銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
人としてごく当たり前の願いです。
その愚直さや滑稽さが、ときに他の英雄たちとは少し違うかたちで銀英伝の世界に響けば、
作者としてこれほど嬉しいことはありません。
どうか肩の力を抜いて、彼らの掛け合い、衝突、友情(あるいは不本意な縁)を、
楽しんでいただけましたら幸いです。
憲兵隊本部の薄汚れた廊下で、俺は壁に張り付いている。
より正確に言うと、ラインハルトの執務室のドアの隙間に、片目だけをねじ込んでいる。貴族の嗜みとしてどうなんだ、それ、と自分でも思うが、背に腹は代えられん。あいつがここでやらかしたら、飛び火がまず俺に来る。予防は大事だ。
案の定、中では金髪の孺子がデスクを叩いていた。
「憲兵隊だと? 何の冗談だ。皮肉のつもりか。ここは、弱い立場の人間に帝室の権威と権力をこれ見よがしに誇示するための仕事場だぞ。この俺に、そんな腐ったことをさせるのか」
声量が全く遠慮なし。デパートの特売セールか。
廊下の端にいた憲兵が、ビクッと肩を震わせている。うん、あれは完全に不敬罪級のワードだ。よりによって、このビルの中で叫ぶセリフじゃない。
額の汗をぬぐいながら、ポケット端末を取り出した。
ミュラー、中にいるな。今すぐ何か言え。周りには聞こえない程度に、だ
超小声で打ったつもりの文面に、自分でツッコミを入れる。文字で送っているんだから声量関係ないだろうが。まあいい。細かいことは気にしない。
数秒後、ミュラーが画面の端に映った。
目の下にしっかりクマを作り、制服は皺だらけ。完全に過労兵士の顔だが、姿勢だけはやたら真っ直ぐだ。さすが根が真面目。
「そうお怒りにならないでください、大佐どの」
ミュラーが、ラインハルトの斜め後ろに一歩進み出た。声は落ち着いているが、音量はギリギリだ。これなら部屋の外までは届かない。よし、いいぞ。
「憲兵隊の内実を知るのに良い機会かと存じます。あそここそ、改革の必要な組織の最た
るものだと、ファルケンハイン閣下も申しておられましたし」
おい、実名を出すな。いや、出してもいいけど、タイミングを考えろ。
案の定、ラインハルトが、ぴたりと動きを止めた。
「ファルケンハイン……あいつがか」
机に置かれたペン立てが、ぐらりと揺れた。
「あの門閥貴族め。ブラウンシュヴァイクとリッテンハイムと共謀して、さらに私腹を肥やしているそうではないか。汚い金儲けに精を出す俗物が、何を偉そうに改革だと抜かす」
ド直球の悪口を、ここまでキレのある文言で並べられると、逆に清々しいな。
間違っている部分と、合っている部分が、実に半々というのがまた腹立つ。
私腹は肥やしているが、領民の給料も上げているんだよ。鉱山の安全基準も上げたし、児童手当も増やしたし、うちの領地の求人倍率は帝国トップクラスなんだぞ。そこもセットで評価しろ、金髪
などと、ドアの影で伯爵がぶつぶつ言っているのを、誰も知らない。知らなくていい。
ラインハルトは、しばし天井をにらみつけると、ふっと息を吐いた。
「……ミュラー中尉。貴官はキルヒアイスのように、物事を常に好意的に見るのだな」
急に声が落ち着いたので、俺は逆に怖くなった。
怒鳴っている時より、静かな方が危険なタイプというのが、世の中には確実に存在する。こいつはその系統だ。
「済まなかった。感情的になったようだ」
ラインハルトが、ペンを拾い直した。握る指に力が入りすぎて、金属軸がきしむ音がする。力加減を覚えろ、将来の元帥候補。
「憲兵隊は、帝国の膿の縮図だ。ここを知らずして、帝国全体を語る資格はない、という理屈なら理解はできる」
「その通りであります」
「……そして、あいつは、そこまで考えて俺をここに送り込んだのか」
そこで一瞬、ラインハルトの目が揺れた。
いや、違う。そこまで考えていない。
俺は、ただ単に、戦場から遠ざけて休暇を与えつつ、ついでに帝都の風紀も整理してもらえれば一石二鳥だな、くらいのノリだった。深読みしすぎるな。
「やはり、あの男は油断ならん」
金髪の孺子が、警戒する獣の目になった。
「門閥貴族にしては頭が回る。だからこそ、余計に信用ならん」
いや、今の評価はむしろ褒め言葉寄りじゃないか? もう少し素直に褒めろ
ミュラーが、ちらりとドアの方を見た。端末を通じて、俺の気配を感じたか。
心なしか、「助けてください」という魂のメッセージが目に宿っている。
しかし、ここで飛び出すと台無しだ。俺はあくまで、見守る優しい上官ポジションでいたい。面倒な説明をしたくないとも言う。
「過去五十年分の風紀違反記録とやらは、すべて照合したか」
「はい、大佐どの。地域ごとに分類し、頻発地点ごとの地図も作成済みです。ついでに、下水道の図面も全て頭に入れております」
「下水道までか」
「脱走兵や密売人の逃走経路として、安全性が高く、かつ監視の手が薄い場所を洗い出す必要がありましたので」
「なるほど。よくやった、ミュラー中尉」
