銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
だが、その均衡の陰で、地球教は新たな布教戦略を始める。
武器でも暗殺でもなく、炊き出し、子育て支援、ハーブティー交流会。
三国の盲点を突く、静かな侵略が始まろうとしていた。
【地球 ヒマラヤ山脈地下】
宇宙暦800年、帝国暦491年。
年は明け、銀河の勢力図は激変の余韻の中にある。
アルブレヒトが君臨する、狂気と愛が交錯する新・銀河帝国。
マルガレータ公王を戴き、実務者たちの献身によって成立するキルヒアイス公国。
ヤン・ウェンリーの神算鬼謀によって延命する、自由を掲げる自由惑星共和国。
歴史の教科書に太字で刻まれるであろう、三国鼎立の成立。
この均衡がかりそめの平和をもたらすか、新たな戦火の幕開けとなるか。運命の天秤は未だ揺れ動いている。
しかし、いかなる時代にも流血を渇望する者たちは潜んでいる。
かつて全宇宙を支配した地球の栄光に固執し、歴史の亡霊に憑かれた狂信者たちだ。
荒廃し、沈黙を保つ人類の故郷。
その地下深くに、地球教の巣窟は存在していた。
円卓を囲む幹部たちは、フードの奥に狂信の光を宿している。
「……して、ルビンスキーは、未だ行方知れずか。全く、忌々しい男よ」
右側に座すドヴィリエの双眸が、暗がりの中で鋭く光る。
「御意。自由惑星共和国へ逃れたとの噂もございますが、我々の情報網からは完全に消失しております。フェザーン崩壊の混乱に乗じて死んだものと愚考いたします」
「腹黒き俗物なれど、資金源としては有用でしたが……致し方ありませんな」
左側のデクスビーが同調する。
「我々との繋がりが絶たれた以上、もはや利用価値はありません。彼の役目は終わりました」
幹部たちの間に、くぐもった嘲笑が広がる。
「笑い事ではないぞ、お前たち」
「ルビンスキーを失った今、我々の財政は危機的状況にある。信徒の喜捨だけでは、活動資金など賄いきれんのだ」
「宇宙が三国に分断された現状が、我々の活動を阻害しております。帝国と同盟の二極対立であれば、双方の対立を煽り、フェザーンを介して利益を得ることも容易でした。しかし、今は違います」
「銀河帝国は異常です。皇帝の家族愛と恐怖政治が入り混じり、僅かな批判すら許されない。あのような論理の通じない国家で工作を行えば、たちまち見つかり、支部ごと消滅させられる危険があります」
「自由惑星共和国も厄介です。深刻な財政難にありながら、民主主義という理念で結束している」
「残るキルヒアイス公国ですが、一見すると御しやすいように思えます。自堕落なマルガレータ公王が頂点に立っておりますからな」
「だが、油断はできん」
「公国の中枢を担う者たちは規格外だ。公王配、オーベルシュタイン。あそこに正面から政治工作を仕掛けるのは、自ら破滅を招く行為だ」
「つまり、従来の画一的な手段は通用しません。各国の特性に応じた新たな手法で、工作網を構築し直す必要があります。しかし、それには莫大な時間と資金を要します」
遠大な大義とは裏腹に、彼らは今、緩やかな滅びの淵に立たされている。
「うむ。皆の分析は正しい。状況は極めて困難だ」
「だからこそ、だ。武力介入は控えよ。三国の為政者たちの目を我々に向けさせてはならん」
「では、いかにして?」
「今はただ、アリが巣を広げるように、目立たず信徒を拡大することにのみ注力せよ」
「信徒の拡大、ですか。現在の三国は表面上安定しています。民衆が宗教に縋るとは思えませんが」
「そこが浅はかだというのだ、デクスビー」
「三国が睨み合う情勢は、必ず民衆の心に漠然とした不安を植え付ける。いつ日常が破壊されるか分からないという見えない恐怖が、人々を蝕んでいくのだ」
「心が弱った時、人は分かりやすい救いや居場所を求める。そこを突くのだ」
「なるほど……」
「最初から地球教を名乗るな。そのような前時代的な勧誘は通用せん」
