銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
父親候補であるキルヒアイスとオーベルシュタインが、それぞれ複雑な感情を抱く中、公王一家を支えるド・ヴィリエは、ますます聖人としての信頼を集めていく。
だが、公国首脳部は彼個人への恩義と、地球教という宗教組織への警戒を分けて考えていた。
【キルヒアイス公国首都フェザーン・公王私邸】
銀河の勢力図を容易く塗り替える顔ぶれが一堂に会し紅茶と菓子を囲んでいる。
キルヒアイス公国の公王と公王配。軍務尚書。ローエングラム公爵夫妻。共同皇帝サビーネ。グリューネワルト伯爵夫人。そして公国の政務を陰から支える者たち。
しかし彼らの視線の先にあるのは、マルガレータの腹部であった。
ソファに身を沈める公王は、身幅の広い淡い桃色のマタニティドレスを纏っている。
安定期という医師の診断通り彼女の頬には健康的な赤みが差している。
そして何より宿した命は一つではなかった。
双胎。
妻の隣に寄り添うジークフリード・キルヒアイスは、膨らみ始めた腹部へそっと掌を添える。その指先はひどく脆いものへ触れるかのように慎重な熱を帯びていた。
掌の下から微かな反発が伝わる。
「それにしてもまさか双子とはね」
「妾も驚いたぞ」
「一人でも手余るというのに二人して暴れ回るのじゃ。右から蹴られたかと思えば次は左じゃ。妾の腹の中を何だと思っておるのか」
彼女の指先は慈しむように腹部を撫で続けていた。
「この調子では二人ともお転婆かやんちゃ坊主に違いない。きっとジークの子じゃな。普段は温厚なくせに誰よりも機敏に立ち回るところなどそっくりではないか」
「どうだろう」
キルヒアイスは柔らかな笑みをこぼす。
「中で政治について議論しているのかもしれないよ。領土を広げるべきか民政を優先すべきか。互いに一歩も譲らず白熱しているんじゃないかな。誰かさんのように」
「誰のことを言っておる」
「さあ」
その幸福な情景を少し離れた席から見据える視線があった。
パウル・フォン・オーベルシュタイン。
軍務尚書たる彼は国家の命運を計る時と寸分違わぬ生真面目さでマルガレータの腹部を観察している。
「……私は政治的な議論で感情を露わにすることはありませんが」
「誰もお主の話はしておらんぞ」
「ですが、生まれてくる子供の目は正常に見えるでしょうか」
「私の体質が遺伝していた場合、義眼を用意する必要があります。成長に合わせて調整と交換を重ねなければなりません。まして新生児に装着するとなれば公国の医療技術でも難儀するでしょう」
「待て、待て」
「お前たち二人とも、自分の子である可能性を微塵も疑っておらんな」
誰の子なのか。
少し前であればその一言が致命的な亀裂を生んでいたはずだ。
公王の不貞、王統の正統性、軍務尚書と公王配の対立。
「まあ双子じゃからな。確率的には一人ずつということもあるやもしれん」
「医学的には稀少ですが可能性は皆無ではありません」
「そうなのか」
「複数の卵子が別々の時期に受精した場合、父親の異なる二卵性双生児が生まれる事例は古代地球でも報告されています」
「なぜお主はそのような事例だけ詳しく調べておるのじゃ」
「必要な情報ですので」
彼が何を目的としてそこまで調べ上げているのか、追求するのは無粋というものだった。
キルヒアイスは口元に柔らかな弧を描いたまま腹部から手を離そうとはしない。
だがその緑の瞳の奥底に一瞬だけ過った仄暗い憂いを、マルガレータの目は確かに捉えていた。
「……どちらの子供であっても罪はないよ」
それは他者へ向けたものというより、己の内に渦巻く葛藤をなだめるためだ。
「二人とも無事に生まれてくることが一番大切だ」
「ジーク……」
「お菓子、追加で持ってきたよー」
