銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
話題は、三国へ根を張り始めた地球教。
共和国の利益のため、ユリアンはデグスビィへ一つの取引を持ちかける。
最後の美女が一礼して退室すると、防音扉が閉じた。
廊下から響いていた音楽も、キャストたちの笑い声も、扉の向こうで急速に遠ざかっていく。VIPルームに、耳が痛くなるほどの静けさが戻った。
床へ座らされていたカリンは、すでに軍服の上着を着直していた。赤い髪を手早く整え、今度はソファへ腰を下ろしている。反省が終わったのかどうかは分からないが、少なくとも背筋を丸めて正座する時間は終わったらしい。
その隣では、ユリアンがウイスキーのグラスを傾けていた。
対面のデグスビィ主教もワインを手にしていたが、先ほどの情報報告を終えたときより姿勢は固い。
「……そもそも、宗教というものは、人間社会にとっては必要不可欠なものです」
静かな声だった。デグスビィはグラスをテーブルへ置き、深く頷いた。
「左様ですな。人の心には、どうしても『拠り所』が必要になりますゆえ」
「歴史が証明しています。西暦末の十三日戦争や九十年戦争で、人類がどれほど絶望し祈ろうとも、救世主も神も降臨しなかったからね。……不可視の神など、現実の絶望の前では何の役にも立たない」
聖職者へ向ける言葉としては、あまりにも容赦がない。だがデグスビィは反論せず、続きを待った。彼自身、祈りだけで腹を満たせず、教義だけで組織を動かせないことを知っている。
「ん~。でもさ、それって結局、自分の心が弱いから何かにすがりたくなるだけじゃない? 自分の足で立てない人間の甘えよ」
カリンは退屈そうに毛先を指へ巻きつけていた。信仰も神も、彼女にとっては自分で立てない者が使う杖にすぎないらしい。
「社会が絶えず膨張し、明日が今日より良くなると信じられる時代なら、それでいいと思うけどね。……だが、これからの時代、社会の閉塞感や不安、不満が噴出することは避けられない。そこには、大衆の目をそらし、すがるための『器』が必要になる」
「しかも、それが姿のない神ではなく、明確な『場所』であるなら……これほど扱いやすい偶像はないね」
その場所とは、地球だった。人類が生まれ、捨て去り、いまでは大半の者が一度も足を踏み入れたことのない惑星。知らないからこそ、いかなる理想も投影できる。貧困も不満も戦争も、失われた故郷へ帰ればすべて救われると信じさせることができる。
デグスビィは感嘆の息を漏らした。
「……まさに慧眼でいらっしゃる。我が地球教の教義は、まさにその偶像として完全に適していましょう。……しかし……」
「わかっているよ。君達の組織も、決して一枚岩ではないんだろう?」
先回りされ、デグスビィの眉間に深い皺が刻まれた。
「お恥ずかしながら……。本来、地球教はサイオキシン麻薬を用いた洗脳や、無差別テロによって、地球を中心とする『神権政治』の樹立を狙う過激な集団でありましたからな。……現在は、共和国、帝国、公国と三国に分かれて、それぞれ水面下で勢力を拡げておりますが、上層部では今後の指針について激しい意見の相違があります」
デグスビィが目指しているのは、かつての地球教へ戻ることではない。
歓楽施設を経営し、軍人の不満と秘密を集め、国家権力へ売り渡す。信仰心より収支と生存を優先する男にとって、無差別テロは崇高な闘争ではなく、築き上げたものを灰にする愚行だった。
「それで、より現実的な力を持つ僕に『協力』を求めた貴方の判断は、極めて正しいよ。……僕なら、武力と政治力を使って、あなたを地球教の『総大主教』の座に押し上げることも不可能じゃない」
デグスビィの上体がわずかに前へ出た。聖職者らしい慎みより先に、目の奥へ欲望が灯る。
「現在の総大主教は、いまだにテロによる武力制圧を諦めていない狂信的な過激派ですからな。今の三国鼎立の緊迫した社会情勢で無差別テロなどを起こせば、ただの『絶滅戦争』になりかねないことを、あの老人は全く分かっていない!」
「ヤン総統がいれば、戦争そのものには勝てるだろうけど……総統閣下もお一人だ。いきなり宗教絡みの絶滅戦争なんて引き起こされて、死人が何億、何十億人出るかわかったものじゃない。それは共和国の国益を著しく損なう」
人命が失われるからではなく、共和国の国益を損なうから避ける。
