銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
帝都オーディン、軍務省第七課。
戦場の爆音はないが、書類の山が兵士を葬る。
そしてその地獄に、金髪の理想主義者がひとり。
今回は、戦場ではなく帝国という組織との戦い。
正義感と官僚制、信念と現実。
戦う相手が銃から書類に変わっても、
ラインハルトはやっぱり、突撃しかできない。
書類地獄と紅茶の午後 ―帝都オーディン、静かなる戦場―
帝都オーディン、軍務省第七課・内勤処理室。
ここは帝国軍の中でも特に悲惨な部署として知られている。
なぜなら――誰もが戦場より恐れる書類の戦場だからだ。
机の上には紙の山。
床にも紙の山。
空気よりも書類が濃い。
人が通るたびに書類が崩れ、小規模雪崩が起きる。
その地獄の真ん中で、一人の金髪青年が沈みかけていた。
「……うんざりだ」
ラインハルト・フォン・ミューゼル大尉
天才、美貌、野心、カリスマ。
そして今、完全に死んだ魚の目をしていた。
隣ではキルヒアイス中尉が、淡々と書類を処理している。
手際が良すぎて怖い。
ペンの音がもはや機械的。
「内勤も任務です、ラインハルト様」
「こんなものは任務ではない。これは拷問だ」
彼の机の上の紙の層は、すでに小惑星帯レベルに達していた。
書類を掘る音が聞こえる。
キルヒアイスは笑いながらフォローする。
「紙の中にも発見がありますよ。ほら、未知の生物とか」
「それを言うな……もう二日前から、コーヒーの匂いがすると思ってた」
そして、運命の一枚を引き当てる。
「……ん? これは……」
彼が指で摘んだのは、イゼルローン要塞の物資報告書だった。
何気なく眺めたその数値。だが、すぐに眉が動いた。
「キルヒアイス、これを見ろ。出荷量と消費量の報告が合わない。どう見ても不正だ」
「……確かに、三割以上の差がありますね。これは、横流しの可能性が高いです」
その瞬間、ラインハルトの脳内で、正義のBGMが鳴った。
「腐敗の匂いがする……!」
彼は書類を抱えて立ち上がる。
「報告だ。上司に報告する!」
「またですか」
「またとは何だ、またとは!」
彼は大佐の部屋に飛び込んだ。
年季の入った絨毯の上を、軍靴がバシバシ鳴る。
「この書類を!」
「おや、ミューゼル大尉。どうしたのかね、そんな目を血走らせて」
「イゼルローン要塞の物資が不正に横流しされています! 明らかな汚職です!」
老上官は眼鏡の奥の目で、書類をちらりと見て、鼻で笑った。
「ふむ……まあ、よくあることだ」
「よくあること!? 帝国軍人として恥ずかしくないのですか!」
「ミューゼル君。君は優秀だが、少し潔癖すぎる。
水清ければ魚棲まず、というだろう? 少しくらい濁っていた方が……」
「その濁った水で魚がみんな死んでいるのですよ!!!」
部屋に雷鳴が落ちた。
怒りの金髪が閃光のように輝く。
その光景に、大佐は心の底から後悔した。
「……またか……若いのは血の気が多くていかん」
ラインハルトの説教が始まりそうになったその時、部屋のドアが開いた。
「どうかなさいましたか、ミューゼル大尉」
静かながらも凛とした声。
振り向けば、そこにアナスタシア・ヴァン・ホーテン准将がいた。
髪をまとめ、完璧な軍服姿。
冷気をまとったような美貌に、室温が二度下がる。
部屋の空気が一変した。
上官たちは一斉に姿勢を正す。
「准将閣下、い、いかがされましたか」
「騒がしいので様子を見に来ました」
ラインハルトが事情を説明すると、アナスタシアは黙って書類を手に取った。
一ページ、二ページ、三ページ――目を細め、そして静かに言った。
「……なるほど。この輸送経路の責任者は、フレーゲル男爵の縁者ですね」
上官の顔が引きつった。
「そ、そうなのです。だからこそ慎重に――」
「承知しました。この件は、私が預かります」
声は静かだったが、明確に宣告の響きを持っていた。
その言葉を聞いた者は皆、背筋に冷たいものを感じた。
アナスタシアが部下に目配せをする。
「例の資料を」
「はっ」
部下が持ってきたのは、非公式処理リスト。
帝国では書類一枚で貴族が消えると噂される恐怖の紙。
「……適正な処置を行いなさい。静かに、そして速やかに」
その場の全員が無言で頷いた。
フレーゲル男爵の縁者が、翌日から急に病欠を取り、二度と戻らなかったのは言うまでもない。
ラインハルトは、その手際の速さに圧倒されていた。
これが帝国の現実――だが、同時に彼の心に奇妙な敬意も生まれていた。
アナスタシアが書類を整えながら、ふと彼に言う。
「……あなた、アルブレヒト様とよく似ていらっしゃいますね」
「は? あの俗物准将と!? 心外です!」
「素直でないところが特に」
「ぐっ……!」
微笑んだ彼女は、書類を抱えて立ち去る。
その背筋は、氷の刃のようにまっすぐだった。
「……そういえば、アルブレヒト様もオーディンに戻っておられます。あなたと喧嘩するのが、あの方は楽しそうですから、またお相手してあげてください」
「……光栄の至りですな」
「ふふ、素直でないところも、やっぱり同じですね」
彼女が去った後、部屋には静寂が戻った。
上官たちは一斉に机の下に書類を隠し始めた。
キルヒアイスは肩をすくめる。
「……さすがは狐と呼ばれるお方ですね」
「まさか狐どころか、白銀の刃だ」
ラインハルトは、窓の外に目を向けた。
帝都の空は、いつもどおり鈍い灰色。
だが、その雲の向こうには、確かに光がある。