サビーネの両手には焼き菓子を積んだ皿。その足元には不安定な足取りでまとわりつく幼児の姿があった。
クレーフェルト・ジキスムント・フォン・ファルケンハイン。
もうすぐ一歳を迎える彼は母のドレスの裾を掴んでは離し、懸命に足を動かしている。サビーネは手にした皿を侍女へ預け息子を抱き上げた。
「マルガレータは双子だもんね。いいなあ。私もアル様ともう一人欲しいな」
クレーフェルトの頬へ自分の頬を寄せる。
「ねえ、クレーフェルト。お前も妹か弟が欲しいよね?」
母の言葉の意味など理解するはずもない。クレーフェルトは小さな手で母の髪を掴み、あー、と元気な声を上げた。
「ほら、欲しいって」
「その返事で決めるでない」
マルガレータの口元が綻ぶが、それはすぐに翳りを帯びる。
「陛下。すまぬが現状ではなかなかあなたを帝国へ帰すわけにもいかぬ」
「分かってるよ」
「アル様が皇帝になったんだもんね。私は公国にとって皇帝の妻でもう一人の共同皇帝で……それに、アル様の子供を産んだ女だもの」
「人質でもあるんでしょ?」
「……否定はせぬ」
「あなたとクレーフェルトが公国にいる限りアルブレヒトは我々を簡単には攻められぬ。そなたはあやつを縛る鎖の一つじゃ」
「マルガレータ」
キルヒアイスの咎めるような視線が向けられる。
「妾とアルブレヒトは今はまだ家族同然に行き来できる。じゃがいずれ銀河を分けて戦う時が来るやもしれぬ。その時打てる楔は一本でも多い方がよい。妾は公王として使えるものを使わぬとは言えぬ」
「人を物のように言わないでほしいんだ」
「物とは思っておらん。サビーネとクレーフェルトを守ることも妾の責任じゃ。その二つは両立する」
「いいよ。私はここ、嫌いじゃないもの」
「陛下……」
「アル様が会いに来てくれるならどこでも同じ。それにアナスタシア様がいるオーディンへ今すぐ帰るのは、私もちょっと怖いしね」
明るい声の裏側に、かつて命を脅かされた記憶がへばりついている。
「だからちゃんと守ってね。人質は大事にしないと交渉材料にならないんでしょ?」
その沈黙を埋めるように、卓上に茶器を整えていた侍従が感情の抜け落ちた声を発する。
「公王陛下。ずいぶん格好のよいことを仰っているつもりでしょうが」
「マタニティドレスを着て不倫相手と本夫を両脇に侍らせながら人質外交を語る女の言葉には、何の説得力も威厳もありませんけどね」
「うぬ!」
マルガレータの頬が朱に染まる。
「お主は相変わらず妾に対する敬意が足りておらんぞ!」
「敬意を払うに値する行動をなさってから要求してください」
「それに、もはや不倫ではない!今月末には国法の改正が完了しオーベルシュタインは正式に妾の第二夫となるのじゃ!」
「まだ改正されていません」
「確実に通る!反対派の醜聞はお主が全部握っておるではないか!」
「ええ。ですから法案自体は通します。しかし公王陛下への個人的な評価と法務上の事務処理は全く別問題です」
侍従の眼差しに揺らぎはない。
「私の陛下への敬意はその大きくなったお腹と首輪の擦れ跡を見るたびに、綺麗さっぱり消滅いたしますので」
「く、首輪のことは言うな!」
両手で首元を覆い隠す。化粧で隠してはいるものの拘束具が残した痕跡は未だ消え去っていない。
「お茶が入りましたよ。冷めないうちにどうぞ」
「うぬぬぬぬ……」
政治的な建前ならいくらでも並べ立てられるが、己の不始末という事実を突きつけられては反論の余地がなかった。
◇◇
窓際ではラインハルトとアンネローゼが一連のやり取りを眺めていた。
「そもそもだ」
「オーベルシュタインのどこがよかったのだ?」
「ラインハルト」
「控えめに言ってもキルヒアイスの方が万倍いい男ではないか。容姿、人格、能力、優しさ。比較すること自体がキルヒアイスに対して失礼だ。全く理解できん」
「ラインハルト。人の外見や好みを悪く言ってはだめよ」
