銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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イゼルローン要塞に残された巨大な傷は、共和国市民の報復感情を刺激していた。

大規模な侵攻はできない。

だが、何もしなければ民意が暴走する。

全権を持つ独裁者でありながら民主主義者であり続けるヤンは、大戦争を防ぐための「小さな戦争」を選ぶ。



民意という鎖

【自由惑星共和国首都・イゼルローン要塞】

 

宇宙暦八〇〇年八月。

 

イゼルローン要塞の外壁にはいまだ癒えぬ傷が残っていた。

帝国軍の超戦艦《ロンゴミニアド》が放った一撃は流体金属の海を吹き飛ばし、難攻不落と謳われた人工天体に巨大な穴を穿った。

 

応急修理班が昼夜を分かたず作業を続け破口そのものは幾重もの隔壁と仮設装甲で塞がれている。しかし銀色の球体を遠くから眺めればそこだけ色合いが不自然に違って見えた。

傷は装甲板にだけ残ったのではない。

 

共和国市民の心にも同じ形の穴が開いていた。

 

帝国軍と公国軍という二つの敵を同時に退けたのだから、ヤン・ウェンリーはやはり不敗の魔術師である。そう称賛する声があった。

 

一方で、敵艦を要塞の目前まで侵入させ首都へ直撃を許した責任は誰が取るのかと問い詰める声もあった。

 

前者と後者は朝から晩まで報道番組と情報ネットワークで互いを罵り合っていたが、数日もすると奇妙な一点で意見が一致した。

 

報復せよ。

帝国でも公国でもよい。

共和国が侮られる存在ではないことを目に見える勝利によって証明せよ。

 

イゼルローンにある総統府の窓はその日も朝から閉ざされていた。

最高防衛会議は開かれていない。

政府から大規模な軍事行動の発表もない。

表向き、ヤン政権は沈黙を守っていた。

 

だが、総統執務室の中では国家の最高権力者が頭を抱えていた。

 

「私としては、要塞の修理が終わるまで静かにしていたいんだがね」

 

机上に積み上げられた世論調査を見て、紅茶より深い息を吐き出す。

 

報復攻撃に賛成、七十二パーセント。

何らかの軍事的示威が必要、八十一パーセント。

 

現政権は弱腰であるという回答は、わずか一週間で二十ポイント以上も増えている。

机を囲んでいるのは、ユリアン・ミンツ、フレデリカ・グリーンヒル・ヤン、アレックス・キャゼルヌ。そして長椅子で他人事のように葉巻をくゆらせているヨブ・トリューニヒトだった。

 

「静かにしていた結果がこの数字だよ」

 

トリューニヒトは調査票を一枚つまみ上げ愉快そうに振った。

 

「国民はイゼルローンの傷を毎日見せられている。ここが首都になった弊害だな。ハイネセンであれば国境の敗北はニュース映像の中だけで済んだ。しかし今は通勤途中にも買い物へ出ても、窓の向こうで工事艇が群がっている。敗北の象徴が生活の一部になっているのだ」

 

「負けてはいません」

 

ユリアンの声は静かだったが反論は鋭かった。

 

「要塞は守り切りました。帝国軍も公国軍も撤退しています」

 

「軍事的にはね。だが市民が見ているのは勝敗表ではない。安心だ。昨日まで破られないと信じていた壁が破られた。だから不安を埋め合わせる材料を求めている」

 

「その材料として敵兵の死体を差し出せと?」

 

「政治とは往々にしてそういうものだよ。もっとも、死体は多ければよいというわけではない。国民が納得する程度に分かりやすい勝利があればよい」

 

「景品つきの見世物のように…」

 

フレデリカの眉が寄る。

 

「見世物だとも。民主政治において政治家は観客のいない舞台には立てない。観客が退屈し怒り別の役者を求めれば、どれほど立派な台本を持っていても幕は下ろされる」

 

「私は政治家になったつもりはないんだが」

 

「総統府の一番大きな椅子に座ってそれは通らないな」

 

キャゼルヌの指摘にヤンは恨めしそうな目を向けた。

 

自由惑星共和国において、総統という役職は本来の民主共和制から自然に生まれたものではない。

 

救国軍事会議のクーデター。混乱の収拾。熱狂する民意。そして旧最高評議会が制定した国家全権委任法とヤン・ウェンリー個人を対象とする特別措置法。

 

そうした非常時の法令を継ぎはぎしさらにハイネセン陥落後の国家再編に合わせて恒久制度へ組み直した結果、現在の総統制は成立していた。

 