「各国の法と信教の自由を隠れ蓑とし、深く根を張るのだ。健康志向のオーガニックサークル、子育て支援、ヨガ教室。一般市民が警戒せずに立ち寄れる、明るく健全なコミュニティを装うのだ」
「入り口の障壁を下げ、人々の孤独に寄り添うふりをして取り込む。そして、徐々に我々の教義を浸透させていくのですね」
「その通りだ。病のごとく、静かに、気づかれぬように銀河を蝕むのだ。為政者たちが気づいた時、民衆の多くは我々の熱烈な信徒にすり替わっている……。それこそが、最も確実で恐ろしい侵略である」
卑劣な手段であろうと、地球の栄光を取り戻すためならば全てが正当化される。彼らの心に迷いはなかった。
総大主教が立ち上がり、杖を高く掲げる。
「さあ、行くが良い!三国の盲点を突き、民衆の心の隙間に入り込め!地球の教えを、宇宙の隅々にまで浸透させるのだ!」
「はっ!地球は我が母、地球を我が手に……」
「地球は我が母、地球を我が手に……」
暗闇に響き渡る呪詛のような合唱は、やがて銀河を覆う災厄の種として、地下深くで静かに芽吹いていた。
◇◇
【フェザーン】
両手にエコバッグを提げたマルガレータ・トルナードが歩いていた。
彼女はキルヒアイス公国に身を寄せるローエングラム公爵家で、一人息子アレクサンデルの教育係を務める侍女である。
ブラウンの髪を一つに束ねた彼女の表情には、濃い疲労の色が張り付いていた。
「はあ……今日もキャベツが高いわね。それにしても、重い……」
疲労の原因は荷物の重さだけではない。その大部分は、彼女が日々向き合っている幼子の存在にあった。
銀河最高の天才と知性を両親に持つアレクサンデルは、幼児でありながら恐るべき賢さと無尽蔵の体力、そして父親譲りの負けず嫌いを発揮している。
昨日は執務室の机の下に立てこもり、一昨日は庭の植木鉢をなぎ倒した。
無限に繰り返されるイタズラの記憶が蘇り、トルナードは胸の奥に澱んだ空気を重く吐き出した。
ヒルダは第二子を身籠っており、ラインハルトは政務とパズルに没頭している。自分がしっかりしなければと頭では理解していても、張り詰めた糸が今にも切れそうな孤独感が彼女を苛んでいた。
誰かにこの重圧を聞いてほしい。
そんな微かな心の隙間に、柔らかな声が滑り込んできた。
「もし、そこの方」
「私ですか?」
「ええ、そうです!お買い物帰りですか?重そうですね。あの、もしよろしければ、こちらのチラシを一枚、受け取っていただけませんか!」
差し出されたのは、パステルカラーで彩られた可愛らしいデザインのチラシだった。
警戒を解かせるような屈託のない笑顔に押され、トルナードは荷物を持ち直してそれを受け取る。
チラシには、緑豊かなイラストと共にポップな文字が躍っていた。
『地球の恵みを感じよう!オーガニック&ハーブティー交流会!地球教・フェザーン支部』
「……『地球教』……ですか?」
トルナードの表情が硬くなる。宗教という言葉には自然と警戒心が働く。
「えっと……私、間に合ってます。そういう宗教とかはちょっと……お布施とか壺とか買わされそうですし……」
チラシを返し、立ち去ろうとする。しかし、女性は明るく笑い飛ばした。
「いえいえ!違いますよ〜!そんな怪しげなカルト宗教みたいなものではなくてですね」
女性は隣に並び、軽快な口調で語りかける。
「お嬢さん、『地球』ってご存知ですよね?」
「地球……?ええ、まあ、歴史の授業で習ったことがあります。人類の発祥の地で、今は殆ど誰も住んでいない星だとか……?」
「大正解です!」
女性は快活に手を叩いた。
「そうなんです!我々『地球教』という名前は少し大げさなんですけど、要するに、人類を生んだ偉大な地球の自然を忘れないようにしましょう〜、地球の環境をリスペクトしましょう〜、という集まりなんですよ。SDGsみたいなものです!」
「エスディ……?」