僅かな咎めが含まれているのを感じ取り、金髪の覇者の全身から反抗心が抜け落ちていく。
「……はい。申し訳ありません、姉上」
しかしその神妙な態度も長くは続かなかった。
「しかし、キルヒアイスのこの美しさと優しさはまさしく銀河の至宝だというのに」
「まだ言っているではありませんか」
「ええい。相変わらず重度のキルヒアイス依存症め。ヒルダが出産直前で相手をしてくれぬからといって、ジークとの不倫に逃げることは許さんぞ」
「誰が精神的不倫だ!」
「毎日用もないのにジークへ通信を入れておるじゃろうが!」
「用はある!俺とキルヒアイスには銀河の未来について語り合うという重大な用が!」
「昨日は新しく買った立体パズルを見せておっただけではないか!」
「それも重要な報告だ!」
「どこがじゃ!」
応酬が熱を帯びかけたその時、キルヒアイスがゆっくりと顔を向けた。
口元には笑みが貼りついている。
だがその翠玉の瞳は一切の光を反射しない暗い深淵と化していた。
「……君は、それを僕たちに言う権利はなさそうだけどね。マルガレータ」
「ひっ」
「い、いやじゃ。もう繋がれるのは嫌じゃ。妾は反省しておる。腹に子もおるのじゃぞ」
「分かっているよ」
「その目で言われても全く安心できぬ!」
恐怖に突き動かされ、腹部を庇いながらソファの端へと身をすくませる。
その気配に、少し離れた寝椅子で休息を取っていたヒルダが重い身体を起こした。
ゆったりとした室内着を押し上げるほどに腹部は大きく張り出している。
第二子の出産を目前に控え、重力さえもが負担となる時期。背中を支えるクッションや足元の柔らかな台がなければただ座っていることすら苦痛を伴っていた。
「公王配殿下。あまり陛下をいじめないでください。陛下だけでなく私まで落ち着かなくなりますわ」
「ヒルダ。無理に起きなくていい」
「腰は痛くないか。腹が張ってはいないか。喉は渇いていないか。何か食べたいものは?」
「あなた。私は病人ではありません」
「出産直前なのだぞ。病気より心配ではないか」
「心配しすぎです」
呆れとは裏腹に、その眼差しには温かな色が滲んでいた。
一日に何度も繰り返される過保護なまでの問いかけは、今やこの場における穏やかな日常の風景となっている。
「公爵閣下。奥様を案じられるお気持ちは分かりますが、質問を浴びせ続けてはかえってお疲れになりますぞ」
法衣の擦れる微かな音とともにド・ヴィリエ大主教の柔和な声が響く。
彼はヒルダの背中を支えるクッションへ目を配り、わずかな違和感も見逃さず侍女へ微調整を促した。
「奥様。長く同じ姿勢でおられると腰や脚へ負担がかかります。少しでも苦しくなれば遠慮なさらず横になってください」
「ありがとうございます、大主教様」
「出産予定日が近いからこそ母体が穏やかに過ごすことが大切です。公王陛下の騒動へ付き合って無理をなさってはいけません」
「なぜ妾のせいになるのじゃ」
「現に先ほどから騒動の中心におられるでしょう」
ド・ヴィリエは香りの穏やかな刺激の少ないハーブティーをヒルダへ差し出した。
「身体を冷やさぬよう少しずつお飲みください」
「わざわざ私のためにご用意くださったのですか」
「今日は公王陛下のお身体を拝見するために招かれましたが、出産を控えた方がおられると伺っておりましたので。神に仕える者としてできる備えをするのは当然のことでございます」
「本当に何から何までありがとうございます」
その様子にラインハルトの全身からも強張りが抜け、大主教へ向けられる信頼の眼差しは一層の熱を帯びていた。
大主教ド・ヴィリエは中枢へ教団の影響力を浸透させるべく、善良なる聖職者の仮面を被ってこの公国へと潜り込んだ。
子育てに悩む母親たちへ茶と菓子を提供し戦災孤児を保護し、古代地球の医療知識を用いてラインハルトの病の進行を抑え込んだ。
