銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

44 / 218
みなさま、ようこそ戻ってまいりました。
今回はアルブレヒトの原点、ファルケンハイン領に帰還する章です。

怠惰を掲げて戦場を駆け、政治の荒波をかわし、
気づけば名君扱いされている男――アルブレヒト。

しかし今回は、その彼ですら逃れられない存在がいます。
そう、家族です。

帝国随一の武勲を挙げようが、黒字を量産しようが、
家の戸口をくぐった瞬間に「坊ちゃま」です。

それに加えて、アナとの結婚問題という、
戦場より危険な課題も浮上します。


ファルケンハイン家の帰還 ――黒字と政争と婚約条件

正直、俺はその日こそダラダラ過ごすつもりだった。

オーディンでのクソ面倒な挨拶回りも終わったし、ヘルクスハイマーの件も片付いた。

リッテンハイム侯とブラウンシュヴァイク公のところで変な腹芸をさせられた以外は、そこそこ順調に終わった、と自分に言い聞かせていた。

 

 

 

「若様!いえ、当主閣下!黒字でございます!黒字が、えらいことに!」

 

執務室のドアが、爆発でもしたのかと言いたくなる勢いで開いた。

書類の束を抱えた行政官が三人、雪崩れ込んでくる。目が限界まで血走っていて、頬はこけている。なのに笑顔だ。怖い。

 

「落ち着け。まず深呼吸しろ。で、順番に喋れ」

 

そう言ってみたが、三人同時に深呼吸して、三人同時に喋りだした。

やめろ。俺は三人同時通訳機能なんて搭載されてない。

 

「黒字です!」「寄付が!」「援助が!」

 

「一回止まれ!一人ずつ!順番!はい、そこのハゲ頭から!」

 

呼ばれた行政官が、肩で息をしながら一歩前に出た。

 

「リッテンハイム侯爵家からの投資案件にございます!鉱山への資本投入、運搬ルートの再整備、それに伴う新しい商取引の提案!サインいただければ、領歳入が三倍に!」

 

「三倍て。そんなの、うちの鉱山爆発してもお釣り来るぞ…」

 

隣の細身の行政官が、震える手で別の書類束を掲げた。

 

「こちらは、ブラウンシュヴァイク公爵家からの新規取引です!穀物と家畜の長期買い上げ契約!加えて、軍需物資の下請けも回してくださると!歳入試算を行った結果、先ほどの案件と合わせると、領地の税収が、帝国平均の十倍に…!」

 

「十倍!?おい、冗談じゃないぞ。そんなに増えたら、税務監査とか変な目で見られるだろ。

『ファルケンハイン家、裏金でも作ってるんじゃないか?』とか」

 

別に、そんな野心的な経済政策なんて一つも打ち出していない。

「領民が楽しく働けて、俺の酒とつまみが切れなきゃそれでいい」という、非常にシンプルな経営方針だ。

 

なのに、なんだこの爆発的インフレは。

 

最後の一人、年配の行政官が、半分笑いながら泣きそうな顔で前に出た。

 

「若様…いえ、閣下。問題は、ここからでございます」

 

「まだあるのかよ」

 

「はい。両陣営からの寄付、投資、共同事業の申し出が、毎日、山のように届いております。

書類だけで執務室が埋まりかねません。

さらに、これらを捌くための新規役人採用、インフラ整備、人件費、各種条例改定…仕事が仕事を呼んでおりまして…」

 

そこで、彼は震える声で言った。

 

「このままでは、黒字に押し潰され、我々が過労死してしまいます。とても嬉しいのですが、死にます。嬉しい!」

 

「どんな喜び方だよ!」

 

ツッコミも虚しく、三人とも「黒字!」「黒字!」と呟きながら、書類を机に積み上げていく。

みるみるうちに、俺の視界から机の表面が消えていった。

 

アナが、隣で静かに紅茶を置きながら、淡々と言う。

 

「おめでとうございます、アル様。領地経営は、かつてない好調です」

 

「俺の精神状態は、かつてないほど不調だぞ!」

 