「言い換えるなら、自然派のコミュニティですね。みんなで集まって、無農薬のオーガニックなハーブティーを飲みながら、日頃の悩みをお互いに話したり、たまには自然に触れるために旅行ツアーで本物の地球に行ってみよう!とか企画してやってる、本当に軽いサークル活動みたいな感じなんですよ。宗教法人格は取ってますけど、それは税金対策みたいなものでして」
「はあ……サークル活動、ですか」
「壺とか印鑑は本当に売らないんですね?」
「売りません売りません!むしろ、初回参加の方には自家製のクッキーを無料でプレゼントしてます!」
女性は人懐っこくトルナードを覗き込んだ。
「お嬢さん、お見受けしたところ、すごくお疲れのようですね。何か日頃のお悩みとかないですか?誰かに話すだけでも、すっと肩の荷が下りるものですよ」
誰かに話すだけでも。
「ん〜……」
張り詰めていた警戒が緩み、思わず本音がこぼれ落ちる。
「強いて言えば……職場で、なかなか子供が言うことを聞いてくれないことですかね……」
天才的でありながら規格外にわんぱくな主の姿が脳裏をよぎる。
「なるほど、お子さんのことですね!分かります、分かりますよ〜!子供って本当にエネルギーの塊で、言うことを聞いてくれない時は本当に疲れますよね!」
女性は深く共感し、トルナードの腕にそっと触れる。
「実はですね、うちのサロンには、同じように子育て中のママさんや、保育士さんなど、子供を相手にお仕事している方がたくさん参加されているんです!皆さん、毎日ヘトヘトになりながらも、サロンでおしゃべりしてストレスを発散して帰られるんですよ」
「へえ、そうなんですか……」
「ええ!だから、お嬢さんもどうですか?日頃の子供の愚痴とか、教育の悩みとか、先輩ママさんたちと情報交換するのにピッタリだと思いますよ!もちろん、さっき言った美味しいリラックス効果のあるハーブティーと、手作りのオーガニックお菓子も用意してありますから!」
トルナードは逡巡した。
公爵家の中でアレクサンデルの苦労を語ることは許されない。
だからこそ、一切のしがらみがない外部のコミュニティで、ただの子供の愚痴として聞いてくれる場所があるという事実は、抗いがたい魅力を持っていた。
「……わかりました。お茶とお菓子が出るなら……一度だけなら、お試しで行ってみようかな」
「本当ですか!ありがとうございます!!絶対に損はさせませんよ!」
「では、名簿の登録だけお願いします。こちらにお名前を……」
「はい。えっと……マルガレータ・トルナードです」
「おお!マルガレータさん!公王陛下と同じ、なんて素晴らしいお名前なんですね!これは運命を感じちゃいますね!」
「あはは、そうなんですよ〜。よく言われるんですけど、全くの偶然なんです。公王陛下と違って、私はただのしがない使用人ですから」
「そんなことありませんよ!人を育てる立派なお仕事じゃないですか!ではマルガレータさん、今度の日曜日の午後、チラシの裏に書いてある住所でお待ちしておりますね!楽しみにしています!」
「はい、では今度の日曜日に」
彼女の足取りは、先ほどよりも確実に軽くなっていた。
◇
「公王配殿下、失礼いたします」
「ん?ああ、トルナードさん。ありがとう」
「ちょうど一息入れたいと思っていたところです。いつも気遣ってくれて感謝します」
「とんでもございません。殿下こそ、あまり根を詰めすぎないようになさってくださいね。ラインハルト様も心配しておられましたよ」
手際よく注がれた紅茶の香りが、室内の緊張を和らげる。
一口含み、キルヒアイスは小さく息を吐いた。
「美味しいですね。……そういえば、トルナードさん」
「はい、なんでしょうか」
「昨日は休日でしたね。アレク様の相手から解放されて、少しはゆっくり休めましたか?」
「はい!実は昨日、街で声をかけられたサークルのお茶会に行ってみたんです」
「お茶会ですか。それはいいですね。どんな集まりなんですか?」