目論見通り公王家の厚い信頼は手に入れた。
いや、手に入れすぎた。
今や彼はローエングラム家の恩人であり妊婦たちの相談相手であり、キルヒアイスの精神的な拠り所であり公王私邸へ自由に出入りできる聖人として扱われている。
謀略家としてこれ以上ない立ち位置である。
だがその代償として、彼は銀河で最も厄介な一族の愚痴や健康相談、痴話喧嘩の仲裁を日常的にしかも無償で引き受ける羽目になっていた。
「のう、大主教」
マルガレータが縋るように法衣の裾をつまむ。
先刻までの威勢はすっかり鳴りを潜め、そこにあるのは不安に苛まれる一人の若き女性の姿だった。
「妾は……神に許されるのじゃろうか」
「何を、でございますか」
「分かっておるじゃろう。一人の夫がおりながら別の男とも関係を持ち、あげく父親の分からぬ子を孕んだ。これから国法を変えて二人とも夫にしようとしておる」
「妾のこの罪深い行いはやはり神の教えに反するのか。死んだら地獄へ落とされるのかのう」
当たり前だ、この大阿呆め。
地獄の業火で念入りに焼かれるべき破廉恥さではないか。法改正を進め、父親の知れぬ双子を一人ずつ分配しようなどという公王が宇宙のどこにいる。神でさえ判決を下す前に匙を投げるに違いない。
内側に渦巻く激しい徒労感とは裏腹に、彼の顔には慈愛に満ちた完璧な微笑みが貼り付いていた。
「公王陛下」
「許されるか許されないか。その答えを神へ委ねご自分で考えることをやめてはなりません」
「しかし……」
「夫婦の形は時代や国によって異なります。一人の夫と一人の妻のみを正しいとする社会もあれば複数の伴侶を認める社会もあった。形だけを見て私が神の名の下に断罪することはできません」
静かにキルヒアイスへ視線を向ける。
「大切なのは関わる皆様が互いを人間として尊重し偽りなく責任から逃げずに向き合うことです。傷つけた相手がいるなら謝罪し、子供たちが生まれるなら誰の血を引いていようとも等しく愛する。その答えは法にも教典にも書かれてはいません」
「大主教……」
「公王配殿下は英明でそして慈悲深い方です。まず殿下と向き合い続けてください。オーベルシュタイン元帥ともです。神へ許しを請う前に貴女が愛すると仰る方々への責任を果たすのです」
マルガレータの目から涙が伝い落ちる。
キルヒアイスが静かに頷いた。
「マルガレータ。僕はもう複数の伴侶を持つこと自体を責めるつもりはないよ」
「ジーク……」
「僕自身君とアンネローゼ様という二人の妻がいる。僕だけが許されて君は許されないというのではあまりに身勝手だからね」
アンネローゼが静かに目を伏せた。
「問題だったのは君が隠していたことだ。オーベルシュタイン元帥との関係が国家を割り生まれてくる子供を危険にさらす可能性を考えなかったことだよ」
「うむ……」
「元帥は君を愛していると僕の目を見て言った。君も国法を変えて彼と子供に公的な責任を負わせようとしている。なら僕も逃げずに受け入れる努力をする」
堪えきれなくなったようにマルガレータは両手で顔を覆った。
「ありがとう……ありがとう、ジーク。大主教」
「私へ礼を仰る必要はございません。決断なされたのは殿下ご自身です」
キルヒアイスもド・ヴィリエへ向かって深く頭を下げた。
「いいえ。私は嫉妬と怒りで自分でもどこまで沈んでいくか分からない状態でした。あなたが子供とマルガレータを切り分けて考えるよう導いてくださった。貴方がいなければ私は立ち直れなかったかもしれません」
立ち直らせるまでに何十時間費やしたと思っているのか。
確かに公王一家の懐へ入り込むという最大の目標は達した。だが不倫、一妻多夫、一夫多妻、嫉妬、過度な依存、そして首輪。教義を入り込ませる隙間などこの異常な一族には一ミリたりとも存在しない。
洗脳を試みる以前にまず彼らの精神を安定させなければ言葉すら届かない。
