銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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キルヒアイス公国に、新たな命が宿った。

本来なら祝福されるべき知らせだった。

だが、その子の父親をめぐる一言が、公国首脳部を凍りつかせる。

その一方で、何も知らぬラインハルトは新たな戦場へと出撃しようとしていた。



後継者問題とブリュンヒルト出撃

【フェザーン公立第一病院】

 

「離せ! 離すのじゃ! 妾は公王ぞ! 不敬罪じゃ! 大逆罪じゃああああ!!」

 

診察台の上でマルガレータは野生のイノシシのように手足をバタバタして、絶叫を上げている。

 

しかし、彼女の抵抗は、三人の男たちによって完全に無力化されているのである。

 

「マルガレータ、暴れないで。針が危ないからね。すぐに終わるから、深呼吸をしてごらん」

 

「ふむ。自ら進んで採血も受けられないとは。公国のトップに立つ者として、情けないにも程がありますな」

 

「まったく、大の大人がみっともない。ほら、足もバタバタさせないでください。シーツが汚れますし、看護師さんの邪魔です」

 

キルヒアイス、オーベルシュタイン、そして侍従。

公国を実質的に動かしているこの三人にかかれば、マルガレータに逃げ道など宇宙のどこにも存在しないのだ。

 

「ひいいいぃぃっ! 来るな! 妾に近づけるな! 痛いのは嫌じゃ! 痛いのは嫌なんじゃああああ!!」

 

医師は愛想笑いを浮かべながら、注射器を彼女の腕へとプスリと刺す。

 

「ぎゃああああああああああ!!!」

 

しかし、シリンダーに血液が吸い上げられていく時間は、ほんの数秒である。

 

「はい、終わりましたよ。お疲れ様でした、公王陛下」

 

「ううう……痛い……妾はもう死ぬかもしれん……失血死じゃ……」

 

「バカなことを言っていないで、さっさとエコー検査の準備をしますよ。ほら、服をまくってください」

 

医師は、手元のカルテとモニターを交互に確認し、恭しい態度で深く頭を下げる。

 

「公王陛下。誠におめでとうございます。ご懐妊です。血液検査のホルモン値も基準を満たしておりますし、エコーでも小さな胎嚢(たいのう)がしっかりと確認できました。間違いありません」

 

「おお……!」

 

しかし。

 

当の本人であるマルガレータは、ベッドの上で丸くなったまま、死刑宣告を受けたかのような絶望的な顔色になっている。

 

「う………うむ。大儀である。……ご苦労じゃった」

 

「……それで……、どうなのじゃ??」

 

マルガレータの問いかけに、医師は不思議そうに首を傾げる。

 

「え? あ、はははは。性別のことですか? いくらなんでも、男か女かはまだわかりませんよ、陛下。今はまだほんの数ミリの小さな命の芽生えです。もう少し育ってからでないと、エコーでも判別は不可能です」

 

普通、親が最初に気にするのは子供の性別や健康状態であるから、その返答は極めて自然である。

 

「ん? そうかの??」

 

「………じゃなくてじゃな。その………父親の…………その…………遺伝子情報とかは、今のその抜いた血から、分かるのかと言っておるのじゃ…………!」

 

彼女の言葉は、明らかにおかしい。

動揺のあまり、声が裏返り、目が左右に激しく泳ぎまくっている。

 

「ん? マルガレータ。父親の遺伝子って……僕がどうかしたんだい?? 僕の家系に何か遺伝病でも隠れていると心配しているのかい? 大丈夫だよ、僕は健康そのものだし……」

 

マルガレータは、キルヒアイスのその汚れなき純粋な瞳を見て、さらに滝のような冷や汗を吹き出す。

 

「い、いや…………その…………違うのじゃ、ジーク!! その、なんというか……」

 

「その……あれじゃ! 血液型とかじゃ……! 占いとか純粋な医学的興味じゃ! そう、ただの好奇心じゃ!!」

 

「血液型ですか? それも当然、赤ちゃんが実際に生まれてみないとわかりません。そのような鑑定を行うには、もう少し週数が進んでから羊水を採取するか、あるいは無事に出産されてから直接検査を行うしかありませんね」