「それがですね……名前はちょっと仰々しくて、『地球教』っていうんですけど」
「……地球教?」
「ええ、最初私も怪しい宗教かと思って警戒したんですけど、全然そんなことなかったんです!別に薄暗い部屋で祈祷をさせられるわけでもなく、ただの明るいカフェみたいなサロンで、普通の子育て交流会みたいな感じでした」
彼女は身振り手振りを交え、嬉々として体験を語る。
「提供されたハーブティーもすごく美味しかったですし、何より、集まっている他のママさんたちに、子供のわんぱくぶりの愚痴をたくさん聞いてもらえて……。アレク様の名前や正体は伏せて話したんですけど、『わかるわかる!男の子って怪獣みたいよね!』ってすごく共感してもらえて、本当にすっきりしました!」
「そうですか。それは良かったですね」
「アレク様は確かに賢くて活発ですから、教育係である貴女にも随分と大きな負担をかけてしまっていますからね。ラインハルト様も、ヒルダ様も、そして私も、君にはとても感謝しているんです。だから、そうやって休日に息抜きができる場所を見つけられたのなら、それくらいは全く構いませんよ」
「本当ですか?ありがとうございます!」
「ええ。むしろ、そうやって隠さずに何でも私に話してくれて、ありがとうございます。これからも、無理をせずに適度に息抜きをしてくださいね」
「はい!公王配殿下!」
『こんな張り詰めた時代だからな。心の拠り所となるようなコミュニティを持ち、何を信じるかくらいは、個人の自由であっていいと思う』
◇◇
【帝都オーディン グリンメルスハウゼン邸】
ここは帝国軍の長老であり、現在は公職から引退して悠々自適の余生を送る、グリンメルスハウゼン子爵の住まいである。
そこで二人の老人が優雅にティータイムを楽しんでいた。
一人は邸宅の主であるグリンメルスハウゼン子爵。白い髭を蓄え、好々爺という言葉を絵に描いたような柔和な笑みを浮かべている。
もう一人は、かつて銀河帝国軍の頂点である統帥本部総長を務め上げ、現在は退役したグレイマン元帥である。彼もまた現役時代の鋭い眼光をすっかり丸くし、穏やかな表情で温かい紅茶の香りを嗅いでいた。
「ほう……」
「地球教……とな?グレイマン閣下」
「閣下はやめてください、子爵」
グレイマンは苦笑交じりに片手を軽く振った。
「私はもう、軍を退役したただのしがない老人です。階級や肩書きで呼ばれるような身分ではありませんよ。それに、あなたの方が貴族としての位は上ではありませんか」
「ホッホッホ。そうじゃったかな。老いぼれると、どうにも昔の呼び方が抜けなくていかんのう」
グリンメルスハウゼンは悪びれる様子もなく、ふたたび紅茶の香りを愉しむ。
「それで、その地球教という連中が、一体どうしたというのかね?わざわざ休日のティータイムの話題に持ち出すくらいじゃから、よほど面白いお茶請けになる話なんじゃろう?」
「面白い話かどうかはわかりませんが……。彼らは、かつてこの帝都オーディンでも細々と活動していた、かなり歴史の古い宗教団体です。人類の発祥の地である地球を聖地として崇めるという、まあ、時代遅れな教義を掲げている連中なのですがね」
グリンメルスハウゼンは小さく首を傾げる。
「地球……。ああ、あの辺境の忘れられた星じゃな。そんなものを崇めて、一体何の得があるのじゃ?」
「さあ……信仰というものは、得失で計れるものではありませんから。ただ、その教団が現在、帝都の階級を問わずに、急速に布教活動を活発化させているという噂が、私の耳に入ってきましてね」
「ほう。布教活動をな」
「ファルケンハイン……いや、アルブレヒト陛下は、宗教や個人の思想へは極めて寛容なお方だ。自分や家族に牙を剥かない限りは、民衆が何を信じようと勝手だというスタンスをとっておられる。その地球教とやらは、何か国体を脅かすような、問題のある危険なことをやっているのかね?」
