茶菓子で済ませるわ!」

 

「……タダ飯食らいの公王というのも、情けない話ですね」

 

「うるさいわ!」

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

【ツィマッド社 ドック】

 

一行が政府専用車に揺られること数十分。

 

ツィマッド社の民間ドック施設に到着した。

 

「公王陛下、万歳!!」

 

「マルガレータ様、万歳!!」

 

文言ってみると驚きだ。広大な格納庫に、ツィマッド社の社員が文字通り総出で整列しているではないか。数千人規模の作業着姿の社員たちが、一糸乱れぬ動きで最敬礼をし、色とりどりの横断幕を掲げている。

 

その横断幕には、『歓迎・銀河一の美貌を誇る公王陛下!』『ツィマッド社は公国と共に!』などという、歯の浮くような文句が踊っている。実に痛い。

 

そして、その社員たちの先頭に立ち、満面の媚びへつらった笑みを浮かべている小太りの男が、両手を擦り合わせながらマルガレータに擦り寄ってくる。

 

「これはこれは公王陛下!! 我がツィマッド社のようなしがない町工場へ、よくぞ足をお運びくださいました! 社員一同、感涙の極みにございます!!」

 

「ほう。なかなか盛大な歓迎ではないか」

 

マルガレータは満更でもない様子だ。彼女はこういう分かりやすいおだてに滅法弱い。

 

「ハッハッハ!! 良い良い! 面を上げい! もっと妾を讃えるのじゃ!! 妾の美しさに平伏すがよい!!」

 

「よっ! マルガレータ様!! この銀河の星々すら霞むほどの圧倒的美貌!! 惚れる! 憧れる!! キルヒアイス公国万歳!! 桃色竜騎兵万歳!!」

 

完全にアイドルのコンサート会場のようなノリである。

 

そのくだらない茶番劇を、一歩後ろに控える侍従は、絶対零度の目で見つめている。よく飽きないな。と。

 

「……で」

 

「調子に乗る頭の軽い公王はほっといて、そろそろ本題に入りましょうか、社長」

 

「えっ……あ、はい」

 

「我々は貴社のお遊戯を見に来たわけではありません。この視察の目的は、事前に提出していただいた新型の輸送船『ヅダ』と、その心臓部についての確認です。さあ、案内してください」

 

その威圧感に、社長は冷や汗を流し、おだてをやめてしまった。マルガレータは後ろで抗議しているが、彼は完全に無視している。

 

社長は咳払いをして、一転して技術者としてのプロの顔に切り替わる。

 

「承知いたしました。では、こちらへどうぞ」

 

社長に案内され、一行はドックの最深部にある特別格納庫へと足を踏み入れると、そこには、巨大なクレーンに吊り下げられた、異様な存在感を放つ宇宙船が鎮座していた。

 

「これが、我が社が社運を懸けて開発した新型の高速輸送船『ヅダ』でございます」

 

「そして、この船の真骨頂は、後方に搭載されたこの巨大な新型推進器にあります。我々はこれを、通称『土星エンジン』と呼称しております」

 

「土星エンジン……」

 

ノズルを見上げる。巨大だ。通常の輸送船の1.5倍はある。

 

「はい。従来の推進器とは次元の違う出力を誇る、画期的なエンジンです。これにより、ヅダは通常の輸送船の1.4倍の航行速度を出すことが可能になります」

 

「1.4倍、ですか」

 

この数字には少し驚く。明らかな技術革新かもしれない。

 

「それはすごいですね。宇宙空間での移動において、速度が1.4倍になるということは、単に到着が早くなるというだけではない。敵の通商破壊艦隊からの逃走率が跳ね上がり、兵站の回転率が劇的に向上する。物流の概念そのものが変わる数字です」

 

「その通りです! この土星エンジンさえあれば、我が公国の物流網は、帝国や共和国のそれとは比較にならないほどの効率性を獲得できます!」

 

しかし、そううまくいくものか?マルガレータは鋭い視線を社長に向ける。

 

「……待て。話が美味すぎるのう」

 

「は?」

 

「それほどの高出力を誇るエンジン。……安全面はどうなんじゃ? 速度が出すぎて、航行中にエンジンが暴走し、荷物が船もろとも一緒に宇宙の塵として爆散します、となれば元も子もないが……」

 