謀略を巡らせる以前に妊婦の体調管理と夫婦喧嘩の仲裁をしなければ国家機能が停止してしまう。
もはや宗教工作員ではなくただの専属カウンセラーである。
謀略の張り合いなど微塵もない。この者たちは自ら巨大な落とし穴を掘り、勝手に落ちては泣きながら助けを求めてくるのだ。
当然、その嘆きが表に出ることはない。
「殿下の御心が安らかになることこそ公国の安定、ひいては全宇宙の平和へ繋がります。お役に立てたのであればこれに勝る喜びはございません」
そのやり取りを見つめるオーベルシュタインであったが、懸念がある。
宗教が国家の最高権力へ接近しすぎるのは危険である。
個人への信仰は法律や軍隊とは別次元の経路で民衆を支配する。
為政者が気づいた時にはすでに手遅れとなっていることが多いのだ。
オーベルシュタインはド・ヴィリエとフェザーン支部を密かに監視させていた。
資金の流れ、通信履歴、職員の出入り、他星系の地球教支部との接触。
だが調べれば調べるほど、出てくるのは戦災孤児の食費、母親向けサロンの会計、ハーブの仕入れ、医療記録の購入ばかりだった。
国家転覆の準備をしている様子はない。
地球の教団本部との通信も事業報告と人事上必要な範囲を越えていない。
「大主教」
「はい、元帥閣下」
「フェザーンでの事業は順調ですかな」
「皆様からのご寄付のおかげで戦災孤児の保護施設は新たに二棟を開くことができました。母親たちのサロンも盛況です」
「ただ利用を希望される方が増えすぎましてな。職員たちに過重な負担をかけぬよう受け入れ人数を調整しているところです。救いを求めて来られた方をお断りするのは心苦しい限りですが」
「政府から補助金を増額しましょう」
「いえ、そのような。すでに十分すぎるほど頂戴しております」
「必要な事業へ必要な金を出すことは国家の義務です」
「……ありがたく存じます。その一クレジットたりとも無駄にせぬよう会計を公開いたしましょう」
本当にただの聖人なのか。
オーベルシュタインの内にくすぶる疑念は晴れない。
だがそれを裏付ける材料は一向に見当たらなかった。
むしろ彼自身の中にこそ、この聖職者へ相談を持ちかけたいという欲求が芽生え始めていた。
「元帥閣下こそお加減はいかがですかな。ご心労も相当なものとお見受けいたします」
「私の心労など国家の運営に比べれば些細なことです」
常の彼であればここで対話を打ち切っていただろう。
しかしその視線がマルガレータの腹部へと向けられる。
「……いや」
「仮に生まれてくる双子が二人とも私の子であった場合、殿下へどう顔向けすべきかと考えることはあります」
「元帥」
キルヒアイスの表情が強張る。
私心が混ざりすぎている。
何が感情を持たぬ参謀か。期待の入り混じった顔を晒しているではないか。結局のところこの男もただの俗物と何ら変わりない。
「まずはお考えを整理いたしましょう。まだお生まれになるまで時間があります」
「しかし備えは必要です」
「備えることとまだ起きていない未来を恐れ続けることは違います。今は母子の健康を第一に考え殿下と元帥と公王陛下で、どのような結果でも子供を守ると確認なさればよい」
「……そうですな」
「ゆっくりでよろしいのですよ」
「感謝する、大主教」
オーベルシュタインの肩から強張りが抜ける。
その瞬間、彼の中にあったド・ヴィリエに対する警戒心がまた一つ信頼へと傾いた。
ド・ヴィリエにとっては計算通りの勝利である。
だが彼自身、なぜ自分が教団の工作活動を後回しにしてまで他人の家庭の不安解消に真剣に取り組んでいるのか分からなくなりつつあった。
◇◇
「それでは、私は孤児院の夕食に顔を出さねばなりませんので」
ド・ヴィリエが席を外し扉が静かに閉じられる。
侍従が廊下へ注意を向け、足音が遠のいたことを確認した。
そして、空間を満たしていた空気が一変する。