「……キルヒアイス」
「はい」
「この腐った帝国を変える。いつか必ずだ」
「ええ、ラインハルト様」
その時、部屋の隅から「書類は?」という声がした。
上官だ。まだ生きていた。
「おいミューゼル、未処理の報告書が山ほどあるぞ」
「……キルヒアイス」
「はい、わかっています」
二人は無言で立ち上がった。
その背後で、また紙の山が崩れた。
◆
帝都オーディン、グリューネワルト伯爵邸。
そこは、皇帝の寵姫アンネローゼ・フォン・グリューネワルトのサロン。
今日も香り高い紅茶と貴族の愚痴が、優雅にテーブルを満たしていた。
が、今日の空気はいつにも増して重たかった。
なぜなら、愚痴の量が尋常ではなかったのだ。
空気が紅茶ではなくストレスで煮詰まっていた。
「…聞いてくださいますか、アンネローゼ様。主人が、ヘルクスハイマー伯爵から酷い嫌がらせを受けているのです」
話しているのはシャフハウゼン子爵夫人。
涙をためた瞳、きつく握られたレースのハンカチ。
横でヴェストパーレ男爵夫人が「まぁお可哀想に」と言いながら、ちゃっかりケーキをおかわりしていた。
アンネローゼは微笑みながらも、優雅に眉をひそめた。
「まあ…嫌がらせですって?」
「ええ、それもただの意地悪ではありませんの。主人が苦労して開いた鉱山を、あのヘルクスハイマー伯が横取りしようとしているのです。しかも、それを決闘で決めることになってしまって…!」
「決闘…? 本当に?」
「ええ。といっても本人同士が剣を交えるわけではなく、代理人を立てての形式的なものですの。でも、伯の背後にはリッテンハイム侯爵がついていて…誰も我が夫の代理人を引き受けてくださらないのです」
その瞬間、サロンの空気がさらに沈んだ。
決闘という言葉に、貴族たちが一斉に目をそらす。
関わったら人生終わる系のイベントである。
アンネローゼは困ったように頬に手を当てた。
「それは…お気の毒ですわ」
夫人は涙ぐむ。
「誰も助けてくださらないのです…帝国は、弱き者には本当に冷たい」
そのとき、ガタリと音がした。
立ち上がったのは金髪の青年――ラインハルト・フォン・ミューゼル大尉。
彼の椅子はまだ座るたびにギシギシ鳴る新調品だが、彼の決意はいつでも新品同様に固い。
「……ならば、その代理人、私が引き受けましょう」
一同「!?」
サロンにいた全員が、紅茶を吹き出しそうになった。
アンネローゼのカップがカランと音を立て、夫人たちの視線が一斉に金髪に突き刺さる。
皇帝の寵姫の弟が、地方貴族の揉め事に首を突っ込む?
前代未聞である。
社交界の爆弾、それが今まさに点火された瞬間だった。
「ラインハルト……! なりません!」
アンネローゼは立ち上がり、紅茶の香りよりも強い姉の威圧感を放つ。
「あなたの立場をお考えなさい!」
「姉上、ご心配なく。決闘といっても殺し合いではないそうです。それに困っているご婦人を見過ごすのは、私の騎士道に反します」
……騎士道。
この言葉を言うたびに、キルヒアイスの胃が三年分縮む。
今回も例外ではなかった。
キルヒアイスは横で小さくため息をついた。
また始まったという顔である。
紅茶を置くと、静かに口を開いた。
「ラインハルト、お待ちください。そのような危険な役目、私にこそお任せを」
ラインハルトがふっと笑う。
悪戯が成功した子供のような笑み。
「いや、ダメだ、キルヒアイス。こういうのは、先に手を挙げたほうに優先権がある」
「ですが……」
「たまには俺に譲れ」
(キルヒアイスの心の声)
たまには、ですって? あなたは常に一番おいしいところを持っていくじゃないか……この十年ずっと!
彼は無言で笑い、もう何も言わなかった。
諦めという名の友情である。
ヴェストパーレ夫人が恐る恐る口を開いた。
「ミューゼル大尉、本気でお引き受けになるのですか?」
「ええ。こういう腐敗には鉄槌を下さねばならない」
「まぁ……なんと勇敢で……」
「勇敢で無鉄砲ですわね」とアンネローゼが呟いたのは、聞こえなかったことにされた。
サロンの奥のテーブルでは、給仕がひそひそと囁き合っている。
「おい、あれ本気か?」
「たぶん本気だ。あの顔はもう止まらない」
「また帝都が一つ騒がしくなるな……」
翌朝には、噂が帝都の社交界を駆け巡っていた。
“皇帝の寵姫の弟が、貴族同士の決闘に出るらしい”
“決闘相手はリッテンハイム派の重臣だ”
“観覧席は満員必至”
“チケット転売が始まった”
もうお祭りである。
アンネローゼは翌日、頭を抱えていた。
「……ラインハルト、あなたはどうしていつも、こう波風を立てずにはいられないの?」
「姉上、波がなければ航海はできません」
「その航海で沈むのはいつも周りの人間です」
キルヒアイスは、ひたすら紅茶を飲み続けていた。
彼の紅茶カップは、もはやカフェインの塊と化していた。
ラインハルトはというと、鏡の前で剣を構えてポーズを決めていた。
「どうだキルヒアイス、決闘用の姿、似合うか?」
「完璧です。まるでポスターのようです」
「褒めているのか?」
「ええ、宣伝効果の意味で」
キルヒアイスの心は、すでに遠くベータ星系まで逃避していた。
帝国の未来は、今日も明るくて、だいぶ危険である。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
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