自由惑星共和国総統は、国家元首、政府首班、最高評議会議長、共和国軍最高司令官、最高司法権者を兼ねる終身職であった。

 

外交文書へ国家を代表して署名し行政各部を指揮し国家予算と官僚人事を裁可する。

全共和国軍へただ一人で命令を発し軍の最高幹部を任免し開戦と停戦を決定する。

警察と情報機関は総統府の命令に従い、裁判所が行使する司法権も法理上は最高司法権者たる総統から委任されたものにすぎない。

 

共和国議会は存続していた。

議員は選挙によって選ばれ法案と予算案を審議し政策について政府へ質問することもできた。

だがその法的地位は総統への諮問機関にすぎない。議会の決議に総統を拘束する力はなく、総統の裁可を得ない法案は一枚の意見書で終わる。反対に総統が発する最高令は、議会の議決を経ずとも法律と同等の効力を持った。

 

軍部、官僚、警察、裁判所のすべては最終的に総統の命令に服した。

 

議会に総統不信任の権限はない。裁判所に総統令を覆す権限もない。総統を選び直すための選挙も任期満了も存在しない。総統の地位は法的にも終身であり、その権力を停止させられる者は共和国のどこにも存在しなかった。

 

行政、立法、軍事、警察、司法。

本来なら互いを監視させるため別々の人間に持たせるべき国家権力が、一人の人格へ集中している。

それは、どのような美辞麗句で飾ろうと独裁であった。

 

共和国には選挙も議会も報道も残されていた。街頭では総統を批判でき、新聞は総統府の失策を書き立て、放送局は政府の責任を追及できた。

 

だがそれらが総統を拘束する制度はすでに存在していなかった。

自由が法によって総統から守られているのではない。ヤンがその絶対権力を使って自由を奪おうとしないから残されているだけだった。

 

それでもヤンは自分を民主主義国家の一公僕であると考え続けていた。

制度上は全共和国の主人でありながら、精神の上では国民に雇われた使用人であろうとする。

誰にも命令されない地位へ昇りながら、自分には民意へ従う義務があると信じている。

 

その矛盾こそがヤンによる独裁を穏健なものに保ち、同時にヤン自身を誰よりも不自由にしていた。

 

ヤンについていけばすべてうまくいく。

ヤンならば勝てる。

ヤンならば我々を豊かにし旧領を取り戻し、帝国と公国から民主主義を守ってくれる。

その信頼はもはや鎖だった。

 

「古代の終身独裁官だって、もう少し休暇があったんじゃないかな」

 

「軍を動かす権限は私にある。攻撃を命じることも攻撃しないと決めることもできる。議会が何を決議しようが世論がどれほど騒ごうが、法の上では無視して構わない」

 

「そのとおりだ」

 

トリューニヒトが平然と応じる。

 

「君が命じれば議会の要求など一枚の紙切れになる。報復を煽る政治団体を警察に監視させることも扇動的な放送を止めることもできる。裁判所が異議を唱えたなら最高司法権者として君自身が裁定すればよい。今の共和国で君に『否』と言える法的権威は存在しない」

 

「やめてください」

 

フレデリカの声が低くなる。

だがヤンは手を上げて彼女を制した。

 

「いや。トリューニヒト氏の言うとおりだよ。私はそれができる」

 

「だが、それをしてしまったら私は何を守っているんだろうね。民主主義を守るために議会を無視し報道を黙らせ、反対者を警察に見張らせる。そんな共和国が帝国や公国に勝ったとして、それを勝利と呼べるのかな」

 

「総統は法的には民意に従う必要がありません」

 

ユリアンが慎重に言葉を選んだ。

 

「けれど、ご自分では従わなければならないと考えておられる」

 

「私は民主主義国家の公僕だからね。少なくともそのつもりなんだ」

 

「終身の国家元首で政府首班で軍の最高司令官で最高司法権者でもある公僕か」

 

キャゼルヌの指摘は容赦がなかった。

 

「ずいぶん立派になったものだろう?」

 

自嘲した。

 

「それでいて、国民が戦えと言えば戦わなければ民主主義に反し、戦えば自分の軍事的判断と信条に反する。何もしなければ国内の不満が高まり、最悪の場合ハイネセン奪還を唱える強硬派が各地で独自に動き出す。私が彼らを力で抑えれば共和国は名実ともに専制国家になる」

 

専制君主なら民衆の声を無視して命令を下せる。

民主政治家なら選挙に敗れれば辞められる。

ヤンにはどちらもできた。無視するための権力もすべてを投げ出す自由も物理的には持っている。

 