「いえ。私も気になって、憲兵隊にツテのある後輩に少し調べさせてみたのですが……」
「彼らの報告によれば、その地球教の連中がやっていることといえば、町の清掃ボランティアや、休日の市民サロンの開催、あとは貧困層への無料の悩み相談会や、炊き出しを行っているくらいでして……。法の範囲内で、善良な市民活動をしているだけなのです」
「ホッホ。なんじゃ、それなら全くの無害ではないか」
グリンメルスハウゼンは拍子抜けしたように相好を崩す。
「むしろ、内務省の役人どもよりもよっぽど社会の役に立っておるかもしれんぞ。炊き出しに清掃活動……うむ、大変結構なことじゃ」
「ええ、表面上はそう見えます」
「では、良いのではないか?放置しておけば。儂らもとうの昔に引退した身じゃ。わざわざ陛下の周りで騒ぎ立てて煩わせることもあるまい。何も実害がないのであれば、放置するのが一番じゃ」
しかし、グレイマンは顎に手を当て、脳裏に去来する違和感の正体を探るように考え込む。
「そうですな……。確かに、実害がないのなら騒ぐべきではないのかもしれません。ですが……どうも、胸の奥で引っかかるのです。三国鼎立というこの微妙な情勢下で、突然活動を活発化させるというそのタイミングが」
「まだまだ、現役の時の悪いクセが抜けませんな。すべての物事を疑ってかかってしまう。……とはいえ、やはり一応、念のため陛下のお耳には入れておくか。情報として知っておくに越したことはありませんからな」
「ホッホ。グレイマン閣下は相変わらず真面目じゃのう。まあ、陛下もたまには退役した老人の顔を見るのも一興じゃろうて」
グリンメルスハウゼンはニコニコと笑いながら、ティーカップの底に残った紅茶を飲み干した。
◇
「うーん……この予算案、こっちの項目を削って、こっちの保育園の建設費用に回せないかなぁ。いや、でもそうすると貴族がうるさいか……」
広々としたデスクの奥で、アルブレヒトは絶え間なく押し寄せる睡魔と格闘しながらデータパッドをスワイプしていた。
彼の服装は、皇帝の威厳を示す豪華な軍装やマントなどではない。着心地の良さだけを追求したダボダボのスウェットの上下である。しかも胸元には、「ILOVE家族」というお土産屋で売っていそうなふざけたロゴがデカデカとプリントされていた。
完全に休日の気の抜けた父親のスタイル。身内や信頼する側近しか入室しないこの空間において、威厳などという窮屈な概念は彼にとって邪魔なだけでしかないのだ。
そんな威厳がマイナスに振り切れている執務室の扉が、コンコン、と控えめにノックされる。
「はいはーい、どうぞー」
「陛下、お忙しいところ失礼い……」
挨拶が言い終わるよりも早く。
全身の細胞に染み付いた条件反射が、皇帝としての緩んだ自我を瞬時に上書きする。
猛烈な勢いで椅子から立ち上がったアルブレヒトはデスクの横に直立不動で立ち、指先まで張り詰めた完璧な敬礼を放っていた。
「グレイマン閣下!!お久しぶりであります!!本日はどのようなご用件でしょうか!!」
「陛下、相変わらずでいらっしゃる」
グレイマンは苦笑いを浮かべながら敬礼を返す。
「もう私は退役した身です。陛下が私に敬礼など、立場が逆転しておりますよ。どうぞ楽になさってください」
「はっ!いや、しかしですね……!」
「それにしても……軍装ではなく、そのようなラフな私服で執務をされておられるとは。相変わらず、形式にこだわらないお方だ」
スウェットの文字に向けられた視線に気づき、アルブレヒトは気恥ずかしさを誤魔化すように頭をかく。
「あはは……いや、軍装って肩が凝るんですよ。それに、ここで仕事してるとたまにカタリーナと遊べるんで、硬い服だと抱っこしにくいじゃないですか」
「で、今日はどうされたんですか?引退して悠々自適の生活を送っている閣下が、わざわざこの宮殿に足を運ばれるなんて」
「ええ。実は、少し陛下のお耳に入れておきたい噂話がありまして……」
