銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
しかし、その裏側では別の脅威が静かに広がり始めている。
今回は戦勝祝賀と、ある出会いのお話です。
【キルヒアイス公国政庁 大広間】
公国歴二年、宇宙暦八〇〇年五月。
玉座に腰掛けるのは、この国の絶対的なトップ、公王マルガレータ・フォン・キルヒアイスである。
玉座の手前、赤い絨毯が敷かれた最前列に一人の初老の男が直立不動で立っている。
かつて銀河帝国軍の重鎮として名を馳せた老練なる提督、ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ上級大将である。
「此度の戦功、誠に見事である。メルカッツ提督」
「はっ」
軍靴の踵を鳴らし、一切の無駄がない完璧な動作で深々と一礼する。頭を下げる角度すらも軍人の手本となる美しさだ。
「神出鬼没に現れ、我が公国の物流を脅かし、あまつさえ罪なき者たちに牙を剥いた卑劣な宇宙海賊ども。それらを一網打尽にし、公国の平和と威信を守り抜いたその働きは、いくら褒め称えても足りぬほどじゃ」
「この戦功と、公国軍を纏め上げた卓越した手腕をもって……妾は今ここに、メルカッツ提督を『公国軍元帥』に任じ、宇宙攻撃軍司令長官に任命する!」
宣言が響き渡った瞬間、将兵たちから地鳴りのような歓声と拍手が巻き起こった。
「おおおおおっ!!」
「メルカッツ元帥万歳!!」
「公国軍万歳!!」
割れんばかりの拍手がメルカッツを包む。
しかし本人は熱狂の渦中にありながらも表情一つ変えない。武人としての深い誇りを胸の奥底に秘め、再び深く首を垂れる。
「ありがたき幸せに存じます。この老骨、マルガレータ公王陛下とキルヒアイス公国のために、粉骨砕身の覚悟で職務を全うする所存であります」
満足げに頷き、再び玉座に腰を下ろすマルガレータ。だが、ふと怪訝な色が顔に浮かぶ。
「それにしてもじゃ……」
「報告書を読んで驚いたのじゃが……此度の作戦で撃破した海賊の数が一万隻以上とは。もはやただのならず者の集団というレベルではない。一国の正規艦隊にも匹敵する大艦隊ではないか。………一体どこから、これほどの数が湧いて出たのじゃ?」
それはこの場にいる全員が共有する不可解な謎だった。
言葉に応じるように、横に控えていた軍務尚書、オーベルシュタインが音もなく進み出る。
「敵の規模が異常であることは間違いありません。しかし、それ以上に私が注目すべきと考えるのは、この作戦における損害比率です」
「一万隻を超える敵艦隊を相手に正面決戦を行いながら、我が方の被撃沈および大破がわずか八百五十二隻。この数字は、通常の艦隊決戦の常識から見ても異常なまでの低さです。流石の用兵ですな、メルカッツ元帥。……これほどの完勝を収めるとは、いかなる魔法を使われたのかぜひご教示いただきたいものです」
「魔法などという都合の良いものは戦場には存在しません。それに、今回の完勝は私一人の力によるものではありません」
傍らに直立不動で控える、砂色の髪の若き将官の肩を優しく叩く。
「すべては先陣を切ったミュラー上級大将の力によるところが極めて大きい。彼の鉄壁の防御陣と、土星エンジンの機動力を掌握し融合させた一気呵成の攻撃。それが敵の目論見を打ち砕き、圧倒的な戦果を生み出したのです」
突然名前を挙げられたナイトハルト・ミュラーは、少し頬を紅潮させながらも姿勢を崩さず大声で応じる。
「きょ、恐縮の極みに存じます!!私はただ、メルカッツ元帥の完璧な作戦立案に従い、与えられた艦隊の性能を引き出したに過ぎません!」
謙遜はポーズではない。彼は自らの功績を誇る性格ではない。
しかし、彼がこの戦いで見せた働きは、公国軍の歴史に新たな伝説を刻むほどに神業的だった。