だが彼自身の信念がそれを許さなかった。

民意を無視すれば民主主義を裏切る。民意に従って無益な戦争を始めれば自らの良心を裏切る。そして終身総統の責任を放棄すれば、ヤンの名によって辛うじてまとまっている共和国そのものが揺らぐ。

 

彼を縛っているのは憲法でも議会でも裁判所でもない。

ヤン・ウェンリーという民主主義者そのものだった。

 

「大規模侵攻はできない」

 

「公国へ攻め込めば土星エンジンに補給線を切られる。帝国領深くへ入れば公国に背後を突かれる。どちらも今の共和国には危険すぎる」

 

「では、何もしないのですか」

 

「いや」

 

立体星図を呼び出す。

共和国領と帝国領の境界。

その一角にあるネオ・フリー特区に隣接する辺境星域が拡大された。

 

「政治のために軍を動かすことを私は好まない。だが大戦争を防ぐための小さな戦争なら選ばざるを得ないこともある」

 

「帝国の警備艦隊を叩いて増援が来る前に引くのか」

 

「増援とは一度だけ交戦する。こちらが敵の主力から逃げたと思われては宣伝効果が弱いからね。ただし深追いは絶対にしない。追撃もしない。占領もしない。帝国軍が本格的に集まり始める前に帰る」

 

「軍事的価値は」

 

フレデリカの問いに、黙った。黙らざるを得ない。

 

「ほとんどないよ」

 

「辺境の警戒網を一時的に崩し帝国軍の配置を調べられる程度だ。失う艦艇と人命に見合う戦略目標ではない」

 

「それでも、やるのですね」

 

「やらなければもっと大きな戦争を求める声が強くなる。小さな火を見せて大火を望む熱を冷ます。ずいぶん悪趣味な消火方法だがね」

 

「政治家らしくなったではないか、ヤン総統」

 

「褒められた気が…しないな」

 

「褒めているとも。最小限の犠牲で最大限の政治効果を得る。立派な政治だ」

 

ヤンは返事をせず、星図に攻撃目標と撤退線を描き始めた。

その手は艦隊戦を指揮する時と変わらず正確だった。

それが本人には何よりも不愉快だった。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

【帝国 共和国国境星域】

 

宇宙暦八〇〇年八月十日。

帝国側の警戒管制官が異常を認めた時には、共和国艦隊はすでに射程内へ入っていた。

 

ワープアウトと同時に艦列を展開した共和国の精鋭艦隊は、慣性制御の安定を待つことなく第一斉射を放った。

 

帝国警備艦隊は無能ではない。

辺境勤務を閑職と侮らず哨戒も訓練も規定通りに行っていた。だが到着時刻を秒単位で揃えた一万隻規模の奇襲を、わずかな警備艦で受け止められるはずもなかった。

 

前衛艦が盾を張るより早く通信中継艦が撃ち抜かれる。

後方へ警報を発した観測所は送信を終えた直後に光の塊となった。

 

共和国軍は無秩序に砲火をばら撒かなかった。航路管制、軍用通信、補給用ドック、警備艦隊の機関部。攻撃対象は軍事施設だけに限定され、民間船には退避経路まで通信で示された。

 

政治のための戦いで民間人を巻き込めば、勝利の看板に拭えない瑕疵が残る。

その点までヤンの作戦書には細かく記されていた。

一時間に満たない戦闘で帝国側の警備艦隊は組織的抵抗力を失った。

 

だが共和国軍は勝鬨を上げる暇もなく陣形を組み替えた。

星域外縁に新たな帝国軍の反応が現れたのである。

 

コルネリアス・ルッツ上級大将が率いる艦隊だった。

 

「敵は占領へ移っていないだと?」

 

共和国軍は警備艦隊を壊滅させながら惑星にも補給基地にも降下部隊を送っていない。それどころか最初から撤退を前提とした縦深の浅い陣形を保っている。

 

領土が欲しいのではない。

帝国軍を削り、勝利という事実だけを持ち帰るつもりだ。

 

「舐められたものだな」

 

「陛下の親征軍が帰還した直後を狙い、辺境を荒らして逃げるとは。直ちに包囲し代償を払わせるべきです」

 

「もちろんだ。だが怒りに任せて正面から突進すれば相手の望む戦果を増やすだけだ」

 

ルッツは前衛をわずかに後退させた。

中央を薄く見せ共和国軍の追撃を誘う。左右に置いた高速部隊を迂回させ、食いついた敵の退路を塞ぐ。

 

古典的ではあるが敵が勝利に酔っているなら効果はある。ルッツはその罠を古典的であるがゆえに隙なく整えた。

 

共和国軍の前衛が動いた。

帝国軍中央の後退へゆっくりと食いつくように見えた。

 