その指摘は的を射ている。強すぎる推進力は、船体のフレームに致命的な負荷をかけるに違いない。

 

だがその質問は想定されていたのだろう、彼は目を輝かせる。

 

「ご安心下さい、陛下。当初のテスト段階では、確かにその空中分解の懸念もございました。出力に船体が耐えきれず、バラバラになりかけたことも一度や二度ではありません」

 

「おいおい、やっぱりか」

 

「ですが! 我々はその問題を技術で克服いたしました! 新開発の重力制御システムを船体のフレーム全体に張り巡らせることで、艦体の保護及び積載する荷物の保護を完璧にクリアしたのです」

 

語りに熱が入っていく。よほど苦労したのだろう。

 

「さらには、ただ直進するだけではなく、姿勢制御のために『AMBACシステム』という新たな概念を併用いたしました」

 

「あんばっく?」

 

聞きなれない言葉だ。

 

「はい。Active Mass Balance AutoControlの略称です。簡単に言えば、船体の一部を動かすことによる質量移動を利用して、推進剤を消費することなく、超高速状態での急激な方向転換や姿勢制御を行うシステムです。これにより、ヅダは直線番長ではなく、宇宙空間で変態的な機動を描きながら、敵の砲火を躱して荷物を届けることができるようになったのです!」

 

侍従は資料を確認する。確かに道理は通る。

 

「ふむ……素晴らしい技術力ですね。ですが、問題はコストです。これだけの新技術を詰め込んでいるとなれば……」

 

「……おっしゃる通りです」

 

「高機能であるが故ではございますが、既存の標準的な輸送船に比べ、一隻あたりの建造費が1.1倍ほどのコスト増にはなってしまいます」

 

1.1倍。

 

国家規模の物流網を構築するための船団を揃えるとなれば、その差は、確かな負担としてのしかかってくるだろう。

 

場に沈黙が落ちる。が、彼は気がつき、すぐに口を開く。

 

「陛下。単純な価格の比較ではございませんが、コストが1.1倍に抑えられている状態で、速度と生存率が1.4倍になるのであれば、これは破格の費用対効果です。予算の都合上、調達できる量が多少不足したとしても、この圧倒的な速度の回転率で、十分にカバーできるかと愚考します。いや、カバーして余りある利益をもたらすでしょう」

 

経済と効率を天秤にかけるならゴーサインを出す案件だろう。

その言葉を聞いて、マルガレータもまた大きく、力強く頷く。

 

「うむ。お主がそう言うなら間違いないじゃろう。社長、大儀であった。ツィマッド社の技術力と熱意、確かに見届けたぞ」

 

「本日この時をもって、ツィマッド社に我がキルヒアイス公国の御用商人を命ずる。詳細はヒルデガルド工部尚書と打ち合わせの上、全軍の輸送網にこの『ヅダ』を優先的に配備するように進めるがよい」

 

「おおっ!! ありがとうございます、陛下!!」

 

社長は感極まってその場に泣き崩れ、社員たちからは割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こった。大げさではないのだろうそれだけの労力があったのだ。

 

「……で、社長よ」

 

「はい、なんなりと!」

 

「卿の会社は、輸送船だけでなく、軍用の船体の開発も行っておるのだな?」

 

「はい。我々はそもそも技術屋ですので、推進器だけでなく、戦闘用の艦艇の設計ノウハウも持ち合わせております。ジオニック社には負けませんよ!」

 

ならば聞く内容は一つしかない。ただでさえ軍事的には劣勢は免れないのだ。

 

「その『土星エンジン』……公国の戦艦や巡航艦、駆逐艦といった軍艦にも搭載することは可能か?」

 

「えっ? いや……あの、輸送船用のエンジンを、軍艦にですか……?」

 

計算をしてみる。どんぶりではあるが可能性はないだろうか?