思わず立ち上がりかけて、椅子の脚をガタンと鳴らした。

行政官たちがビクリと震える。いや、俺に怯えるな。書類に怯えろ。

 

「確認だ。これ、全部、リッテンハイムとブラウンシュヴァイクから?」

 

「はい。両陣営の他にも、末端の家や商会から、ファルケンハイン家との取引を求める文書が殺到しております。

『どちらにも顔が利き、かつ中立的なファルケンハイン家とパイプを持つことは、今後の帝国政治において極めて重要となる』との噂が、オーディンで流れているようでして…」

 

「待て待て待て。それ、誰が流したんだ」

 

全員、同時にこちらを見る。

 

「もちろん、閣下のお言葉に基づき、ホーテン閣下が…」

 

「アナーーーー!!?」

 

横を見ると、アナが、まるで何の心当たりもありませんと言わんばかりの涼しい目で紅茶を飲んでいた。

 

「アル様のご発言を、少々、整理してお伝えしただけです。

『どちらにも付かず、どちらとも仲良くする』と明言されたのは、アル様ご自身ですから」

 

「俺が言ったのは『面倒だからどっちにも付かない』だ!そこに『仲良く』なんて一言も含まれていない!」

 

「結果として、そう解釈されたのですから、問題ありません」

 

アナは、いつものことながら強い。

俺の「怠惰」を、勝手に「高尚な中立外交」に変換する、恐るべきフィルター能力だ。

 

行政官のひとりが、おそるおそる口を開いた。

 

「それに、閣下。領民の生活も、劇的に向上しております。

鉱山の安全対策費用は、リッテンハイム側の投資で賄われ、

農業支援金と家畜の買い上げ保証で、飢える者は一人もおりません。

失業者も減り、出生率も上昇傾向にございます。

領民の間では、閣下は『神』か『聖人』か、『給料のいい優しいブラック企業の社長』かと…」

 

「最後のやつだけニュアンスおかしいだろ」

 

「で、そんなに黒字が出たら、税はどうなる?」

 

「帝国への納税分を増額しても、なお余ります。

このままですと、ファルケンハイン領は、帝国有数の超優良納税領となり、『財源として当てにされる』可能性が高いかと…」

 

「それは嫌だなあ!」

 

思わず即答したら、行政官たちが肩を震わせながら笑った。

笑ってる場合か。いや、笑うしかないか。俺もだ。

 

「つまりまとめるとだ。

・両陣営から引く手あまたで、

・領地は黒字まみれで、

・領民は幸せで、

・役人は忙しすぎて死にそうで、

・俺は何もしていないのに、なぜか名君扱いされつつある、と」

 

アナがこくりと頷く。

 

「その通りです、アル様。

『働かずして信頼と富と政治的影響力を得る』という、アル様の理想が、現実になりつつあります」

 

「俺、そんな理想掲げた覚えないんだが」

 

「いつも仰っているではありませんか。『俺は楽して暮らしたい』と」

 

「それは言った。何度も言った。

だが、これは楽ではない。

放っておくとさらに仕事が増える黒字地獄だ!」

 

頭を抱えていると、年配の行政官が、おずおずと提案してきた。

 

「そこで、当主閣下。お願いがございます」

 

「なんだ。給与交渉ならアナに言え。俺は聞かなかったことにする」

 

「そうではなく…人手です。

この領地の行政を、今後も正常に回すには、優秀な人材が大量に必要です。」

 

その言葉で、俺の脳内に、数人の顔が浮かんだ。

 

真面目で、仕事が早くて、数字に強くて、領民にも好かれそうな男。

一人、いるな。

 

「ロイエンタールはダメだ。あいつを行政なんかに突っ込んだら、領民が全員、毒舌に育つ」

 

「あの方は、確かに向いておりませんな…」

 

「ミッターマイヤーは新婚だし、しばらくは奥さんとイチャイチャさせておいてやりたい。

レンネンカンプは…書類が軍事用語だらけの条例を作りそうだから却下。

ラインハルトは論外。領地経営なんかさせたら三日でクーデター起こす」

 