新たに標準装備となりつつある超高出力の土星エンジンの特性を誰よりも深く理解し、実戦で使いこなしたのだ。
従来、「鉄壁」の二つ名が示す通り、強固な防御陣形を敷いて耐え凌ぐ受け身の戦術を得意としていた彼が、今回は陣形を維持したまま土星エンジンの推進力を点火するという常識外れの戦術を実行した。
艦隊が一筋の光の槍のように超高速で突撃し、敵の懐深くでAMBACシステムを駆使した急ブレーキと方向転換を行い、至近距離から一斉射撃を浴びせる。
まさに防御と機動力が融合した「攻防一体」の神業。光速でぶつかってくるという理解不能な光景に、海賊たちはパニックに陥り逃げ惑うことしかできなかった。
「いやいや、ミュラーよ。謙遜など無用だぞ!」
「お前のあの戦いぶり、後方から見ていて鳥肌が立ったわ!まさかあの『鉄壁のミュラー』が、俺の黒色槍騎兵よりも速い速度で敵陣に突っ込んでいくとは夢にも思わなかったからな!おかげで俺の部隊は、お前が食い散らかした残党を追い回すだけの退屈な仕事しかできなかったではないか!」
羨望と悔しさが入り混じる。スピードと突撃は自分の専売特許だと思っていた彼にとって、完全にお株を奪われた形だった。
「それにしても……」
ファーレンハイトが面白そうに口角を上げる。
「鉄壁の防御力を持ったまま、雷のような速度で敵陣を蹂躙する。あれはもはや壁というより、意思を持った巨大な質量兵器だ。これからは、お前のことを『鉄壁』などという鈍重な名前で呼ぶのは相応しくないな」
「おお、それは良いな!ならば妾が直々に新しい異名を授けてやろう!ミュラーよ、今日からお主は公国軍において『雷光ミュラー』と名乗るがよい!どうじゃ、かっこいいじゃろ!?」
思いつきだ。しかし「雷光」という言葉は彼の神業を見事に表現しており、将兵たちも感嘆の声を上げる。
「ら、雷光……ですか。もったいないお言葉です」
戸惑いながらも深く一礼する。
こうして、彼はキルヒアイス公国軍において『雷光ミュラー』という新たな異名を奉られることとなった。
◇
華やかな恩賞と祝祭の空気が一段落すると、大広間は一転して事後報告の場へと切り替わる。
マルガレータの傍らの侍従が、データパッドをスクロールさせながら報告を開始した。
「陛下、そして提督の方々。撃破および拿捕した敵艦隊の残骸から艦形と製造元の照合データを抽出いたしました。その結果ですが……見事にバラバラです」
無数の残骸の画像が次々と映し出される。
「ご覧の通りです。自由惑星同盟の型落ちモデルもあれば、銀河帝国の旧式巡航艦も混ざっています。フェザーンの民間輸送船に無理やり武装を施したような船まで。……極めつけは、五十年前のティアマト星域会戦の時代に使われていたような、骨董品までが現役として運用されていました」
「つまり、どういうことだ?」
ビッテンフェルトが腕を組んで唸る。
「多種多様な艦船が入り混じっているということは、正規の軍艦を横流ししているわけではないということか」
「その通りです」
「帝国軍が支援している証拠もなければ、共和国軍が関与しているという痕跡もありません。あちこちからゴミのような船をかき集めてきた寄せ集めの集団であると推測されます。出どころを特定させないための、極めて巧妙なカモフラージュとも言えます」
ラインハルトが苛立たしげに腕を組みメルカッツを睨みつけた。
「残骸から証拠が出ないというのなら、生きている人間から直接聞き出せば良いではないか。捕虜はどうなっているのだ?一万隻もいれば一人や二人、背後の事情を知る幹部クラスが生き残っているだろう。尋問室に放り込み、どんな手を使ってでも吐かせれば良いだけの話だ」
海賊なのだから命を惜しんで情報を喋るだろうという計算がある。
しかし、メルカッツは重苦しい表情でゆっくりと首を振った。
