銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
撤退か、防衛か。
ユリアンの進言に対し、ヤン・ウェンリーは自らの不敗を賭けて要塞防衛を選ぶ。
【自由惑星共和国・イゼルローン要塞】
これまでの歴史の中で、要塞の主は幾度も入れ替わってきた。
だが、武力と用兵のみによって、この要塞を正面から陥落させた事例は二度しか存在しない。
そしてその奇跡は、すべて同一の男によって成し遂げられていた。
自由惑星共和国総統、ヤン・ウェンリー。
「……それで?」
視線の先には、直立不動の姿勢を崩さない青年がいた。ユリアン・ミンツ。
「ファルケンハイン自らが、大軍を率いてこのイゼルローン要塞に向かって進軍してきていると?」
「はい。間違いありません、ヤン総統閣下」
「帝国の親征部隊の規模は、約六万隻という大軍です。彼らは現在、イゼルローン回廊の入り口に向けて進軍を続けています。このままの速度を維持すれば、我々との接触はもはや時間の問題です」
ヤンは短く応じ、再び紅茶に唇を浸した。
「……やれやれ。わざわざ自ら最前線まで出向いてくるとはね。宮殿のベッドで昼寝でもしていればいいものを」
「閣下。のんきに構えている場合ではありません。現在の状況を鑑みるに、これは極めて危険な事態です。……直ちに、アッテンボロー提督達の部隊に、即時撤退の命令を出すべきではありませんか?」
その具申は、防衛の原則に叶っていた。
「敵の本隊六万隻がこの要塞に迫っているのです。イゼルローンに駐留している我々の本隊だけでは、数の上で不利になります。戦力を一点に集中させて、このイゼルローンの防御力をもって迎え撃つべきです」
「………いや。それは下策だね、ユリアン。彼らを今、このタイミングで呼び戻すわけにはいけない」
「なぜですか!?」
「戦術的な視点と、戦略的な視点、その両方から見て、彼らを撤退させるメリットが薄すぎるんだ。考えてもごらん。現在、アッテンボローとラップは、シャンタウ星域で膠着状態に持ち込んでいる。これは彼らが非常に上手く立ち回っている証拠だ」
「もし、ここで我々からの命令で、彼らが背を向けて退けばどうなる?まず戦略的に、我々共和国は、せっかく得た領土を、戦わずして放棄し、失うことになる。これは国内の政治的にも、兵士たちの士気という面でも、大きなマイナスだ」
「領土など、閣下のご無事に比べれば些末な問題です!」
「そうかもしれないが、戦術的なリスクはもっと致命的だよ」
「戦闘の真っ最中に、撤退行動に移るというのは、軍事行動の中で最も難しく、最も危険な作戦だ。……もし私が、あのアルブレヒト・フォン・ファルケンハインの立場なら、どうするか」
「ヤツは確実に、アッテンボローたちが後退したその一瞬の隙、陣形が伸び切ったタイミングを見逃さない。直ちに自軍を反転させ包囲して殲滅してしまうだろうね。……ヤツは、そういう相手が一番嫌がるタイミングで、一番嫌がることを平気でやってくる男だ」
「ですが、アッテンボロー提督とラップ提督の部隊だけでなく、現在は後方からパエッタ提督の第二艦隊も援軍として急行しています!彼らが合流すれば、艦隊の規模は十分なものになります。三つの艦隊が連携して退き戦を行えば、いくらミッターマイヤーの追撃が凄まじかろうとも、上手く切り抜けられるのではありませんか?彼らなら、その程度の後退戦術は十分にこなせるはずです!」
しかし、ヤンは再び肺の奥の空気を吐き出し、頭を振った。
「よしんばだよ、ユリアン。よしんば彼らが、君の言う通りにミッターマイヤーの追撃を振り切って、無傷のまま、イゼルローン要塞まで撤退できたと仮定しよう」
「そうして彼らが要塞に入ったとして、結果として何が起こる?相手……つまり帝国軍は、単純に前線に展開していた四万五千隻の兵力が、そのままファルケンハインの親征部隊六万隻と合流することになるんだ。合計で十万隻を超える大艦隊が、このイゼルローン回廊に押し寄せてくることになる」