「まあいい。後で打診するとして…」

 

俺は、机の上に積み上がった書類の山を見た。

領地の予算案、投資計画、商会との契約書案、インフラ整備計画。

どれも、俺が本気を出せば、一応読める。

読みたくはないが、読める。

 

「アナ。率直に聞くが」

 

「はい」

 

「これ、全部に目を通さないとダメか?」

 

「はい」

 

即答だった。迷いという概念は、アナスタシア・ヴァン・ホーテンの辞書には存在しない。

 

「…俺の怠惰は、どこに行った」

 

「アル様の怠惰は、高度な政治的中立と、領地経営の超過利潤として、結実しました。

おめでとうございます」

 

「祝うな!俺の昼寝を返せ!」

 

手は勝手にペンを取っている。

書類の一番上をめくり、ざっと目を通し、気になる箇所にチェックを入れる。

数字のバランス、リスク、政治的な匂い。

そういうものを、無意識に計算している自分が、心底鬱陶しい。

 

 

 

 

 

 

俺はアナと一緒に故郷に向かった。いろいろあって財布の中身も領地の財政も笑えるくらい潤ったらしいので、当主としての顔くらいは見せておかないといけない。ついでに、俺を少年兵コースに突き落とした張本人たちに、英雄の帰還アピールもしっかりやっておきたい。

 

 馬車の窓から見える景色が、少しずつ帝都の石造りから見慣れた山と森に変わっていく。空気の匂いも違う。オーディンは金と鉄と人の匂いがするが、ここは土と木と飯の匂いだ。

 

「アル様、顔が緩んでいますよ」

 

「うるさい。休暇中くらい、頬の筋肉もサボらせろ」

 

 アナがクスッと笑う。隣にいるのがこいつで良かったと素直に思う。

家族みたいなもんだし、給料以上に働きすぎだし、給料はもっと上げるべきだな。…経理に相談しよう。

 

 そんなことを考えているうちに、馬車が減速した。窓の外に見覚えのある屋敷が見えてくる。ファルケンハイン伯爵家本邸。

 

よし、言いたいことは山ほどあるぞ

 

 父上とお爺様の顔を思い浮かべる。俺を軍学校に放り込んだ前科持ちだ。再会したらまず、勲章をこれでもかと見せつけ、「全部あなた方のせいで危ない目に遭いました」と、涙ながらに訴えてやる予定だった。軽く罪悪感を抱かせてから、お小遣いを上乗せさせる。完璧な作戦だ。

 

 玄関前で馬車が止まり、扉が開く。整列した使用人たちの列。その奥から、二人分の影が近づいてきた。

 

「おお、アルブレヒト。よく帰った。もうすぐ昼食だぞ」

 

「ふむ。軍服がよく似合うようになったな。顔つきも引き締まった」

 

 父上とお爺様は、驚くほど普通のテンションでそう言って、俺の肩をぽんと叩いた。涙も抱擁もない。戦場帰りの息子に対して、初めて剣の稽古の後にかけるような声だ。

 

あれ?

 

 胸の中でシミュレーションしていた恨み節大演説が、開始前に行き場をなくす。拍子抜けというか、肩透かしというか、全部混ざった感覚が押し寄せてきた。

 

「お帰りなさいませ、坊ちゃま」

 

 執事長にそう言われた瞬間、俺は悟った。俺は紛れもなく坊ちゃまである。階級も勲章も、玄関マットの前に置いて入る場所だ。

 

そうだな。ここ、そういう家だったな

 

 屋敷に入ると、アナは「本日は家族と過ごしてまいります」と言って、隣のホーテン家へ向かった。うちと同じくらいの大きさの屋敷が並んで建っている光景は、昔から変わらない。

 

 あっちの庭でアナが木に登って、こっちの庭で俺が石を投げて窓ガラスを割り、両家の大人全員から説教を食らった日々が、鮮やかに脳内で再生される。あの頃から、俺の人生はあんまり進歩してない気もする。代わりに、怒る相手が「家族と近所の大人」から「帝国の偉い人」に増えただけだ。