笑い声や呆れ声、痴話喧嘩に興じていた者たちの表情から家庭人としての微かな緩みが抜け落ちた。
クレーフェルトは侍女に伴われて隣室へ移されている。
卓上に置かれた簡易防諜装置が起動し、微細なノイズが外部との通信を遮断した。
「さて。あの地球教についてじゃが、皆はどう思う」
「ド・ヴィリエ大主教はヒルダを助け、俺の命をも救ってくれた大恩人だ。その知識と人格について俺個人は信頼を置いている」
「だが個人への恩義と国家の統治は別だ。宗教が国家の意思決定へ近づきすぎることは為政者として看過できん」
「まったくですな」
隣接する書斎で報告書に目を通していたリヒテンラーデ公が歩み出た。
「地球において皇帝とローマ教皇がどれほど長く権威を争ったことか。皇帝が軍と法律を握っておっても、民衆が教皇の言葉を神の意思と信じれば王冠は安泰ではない」
空席へ身を沈め杖の頭へ両手を重ね合わせる。
「公王陛下より地球教の大主教や総大主教の方が尊い。公王の命令より教団の教えに従うべきだ。民衆がそう考えるようになれば公国は二つの頭を持つことになる」
「しかしド・ヴィリエ大主教本人は信頼できます」
キルヒアイスが反論を挟む。
「彼は私たちが頼む前から孤児を救い母親たちを支えていました。寄付金の会計も公開し政治的な要求を一度もしていません」
「ド・ヴィリエ本人については私も同意します」
オーベルシュタインが続く。
「監視は続けていますが少なくとも現時点で国家を転覆させる動きは確認できない。彼は稀代の聖人なのかもしれませんな」
「お主の口から聖人という言葉が出るとはな」
「問題は彼以外の地球教幹部も同じであるか、ということです」
「ド・ヴィリエ大主教が善良であっても彼の後任が善良とは限らない。宗教組織は人の寿命より長く残ります。個人への信頼をそのまま制度への信頼と取り違えるべきではありますまい」
「ならば現状は政府から慈善事業への支援を増やし、その代わり会計と人事の透明性を求める。監視を続けながら善行には国家として報いる。その程度に留めるべきでしょう」
ヒルダが寝椅子から声を上げる。
「締めつければ地下へ潜ります。優遇しすぎれば独立した権力になる。国家の制度内へ入れつつ国家そのものには触れさせない距離が必要ですわ」
「うむ……」
「じゃが我々がアルブレヒトを打倒し銀河統一を目指すのであれば、帝国と同じ道を歩くだけでは勝てぬ」
公国はまだ若い。
軍事力とフェザーンの経済力、そして英雄たちの名声はあるが、王朝としての歴史的蓄積が欠けている。
対するアルブレヒトは旧王家の血を婚姻を通じて取り込み帝国の法統を継承している。
「向こうはゴールデンバウムの血と帝国の玉座を持っておる」
「妾がただ今日から銀河の皇帝じゃと名乗っても帝国臣民は成り上がりの簒奪者としか見ぬじゃろう。血統の正統性だけで争えば分が悪い」
「だから宗教的権威を利用する、と?」
「そうじゃ。キルヒアイス公国の王権は神が乱世を終わらせるために選んだ不可侵のものである。そう地球教に認めさせる」
「王権神授説ですな」
リヒテンラーデが応える。
「血ではなく神意による正統性。確かに大衆を導くには強い」
「妾やジークの勝利を奇跡として語り銀河統一を神意とする。帝国の古い血統に対し公国は新しい天命を掲げるのじゃ」
政治宣伝として大衆の心を掴むには十分な物語である。
しかし老人の表情は芳しくない。
「陛下。そうなれば結局は最初の話へ戻りますぞ」
「何がじゃ」
「神意を与える者は神意を取り上げることもできる」
杖の先で床を強く打つ。
「教団が公王を神の代理人と認めるからこそ王権が正当化されるのであれば、将来教団と対立した時、神は公王を見放したと宣言されただけで玉座が揺らぐ。王冠の上へ載せた光輪が借り物ならその持ち主には逆らえぬ」