「まだだ。もっと引きつけろ」

 

共和国艦隊が射程を詰める。

帝国軍の両翼が包み込むために角度を変えた。

 

次の瞬間、共和国軍の全艦が一斉に反転した。

追わない。

 

帝国軍の中央も両翼も壊滅した警備基地も、すべてを捨てて後退を開始する。

 

「罠に気づいたのか!」

 

予期せぬ挙動に幕僚の顔に焦燥が浮かぶ。

 

「違う」

 

「最初から我々を深く追う気がないのだ。勝つべき場所と帰るべき時刻が決められている」

 

ヤン・ウェンリーらしい。

敵がどれほど魅力的な餌を差し出しても作戦目的に不要なら手を伸ばさない。

 

ルッツは追撃を命じたが共和国軍の撤退は早かった。殿軍が散発的に砲撃を続け、帝国軍の速度が上がれば反転して牽制し距離が開けばまた逃げる。

 

それでもルッツ艦隊は射程へ追いつき、共和国軍後衛へ精密砲撃を浴びせた。数十隻が炎に包まれる。共和国側も間髪入れずに反撃し、帝国軍の先頭集団に損害を与えた。

 

局地的な砲撃戦は帝国側が体勢を整えれば逆転できる範囲にあった。

だからこそ共和国軍は逆転の時を与えなかった。

戦列を崩さず損傷艦を牽引し、帝国軍が第二陣を展開する直前に国境の向こうへ消えた。

 

残されたルッツは空になった戦術画面をしばらく見つめた。

 

「……一杯食わされたな」

 

敗北と言うには小さすぎる。

帝国の国力を揺るがすほどの損害ではない。ルッツ艦隊の主力も健在である。

 

だが共和国が欲した写真は渡してしまった。

燃える帝国警備艦。後退するルッツ艦隊。無事に帰還する共和国艦隊。

 

それらをどう切り取りどのような見出しをつければよいか。

ヤンよりもトリューニヒトの笑顔が脳裏に浮かぶ。

ルッツはそのことを、艦隊を損なった以上に忌々しく思った。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

【イゼルローン要塞 総統府中央広場】

 

艦隊を迎える式典は共和国首都イゼルローン要塞の中央市街で行われた。

人工重力と空調に管理された巨大な広場を数え切れない共和国旗が埋め尽くしている。

 

現地へ入れなかった市民のため要塞内の各居住区、公園、交通広場にも立体映像が中継された。

 

映像はさらに旧帝国辺境領を含む共和国全土へ送られる。

公国に占領されたハイネセンでさえ、密かに共和国放送を受信している者がいるだろう。

 

演壇の背後には損傷を負いながら帰還した艦艇の映像が流れていた。

 

ヤン・ウェンリーが総統府のバルコニーへ姿を現す。

広場を揺るがす歓声が要塞の人工大気を震わせた。

 

ヤンは片手を上げマイクの前に立った。

その表情は映像を通せば穏やかに見える。だが近くにいるフレデリカとユリアンには、目の奥へ沈んだ疲労がよく分かった。

 

「国民諸君!」

 

「我々は先の防衛戦においてイゼルローン要塞へ痛打を受けた!」

 

歓声が静まる。

 

「これは誤魔化しようのない事実だ。敵を退けたからといって首都の防壁を穿たれた事実まで消えるわけではない。我々はその傷を直視しなければならない!」

 

ヤンはそこで一度言葉を切った。

本心を言えばこのまま続けたかった。

 

だから戦争を求めるな。

壁が破られた恐怖を他国の兵士の死で埋めようとするな。

民主主義とは怒りを多数決で正義へ変える装置ではない。

 

だが今それを言えば人々の不安を再び煽るだけだ。

総統は個人として語る自由を持たない。

 

「だが!」

 

背後の画面が切り替わる。

帝国警備艦隊を打ち破り、ルッツ艦隊の反撃を受けながら整然と撤退する共和国艦隊の姿が映し出された。

 

「辺境星域におけるこの新たな勝利を見てほしい!」

 

「我々は依然として敵を打ち破る力を持っている!敵地へ進み目的を果たし、そして敵が体勢を整える前に帰還できる機動力と規律を有している!」

 

歓声が膨れ上がった。

 

「イゼルローンの傷は共和国の敗北を意味しない!共和国軍は健在であり我々の自由も我々の意志も何者にも屈してはいない!」

 

拳を握りしめ高く掲げる。

自分がこのような仕草をする日が来るとは、士官学校で昼寝をしていた頃には想像もしなかった。

 

「我々は強い!」

 