 

 食堂の扉をくぐると、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。香辛料のきいたスープ、焼きたてのパン、肉の焼ける香り。そして、その全部を上書きする勢いで飛んでくる母上の声。

 

「あらアルブレヒト、顔を見せるのが遅いわよ。あなた、聞いてるの?また書斎にこもって!少しは息子の武勇伝を聞いたらどうです!」

 

「聞いている、聞いている。アルブレヒト、そこに座れ。今日のワインは、隣領からの貢ぎ物だ」

 

 父上は、帝都では恐れられる貴族でも、ここでは完全に母上の下位互換だ。宇宙は理不尽だ。

 

「ほら、これも食べなさい。痩せてない?ちゃんとご飯食べてるの?」

 

「母上、戦ってるから食べてる」

 

「細かいことはいいの。野菜も肉も全部残さず食べること。英雄が栄養失調とか、笑えない噂が立ったらどうするの」

 

「誰だそんな噂流すの」

 

 口では文句を言いながら、出された料理を片っ端から平らげる。うまい。イゼルローンのレストランも悪くはないが、やっぱり家の飯には勝てない。たぶん、味よりも一緒に食べる面子の問題だ。

 

 テーブルの端では、お爺様とアナの祖父上が、すでに酒を酌み交わしていた。二人とも、今すぐ現役復帰してもおかしくないくらい元気だ。

 

「それにしてもだ、アルブレヒト。ブラウンシュヴァイクとリッテンハイムの両方から可愛がられるなど、なかなかできる芸当ではないぞ」

 

「両方から金と仕事を引き出し、どちらにも貸しを作った。あの二家を手玉に取るなど、わしでも若い頃はやらなかった」

 

 祖父コンビがやたらと機嫌よく褒めてくる。

 

待って。手玉?

 

 俺の記憶の中では、「面倒ごとを避けるために、その場しのぎで濁しておいた」くらいの印象しかない。が、どうやら外から見ると、かなり高度な腹黒ムーブに見えたらしい。

 

「まあな。このアルブレヒトにかかれば、その程度、大したことではない」

 

 ここで否定すると、せっかくの評価がもったいない。貴族社会では、誤解も資産だ。調子よく胸を張ると、祖父上が「そうでなくては我が孫ではない」と笑った。父上も、グラスを傾けながら満足げにうなずく。

 

 行政官たちも同席していて、領地の現状を報告してくれた。

 

「今年度の収支ですが、前例のない黒字でして」

 

「鉱山の安全対策と福利厚生の充実により、生産性がさらに向上しております。皆、給金に満足しており、労働争議の兆候も皆無です」

 

「税率については、これ以上下げると他領から視察が殺到し、かえって混乱しかねませんので、据え置きといたしました」

 

 説明を聞きながら、俺は心の中で首をかしげていた。

 

おかしいな。領民を鉱山でガッツリ働かせて、税金もしっかり取り立て、それを元手に俺が優雅な独身貴族ライフを送る。そういう構図のはずなんだが

 

 現実は、「働きやすくて給料が良くて税金も低い、おまけに治安もいい」という、帝国一ホワイトな領地が爆誕していた。俺が前線で砲火を浴びている間に、家族と部下たちが勝手にユートピアを作っていたらしい。

 

「アルブレヒト。お前が軍でそこそこ活躍すればするほど、敵は我が領地へのちょっかいを出しにくくなる。そうなれば、商人も職人も集まり、皆が豊かになる。だから、死なない程度に頑張れ」

 

「注文が雑に聞こえるぞ、お爺様」

 

「雑で何が悪い。生きて帰る。それが一番の親孝行だ」

 

 お爺様のその一言に、母上が静かにうなずいた。

 

「そうよ。勲章なんて、帰ってきたあとの飾りでいいの。あんたがまたこうやって、うちの食卓で文句言いながら飯を食べてくれる。それだけで十分」

 