 

「確かに、軍艦のフレームなら土星エンジンの出力にも耐えられる……AMBACシステムを砲座の死角を補うように連動させれば……コストは跳ね上がりますが……」

 

数秒の思考の後、社長は顔を上げ、興奮した声で答える。

 

「考えたこともございませんでしたが………やってみる価値は、大いにあるかと思います! いや、やらせてください!! 間違いなく、帝国や同盟の鈍重な艦艇を置き去りにする、恐るべき機動艦隊が生まれますぞ!!」

 

「なるほど…………我々キルヒアイス公国は、帝国や共和国に比べて圧倒的に艦艇の数が少ない。ですが、その絶対的な不利を、土星エンジンによる『超高機動』という質と火力の差でカバーしようというわけですね」

 

「うむ。まさにその通りじゃ」

 

「そもそも妾の直属部隊である『桃色竜騎兵』も、火力よりも機動力を信条とする艦隊じゃからな。そのエンジンを積めば、まさに宇宙を駆ける流星となる。いずれは全軍の艦艇をこの土星エンジン搭載型にアップデートし、数の暴力を速度で蹂躙する、宇宙最速の艦隊を作り上げるのじゃ!」

 

このことは、公国の軍事力を劇的に変貌させる歴史的なターニングポイントとなった。

 

ツィマッド社が開発した「土星エンジン」は、その後、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの辣腕と工部省と密接に連携することで、さらに軍事用に洗練・改良されていく。

 

安定した高出力を発揮するようになったこの新型推進器は、やがて公国の艦隊の標準装備となるまで爆発的に普及するのだ。物量を誇る帝国や共和国の艦隊に対し、神出鬼没の機動力で翻弄し、一撃離脱を繰り返す。

 

公国軍のその恐るべき機動力の要として、「土星の翼」は、銀河の歴史に深く、鮮烈にその名を刻み込むことになるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

視察を終え、帰路につく車内でも仕事は待ってはくれない。

 

マルガレータの眼前には書類はない。しかし画面に浮かぶ未処理案件は100を超えている。

 

その通知はもはや意味を成さない幾何学模様の羅列へと変貌していた。開始数分で枯渇した集中力は、半開きの口元から魂とともに抜け出ようとしている。

 

「あー……」

 

早起きもしたし、視察も終わったし、少しは休んでもいいのではないか?いや、良いに違いない。だって妾は公王だもの。

 

「おい、お主」

 

「はい、なんでしょうか陛下」

 

この男の眼はこちらに向くが、ブラインドタッチの速度は一向に落ちない。すごいな。お主。

 

「この決裁書類、妾の代わりにお主がやっておいてくれ。どうせ妾が読むよりお主が処理した方が早いじゃろう?」

 

これこそファルケンハイン直伝、純度百パーセントの丸投げである。

 

「お断りします」

 

「なに!?」

 

光の速さでの拒絶。丸投げは見事に剛速球でピッチャー返しされたのだ。痛いわ。

 

「主君たる妾の命令に逆らうというのか!!お主、自分がただの侍従であることを忘れておらぬか!?」

 

「逆らいます。そして僕は自分の立場を完璧に把握しております」

 

「僕のスケジュールは、この車が政庁に到着し、陛下を執務室にお見送りした直後から、公王配たるジークフリード・キルヒアイス殿下の随行に回ることになっておりますので。陛下の書類の代筆などしている暇は、一秒たりともありません」

 

「はあ!?ジークの随行じゃと?妾はそんなこと聞いておらぬぞ!」

 

「……おや」

 

わざとらしいの。眉をひそめた?なんじゃ??

 

「公王陛下ご自身が、今朝のスケジュール確認の際に決められたことですが……お忘れですか?」

 

「えっ」

 

今朝のスケジュール確認…。それは全裸でベッドに大の字になり、あと二時間の猶予を強要して見事な蹴りを食らった、あの混沌とした時間帯を指す。

 

右の耳から左の耳へと駆け抜けていった音声データは、かけらも彼女の記憶野には残っていなかった。

 

ここで聞いていないとゴネれば、再び足技の餌食になる。まあ公王が蹴られることを受け入れている分毒されている。

 

それに、ジークの仕事が回るなら、公国にとっても好都合だ。そうだ、妾。正しい。

 

「は……うむ!そうじゃったな!大丈夫じゃ、すっかり思い出したぞ!!」

 

わざとらしく何度も頷いてみせる。ポーズって大切だよね!!