「それが……ローエングラム公爵。信じがたいことですが、捕虜はゼロなのです」
「なんだと?」
「一万隻を撃破して捕虜がゼロ?冗談だろう。脱出ポッドの一つや二つ、回収できなかったのか?」
「脱出ポッドは一つとして射出されませんでした。それどころか……敵の司令官らしき者が乗っていた旗艦や幹部クラスの艦はすべて、我々の臨検部隊が乗り込む前に、自爆してしまったのです」
「自爆……だと?」
金や物資を目的とする海賊が、自らの命を投げ打ってまで秘密を守るなど聞いたことがない。
「徹底していますね……。金のために集まったただのならず者ではなかったということですか。それほどまでに守らねばならない巨大な秘密があるのか……あるいは……」
「捕まれば死刑になるのが法とはいえ……最初から死を覚悟したような、何か別の目的に憑りつかれたような戦いぶりでした」
「うーん……捕虜がいようがいまいが、これだけ派手にぶっ飛ばしてやったのじゃ。しばらくは海賊どもも大人しくなるじゃろうて」
「しかし、これほどの被害を与えれば、しばらくは海賊どもも大人しく……ありゃ?」
話を終わらせようと玉座から立ち上がる。
しかしその瞬間、視界が激しく回転し始めた。
「えっ……?」
足元から力が抜け落ちる。血の気が引き、世界が大きくグラリと揺らぐ。
「わっ、とと……!」
姿勢を崩し、階段を踏み外す。そのまま頭から床に向かって真っ逆さまに落ちそうになった。
「あっ!」
床に激突するよりも早く。
「陛下!」
控えていた侍従が見事な手際でマルガレータの体を受け止めた。
「だ、大丈夫ですか、マルガレータ!?」
キルヒアイスが駆け寄り、ラインハルトも顔色を変えた。
「どうした!毒か!?誰か、軍医を呼べ!!」
広間が一気に騒然となる。公国のトップが公の場で倒れるなど前代未聞の緊急事態だ。
侍従の腕の中で、マルガレータは顔を真っ青にして荒い息を吐いている。
「うーん……急に目の前が真っ白になって、めまいが……」
「少し、休ませ……う、うぷっ!」
突然顔が緑色に変わり、両手で口元を激しく覆う。
腕を乱暴に振り解くと、ドレスの裾を振り乱し、猛ダッシュで出口へと走り出した。
「うっぷ……!ど、どけ!道を空けるのじゃ!!」
「へ、陛下!?」
近衛兵たちを突き飛ばすような勢いで飛び出し、一直線に特別VIP用トイレへと駆け込んでいく。
扉が閉まる音の直後、一国の国家元首とは思えない嘔吐の音が微かに聞こえてきた。
「………………」
数分後。
「はあ……はあ……」
ふらふらとした足取りで戻ってくるマルガレータ。冷水で洗ってきたのか、前髪が濡れて顔に張り付いている。顔色はまだ悪いが、切羽詰まった様子はない。
心配と呆れが入り混じった無数の視線を浴び、少しバツが悪そうに照れ隠しの笑いを浮かべた。
「あはは……うーん……すまんすまん、心配をかけたな」
「どうやら、昨夜の酒が残っていたらしいのじゃ。最近もらったワインが美味しすぎて、つい一人でボトルを二本ほど空けてしまってな……。今朝から胃がムカムカしておったのじゃが、ついに限界が来たらしいわい。いやはや、酒は飲んでも飲まれるな、じゃな!ハハ!」
将官たちは一斉にずっこけそうになった。
「二日酔い……ですか」
傍らの侍従は、もはや怒る気力すら失せたというように冷ややかなジト目を向けた。
「……ですから、マルガレータ様。毎日毎日浴びるようにお酒を飲むのは控えるようにと再三申しましたよね?国家元首が二日酔いで公の場で嘔吐するなど、公国の恥以外の何物でもありませんよ」
「うむ……分かっておる、分かっておる!妾が悪かった。言い返す言葉もないわい」
「仕方ない……なんだか胃液が逆流しているようで、脂っこいものは食欲もあまりないしの」
お腹をさすりながら恨めしそうに呟く。