 不意打ちでそんなことを言われると、さすがの俺も言葉に詰まる。気恥ずかしさをごまかすために、目の前のローストビーフを乱暴に切り分けて口に放り込んだ。塩加減が絶妙で、変に目頭が熱くなる。これは玉ねぎのせいだ。絶対にそうだ。

 

 ふと、窓の外に目をやると、夕暮れの光の中で領地の町が赤く染まっていた。通りを走る子どもたち。仕事を終えた鉱夫たちが笑いながら飲み屋へ向かっていく。パン屋の前では、売れ残りを子どもに分けてやる姿が見える。

 

ちょっと照れ死にしそうなので、心の中だけでそっとまとめておく。

 

 

 

 

 

 

とりあえず言わせてほしい。俺は、もともと「平穏に生きて、平穏に死にたい男」だ。昼寝と女神と美味い酒さえあれば、それで満足という、宇宙でも指折りの怠惰な貴族だと自負している。

 なのに、今の俺はどうだ。

 

 帝国元帥? 宰相? 公爵?

 

 ――ぜんぶ、さっき俺の口から出た言葉だ。正気か、俺。

 

 きっかけは、あの三人のジジイたちだ。親父と祖父と、アナの祖父。三人そろって、真剣な顔で「今はアナとの結婚は許さん」とか言い出した時、脳は一瞬、現実逃避を始めた。

 が、その直後にならば元帥か宰相か公爵になれとか、さらっと要求してきたあたりで、現実逃避どころじゃなくなった。

 

 ハードル、高すぎないか?

 

 いや、俺もさすがにわかる。ブラウンシュヴァイクとリッテンハイムの両陣営から、事実上の「うちの娘どうです?」を食らっている状況で、アナと結婚したらどうなるかくらい。両方に同時に喧嘩を売る行為だ。

 帝国貴族社会のルールは、アナの同時通訳によると、こうだ。

 

「両サイドに喧嘩を売りたいなら、殴り返されない筋力を用意してからにしろ」

 

うん、理屈は理解した。納得はしていない。

 

 

 とはいえ、俺は確かに言ってしまった。

「アナは正妻だ」「側室とか愛人にするくらいなら独身でいい」と。あれは本音だ。あそこで引き下がったら、俺自身が一番、気持ち悪い。

 だから、つい口が勝手に、「元帥でも宰相でも公爵でも、なればいいんだろ」と言ってしまった。

 

 今こうして自室のベッドに寝転びながら、その発言を反芻しているわけだが。

 

 ……やらかした気しかしない。

 

 枕に顔を押し付けながら、俺は足をばたつかせた。

 

「うおおおおおお! 面倒くせええええええ!!」

 

 叫んだところで、現状は変わらない。俺の部屋の防音は優秀だ。誰にも聞こえない。アナにも聞こえない。ジジイどもにも届かない。

 ただ、自分の声だけが、頭蓋骨の中でこだまする。

 

 ふと、さっきのアナの顔を思い出した。舞踏会での綺麗な笑顔じゃない。三人の説得を先に聞かされて、俺の前で「いずれ」と笑った、あの時の顔だ。

 

あれを思い出すと、さすがの俺も、昼寝モードには戻れない。

 

「……はあ」

 

深く息を吐いて、天井を見上げる。

 

「元帥、ねえ。あと三階級か」

 

 今、中将だ。大将、上級大将、元帥。数字だけ見れば、たった三段階だ。

 ただ、その一段階ごとに、普通の人間の人生が何本分か詰まっている。

 

 まず大将。艦隊を一つ預かる立場。すでに俺も艦隊司令官だが、中将と大将の間には、目に見えない深い溝がある。責任の質が変わる。今までは「艦隊の失敗」で済んだものが、「帝国軍の失敗」に変わる。

 その上が上級大将。実質的に軍のトップクラス。政治との距離も、ぐっと近くなる。

 最後が元帥。帝国軍の顔。戦場でも宮廷でも、常に矢面。

 

 どこにも、昼寝する場所が見当たらない。

 

「……やっぱ宰相の方が、まだマシかなあ」

 