「敵の兵力を一つの場所に集中させてしまうという時点で、撤退の意味は薄いよ。……せいぜいが、イゼルローン回廊という、狭くて大軍を展開しにくい地の利と、要塞に頼って消耗戦を戦えること……それくらいしかメリットがない。そんな受け身の戦いをするくらいなら、今のまま前線で、アッテンボローたちに敵を釘付けにして、兵力を分散させてもらっていた方が、遥かにマシというものだよ」
だが、ユリアンの表情が晴れることはなかった。
「ですが総統!閣下の計算は、この要塞が無事であることを前提にしています!もしも、もしもですよ!ここで我々が、ファルケンハインに敗れ、この要塞が陥落するような事態に陥ればどうなるか、お分かりですか!?」
「アッテンボロー提督たちは、補給線を完全に断たれることになります!敵中に孤立してしまいます!彼らは干上がり、全滅するしかなくなるのですよ!!」
ヤンの瞳から一切の緩みが消え、底の知れぬ静謐な光がユリアンを射抜く。
「………私が」
声音は極めて小さかった。しかし、それは逆らうことの許されぬ絶対的な重みを含んでいた。
「私が、負けると思うかい?ユリアン」
「…………!」
不敗の魔術師。その歴史そのものが、反論の余地を完全に奪い去る。
しかし、青年は自身の内から湧き上がる衝動を抑えきれず、顔を紅潮させた。
「…!!閣下!!そのような、そのような表現で反論を封じるのは卑怯です!!」
それは甘えであり、同時に確かな自立の兆しでもあった。
「……そうだな。君の言う通りだ。私が悪かったよ、ユリアン」
「確かに、今の言葉は卑怯な表現だったよ。部下の進言を封殺するなど、無能な権力者がやることの最たるものだ。……それを私に真っ向から指摘できるようになるなんて、君も本当に成長した証拠だ。私は嬉しいよ」
「いや、いいんだ。君の懸念はもっともだよ」
「………心配しないでくれ、ユリアン。私がただの根拠のない自信だけで、こんなのんきにお茶を飲んでいるわけがないだろう?負けないための仕込みは、ちゃんと進めているさ」
「まあ、運が良ければ、だがね。今回の戦いで……三国の均衡も終わるだろうさ」
「終わる?終わるとは、どういう意味ですか、閣下?帝国が敗れ、我々が宇宙の覇権を握るということですか?」
ヤンは自嘲の笑みをガラス窓に映した。
「いや……そうじゃない。覇権なんて面倒なものは誰かに任せておきたいんだがね。……実に嫌なことだが」
「実に嫌なことだが……私の『不敗』はこの先もまだしばらくは、続くだろうと言うことさ。私が負けることは、歴史がまだ許してくれないらしい。やれやれ、退役して年金生活を送れる日は、まだ遠そうだ」
彼にとって、勝利とは多くの命を奪うことと同義だった。
◇◇
【ロンゴミニアド】
「うん、うん」
「どうやら、ミッターマイヤー達は、上手いことアッテンボローの艦隊を足止めできているみたいだな。さすがは俺の誇る猛将たちだ、いい仕事をしてくれる」
「このまま連中が前線で遊んでいてくれれば、俺たちの進軍ルートはガラ空きだ。アッテンボローなり、ラップなりがいないってだけで、要塞の攻略は随分と楽になるってもんだ。ヤン・ウェンリー一人なら、押し潰す隙はいくらでもある」
傍らに立つワーレンが口を開いた。
「しかし、陛下」
「今回の親征において、帝都オーディンの守護を任せるためとはいえ、ロイエンタール閣下を残してきてしまって、本当によろしかったのでしょうか?」
「我々がこれから相対するのは、魔術師ヤン・ウェンリーが立て籠もる難攻不落のイゼルローン要塞なのですぞ。相手にとって不足はありません。我が軍が誇る双璧の一人であるロイエンタール閣下を動員せず、戦力を分散させるというのは……いささか不安が残ります。彼の知略と指揮能力があれば、我々の勝率はさらに上がったはずです」
「ワーレンの言うことも一理ある。ヤン相手に全力を出さないのは舐めプだと思われるかもしれないな。……だがな」
「俺は、マルガレータのことを、『家族』として信頼している」
「……だがな」