「その代わりと言ってはなんじゃが……今夜の食事は……そうじゃな、オレンジかレモンか、とにかく何か、さっぱりとした『酸っぱい果物』を大量に所望するのじゃ。それなら喉を通る気がする」
「はっ。承知いたしました。フェザーン中の市場から最高級の柑橘類を手配いたします。……本当に、この状況でまた新しいわがままを……」
◇◇
【フェザーン歓楽街 地球教サロン】
路地の突き当たりにある目立つ雑居ビルの一室。
ドアには『地球の恵みを感じよう!オーガニック&ハーブティー交流会!フェザーン支部』という、パステルカラーの可愛らしいプレートが掲げられている。
ここが人類の故郷である地球を狂信的に崇拝し、かつては宇宙全体を裏から操ろうと暗躍していた恐るべきカルト教団、地球教のサロンである。
室内は清潔でモダンな内装が施されていた。壁紙は目に優しいオフホワイトで統一され、観葉植物がセンス良く配置され、空気清浄機からはリラックス効果のある香りが微かに漂っている。
ヒーリングミュージックまで静かに流れ、どこからどう見てもただの意識高い系の自然派カフェにしか見えない。
「ふむ……」
彼の名はド・ヴィリエ。地球教の幹部の中でも極めて狡猾であり、現在のフェザーン支部における布教活動のトップを任されている男だ。スキンヘッドの頭を鈍く光らせ、普段は柔和な聖者の仮面を被っている彼だが、今はその仮面を完全に脱ぎ捨て、不機嫌の極みのような険しい顔つきをしている。
「つまり、お前はこう言いたいのだな。先日のメルカッツとミュラーの大規模な海賊討伐作戦により、海賊どもは、少しは勢力が弱まったかと思いきや……」
「大司教猊下。それが……大変申し上げにくいことなのですが……」
「勢いが収まるどころか、むしろ彼らの活動は以前にも増して『活発化』しているという表現が正しいかと……」
その報告を聞いて、ド・ヴィリエの眉間にある深い皺がさらに何本も増えていく。
「活発化しているだと?どういうことだ。海賊の主力となっていた大船団は一万隻以上も撃破されて宇宙の塵となったというではないか。頭を失い数を減らした烏合の衆が、なぜ活発化などするのだ」
「おっしゃる通り、まとまった数の大船団という形での組織的な脅威は完全に消滅いたしました。しかし、それがかえって最悪の事態を引き起こしてしまったのです」
幹部は報告書を読み上げる。
「群れを散らされた生き残りの海賊たちは、もはや大艦隊を組んで正面から略奪を行うことを諦めました。彼らは完全に『単艦』あるいは『数隻の小規模グループ』へと分裂し、蜘蛛の子を散らすように拡散してしまったのです」
「……何?」
「そして、彼らは一隻単位でのゲリラ的な略奪へと移行しました。公国のパトロール艦隊の死角を突き、一撃離脱で手当たり次第に民間船を襲撃しているのです。……むしろ、彼らが細かく散らばってしまったせいで、被害の件数そのものは大船団だった頃よりも跳ね上がってしまっています」
「公国軍は、『土星エンジン』を搭載した高速艦艇を持っているではないか!なぜ、その機動力をもってして散らばった海賊どもを一掃できないのだ!」
苛立ちを隠せず声を荒げる。
「それが……土星エンジンの機動力が圧倒的すぎるが故の、皮肉な結果なのです」
「海賊どもも土星エンジンの恐ろしさを学習し、軍のレーダーに引っかかった瞬間に略奪を諦めてやり過ごすという、ステルス・ゲリラ戦法をとるようになっています。……結果として、公国軍の疲弊はさらに増大しているとのことです」
「馬鹿な……」
「これでは、重要な『聖地巡礼のツアー』が安全に運航できんではないか!」
事実、ここ数週間の間に聖地巡礼ツアーの船が何度もゲリラ海賊の襲撃を受け、運航の中止や延期が相次いでいる。