わずかな間。

そして望まれている言葉を口にした。

 

「民主共和制よ、永遠なれ!」

 

空気が爆発したかのように沸き立つ。

歓声と拍手。足踏み。涙ながらに総統の名を呼ぶ声。

 

ヤン・ウェンリー万歳。

共和国万歳。

帝国に報いを。

ハイネセンを取り戻せ。

 

互いに矛盾する熱狂さえも、一つの巨大なうねりとなって溶け込んでいく。

演説は成功した。

 

翌日の世論調査で総統府への支持は再び九十パーセントを超えた。報復を求める声は急速に弱まり、大規模侵攻を主張していた政治団体さえ「総統の戦略的判断を支持する」と声明を出した。

 

国家は落ち着いた。

ヤンは小さな勝利を大きく見せる手品によって、より大きな戦争を避けたのである。

 

しかし、銀河の各国でその映像を見た者たちは別の事実にも気づいていた。

不敗の魔術師ヤン・ウェンリーは軍事的合理性の乏しい戦いを行った。

 

共和国の民意がそれを必要としたからだ。

その民意に総統を拘束する法的な力などない。議会も選挙も報道もヤンへ攻撃を命じることはできなかった。

 

命じたのは、民意を主人として扱わなければ民主主義者ではいられないというヤン自身の信念である。

 

全権を持つ独裁者でありながら自らを一公僕の地位へ縛りつける男。

彼の独裁を善良に保つ良心こそが彼から独裁者としての自由を奪っている。

それこそが民主的独裁者ヤン・ウェンリーの矛盾であり限界だった。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

【銀河帝国首都オーディン 作戦会議室】

 

「……やってくれたな、ヤン・ウェンリー」

 

共和国国営放送の映像が消えると同時に、アルブレヒトの口元に笑みとも怒りともつかない歪な弧が刻まれた。

 

会議卓の中央には先ほどまで拳を掲げていたヤンの姿に代わり、国境星域の立体図が浮かんでいる。

立体星図の横に映し出されたルッツ上級大将の顔には、隠しきれない苦渋が滲んでいた。

 

「申し訳ございません、陛下」

 

「やめろ、ルッツ。お前が謝る必要はない」

 

「しかし、私自身も敵へ局地的な勝利を許しました。しかもこちらが誘い込むために行った偽装退却にも目をくれず敵は撤退しております」

 

「だからそれはお前の失策じゃない。奴らは最初から勝つ場所と帰る時間を決めていたんだ。餌を食うために来たのではなく、餌を食ったように見える写真を撮りに来た」

 

「こちらとしては共和国軍が兵站を伸ばしたところへ逆侵攻をかけるつもりだった。だがヤンはそんな分かりやすい危険を冒さなかった。攻めたという実績だけ作ってさっさと家へ帰った。世論を騙すには十分だ」

 

「政治家の常套手段ですわ」

 

アナスタシアはアルブレヒトの右隣に座り、かすかな駆動音を立てる白い義手の指先で艶やかな唇の端をそっとなぞった。軍籍も元帥号も持たぬ身でありながら、皇帝の委任を受けて軍議に加わる彼女の存在感は並の将帥を凌駕している。

 

「大きな敗北の後に勝てる場所で小さな勝利を作る。不満を外へ向け指導者への信頼を回復させる。古今何度も使われてきた手です」

 

「分かっている。だがその安い手をあのヤン・ウェンリーが自分で使うというのが面白いじゃないか」

 

「あの男は必要のない戦争を一番嫌う。そのヤンが政治のために軍を動かした。つまり無理をしている証拠だ」

 

ロイエンタールの瞳が細められる。

 

「とはいえ共和国の防衛網はイゼルローン後方と帝国占領地の双方で固められつつあります。今回の攻撃で士気も回復した。先日までの予定通り大軍を動かせば相当な抵抗を受けるでしょう」

 

「ああ。一旦は保留だ」

 

アルブレヒトは通信画面のルッツへ向き直った。

 

「帝国も国境の防備を固める。共和国の挑発には乗らず平和を守るため慎重に対処する。政府発表はそうしておけ」

 

「御意」

 

「それから損害を受けた警備艦隊の遺族補償と負傷者の治療を最優先しろ。基地の再建費用は中央から出す。お前個人への処分はなしだ」

 

画面越しのルッツの表情からこわばりがわずかに解ける。

 

「寛大なるご処置、感謝に堪えません。次こそは必ず」

 

「気負いすぎるな。次は勝てるようこちらが盤面を作る」

 

通信が切れた。

 

「表向きは防備を固め、裏では別の手をお使いになるのでしょう?」

 