「マルガレータは底知れぬ野心家でもあるんだ。俺がこうして大軍を率いてイゼルローンにかまけている隙を狙って、攻め込んでこないとは限らないだろう?」
すべてを見越した配置だ。
「……それはそれ、これはこれですか?陛下」
「ん?どういうことだ、リューネブルク」
「……信頼と不信の、あまりにも見事な二重基準です。その矛盾を平然と両立させているあたり、おそろしく性格が悪いと言わざるを得ません」
容赦のない言葉だがアルブレヒトは愉快そうに肩をすくめた。
「ああ。そうだな。言われてみれば、俺らしくないかな?」
「らしくありませんな」
「かつての貴方は……もっとひどく怠惰で、女の尻ばかり追いかけている、本当に隙だらけの無能な俗物の方だった」
「しかし……」
「今の貴方は、あの頃とは完全に別人だ。……今の貴方から『隙』を探し出す方が難しい。貴方はすべてを緻密に計算し尽くす覇王へと変貌された。喜ばしいことですが、少しばかり寂しくもありますな」
「…………そうか。俺も随分と成長したってことだな」
「だとすれば、それはお前たちが俺を立派な皇帝に育て上げてくれたおかげだな。……そんなに俺が立派になったんだ、お前たちももう少し素直に喜んでくれても良いんじゃないか?」
「それは難しくありますな、陛下」
「我々臣下という生き物は、極めて勝手なものでして。主君というものは、あまりに完璧すぎると近寄りがたく、息が詰まるものです。少々『無能』であったり、人間的な『隙』があったりする方が『担ぎがい』があるというものなのですが」
「……しかし、今の陛下のように、我々の考えることや敵の謀略のすべてを事前に見透かし、我々が口を開く前に答えを出されてしまっては。我々としては、自分の存在価値を否定されたようで、どうにも面白みがありません。芸術性に欠けると言わざるを得ませんな」
「なんだと!」
アルブレヒトは両手を広げ、大げさに天を仰いだ。
「あーあーー!!聞いたか、リューネブルク!!メックリンガーの奴、今完全に俺のことを『無能な方がマシだった』って言いやがったぞ!!今のは、神聖不可侵なるこの銀河帝国皇帝に対する大逆罪じゃないのか!?不敬罪で今すぐそいつをワイン樽に沈めてやれ!!」
騒ぎ立てる皇帝に、リューネブルクは表情を変えずに応じる。
「いえ。罪には問えません」
「なんでだよ!」
「無能な皇帝をからかうのは、我々臣下の正当な権利です。陛下は、甘んじて我々のからかいを受け入れる義務があります」
周囲のオペレーターたちからも、微かな忍び笑いが漏れる。
「お前らなぁ……!まあいいさ。お前らがそうやって軽口を叩けるうちは、我が帝国軍は無敵だ。……行くぞお前ら!ヤン・ウェンリーに、俺たちの最高のショーを見せてやろうぜ!」
『はっ!!!』
◇◇
「索敵レーダーに反応!!」
「イゼルローン回廊前方、距離およそ七十万光秒の宙域に敵艦隊の反応を捕捉しました!!」
「来たか!数はどれくらいだ!?」
「数は……四万!少なくとも四万隻以上の大艦隊です!!識別信号の解析、急ぎます!」
「四万隻だと!?」
ルッツが驚きの声を上げる。
「前線のシャンタウ星域でアッテンボローやラップの部隊が展開しているというのに、まだこれほどの兵力を要塞に温存していたというのか!!」
「解析完了しました!!」
「敵艦隊の最深部にヤン・ウェンリー総統の乗艦、旗艦・戦艦《ヒューベリオン》の識別信号を確認!!敵の総大将が自ら陣頭指揮を執っています!!」
「やはり出てきたか、魔術師め」
「さらに前衛の左右を固める部隊の旗艦の識別信号も確認!!これは……!!」
「右翼の旗艦、大型戦艦《盤古》!!左翼の旗艦、戦艦《パラミデュース》の識別信号を確認しました!!」
「ヤンに猛将ウランフ、そして堅実なるアル・サレムか!」
「重鎮たちが健在であり、しかもこの回廊の防衛に顔を揃えているとはな!これは我々にとってこれ以上ないほどの最高の舞台であり、同時に最大の試練となるぞ!」
「早速おいでなすったな。……俺の親征を正面から迎え撃とうっていうその度胸だけは褒めてやるよ、ヤン」