信徒たちからのクレームは殺到し、保険金の支払いやツアー代金の払い戻しで教団の資金繰りは悪化の一途を辿っているのだ。
「公国軍は一体何をやっているのだ!治安維持の責任を果たせん無能どもめ!海賊を叩き潰すなら、一匹残らず完全に殲滅して見せろ!中途半端に群れを散らして、我々のシノギにまで悪影響を及ぼすなど言語道断である!」
幹部は小さく縮こまり、嵐が過ぎ去るのを待つように沈黙を守っている。
ド・ヴィリエはしばらく荒い息を吐いていたが、やがて深呼吸をして無理やり感情を押し殺した。
「……ええい、ここで愚痴をこぼしていても始まらん。海賊の問題は公国軍に何とかさせるしかない。我々は我々のやるべきことを進める。サロンに集まる市民どもの心の隙間に付け込み、少しずつでも信徒を増やし寄付金を巻き上げるのだ。……今日の予約状況はどうなっている?」
気を取り直して尋ねると、幹部は慌てて羊皮紙をめくる。
「は、はい。本日の午後は定期的な子育て交流会のお茶会が予定されています。常連の主婦層を中心に十名ほどが参加の予定です。……あ、それと」
「あのマルガレータ・トルナードという女性も本日来店する予定となっております」
「ほう。あの公爵家の使用人か」
「彼女は、ラインハルト・フォン・ローエングラム公爵の一人息子の教育係を務めている利用価値の高い女だ。彼女の心に深く入り込めば、いずれ公爵家の内部情報や公国中枢の動向を探るための重要なパイプとなるやもしれん」
「彼女には特別に気を使え。最高のハーブティーとクッキーを出して、日頃の育児の愚痴を徹底的に聞いてやるのだ。彼女がこのサロンを『唯一の心の拠り所』と錯覚するまで、決して教義や怪しげな話題は出すなよ。時間をかけて、じっくりと精神を絡め取るのだ」
「はっ!承知いたしました。猊下のシナリオ通りに進めてみせます」
スタッフルームの外、サロンの入り口のドアが軽く叩かれる音が響く。
それと同時に、明るく警戒心のない女性の声が聞こえてきた。
「すいませーん。こんにちはー。今日もよろしくお願いします〜」
トルナードの声である。予定よりも少し早い到着だ。
「来たな」
カルト幹部の顔からすべてを包み込むような柔和な「聖者」の顔へと切り替える。この切り替えの速さと完成度の高さこそが、宗教指導者としてここまで上り詰めた最大の武器である。
「よし、行くぞ。お前は奥で茶の準備をしろ」
短く指示を出すと、温和な微笑みを浮かべながらサロンへと足を踏み出した。
「おお、いらっしゃい。トルナード女史。お待ちしておりましたよ。本日もようこそお越しくださいました」
「大司教さん!こんにちは。いつも美味しいお茶と愚痴を聞いてもらってすいません。今日もまたうちのわんぱく坊主のことで色々と聞いてほしくて……」
すっかりこのサロンの居心地の良さに毒されているのか、満面の笑顔で駆け寄ってくる。手には差し入れのフルーツの入った紙袋が提げられていた。
「ええ、ええ。もちろんですとも。貴女の抱える悩みや苦しみはすべて私が受け止めましょう。ここは日々の重圧から解放されるための安らぎの場所なのですから」
聖職者らしい優雅な仕草で深く頷き、テーブルへと案内しようとする。
しかし、彼の視線がトルナードの背後に向くと…。
「……おや?」
「そ、そちらの方は……?」
トルナードの背後には、彼女とは対照的な、どこか凛とした、隠しきれない圧倒的な気品と知性を漂わせた一人の若い女性が立っていた。
柔らかで美しいショートカットのブロンドヘア。
身重であることを感じさせるふっくらとしたお腹を、上質な生地の、しかし動きやすいデザインのマタニティドレスで包み込んでいる。
決して派手ではないが理知的で、すべてを見透かすような深く澄んだ瞳。
トルナードは彼の動揺に全く気づく様子もなく、にこやかに紹介した。