 

「むむ! そうか!!」

 

「まだ分からんのじゃな!!! 妾の血からはまだわからんのじゃな!!! ハッハッハ!! ならば良い!! 全くもって問題ないわい!! 医学の限界バンザイじゃ!!!」

 

その笑い声は、危機を脱した安堵感からくる、完全な「自爆」の宣言に他ならない。

 

「いやあ、よかったよかった! これで一安心じゃ! ジーク!! 妾は今、注射の恐怖と過度な緊張でひどく疲れた! 今すぐお前に飛び込んで、思いっきり甘えたいのじゃ〜! 抱っこしてくれ〜!」

 

しかし……。

ガシッ、と、彼女の身体は空中で静止する。

キルヒアイスが、彼女の肩を掴み、その抱擁を物理的に拒絶したのである。

 

「……ジ、ジーク?」

 

キルヒアイスは、微動だにせず、ただ静かに、マルガレータを見下ろしている。

 

「………………」

 

背筋に、氷の刃を押し当てられたような悪寒が走る。

彼女は恐る恐る、視線を横へとずらす。

ベッドの傍らに立つ、オーベルシュタイン。

 

「………………」

 

さらに視線を足元へと向ける。

侍従である。

 

「………………」

 

「……え、あ……その……」

 

全身の毛穴から、先ほどとは比べ物にならないほどの、氷のような冷や汗が吹き出していく。

 

「ジ、ジーク……? どうしたのじゃ、そんな怖い顔をして……。妾、何か変なこと言ったかのう……?」

 

マルガレータは、引きつった笑いを顔面に貼り付けたまま、ガタガタと小刻みに震え出す。

 

キルヒアイスは、マルガレータの肩を掴んだまま、ゆっくりと、ゆっくりと、その顔に「笑顔」を浮かべる。

 

「マルガレータ」

 

それは、優しく、温かく、しかし同時に恐ろしいほどの威圧感を伴った笑顔である。

 

「ひっ!」

 

「ん? 何じゃ、ジーク。その、目は笑っておらんぞ……」

 

「今なら、許してあげよう」

 

「えっ……」

 

「ひっ! な……、な……な……なんのことじゃ? 許すとは、一体何のことじゃ?」

 

キルヒアイスは、肩を掴む手に少しだけ力を込め言葉を続ける。

 

「『今』言うなら、何を言っても許してあげる。僕は絶対に怒らないから。だから、隠し事はなしにして、正直に言ってごらん??」

 

「怒らないから正直に」という言葉は、あらゆる尋問技術の中で最も恐ろしい手法である。絶対に怒るに決まっているのだ。

 

「で……、でも……」

 

涙目になりながら、チラチラとオーベルシュタインと侍従の方を見る。

 

「仮にお前が許してくれたとしても……ほかの二人は、絶対に怒るかもしれんし……。特に侍従の目が、もう妾を殺す気満々なんじゃが……!」

 

「私が許す、許さないの話ではない気がしますがな。私はただの軍務尚書であり、一介の参謀に過ぎません。陛下の私生活の乱れに口を挟む権利は持ち合わせておりません」

 

「右に同じくです。私はただの雇われの使用人に過ぎませんから、陛下の愚行に怒る権利などありません」

 

もはや、逃げ道は完全に絶たれた。

 

「うううっ……!」

 

そして、ついに、彼女の口から、キルヒアイス公国を根底から揺るがす自白が放たれるのである。

 

「…………、わからないのじゃ」

 

「……、???」

 

「何がだい、マルガレータ? わからないとは?」

 

「父親がどちらかわからないのじゃーーーー!!!!」

 

「どちらか……?」

 

「そうじゃああああ! 本当に申し訳ない! 魔が差したのじゃ! いや、酒が悪いんじゃあああ!!」

 

「ジークと寝た後、オーベルシュタインの部屋にも行っておったんじゃああああ!! だから、子供が、ジークの子なのか、オーベルシュタインの子なのか、妾にも全く分からないのじゃあああああ!!!!」

 

 

ピシィィィィィッ……!!!!