「全艦、第一種戦闘配備。エネルギーの充填を最大レベルまで引き上げろ。砲門を開き、シールドの出力を前方に集中させろ。遊びの時間は終わりだ」
◇◇
【パラミデュース】
同じ頃。
帝国軍の視線の先にある共和国軍の前線。
「……やれやれ。まさかこの歳になってまたこんな途方もない規模の大艦隊を相手に、最前線で指揮を執ることになるとはな。ヤン総統も人使いが荒い。私の胃壁は既に穴だらけだというのに」
苦虫を噛み潰したような顔でぼやく。用兵においては極めて手堅い手腕を持つが、生来の神経質な性格ゆえに常に胃痛に悩まされている男だ。
すると通信モニター越しに、右翼を担う大型戦艦《盤古》のブリッジから笑い声が飛び込んでくる。
『この命。今共和国の未来を守るために使い切らずしていつ使うというのだ!帝国皇帝自らが大軍を率いてやってくるなど、武人としての血が沸き立つ最高の死に場所……いや、最高の戦場ではないか!』
「ウランフ提督、あなたは相変わらず血の気が多すぎる。我々の役目は帝国軍を正面から打ち破ることではありません。ヤン総統の指示通り、この回廊の地形を利用して敵の進軍の足をひたすらに止め出血を強要し続けること。徹底的な遅滞戦闘こそが今回の要であることをお忘れなく」
『分かっておるわ!しかし防御の要は気合と根性よ!敵の猛攻を真正面から受け止め弾き返す!それが我ら前衛の誇りというものだ!』
彼らのような経験豊富な重鎮たちが前線で艦隊を指揮しているからこそ、ヤンは安心して自らの魔術の仕込みに集中することができるのだ。
そして、そのヤンの乗る旗艦《ヒューベリオン》のブリッジ。
「……報告します!」
「帝国軍、全艦隊が戦闘態勢に移行!凄まじいエネルギー反応を検出しています!真正面からの力押しで一気に突破を図ってくる構えです!」
その報告は《ロンゴミニアド》のブリッジにも相手の陣形の解析結果として上がっていた。
「敵艦隊の陣形、解析完了しました!!敵は回廊の狭い地形を完全に計算に入れ、艦隊の層を何重にも厚く重ねた『縦深陣形』を敷いております!!」
それは回廊の横幅いっぱいに広がるのではなく、奥へ奥へと何重にも分厚い壁を作り上げるような極めて特殊な防御陣形であった。
「……ヤンの狙いはその程度のことか。そんなチマチマした防御のパズル、それくらいは完全に俺の計算内だ」
「いいか、お前ら。考え方を変えろ。回廊の横幅が狭くて敵が縦に長く並んでいるということはだな。逆に言えば、俺たちが前方に展開する『火力を一点に集中させやすい』ということでもあるんだよ」
「火力を、一点に集中させる……?」
「そうだ。敵の壁が何枚あるかは知らないがそんなものは関係ない。一枚目の壁を壊し二枚目の壁を壊し、千枚目の壁を壊すまでひたすらに、ただひたすらに殴り続ければいいだけのことだ」
「ヤンは俺たちが損害を恐れて足を止めると思っているんだろうが、甘いな。俺はこの戦いに一切の出し惜しみはしない。全エネルギーを使い切ってでも、この回廊ごと奴らの陣形を力で捻り潰してやる」
「全艦、照準を敵陣形の中央部一点に固定しろ!!最大出力のまま一歩も退かずに撃ち続けろ!!!」
「ファイエル!!!」
回廊の重力異常や電磁波の嵐すらもエネルギーのうねりの前にはかき消され、空間そのものが悲鳴を上げているかのように歪み震動する。
「来るぞ!!総員、衝撃に備えろ!!」
「シールドの出力を限界突破させろ!機関部が焼き切れても構わん、絶対にこの防衛線を一歩たりとも退かせるな!!」
「怯むな!前衛が崩れたら即座に後方の部隊を前進させて隙間を埋めろ!敵の砲火の波の切れ目を縫って反撃の斉射を行うのだ!!」
星々の運命を懸けた、瞬きすら許されない壮絶な激突の幕が今ここに切って落とされたのである。
お読みいただきありがとうございました。
今回はイゼルローン要塞をめぐるヤンとアルブレヒトの正面対決の開幕を描きました。
ヤンとユリアンの会話、アルブレヒト陣営のやり取り、そしてウランフとアル・サレムの防衛戦について感想をいただけると嬉しいです。