 

「ジークのこの後の予定は、フェザーンの首都機能構築のための重要な会議じゃったな!妾の書類などより、そちらの方が遥かに重要じゃ!すぐに行って参れ!!!」

 

「はい。では、お言葉に甘えまして、これにて失礼いたします」

 

駐車場に到着するや否や、侍従は一礼して姿を消した。

 

「……妾、あんなこと言ったかのう?本当に全く記憶にないのじゃが……」

 

だが、会議には、あの事務処理能力が必要不可欠ではある。結果として自分の判断は完璧だったのだと、彼女は力強く己を納得させ、足取りも重く執務室へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「公王配殿下」

 

入室してきた侍従に対し、キルヒアイスは書類の山から顔を上げ、笑顔を向けた。ああ、実に善人である。

 

「ん?ああ。君か。どうしたんだい?マルガレータの視察の随行は終わったのかい?」

 

「はい。無事にツィマッド社との契約の目処がつきました」

 

平然と、先ほどの主君に対する捏造を事実へと昇華させる。世渡り上手はこうして作られるのであろうな。

 

「そして、公王陛下より、これより殿下の会議の補助に入るよう、厳命を承りました」

 

「えっ?そうなのかい?」

 

「ご心配には及びません。公王陛下も、殿下のお体が心配だからこそ、僕を派遣されたのです。マルガレータ様は『ジークの負担を少しでも減らすように』と、強くおっしゃっておりました」

 

もちろん事実無根である。

 

「マルガレータが……」

 

しかし、疑うことを知らない公王配は、嬉しそうだ。

 

「そうですか。彼女にまた心配と負担をかけますね……。わかりました。君の事務能力は、会議でも非常に助かります。よろしくお願いします」

 

「はい。お任せください」

 

二つの要素を完璧に計算し尽くした侍従は、最も効率的なポジションへと、誰の反感も買わずに滑り込むことに成功したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

長時間の会議を終え、廊下を歩く侍従の前に、一人の男が立ち塞がった。

 

半白の髪と、光を反射しない無機質な義眼。彼の名はパウル・フォン・オーベルシュタイン。彼が発する気配は、すれ違う者の生存本能をゴリゴリと削り取るほどに鋭利である。

本人はそう自覚はないらしい。

 

「……卿は、うまく立ち回っているそうだな」

 

しかし、侍従の顔色に変化はない。

 

「はい。閣下」

 

「卿の実務処理能力の高さは評価する。キルヒアイス公王配の負担を減らすことは、公国全体の利益にかなうからな。……しかし、マルガレータ様をあまり蔑ろにすることは慎んでもらいたい」

 

「はい。閣下」

 

「彼女は公国の象徴だ。実務を卿がコントロールするのは構わんが、主従の分は弁えよ。反発を招くような真似は控えることだ」

 

「はい。閣下」

 

「……理解しているか?卿」

 

「はい。閣下」

 

「卿のその有能さは毒にも薬にもなる。もし卿の内に、公国の実権を握ろうとする野心や……あるいは、マルガレータ様に取り入ろうとなれば。……意味はわかるな?」

 

だが、そのプレッシャーを真正面から浴びた侍従は、一拍の逡巡もなく断言した。

 

「ご心配なさらずとも、公王陛下には女性として全く興味を持てないので、一〇〇パーセント大丈夫です」

 

「…………」

 

「……ならば良い」

 

どうやら嫉妬らしき感情が起因していたようだ。彼もまた人間なのであろう。夢の中だけでは不満なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

ラインハルト・フォン・ローエングラムはベッドの上で、有り余るエネルギーを持て余していた。高熱から回復したばかりの肉体は、すでに戦場を求めて悲鳴を上げている。つまりワーカーホリックである。また熱出るぞ。

 

「ようやく実務に復帰できるか……。休んでいた数日間の遅れ、必ずや取り戻さねば!!ジークフリードだけに公国の負担を強いるわけにはいかん!!」

 

彼がベッドから抜け出そうとしたまさにその瞬間、正確なリズムのノックとともに侍従が姿を現した。

 

手には、薄っぺらいクリアファイルが一冊。

 

「こちらが、本日の閣下の処理すべき案件のファイルです」

 

置かれたそれを見て、ラインハルトの眉間が険しくなる。少ない。

 

「……これだけか?」

 

「はい。それだけです」

 

「これでは一時間もかからず終わってしまうぞ?公国の軍務の再編や、帝国との国境警備に関する重要な案件があるだろう!」

 

不満の声が漏れる。もっと働きたい!と。

 

「それらはすべてオーベルシュタイン軍務尚書と、キルヒアイス公王配殿下が処理を済ませております。閣下にお願いする仕事は、そのファイルにあるサインのみです」

 