 

「……………………え?」

 

キルヒアイスは、マルガレータを諭していた顔のまま石化している。

 

「……」

 

「……へ…陛下…。先に殿下の子だから避妊はしっかりなさっていると言っていたのは…。まさか、あれが……」

 

そして。

足元に立つ侍従は。

 

もはや怒る気力すら完全に失い、両手で顔を深く覆い、天を仰いでいる。

 

「……終わった」

 

「誰の子か分からない子供を妊娠、その候補が公王配と軍務尚書。……血で血を洗う後継者争い、派閥の分裂、そして内戦。修復不可能な亀裂が入る……」

 

これから自分に降りかかるであろう、想像を絶する規模の政治的・法的な事後処理と、スキャンダル隠蔽のための仕事の山を幻視する。

 

「……ああ、ダメだ。この国、完全に終わったな。もう辞表を書こう。田舎に帰って農業でもやろう……」

 

キルヒアイス公国は、戦争が始まる前に公王の性的な不始末によって、崩壊の危機に直面していたのである。

この地獄絵図がどのように収拾されるのか、それはもはや神のみぞ知る領域であった。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

漆黒の宇宙空間を背景にして、純白の、まるで巨大な白鳥のような流線型のフォルムを持つ戦艦が、出撃の時を静かに待っている。

 

銀河の歴史において、常に彼とともにあり、彼の栄光を象徴する旗艦《ブリュンヒルト》である。

 

そのブリッジの、一段高く設えられた指揮座。

そこに、一人の男が腰を下ろしている。

 

黄金の獅子、ラインハルト・フォン・ローエングラム公爵である。

 

彼は、長い病床生活から回復し、ジグソーパズルで鈍っていた頭脳を覚醒させ、かつての、いや、それ以上の覇気と輝きを放ちながら軍服に身を包んでいる。

 

「閣下、全艦隊、出撃準備完了いたしました。いつでも発進可能です」

 

スクリーンには、彼の出撃に従う、数万の将兵たちの顔が映し出されている。

ラインハルトは、彼らに向かって、誇り高く、そして力強く宣言する。

 

「全軍の将兵たちよ。これより我が艦隊は、出撃の途につく」

 

「我々のこの遠征の真の目標は、現時点では最高軍事機密である。お前たちにすべてを語ることはできない。……だが、これだけは断言しよう」

 

「俺が病に倒れ、無力に横たわっていた時、公国を守り抜いてくれたのは、他ならぬお前たち将兵の奮闘と、そして我が無二の友であるジークフリード・キルヒアイスの尽力だ」

 

ラインハルトの頭の中には、政務に追われながらも常に自分を気遣ってくれた、あの優しく誠実な赤毛の友の顔が浮かんでいる。(その親友が今、石化して絶望の淵にいることなど、彼は知る由もない)

 

「俺は、その恩義に報いねばならない。この戦いは、必ずやキルヒアイス公国に平和をもたらし、そしてお前たちと、愛する家族の繁栄のための勝利となる出兵であることを、このラインハルト・フォン・ローエングラムの名において約束しよう!」

 

『おおおおおおおおっ!!!』

 

『ジーク・ローエングラム!!』

 

『ローエングラム公爵万歳!!』

 

士気は最高潮に達している。

 

「全艦、発進!! 星の海へ、俺たちの進むべき道を切り開け!!!」

 

その美しい白亜の旗艦に続くのは、先日、神業的な機動戦を見せた「雷光」ことナイトハルト・ミュラーが率いる艦隊である。彼もまた、新たな任務に闘志を燃やし、一糸乱れぬ陣形で出撃の途についている。

 

背後の国家元首が危機に瀕していることなど、彼らは文字通り、露ほども知る由はなかった。

彼らが信じているのは、ただ目の前の戦いの大義と、この黄金の獅子がもたらすであろう栄光の未来だけである。




お読みいただきありがとうございました。

今回はマルガレータの懐妊と、公国を揺るがしかねない父親問題、そしてラインハルトの出撃を描きました。

キルヒアイス、オーベルシュタイン、侍従の反応や、何も知らず出撃するラインハルトについて感想をいただけると嬉しいです。
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