グレイマンは、先ほどグリンメルスハウゼン邸で交わした地球教についての話を詳細に報告し始めた。
報告を黙って聞いていたアルブレヒトは、「ふむ……」と顎に手を当てて天井を見上げる。
「地球教、ねえ………。そんな団体が、炊き出しなんかやってるのか」
「俺としては、内国安全保障局や憲兵隊が捜査に動くような実害がないなら、特に問題はなさそうだけどな。実際に炊き出しで助かってる人がいるなら、国としてはむしろありがたいくらいだ」
極めて現実的で、ある意味で適当な評価を下す。
「思想の統制なんてものは、百害あって一利なしだ。かつてルドルフ大帝の御代に過激な思想統制と恐怖政治を敷いて、結果的に国中から恨みを買ったじゃないか。民衆の心の中まで踏み込んでコントロールしようなんて、面倒くさい真似はしたくないんだよ」
過去を教訓として持ち出すあたり、彼なりに為政者としての学習能力は機能しているようだった。
「ただ……」
「帝国、公国、そして共和国。今、宇宙は三つの国家に分断されている。その三国間にまたがってネットワークを持っている宗教団体というのは、正直、ちょっと気味が悪いな」
「どこの国にも属さない『宗教』という立場を利用して、三国の外交上の裏の連絡役として利用する分には便利かもしれない。だが、逆に言えば、あいつらが三国の間を自由に動き回るスパイとして利用される危険性もある。そこは少し心配ではある……か」
アルブレヒトの洞察力は決して鈍くない。むしろ俗物であるがゆえに、裏の事情や人間の汚い思惑を嗅ぎ取る嗅覚には長けているのだ。
「はい。私もその点を危惧しております」
「目前に迫った危機ではありませんが、根雪のように、後になって厄介なことになるやもしれません。念のためのご報告です」
「わかりました」
「わざわざありがとうございます、グレイマン閣下。あなたの忠言、確かに受け取りました。頭の片隅に置いて、内務省の連中に少し探りだけは入れさせておきます」
「そうしていただければ、老骨も安心いたします。では、本日はこれにて失礼を」
扉が閉まり、再び一人になった執務室。
アルブレヒトは張り詰めていた空気を肺の底から一気に押し出すと、背もたれに深く体重を預けた。
『………………地球教、か。面倒くさい話を持ってきたな、閣下も』
『まあ、問題あるまい。ラングが牛耳っている内務省の連中が常に目を光らせているんだ。本当に危険な真似を企めば、すぐに見つかって潰される』
彼の意識を満たすのは、自分が溺愛する妻たち――アナスタシア、サビーネ、エリザベート、そして可愛い子供たちの柔らかな笑顔だ。
『それに、やってるのは炊き出しとお茶会だろ?俺の「家族」に直接危害を加えるようなことじゃない。俺の治世を揺るがすようなことは、到底できそうにないな』
ここが、アルブレヒトという男の最大の弱点である。
家族や身内を守ることにかけては、どんな非道な手段も辞さない冷酷な覇王として振る舞うことができる。しかし逆を言えば、「家族さえ無事なら、それ以外の抽象的な国家の脅威や、見えない思想の侵略には本質的に興味がない」のだ。
『よし、この件は保留!放っておこう!それよりも、早くこの決裁終わらせて、エリザベートちゃんのところにお茶飲みに行こうっと!』
◇◇
【イゼルローン要塞 特高秘密本部】
自由惑星共和国の軍事的・政治的拠点である、巨大な人工天体イゼルローン要塞。
その内部、一般の軍人や市民が絶対に立ち入ることのできない厳重なセキュリティブロックの奥深くに、「特別高等警察(通称・特高)」の本部が存在する。
帝国からの亡命者や旧同盟の過激派、さらには国内の汚職や反体制運動を取り締まる、いわば共和国の暗部を担う組織。
その秘密本部の一室。
報告書を前にして、若い女性がひどく不機嫌な顔で眉をひそめていた。
彼女の名前はカリン。本名はカテローゼ・フォン・シェーンコップ。
燃えるような赤毛を無造作に束ね、特高の黒い制服に身を包んだ彼女は、若くしてこの暗部のナンバーツーの地位にある。