「さすが皇后だ。俺の悪い考えをよく分かっている」

 

「夫婦ですから」

 

「愛だな」

 

「はい。愛です」

 

アルブレヒトは気にせず星図を拡大する。

共和国領内の物流拠点、行政中継地、燃料集積所、通信施設。無数の点が赤く灯った。

 

「最初に考えていた侵攻作戦をもっと小さく分ける。大軍で正面から押し込まず、小規模な高速部隊を何度も潜り込ませるんだ」

 

「目標は補給線ですか」

 

リューネブルクが問う。

 

「補給線だけじゃない。物流、通信、行政。人間を大量に殺す必要はない。物資を遅らせ命令書を迷子にし役人を眠らせず、共和国の隅々で『次はどこが襲われる』と不安にさせる」

 

「帝国軍を海賊へ落とすおつもりですか」

 

ロイエンタールが呆れたように言った。

 

「皇帝陛下自ら海賊の頭領になられては帝国の威信が知れますぞ」

 

「何を言う。帝国海賊ならただの海賊より格が高いだろう」

 

「それっぽい衣装も作るか。黒地に銀の骸骨。皇后、俺に似合うと思わないか?」

 

「眼帯もご用意いたしましょうか」

 

「見事な黒絹へ銀糸で刺繍を施しましょう。《ロンゴミニアド》の艦首にも旗を掲げます?」

 

「いいな」

 

「よくありません」

 

ロイエンタールが一切の間を置かずに切り捨てる。

 

「まったく、冗談の分からん宰相だ」

 

「誰かが帝国の品位を守らねばなりませんので」

 

「では品位はお前に任せる。海賊はこいつに任せよう」

 

アルブレヒトの視線が会議卓の末席へ向いた。

 

「グリルパルツァー」

 

「はっ」

 

勢いよく立ち上がった。

 

「この遊撃作戦の司令官はお前だ」

 

「私が、でございますか」

 

自分に白羽の矢が立つとは予想もしていなかったのか動揺が混じっていた。

 

シャンタウ星域ではアナスタシアの傍らで《ブリトマート》の砲撃艦群を動かした。判断に大きな過ちはなく撤退時の統制にも貢献している。

 

だが帝国の名将たちが並ぶ中で、新たな独立作戦の司令官に選ばれるとは考えていなかった。

 

「皇后から高く評価していると聞いた」

 

「ええ」

 

「私の指示を正確に理解し必要以上に怯まず、功を焦って艦列を乱すこともありませんでした。若さに比して良い判断です」

 

「身に余るお言葉にございます」

 

「そこでだ。大規模艦隊を率いて正面決戦をするよりずっと難しい仕事をやれ」

 

「敵地へ入り噛みつき欲張らずに逃げる。戦果を上げても調子に乗らず、敵の罠を見たら即座に消える。失敗すれば海賊、成功すれば帝国の新しい英雄だ」

 

「必ずや成功させてみせます」

 

「うまくやれば一気に昇進させるぞ」

 

「はっ!身に余る光栄!陛下と皇后陛下のご期待に必ずやお応えいたします!」

 

深々と敬礼し、作戦準備のため会議室を出ていく。

高揚感に弾むような足音が扉の向こうへと消えていった。

 

ロイエンタールはその背中が消えた後もしばらく扉を見ていた。

 

「……よろしいのですか、陛下」

 

「何がだ」

 

「グリルパルツァーは優秀です。しかしいささか野心が強すぎるように見受けられます」

 

「お前がそれを言うのか、ロイエンタール」

 

「帝国宰相と国務尚書を兼ね元帥杖を持ち、《ゲイ・ボルク》まで与えられた。位人臣を極めたという言葉でも足りん。それでもお前の目はまだ上を見ているじゃないか」

 

「さて。生まれつき目の色が違うもので、自分でも何を見ているのか分からない時がございます」

 

「そういう返しをするところがいかにも野心家だ」

 

アルブレヒトは楽しそうに笑い会議卓を見回した。

 

「俺はな、そういうギラギラした奴が大好きなんだ。ロイエンタールもラングも、今出ていったグリルパルツァーも。そこにいるリューネブルクも、面白い主君と大仕事を求める欲は人一倍強い」

 

「否定はいたしません」

 

リューネブルクは肩をすくめた。

 

「無欲な人間など軍務尚書の椅子へ座る前に辞表を出しております」

 

「だろう?欲のない人間は動かん。欲を隠して善人の顔をする奴より、欲を持ったまま仕事をする奴の方が俺には分かりやすい」

 

ロイエンタールの表情からからかいの色が薄れた。

 