「ああ、すいません、急にお連れしちゃって。こちらは私の雇い主の奥様であり、このキルヒアイス公国で工部尚書を務めておられる、ヒルデガルド・フォン・ローエングラム様です。私がいつもここで子育ての相談に乗ってもらっていると話したら、大司教さんの素晴らしいお話を是非一度お聞きしたいとおっしゃりまして……」
『なっ……!!何故だ!?何故こんな大物がいきなりここに現れる!?潜入捜査か!?罠か!?我々の正体がバレたのか!?』
心臓は早鐘を打ち、口から飛び出してしまうのではないかというほどのパニックに陥っていた。
もしこの場で正体が露見し、彼女に何か危害を加えようものなら、間違いなくあの金髪の獅子は激怒し、公国の艦隊、近衛隊がこの町を文字通り物理的に焦土と化すだろう。地球教など一瞬にして宇宙の塵となる。
背中を滝のような冷や汗が流れ落ちる。
しかし。
ここで逃げ出したり不審な態度をとれば、それこそが危険な自爆行為である。
己の全存在を懸けた演技力を発揮するしかない。
「初めまして、大司教様。突然の訪問をお許しください。地球教の方々にはこちらのトルナードがいつもお世話になっていると聞きまして。彼女は息子の相手で毎日疲労困憊しているはずなのに、ここへ通うようになってからとても明るく前向きになったのです。一体どのような素晴らしい教えを説いておられるのか、私も一人の母親として見学に伺いたいと思いまして」
ただ純粋に、使用人の恩人に対する感謝と母親としての興味があるだけのように聞こえる。
「ろ……ローエングラム夫人!!こ、これは……よ、ようこそお越しくださいました!」
「いやはや、驚きました。まさか公国の中枢を担われる閣下ご本人が、我々のようなささやかな民間サロンに足を運ばれるとは。夢にも思っておりませんでしたゆえ、お見苦しいところをお見せしていないかと冷や汗が出る思いです」
相手の権力に対する自然な萎縮を演じることで怪しさを消す作戦である。
ヒルダはそんな態度を見て、クスリと小さく笑った。
「そう固くならないでくださいな、大司教様。今日は工部尚書としてではなく、ただの『アレクの母親』として、そして『トルナードの雇い主』として参りましたの。それに……」
サロンの穏やかな雰囲気、観葉植物の緑、漂うハーブの香りをとてもリラックスした様子で見渡す。
「皆様が、カルト宗教などではなく、日頃から育児支援や貧困層への炊き出し、自然保護活動などを熱心に行う善良な団体であることは……私の耳にもしっかりと届いております。素晴らしい社会貢献だと思いますわ」
「よろしければ……」
「私にも、皆様が崇拝されているというその『地球の歴史』や自然を愛する教えについて、少しだけお話を聞かせていただけませんか?私は生まれが帝国の貴族ですので、あまり人類の起源について深く学ぶ機会がなかったものですから」
ここで下手に狂信的な思想を語ったり教祖の威光を押し付けたりすれば、彼女の明晰な頭脳は一瞬で教団の危険性を看破するだろう。
ド・ヴィリエは背中の冷や汗を拭いながらも、口元には聖者としての微笑みを絶やさなかった。
「も……もちろんですとも!!夫人ほどの知性あふれるお方に我々の教えを聞いていただけるなど、これ以上の喜びはございません!さあ、どうぞこちらへ!!」
そして。
運命的な出会いから数日の時が流れた。
結果から言えば、全精神力をすり減らすような接待は見事に成功を収めていた。
ヒルダはすっかりサロンの雰囲気を気に入り、仕事の合間を縫ってトルナードと共にお茶会に顔を出すようになっていたのだ。
なぜあの銀河最高の知性を持つヒルダが通い詰めるようになったのか。
理由は簡単である。
ド・ヴィリエが彼女に対して「洗脳しよう」とか「教団に取り込もう」などという宗教家としての危険な欲を一切出さなかったからである。