「……地球教………??」
「なにこれ。随分とカビの生えた、人類がとうの昔に見捨てた古い星をイコンにしてるのね」
「は、はい。最近、静かに信徒を増やしているようです。表立って布教活動をするわけではなく、口コミや紹介で、ジワジワと……」
「ふうん。気味が悪いわね」
「で、肝心のミンツ局長はどちらに?報告書の決裁権はあいつにあるんでしょ?」
「ユリアン局長は、本日はヤン総統の要塞内視察の護衛任務で朝から出払っておられます。戻られるのは夜になるかと……」
「ああ、もう!またあの不良中年総統のベビーシッター!?なんで総統の専属SPみたいなことやらされてんのよ!人材不足にも程があるわ!」
ヤン・ウェンリーという最高指導者に対して「不良中年」呼ばわりできるのは、この共和国で彼女くらいなものだった。
「まあいいわ。あいつがいないなら、私が代わりに指揮を執る。私に言いなさい。で、その地球教の実態は?武器を隠し持ってるとか、テロの準備をしてるとか、そういうヤバい証拠は挙がってるの?」
「それが……」
捜査員は言い淀む。
「現状は、完全に法の中での布教活動を行なっています。信徒たちを集めての自然保護を謳った奉仕活動や、子供たちへの絵本の読み聞かせなどがメインです。武器の密輸や資金洗浄の証拠は、今のところ全く見つかっておりません」
「はあ?ボランティアと読み聞かせ?バカにしてるの?そんな無害なサークル活動の報告で、私の貴重な時間を奪ったわけ?」
カリンの瞳に怒りの熱が急上昇していく。
しかし、捜査員は慌てて言葉を継いだ。
「い、いえ!ただ……どうも、公国や帝国でも、同じように活動を広げているという情報が入ってきておりまして……。三国同時に活動を活発化させているという点が、どうにも引っかかりましたので、念のためのご報告を……」
「…………ふうん」
「三国同時に、ねえ………」
「ボランティア活動の裏で、国境をまたいだスパイ網や諜報網を構築している可能性があると?宗教という蓑を被って、三国の情報を抜き取ったり、いざという時の破壊工作の拠点を作っているのかもしれないわね」
カリンの推察は、アルブレヒトやグレイマンが抱いた懸念と全く同じ、そしてさらに一歩踏み込んだものだった。
「左様です。特高として、いかがなさいますか?証拠は不十分ですが、令状なしの強制捜査に踏み切りますか?」
自由と民主主義の国にあって、暗部の権限は時として法を凌駕する。
「……少し洗ってみましょう」
決断は早い。
「ただし、いきなり強制捜査で乗り込んで騒ぎを起こすのは三流のやり方よ。バレないように、内偵を進めなさい。ゴミ箱あさりから通信記録の傍受、集会への潜入捜査までやって奴らの身辺を丸裸にするの」
「はっ!承知いたしました!」
「……もし、調査の結果、本当にただのボランティア好きの集まりで、特に裏がないなら良し。でも……」
「何か少しでも埃が出れば……国家転覆の意図がミリ単位でも見つかれば……その時は、特高の権限で容赦なく、根こそぎ叩き潰すわよ」
◇
2週間後。
局長室のデスクの上には、床に崩れ落ちそうなほどの膨大な量のファイルやデータパッド、隠し撮りされた写真の山が築かれている。
これらはすべて、カリンの厳命を受けた特高捜査員たちが不眠不休で地球教の信徒たちをマークし、徹底的に洗い出した内偵調査の報告資料である。
その資料の山の向こう側で、特高局長であるユリアン・ミンツと副局長のカリンが向かい合っていた。
彼は数時間かけて膨大な資料のすべてに目を通し終え、最後に手にしたファイルをパタンと閉じた。
そして、予想外の虚無感に視線をさまよわせる。
「……なんだい、これは」
「本当に、ただの平和的な宗教団体みたいだね。報告書の中身と言えば、炊き出しのレシピと、子育て支援サークルの活動記録、あとは自然保護のための植林ボランティアのシフト表ばかりじゃないか」