「では神権そのものを公王家の中へ取り込めばよい」
自らの発言を咀嚼するかのようにマルガレータの視線が宙を彷徨い、やがて一本の線へと繋がった。
「そうじゃ!」
「ド・ヴィリエ殿には確か十代の娘がおったな?」
「一人娘がいるとは聞いております」
オーベルシュタインが応じる。
「ならばその娘を将来我々の血族へ嫁がせればよい!」
「例えばこの双子のどちらかが男であった場合その正妻として迎える。地球教大主教の直系と公王家が婚姻すれば、教団の神権は最初から我々の一族の中に入るではないか!」
「なるほど」
「公王家と教団の対立を家族内部の調整に変えるのか」
「そのとおりじゃ!」
「ほっほっほっ」
リヒテンラーデの口元が邪悪な弧を描く。
「歴史上の神権政治では王家と高位聖職者の家を婚姻で結ぶことは常套手段。政治的には見事な一手ですぞ、陛下」
「待ってください」
「政治的かつ平和的な手段であることは認めます。ですが当事者を抜きに進めてよい話ではありません」
「まだ生まれてもおらぬ子供と会ったこともない娘の話じゃ。今すぐ婚姻届を書かせようというのではない」
「それでもです。何よりド・ヴィリエ大主教ご自身の同意が必要ですわ。あの方が娘を権力闘争の道具にすることをよしとするでしょうか」
「むう……」
晴れやかだったマルガレータの顔に影が落ちる。
「大主教がただの俗物であれば簡単なのだがな。金か地位を与え、娘を差し出せば総大主教にしてやるとでも言えば食いつくであろうに」
「彼は違う」
ラインハルトが断言する。
「この時代にあれほどの能力を持ちながら善性を保っている者は稀だ。俺の命を救った時ですら地位も金も求めなかった」
「善性を保つためにも強靱な精神と能力が必要なのでしょう」
オーベルシュタインも同調する。
「弱いから悪へ流れないのではない。自分の中に不動の力があるから悪に頼る必要がない。彼の信仰はその種のものなのかもしれません」
「もしあれがすべて演技なら大したものですわね」
「けれど違うでしょう。あの方の瞳は澄んでいます。あのような方を私たちの愛憎渦巻く権力闘争へ巻き込むのは少し気の毒に思えます」
「政略結婚を持ちかければかえって警戒されるやもしれませんな」
リヒテンラーデが髭を撫でる。
「娘を守るためフェザーンを離れる可能性さえある。これは悩ましい」
「大主教が総大主教になりたいから公国軍で教団本部を制圧してくれとでも野心を口にしてくれれば、いくらでも取引できるのじゃが」
「そのような方ではありませんよ」
キルヒアイスは困ったように微笑む。
「フェザーンの大主教という今の立場ですら自分には身に余る地位だといつも謙虚に仰っている」
「ううむ。清廉すぎる者は扱いに困るのう」
脅迫や買収、地位の提示といった常套手段が通用しない善人を前に、権力者たちは一様に思考を行き詰まらせていた。
アンネローゼが静謐な響きを落とす。
「難しく考えず、まず大主教様へ正直にお話ししてはいかがでしょう」
「娘さんを政治の道具として差し出してほしいのではなく、将来もし子供たちが互いを大切に思うようになったならその縁を祝福していただけないか、と」
「それでは政略にならぬではないか」
「人の心を無視した政略は長く続きません」
「ジークも妻が二人いるからこそそのことはよく分かっているはずです。誰か一人でも望んでいなければ家族にはなれません」
「アンネローゼ様の仰るとおりです」
「大主教と娘さんへ条件を提示することはできる。だが選ぶのは本人たちでなければならない。僕たちが力で決めれば地球教との縁を結ぶどころか、未来の火種を家の中へ入れることになる」
マルガレータは思索の末に同意を示した。
「よし。ならば今のうちに聞いてみよう」
「今ですか?」
「善は急げじゃ。孤児院へ着く前に呼び戻せ」
侍従へ指示を飛ばす。