「な、なんだと!?」

 

「俺に何をせよというのか!!何もしないでベッドでゴロゴロしていろというのか!?俺は病人ではない、帝国元帥だぞ!!」

 

「子育てや趣味にでもお時間をお使いください。倒れたばかりの方がフル稼働して再び倒れられでもしたら、奥様やキルヒアイス殿下が悲しまれますよ」

 

まったくもって正論である。その打撃に、ラインハルトの勢いがピタリと止まる。

 

「だ、だが……」

 

「……俺には、特に、趣味はないのだ……。艦隊戦とか……新しい戦術の考案とか……政務くらいしか、やることが……」

 

銀河最高の天才軍略家による、あまりにも哀愁漂う自己申告だった。無趣味なのだ。絶望的に。

 

それを読んでいた彼は無表情のまま、持参していたアタッシュケースから巨大な箱を取り出した。

 

「では、このジグソーパズルを解いておいてください」

 

それは『純白の地獄』と呼ばれる、一万ピースの完全無地ジグソーパズルだった。絵柄など存在しない、狂気の産物である。

 

「なんだこれは!?」

 

「常人なら確実に発狂する代物ですね。暇つぶしには最適かと」

 

「ふざけるな!!帝国元帥たるこの俺が、なぜ絵柄もない真っ白なパズルなどやらねばならんのだ!!」

 

彼が箱を払いのけようとした瞬間、彼にとっての地雷がさく裂した。いや、させられた。

 

「おや、嫌ですか。これはキルヒアイス公王配殿下がリフレッシュのためにご購入されたものの、激務でやる時間がなくて困っていたものなのですが……」

 

「なにっ!?」

 

「……閣下が完成させれば、キルヒアイス殿下もさぞお喜びになるかと。ご負担でしたら引き取りますが」

 

「待て!!!」

 

猛烈な勢いで箱を抱え込んだ。その瞳には、艦隊戦を前にした時と同等のギラギラとした光が宿っている。

 

「そうか……!キルヒアイスが、これをやりたがっていたのか!?わかった。親友の頼みとあらば仕方ない。キルヒアイスのためだ、この俺が完璧に完成させてやろう!!」

 

彼はベッドの上に一万のピースをぶちまけ、異常な熱量で仕分け作業を開始した。チョロい……。

 

侍従は静かに病室を後にした。

 

 

 

 

 

 

それから数時間後。

工部省での政務を終えたヒルダが病室に入ると、そこには特設テーブルに向かい、真剣な眼差しで白いピースをはめ込む夫の姿があった。

 

「あら、あなた……」

 

「偉いですね。無理に仕事をしようとしないで、パズルに興じる余裕ができたなんて!私はあなたがわかってくれるのをずっと待ってました!」

 

「え?あ……うん。そうだな、ヒルダ」

 

親友に褒められたい一心で没頭していたとは口が裂けても言えないラインハルトは、誤魔化すように視線を逸らす。また縛り付けられると大変困るのだ。

 

「俺とて木石ではない。自分の体を労りながら、少しずつ仕事をするつもりだとも!」

 

どの口が言うのか。

 

「あなた。午後からは久しぶりに、アレクと三人で遊びに行きましょうよ」

 

「そうだな。新しくできた遊園地にでも行くか……。ん?どうしたのだ?ヒルダ」

 

彼女の様子が少しだけ違う。頬を染め、そっと自分のお腹に手を当てている。

 

「……赤ちゃんが、できました」

 

ラインハルトの指先から、最後のピースが滑り落ちた。まさに衝撃だ。

 

「……あ……、その……」

 

驚愕が理解へと変わり、やがて歓喜の波が胸中を爆発的に満たしていく。

 

「……そうか。……そうか!!」

 

ラインハルトは身を乗り出し、慈しむように抱きしめる。

 

「ありがとう、ヒルダ。俺の妻になってくれて、俺の家族になってくれて、本当にありがとう!」

 

喧騒から切り離された病室の中は、今、完全な平和と祝福の光に包まれていた。




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回はキルヒアイス公国の物流・技術強化と、ツィマッド社の土星エンジン採用を描きました。
マルガレータと侍従のやり取り、土星エンジンの今後、ラインハルトとヒルダの場面について、感想をいただけると嬉しいです。
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