机の上の隠し撮り写真を一枚手に取る。そこには、地球教の信徒たちが要塞の人工公園で子供たちと一緒に笑顔でゴミ拾いをしている姿が写っていた。どこをどう見ても、国家を転覆させるテロリストの集団には見えない。
「通信記録の傍受結果も、信徒同士の『今日のハーブティーは美味しかったですね』とか『明日の集会には手作りクッキー持っていきます』みたいな、ご近所の世間話ばかり。武器の密輸の『ぶ』の字もないよ」
ユリアンの言う通りであった。
特高の執念深い、重箱の隅を楊枝でほじくるような徹底的な調査の結果、驚くべきことに、地球教からは一切の「埃」も出なかったのである。
現在の地球教は、総大主教の厳命により、将来の決起のために純粋に信徒を増やすことだけに注力し、完全に牙を隠し、爪を研ぐことすらやめていた。彼らは本当にただの健全なサークル活動しかしていなかったのだ。
これでは、いくらプロフェッショナルたちが洗っても何も出てくるはずがない。
「……ごめんなさい」
「ユリアン、ごめんなさい。完全に私の勘違い、勇み足だったわ。こんな無害な連中のために、何日も貴重な人的リソースを割かせて、無駄な残業をさせちゃって……」
彼女は自分の直感の空振りを恥じ、顔を真っ赤にして肩を落とす。特高のナンバーツーとしてのプライドはズタズタだった。
そんな落ち込む姿を見て、ユリアンは困ったように微笑み、席を立つ。
彼はカリンの隣に歩み寄ると、その細い肩をとても優しく、労るように抱き寄せた。
「いいさ、カリン。謝ることなんて何もないよ」
「でも……」
「何も裏がない、ただの善良な市民活動だったということは、我々にとっても、共和国にとっても素晴らしいことじゃないか。君の危険を察知する直感は正しいものだ。今回は空振りだったかもしれないけど、その警戒心が国を守っているんだから」
ユリアンの心からの優しい声に、カリンは顔を赤らめたまま、彼の胸に少しだけ顔を埋めた。もし部下の捜査員がこの部屋に入ってきたら、間違いなく「壁になりたい」と切望するであろう、甘い空間が展開されている。
「……信教の自由は、旧同盟憲章が最も重んじてきた、基本的人権の一つだ。人が何を信じ、何に救いを求めるかは、国家が介入すべき問題ではない。我らが自由惑星共和国においても、その崇高な理念は全く同じだからね」
「法を犯していない善良な市民を、ただ『宗教団体だから』という理由だけで弾圧し、監視し続けるのは、我々特高の管轄ではないし、やってはいけないことだ。そんな真似をすれば、それはかつての銀河帝国の専制政治と同じになってしまう」
「そんなことをすれば、民主主義を守るために戦っているヤン総統の顔に、泥を塗ることになるからね。この調査は、これで終わりにしよう。彼らは無害だ」
ユリアンの決定は、民主主義国家の警察機関の長として、これ以上ないほど正しく、倫理的な判断である。
法を犯していない者を罰することはできない。思想や信仰の自由は守られなければならない。
それは、ヤン・ウェンリーが命を懸けて守ろうとしている人類の尊厳そのものだ。
◇
ジークフリード・キルヒアイスの、個人を尊重する生来の優しさ。
アルブレヒトの、家族以外の脅威には興味を持たないという怠慢。
そして、ユリアン・ミンツの、民主主義の法と自由を遵守するという正義。
三人の為政者たちの、それぞれ全く異なるベクトルの思考の隙間を、音もなくすり抜けて。
地球教という名の、滅びゆく星の怨念を孕んだ猛毒は、静かに、しかし確実に、銀河の底の底へと深く浸透していくのであった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は地球教が三国それぞれに浸透し始める回でした。
キルヒアイス、アルブレヒト、ユリアンがそれぞれ違う理由で見逃してしまう構図や、トルナードの勧誘場面について、感想をいただけると嬉しいです。