ユリアンの口調に迷いはなかった。共和国を守ることと、ヤンを勝たせること。その二つを判断の中心へ置けば、犠牲者の数さえ損益として計算できる。
「おっしゃる通りです。さらに厄介なことに、現在、キルヒアイス公国では『ドヴィリエ大主教』が公王家に巧みに接近しているとの情報があります。また、ファルケンハイン帝国では、文化サロンを通じて『ゴドウィン主教』がゼーフェルト学芸尚書や、メックリンガー提督といった文化人将官と誼(よしみ)を通じていると聞きます」
共和国では軍人の欲望へ、帝国では文化人の知的虚栄へ、公国では公王家の慈善と福祉へ。地球教は各国で異なる顔を使い分けながら、権力の近くへ根を伸ばしていた。
「なるほど。それが、貴方が総大主教の座に就くための『当面のライバル』と言う訳だ」
「私達としては、デグスビィさんがトップ(総大主教)になってくれれば、教団のネットワークを使って他国の機密情報も抜けるから、戦略的にかなり有利になる……って言うことね」
カリンがシャンパンを一口飲み、先ほどまで髪を弄っていた指でグラスの脚を挟んだ。
酒宴の最中とは別人のように、瞳が鋭く冴えている。
「うん。そうだね、カリン。情報を制するものが戦争も制する。古来からの絶対の鉄則だ。……デグスビィ司教、お互いの輝かしい将来の話をしようか」
デグスビィは、目の前へ差し出された餌の大きさを測るように息を呑んだ。
「はい。私が総大主教になった暁には、教団の全ネットワークを駆使して、ヤン総統閣下の覇業に全面的に協力いたします」
「もちろん、都合のいい『情報提供』だけでは足りないよ?」
ユリアンは微笑んでいた。だが、その目には一片の温かさもない。
「……と、申しますと?」
「僕たち『以外』の勢力には……ちょうどよいタイミングで、『テロ』や『暗殺』もやってもらおう。君たちの得意分野だろう?」
「そうね。せっかくその便利なノウハウと狂信者が余っているなら、有効に使っておかないと損じゃない」
カリンは平然と足を組み替えた。テロリストも暗殺者も、二人にとっては艦艇や兵士と変わらない。敵へ向けて使える資源なら、廃棄する理由はない。
――なんという恐ろしい若者たちだ。ヤン・ウェンリーという光の裏で、ここまで……!
総大主教の座は、手を伸ばせば届くところまで近づいている。
「……では、私に下さる『見返り』としては、何を?」
「銀河統一後の『宗教的権威』は、すべてあなたに一任しよう。共和国は信教の自由を憲法で保障している」
ユリアンは氷の溶け始めたグラスをテーブルへ置いた。
「殺人でも、麻薬でも、何をやっても構わない。国家の政治と経済に影響を与えないなら……だけどね。莫大な富も名声も、あなたの自由だ」
信教の自由という民主主義の原則が、犯罪を黙認するための看板へすり替わっていた。
それでもユリアンには、理念を捨てたという自覚はない。宗教の自由を守り、同時に国家の安定も守る。どちらも成り立つなら、手段は問題ではなかった。
「クックック……それは剛毅でいらっしゃる! ……しかし、よろしいのですか? そのような国家の根幹に関わる重大な密約を、ヤン総統閣下に許可を得ずに勝手に結んでしまって……」
声は震えていたが、デグスビィはもう欲望を隠そうともしていなかった。
「ヤン総統閣下は、僕の提案なら最終的には必ず飲んでくださる」
そこで一度だけ言葉を切ると、ウイスキーの氷がグラスの内側で小さく鳴った。
「………それに、次の総統は僕だ」
デグスビィの呼吸が止まった。
それは野心を打ち明ける者の言葉ではなかった。いつか奪い取ってみせるという宣言ですらない。すでに決定している未来を、相手へ教えただけの声だった。
カリンも驚かなかった。瞳でデグスビィの反応を見ている。ユリアンがヤンの後継者となることは、二人の間では確認する必要さえない前提なのだ。
「……それで、不足かな?」
静かな問いに、デグスビィは完全に呑まれた。やがて恐怖が歓喜へ変わり、喉の奥から笑い声が噴き出す。
「ハッハッハッハ!! 不足などあろうはずがありません!! 承知いたしました。我が命、そして地球教の未来、次期総統閣下に全てお預けいたしましょう!」
差し出された手を、ユリアンは固く握った。
お読みいただきありがとうございました。
今回はユリアン、カリン、デグスビィによる地球教をめぐる密談を描きました。
次期総統を当然視するユリアンや、地球教を国家戦略へ利用しようとする共和国について、感想をいただけると嬉しいです。