「陛下の御代はそれで統制が取れましょう。しかし次代はいかがです」

 

「次代?」

 

「陛下が崩御された後です。我々が陛下個人へ忠誠を抱いているからこそ現在の帝国はまとまっている。御子息が玉座を継いだ時、同じ忠誠が自動的に受け継がれるとは限りません」

 

アルブレヒトは不快そうにはしなかった。

むしろ正面からその問いを受け止めた。

 

「俺の死後お前たちが息子を裏切るかもしれない。そう言いたいのか」

 

「可能性の話です」

 

「まあ、お前ら全員俺より年上なんだがな。二十年後には俺より先に腰か膝を壊しているかもしれんぞ」

 

「陛下が我々を酷使なさるのであれば十分あり得ますな」

 

「では聞こう。リューネブルク。お前は今、俺を裏切るか?」

 

「いいえ」

 

躊躇いなく言い放った。

 

「貴方のような最高に面白い主君を裏切るほど私の人生は退屈しておりません」

 

「では俺の息子ならどうだ。エリザベートとの子、ユストゥス。あるいはサビーネとの子、クレーフェルト。二十年後どちらかが俺の跡を継いだとしよう」

 

二人ともまだ父親の指を握ることしかできない乳児である。

その未来を語るにはあまりに幼い。

だが皇帝の子は産声を上げた瞬間から、未来の国家と結びつけて語られる。

 

「そうですな。それなりの器量は示していただきたい」

 

「率直だな」

 

「裏切って国を奪うことはせずともつまらぬ男に成り下がったなら、愛想を尽かして野へ下るくらいはするかもしれません」

 

「軍務尚書を辞めると」

 

「二十年後まで同じ椅子に座らされるのはそれだけで拷問ですがね」

 

「それでいい。俺の息子だからという理由だけで、無能な皇帝へ頭を下げ続けろとは言わん」

 

「陛下」

 

「仮にこのまま次の世代へ進んだとする。ヤン・ウェンリーの後継者がいる。マルガレータの後継者がいる。いや、あの娘なら二十年後も平気で現役かもしれん」

 

アナスタシアが頷いた。

 

「十分にあり得ます」

 

「そんな連中と渡り合えない奴が皇帝になるならこの帝国はどのみち終わる。功臣を殺して周りを弱くし相対的に皇帝を強く見せたところで、国境の外にいる敵まで弱くなるわけじゃない」

 

「新たな国を創った者はしばしば自らの死後を恐れ、建国の功臣を粛清するものですが」

 

「自分の後継者ではこいつらに勝てないと認めているようなものだろう」

 

アルブレヒトは傍らのアナスタシアを見た。

氷のように研ぎ澄まされた美貌。かつて帝国を血で洗い、今も皇帝の敵へ向ける牙を失ってはいない女。

 

「アル様。皆様の前でそのように見つめられますと」

 

「俺はお前たちを粛清なんぞしない」

 

「優秀な部下を殺さなければ守れない玉座など最初から弱い。そんな真似を必要としない強い皇帝であればいい。後継者本人が足りなければ強い皇族が後ろ盾になればいい」

 

それが誰を指しているかは誰にでも分かった。

 

「それでも駄目ならその時は帝国の寿命だったということだ」

 

ロイエンタールはしばらく主君を見つめ、やがて深く頭を下げた。

 

「……御意。できれば陛下の御代で全宇宙を統一していただきたいものです」

 

「そのつもりだ。息子たちに面倒な宿題を残す気はない」

 

張り詰めていた緊張がほどける。

そこでアルブレヒトの口元に別種の笑みが浮かんだ。

戦略を語る時よりも悪い笑顔だった。

 

「だから、ロイエンタール。お前はまず結婚しろ」

 

「……は?」

 

「俺はお前たちと親戚になりたいんだ」

 

「今の議論からなぜ私の結婚へ飛ぶのです」

 

「次代の結束を考えるなら血縁は分かりやすいだろう。だがお前の養女はマルガレータだ。公王になった娘を今さら俺の息子の嫁に寄越せとは言えん」

 

「当たり前です」

 

「しかもカティアはいずれラインハルトのアレクへ嫁がせる約束になっている」

 

婚姻は遠い未来の話だった。

だがその約束が果たされればアレクを公国の次代へ押し上げる強い支えとなり、カティアは帝国と公国を結ぶ公妃となる。

 

「公国との縁はそれで保てる。だが一本だけでは心許ない。家族の繋がりというものは太いほど切れにくいからな」

 

「そこで私にも妻を持てと」

 

「そういうことだ」

 