彼はヒルダが訪れるたびに、ひたすら「良き教養人」であり「良き相談相手」であるという役割を演じきっていたからだ。
「大司教猊下。貴方は本当に実に聡明で博識な方ですね」
「人類の故郷である地球の歴史や失われた生態系の知識もさることながら、政治や経済のお話も、さらには日常のあらゆる事象にまで深く精通しておられる。先ほどのお話もとても興味深く拝聴いたしました。感服いたしましたわ」
称賛の言葉はお世辞ではなく本心からのものであった。
ド・ヴィリエは宇宙を牛耳ろうとしている教団のトップエリートである。その知識量と話術の巧みさは並の大学教授などを遥かに凌駕している。
彼がその知能を宗教の教義ではなく純粋な教養として提示した結果、彼女は「非常に話の分かる優秀な知識人」として高く評価してしまったのである。
「いえ……奥様からそのような過分なお褒めの言葉をいただくと、穴があったら入りたい気分でございます」
「私など、ただ地球に残る古き歴史の資料を読みあさり、先人たちが自然とどう向き合ってきたかその知恵を知っているにすぎません故……。奥様のような実際に国家を動かし民衆を導いておられる方のご苦労に比べれば、私の知識など机上の空論に過ぎません」
「そんなことありませんよ〜!」
お茶請けの手作りクッキーをかじっていたトルナードが笑いながら会話に入ってくる。
「私、最初はこの人、ツルッパゲだしなんか変な服着てるし、絶対ヤバい宗教の教祖なんじゃってめちゃくちゃ警戒してたんですよ」
身も蓋もない暴言に顔を引き攣らせそうになるが、笑顔で耐える。
「でもね、この大司教さんただの歴史オタクじゃないんです。子育ての時の夜泣きの対処法とか、離乳食を食べてくれない時の料理の裏技とか、生活に密着したことにもすっごく詳しくて!本当にびっくりしちゃいました!」
「おや、そうなんですか?」
ヒルダが驚いたように目を丸くする。
「ええ!大司教さんが教えてくれた寝かしつけ、アレク様にも試してみたらすっごく効果があったんですよ!」
「いえいえ。大層なことではありません。ただ、私はこう思うのです」
「新しい命を育み、温かい家庭を築くという営みにおいて、男女の区別や役割の固定化などあってはならないと」
「……と、おっしゃいますと?」
「命を宿し産み落とすという神秘の業は、当然ながら女性にしかできない過酷で尊い仕事です。しかしその後の育てること、夜泣きに対応すること、離乳食を作ること……そういった日常の苦労を分かち合うことは、決して母親だけの責任ではありません。父親であり夫である者も等しく、いやそれ以上に家庭に関与し負担を分かち合うべきなのです。……それこそが人類が学んだ最も美しい『共生』のあり方だと、私は信じております」
カルト教団の幹部が「ワンオペ育児の否定」と「父親の育児参加」を高らかに謳い上げるなど誰が想像できようか。
しかしこの真っ当で優しさに満ちた言葉は、現在第二子を妊娠しながら国家の重職を担い、そして深刻な不満を抱えているヒルダの心の柔らかい部分に深く突き刺さった。
「……本当に!!」
「本当に、大司教猊下のおっしゃる通りですわ……!」
「……うちの人、ラインハルトは確かに素晴らしい人です。艦隊を率いて戦うことや国家規模の壮大な政治のビジョンを語ることには誰よりも夢中になりますし天才的な能力を発揮します。でも……」
少しだけ眉を下げ、疲れたような顔で愚痴をこぼし始めた。
「『一光年以下の内容』……日常の瑣末なこと、家庭の細々としたことには全くといっていいほど興味がないし不器用極まりないのです。……この前もそうでした」
思い出し、呆れたように首を振る。