 ぽつりと口から漏れた。自分でもどうかと思う方向への現実逃避だ。

 

「戦場に出ないぶんだけ、体力的には楽そうだし。会議室で座ってれば仕事してるように見えるし。書類仕事はラインハルトに押し付ければいいし」

 

 口にしてから、自分でツッコむ。

 

「いや、それただの無責任な独裁者だ」

 

 さすがに自覚はある。

 

 公爵はどうだ。

 ブラウンシュヴァイクやリッテンハイムと同格になるくらい爵位を上げろ、とジジイたちは簡単に言うが、それはつまり、「銀河の歴史に名前が残るレベルの功績をあげろ」という意味だ。

 

 イゼルローンを単艦で攻略するとか、同盟首都を一人で落とすとか、そのくらいの大事件が必要になる。

 

「……うん、やっぱ元帥でいいや」

 

 脳内で勝手に比較検討を終えた。どれもこれも気が遠くなるが、まだ一番、イメージしやすいのが元帥だ。

 

 俺には艦隊がある。優秀すぎる部下たちもいる。ロイエンタール、ミッターマイヤー、ラインハルト、キルヒアイス、アナ、それにミュラーやケンプも。

 

 あいつらの力を総動員すれば、元帥くらいは何とかなるかもしれない。宰相や公爵に比べれば、まだ戦場の方が話が分かりやすい。敵をぶっ飛ばせばいいだけだ。政治は、敵が味方の顔で近づいてくるからタチが悪い。

 

「……問題は、面倒くさいという一点に尽きるんだよなあ」

 

 俺の本音はそこに集約される。出世そのものに興味はない。元帥になったところで、給料が上がるだけだ。今でも金は余っている。領地の黒字は、行政官たちが嬉しい悲鳴を上げるレベルだ。

 俺が欲しいのは、肩書じゃない。アナとの平穏な生活だ。

 

 だからこそ、元帥になってでも守る価値がある。そういう話なのだろう。

 

「……やれやれ」

 

 ベッドから起き上がり、窓の外を眺める。故郷の空は、イゼルローンの人工空よりも、ずっと星がよく見える。

 あのどこかで、ロイエンタールたちは今頃、酒でも飲んでいるのだろうか。もしかすると、ミッターマイヤーは奥さんと未来について語り合っているかもしれない。

 

 ラインハルトは、多分、資料を広げて憲兵隊のことを考えている。あの金髪は、休暇でも頭の中が戦場だ。少しは見習えと言われるが、断固として拒否する。

 俺の仕事は、そういう連中を好き勝手に暴れさせ、その結果として帝国と自分の利益を最大化することだ。

 

 そこに「アナとの結婚」という、最大級の私事が乗っかってきた。

 

「……よし」

 

 小さく呟き、自分の頬をぺちんと叩いた。

 

「やるか。やってやろう。三階級くらい、まとめて駆け上がってやる」

 

 自分で言って、少し笑う。突っ込みたくなる台詞だ。

 だが、口に出すと、胸の奥が軽くなる。目標がはっきりしたからだろう。

 

 その時、ドアがノックされた。

 

「アル様。よろしいでしょうか」

 

 アナの声だ。

 

「入れ」

 

 扉が開き、さっきの舞踏会のドレスから普段着に着替えたアナが入ってきた。見慣れた軍人スタイルに近い服装だが、さっきの華やかさを見たあとだと、逆に安心する。

 

「失礼いたします。……先ほどは、お疲れさまでした」

 

「疲れたのは、ダンスじゃなくて、その後だな」

 

 思わず愚痴が漏れる。アナは、少しだけ目を伏せて笑った。

 

「父と祖父が、余計なことを」

 

「余計じゃないさ。必要なことだ」

 

 本心だ。あの場で、誰かが俺に現実を叩きつけておかなければ、多分、俺は何も考えずにアナと結婚しようとして、帝国史に残る大爆発を起こしていたかもしれない。

 

「……アナ」

 

 ベッドから立ち上がり、彼女の前に立つ。

 