アルブレヒトは今度はリューネブルクへ顔を向けた。

 

「お前もだ。マグダレーナ夫人ともっと励め。毎晩の戦場で武勲を立ててさっさと子を作れ」

 

「皇帝が臣下の寝室にまで作戦目標を設定するのですか」

 

「少子化対策だ」

 

「本気で我々と血縁になるおつもりで?」

 

リューネブルクの問いにアルブレヒトは頷いた。

 

「政治的な繋がりは深くなる。それに将来お前たちかその子孫が裏切って玉座を奪ったとしても、そこに俺の血が残っていれば俺の勝ちだろう?」

 

ロイエンタールは天井を仰いだ。

 

「……まったく、この主君は」

 

「諦めろ、ロイエンタール。この方は昔からこうだ」

 

リューネブルクの声音には呆れと愉快さが半分ずつ混じっていた。

 

「ふふっ。だからこそ宰相閣下も軍務尚書閣下も支えがいがあるのでしょう?」

 

「皇后の言う通りだ。頼むぞ」

 

「まだ何も承諾しておりません」

 

「細かいことはよい。相手の話をしよう」

 

アルブレヒトが指を鳴らすと立体星図が消え、一人の若い女性の立体写真と略歴が表示された。

淡い金髪。気丈そうに結ばれた唇。華やかな美貌を持ちながら見る者へ媚びる色は欠片もない。

 

「エルフリーデ・フォン・コールラウシュ」

 

「公国のリヒテンラーデ公の縁者だ。あの老狐は名目上内務尚書待遇の政務顧問だが官僚機構はほとんど奴が組み上げた。その縁者である彼女を公爵の養女とする」

 

「した上で?」

 

「お前の妻に迎える」

 

ロイエンタールは写真を見た後、ゆっくりと皇帝へ視線を移した。

 

「陛下。その忌々しい……いや、恐ろしい話はいつから進めておられたのです?」

 

「今、忌々しいと言ったな」

 

「恐ろしい、と訂正いたしました」

 

「大して変わらん。リヒテンラーデが公国の政務へ入った頃からだ。あの老人へそれとなく話を通してある」

 

「第八次イゼルローン攻防戦の最中にも私の縁談が進んでいたと?」

 

「戦争中だからといって縁談が休戦してくれるわけではない」

 

「敵より性質が悪いですな」

 

「褒め言葉として受け取ろう」

 

女性との付き合いは数え切れないほどあった。しかし結婚となれば話は別である。

皇帝、公国、リヒテンラーデ。三つの政治的意図で退路を塞がれた見合いなど艦隊包囲より始末が悪い。

 

「……見合いはいたしましょう」

 

「おお!」

 

「ただし会うだけです。結婚するかどうかは全くの別問題です」

 

「大丈夫だ。お前ならきっと気に入る。気丈で美人で権力に媚びず言いたいことをはっきり言う。お前にぴったりだ」

 

「私の好みを私以上に知っていると」

 

「子供が生まれたら息子ならフェリックスがいいな」

 

「まだ見合いもしておりません」

 

「娘ならどうする、アナ」

 

「フェステニアにいたしましょう。フェリックスと並べても美しい響きです」

 

「決まりだ」

 

「何一つ決まっておりません」

 

ロイエンタールの目から生気が失われていく。

 

「名付けをしていただけるのは光栄ですが、生まれる前提で話を進めないでください」

 

「生まれるさ。俺も頑張る」

 

「エリザベートにもアナにもサビーネにもまだまだ子供を産んでもらう。銀河を束ねるには家族が多い方がいい。銀河の統一はまず揺るぎない家族計画からだ!」

 

「ご自身の家庭計画を宇宙政策のように…」

 

「国家元首の家族計画は国家政策だろう」

 

「その理屈を通せるのは陛下だけです」

 

「皇帝だからな」

 

ロイエンタールは疲労感に目を閉じ、もう一度エルフリーデの立体写真を見た。

気の強そうな瞳だった。

 

少なくとも退屈な女ではなさそうである。

そのわずかな興味をアルブレヒトは見逃さなかった。

 

「ほら、気になっている」

 

「陛下」

 

「何だ」

 

「海賊作戦の準備へ戻ってよろしいですかな。共和国を滅ぼす方が私の縁談より簡単に思えてきました」

 

会議室に笑いが広がった。




お読みいただきありがとうございました。

今回は民意に押されて限定攻撃を選ぶヤンと、それを新たな好機として利用しようとする帝国側を描きました。

民主的独裁者となったヤンの判断や、グリルパルツァーの抜擢、ロイエンタールの縁談について感想をいただけると嬉しいです。
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