「それを善と呼ぶのは大主教に対して失礼かと存じますが」
「細かいことはよい!」
◇◇
私邸を辞そうとしていたド・ヴィリエは回廊の途中で足を止められた。
忘れ物でもしたのかと大広間へ戻ると、先刻までとは打って変わった整然たる空気が彼を待ち受けていた。
全員の真剣な眼差しが突き刺さる。
何だ、この気配は。
まさか正体が露見したか。いや証拠は残していない。地球本部との通信も必要最低限に抑え資金もすべて合法事業の中で処理している。落ち着け。
「大主教。少し相談したいことがあるのじゃ」
「私でお役に立てることでしたら何なりと」
「お主には娘がおったな?」
「……はい。一人娘がおりますが」
声色に変化は生じさせない。
だが公王が自らの家族へ関心を向けた時点で警戒度は最高潮に達していた。
「その娘を将来我が公王家へ嫁がせることを考えてはくれぬか」
さすがのド・ヴィリエも即座に言葉を返すことができなかった。
「無論今すぐ決めよという話ではないぞ。この双子の性別すら分かっておらぬ。娘御と将来生まれる妾の子が成長し、もし互いに望むのであれば婚姻を認めてもらえぬかという相談じゃ」
ヒルダが続く。
「公国と地球教の関係を争いではなく親族として結べればと考えたのです。ですが娘さんの意思を無視するつもりはありません」
来たか。
娘が公王家へ嫁ぐ。
それは何世代もの時間を費やしても得られないほどの国家中枢への血縁となる。
生まれてくる子供には公王家と自分の血が流れる。教団の影響力を公国の王統へ永続的に根付かせることができるのだ。
これほど完璧な政治的機会はない。
受けろ。今すぐ受けるのだ。娘一人の婚姻でこの国の未来を内側から握れる!
…待て。ここは危険すぎる!公王の腹の子は父親さえ確定していないのだぞ!
外から見れば娘の未来を真剣に案じ、慎重に言葉を選ぶ慈悲深い父親の姿そのものであった。
「公王陛下。大変に名誉あるお話と存じます」
「ですが私は大主教である前にあの子の父親です」
マルガレータたちは静聴している。
「父として娘の幸せを何よりも第一に考えたい。娘自身が将来その方を愛し公王家の一員として生きることを望むのであれば私は祝福いたしましょう」
「しかし、娘を国家と教団を結ぶための道具として扱うことは、神に仕える者としても父としても受け入れられません」
「うむ。当然じゃ」
ところがマルガレータはあっさりと同意した。
「妾も生まれてくる子を道具として誰かへ押しつけるつもりはない。まず引き合わせ友人として付き合わせる。その先を決めるのは本人たちじゃ」
「大主教。私からもお約束します」
「娘さんの意思に反して婚姻を強制することはありません。もし私たちの子が拒まれたならそれを受け入れさせます」
「殿下……」
「家族は政治だけでは作れませんから」
アンネローゼとヒルダも同調を示している。
オーベルシュタインはド・ヴィリエの返答に触れ、奥に燻っていた最後の疑念をさらに薄れさせていた。
自身の立身出世や教団の利益より娘の幸福を重んじた。
やはりこの男は信用に足る。
「では今すぐの婚約ではなく将来の可能性として」
「双方の子供が成長してから自由意思に基づいて交流の機会を設ける。それでよろしいでしょうか」
「……はい。それであれば」
「娘ともよく話をいたします」
「決まりじゃな!」
マルガレータが歓喜とともに腹部を撫でる。
呼応するように腹の内側から強い胎動が返ってきた。
「おお。どちらか知らぬが向こうも乗り気のようじゃぞ」
空間に柔らかな笑いが波及した。
お読みいただきありがとうございました。
今回は双子を授かったマルガレータ一家と、ド・ヴィリエおよび地球教をめぐる公国首脳部の対応を描きました。
キルヒアイスとオーベルシュタインの心境や、聖人になりつつあるド・ヴィリエ、最後の婚姻構想について感想をいただけると嬉しいです。