「アレクが夜中に急に熱を出して泣き出した時のことです。子供が熱を出すなんてよくあることなのに、うちの人は大パニックに陥りまして。すぐにお医者様を呼べばいいものを、『俺の息子がたかがウイルスごときに敗北するはずがない!俺が直々に指揮を執ってこの熱を平定して見せる!』とか言い出して、おでこに冷えピタを貼りながら謎の戦術指示みたいな励ましを延々と続けて……かえって子供が泣き叫んで寝られなくなってしまったんです」
「まあ……それはなんとも壮大なスケールの子育てですね」
「壮大なんてものじゃありません、ただの邪魔です。……昔おむつ替えをお願いした時なんて、もっと酷かったんですから。おむつを危険物でも扱うみたいに眉間に皺を寄せて慎重に広げて……『よし、今だ!今しかない!予備の装甲を用意しろ!』なんて叫んでいる間にアレクにおしっこをひっかけられて大騒ぎですよ。もう、見ているこっちが疲れてしまって」
「あははは!そんなことあったんですねえ!」
「離乳食を食べさせる時も、『この栄養ペーストは見た目の色彩の美しさに欠ける。食事として相応しくない』とか言ってわざわざシェフに星型のニンジンを作らせて、自分が満足するまで食べさせようとしないんです。子供はお腹が空いて泣いているのに……」
ド・ヴィリエはすべての愚痴に対し決して否定することなく、最高のタイミングと声のトーンで完璧な相槌を打ち続けたのである。
「ええ、ええ、お辛いですね。分かりますよ」
「それはご主人がいけませんね。女性の苦労を少しも分かっておられない」
「元帥であっても、揺り籠の前ではひざまずくことを学ばねばなりませんな」
それはまさに、宗教的洗脳よりも遥かに恐ろしい現代のカウンセリングの極意、「圧倒的共感と傾聴」であった。
地球教は血を一滴も流すことなく少しずつ、しかし確実に公国の心臓部へと浸透しつつあった。
これが吉と出るか破滅を呼ぶ凶と出るかは、この時点ではまだ神のみぞ知ることであった。
「ふふっ……あらやだ、私としたことが。つい楽しくて愚痴ばかり話し込んでしまいましたわ」
「大司教猊下。今日は本当に楽しいお時間をありがとうございました。猊下とお話ししていると本当に心が軽くなります」
「もったいないお言葉です。奥様の笑顔を見られることが私にとって何よりの喜びでございます」
「そうだわ。大司教猊下。もしよろしければ今度、うちの公爵邸の夕食にでもご招待しようかしら?」
「……え?」
「うちの人って軍の提督たちや政治家ばかりと付き合っているから、家庭の事とか人間としての柔らかい部分の教養が不足しているんです。だから彼にも一度猊下にお会いしていただいて、少しでいいから『家庭人としての教え』や男女が共に歩む大切さについてお話を聞かせてやってほしいくらいですわ」
それは地球教が何年かけても成し遂げられなかった、政治的中枢への完璧な合法ルートでの侵入を意味していた。
ド・ヴィリエはテーブルの下で震える手を固く握りしめ、内心で『よっしゃああああああっ!!』と喜びつつ。
表面上はあくまで謙虚で穏やかな聖職者の顔を一切崩さずに答えた。
「……光栄の至りに存じます。私のような者の話でよろしければいつでもお声掛けください。喜んで馳せ参じます」
「ありがとうございます。では近いうちに必ず予定を合わせますわね。行くわよ、トルナード」
「はい、奥様!大司教さん、また来週もよろしくお願いしますねー!」
ヒルダは、この時点で地球教のことを微塵も疑っていなかった。
いや、疑う理由がどこにも存在しなかったのだ。
なぜなら彼らは政治にも軍事にも一切口を出さず危険な教義を押し付けることもなく、ただひたすらに「疲れた母たちの心」を癒やし共感してくれるだけの完璧な聖者なのだから。
お読みいただきありがとうございました。
今回は海賊討伐の後日談と、地球教側のお話でした。
メルカッツ元帥や雷光ミュラー、そしてヒルダと地球教のやり取りについて感想をいただけると嬉しいです。