「改めて言っておく。お前を側室や愛人にするつもりは、本当に一切ない。お前は、俺の正妻だ」

 

「……存じております」

 

 アナは、静かに微笑んだ。

 

「だから、俺は上を目指す。元帥でも宰相でも、公爵でも。どれが一番、俺の昼寝時間を確保できるかは、これから真剣に検討する」

 

「最後の一文が、台無しです」

 

 アナの即ツッコミが飛ぶ。そこが好きだ。

 

「まあ、どれにせよ、帝国の誰も文句を言えない地位に上がる。それが条件なんだろう?」

 

「……はい」

 

 一瞬だけ、アナの表情が曇る。自分の存在が、政治的な爆弾であることを、誰よりも理解している顔だ。

 

「心配するな」

 

 俺は、彼女の肩に手を置いた。

 

「俺は、面倒なことは嫌いだが、決めたことを途中で投げ出すのは、もっと嫌いだ。ブラウンシュヴァイクだろうがリッテンハイムだろうが、まとめて上から見下ろせる位置に立って、お前を迎えに行く」

 

「……アル様」

 

 アナの瞳が、ほんの少し潤んだように見えた。

 

 ここでキザなキスの一つでもすれば良いのだろうが、あいにく、俺はそういう演出に慣れていない。代わりに、いつものように、彼女にぎゅっと抱きついた。

 

「うおおお!!アナチャージだあああ!!」

 

「アル様、人前ではおやめくださいと言っておりますのに」

 

「ここには二人しかいない。問題ない」

 

「……はい」

 

 小さなため息と共に、アナの手が、優しく俺の背中を叩いた。子供をあやすようなリズムだ。昔から変わらない。

 しばらく抱きついたまま、心臓の鼓動が落ち着くのを待つ。

 

「なあ、アナ」

「はい」

「俺が元帥になったら、結婚してくれるか」

「……はい」

「じゃあ宰相になったら」

「……はい」

「公爵だったら」

「……はい。ただし、どの場合も、アル様ご自身が望んでその地位に就かれた場合のみです」

「望んで、ねえ」

 

 そこが一番の問題だ。

 

「じゃあ、こうしよう。俺は『アルブレヒト・フォン・ファルケンハインの安楽な老後』のために、そのどれかを目指す。結果として元帥になろうが宰相になろうが、それは副産物だ」

「動機が怠惰です」

「怠惰が俺のエンジンだからな」

 

 自分で言いながら、少し笑う。アナも、肩を震わせて笑っていた。

 

「……とにかく」

 

 抱きついたまま、俺は宣言する。

 

「俺は、帝国元帥になる。ついでに、必要なら宰相にだってなってやる。公爵の位も、転がっているなら拾ってやる。全部まとめて、俺の昼寝と、お前との結婚のために利用してやる」

「強欲ですね」

「欲張りなくらいが、ちょうどいいさ」

 

 そう言うと、アナは少しだけ身を離し、俺の額にそっと唇を押し当てた。

 

「では、アル様。これからも、どうぞ思う存分、怠惰に、強かに、お過ごしくださいませ。私も、それに合わせて働きます」

「頼もしい限りだな。……よし。とりあえず、今夜はぐっすり寝て、明日から元帥ロードを歩き始めるとするか」

「ええ。まずは、明日の朝に起きるところからですね」

「そこからか」

 

 アナのツッコミを背中で受けながら、俺はベッドへ倒れ込んだ。

 

 帝国元帥への道?

 長くて面倒で、きっと血みどろになる。

 だが、その先にアナとの結婚と、俺の安楽な老後があるなら――。




お読みいただき、ありがとうございました。

もしよろしければ――
「この家族、好きだな」
「アルの決意にちょっと胸が熱くなった」
「アナの笑顔が刺さった」
「黒字地獄わかる」
など、どんな感想でも構いません。

あなたの言葉が、次の章を書くエネルギーになります。

今小分けにしている章を

  • 週1で一気に読みたい(3万字くらい)
  • 毎日小分けでいい(4千字くらい)
  • 毎日なら文字数気にしない
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。