ラインハルトが、珍しく素直に部下を褒めた。
その一言だけで、ミュラーの背筋がさらに伸びる。単純でいい。
というか、下水道の図面を全部暗記させるな。あいつ、うちの艦隊に戻ってきたら、戦闘よりトイレの位置に詳しいエースになりそうだ。
「では、ここからが本番だ」
ラインハルトが、壁一面のスクリーンにデータを投影した。
帝都全域の地図に、赤い点と線がびっしりと浮かび上がる。
「このデータを使って、帝都警備隊、憲兵隊、治安維持局の縄張り意識をぶち壊す。彼らの『利権』を一度バラバラにし、機能だけを軸に再編成する。権限の重複を減らし、責任の所在を明確にする」
怖いことをサラッと言うな、この大佐。
それ、普通にやったら関係各所から刺客が飛んでくる案件だ。
しかも、やり方が完全に組織破壊のプロである。
「……ファルケンハインは、そこまで読んでいたのかもしれん」
やめろ。俺の評価ハードルを勝手に上げるな。
こっちは、「憲兵隊で雑用やってれば、最前線に出ていく回数が減って、少しは長生きするだろ」という、極めて個人的かつ現実的な願いで動いている。
「大佐どの」
ミュラーが一歩踏み出した。
「ひとつだけ申し上げたいことが」
「何だ」
「ファルケンハイン中将閣下は、確かに俗物であります。私腹も肥やしておられます」
容赦ないな、お前も。
「しかし、閣下の領地の労働環境と賃金水準は、帝国内でも屈指です。徴税率も低く、インフラも整っています。汚い金ではありますが、流れ込んだ先で、多くの者を救っております」
おお、いいぞミュラー。もっと言え。
廊下で聞いている本人が、思わず胸を張りそうになった。
「私は、そういう俗物なら、存在価値はあると考えます」
「……」
ラインハルトが、沈黙した。
金色の瞳が、スクリーンから外れ、窓の外の夜空に向く。
「貴官は、やはりキルヒアイスと似ているな。人を見る時に、必ず救いを探す」
「恐れ入ります」
「だからこそ、私ごときの下についているのが不思議だ」
そこで少し笑った。
「安心しろ。せっかくここまでやったのだ。憲兵隊の構造改革くらいはやってみせる。どうせ戦場に出られぬのなら、腐った組織の一つくらい叩き直しても罰は当たるまい」
「了解しました、大佐どの」
こいつ、本当に休暇中の人間か。
俺が目指している安楽な老後とは、方向性が真逆だ。
このテンションで全力疾走されたら、そりゃあ皇帝の椅子まで一直線になるだろうな、とドアの影で変な納得をした。
それにしても、ミュラーだ。
あいつは、ラインハルトの爆弾発言を、うまく受け流し、危険な単語が外に漏れないよう、さりげなく音量をコントロールしている。
しかも、ワーカーホリックの横で潰れずに、ギリギリのラインで踏ん張っている。
うん。あいつはうちの艦隊に戻ったら、絶対に戦力になる
有能なのに主流に乗り切れない、うちの艦隊らしい人材だ。
ロイエンタールは皮肉屋、ミッターマイヤーは真っ直ぐすぎて危なっかしい。ラインハルトは協調性ゼロ、キルヒアイスは優しすぎる。
そこにミュラーを一人放り込んでおけば、バランスが取れる。……気がする。多分。
◆
問題は一つだけ。
金髪の暴れ馬を、誰も手懐けられていない気配がするということだ。
だが、ここで逃げたら、アナに「また六十五点」と肩をすくめられる。
最近の俺は、百点満点を目指す男だ。帝国元帥コースまっしぐら(予定)なのだ。
というわけで。
俺は、何食わぬ顔で執務室のドアを蹴り開けた。
「おーっす、ワーカーホリックども。生きてるか」
バン、と派手な音を立ててドアが壁にぶつかる。
部屋の中で書類を撒き散らしていた金髪と、その横で紙束を必死に拾っていたミュラーが、同時にこちらを振り向いた。
ラインハルトは、教科書に載せられそうなくらい綺麗な殺気を目に宿して、俺を睨みつけてくる。
「何の用だ、ファルケンハイン中将。私をここに押し込めておいて、口元だけ涼しい顔とは、いい身分だな」
おお、開口一番これか。
期待を裏切らない憤慨ぶりに、俺はちょっと笑いそうになる。
「別に、押し込めた覚えはないぞ。教育だ。帝都の闇を知るのも、将来の元帥さまには必要だからな」
「皮肉はいらない」
「皮肉じゃない。ついでに言うとだな、貴様が俗物だの守銭奴だのと罵っているこの俺が、最近は汗水たらして領地経営に励んだおかげで、ファルケンハイン領の平民は前より裕福になっている。賃金も上がった。税率も下げた。知っておけ」
ラインハルトの目が、ほんの一瞬だけ泳いだ。
図星を刺された子どものような反応で、すぐにむっとした顔に戻る。
「だからどうした。それと、ここが気に入らない理由は別だ」
「知っているさ。弱者を脅す権力の象徴だ、とさっき立派に吠えていただろう?声が廊下まで響いていた。感想としては、『その通りだが声量を抑えろ』だ」
ミュラーが「やっぱり聞こえていたのか…」という顔で、さらに目の下のクマを濃くしている。
よし、あとで何か甘い物でも差し入れてやるか。
「で、何の用だ。忙しいのが見て分からないのか」
ラインハルトが書類の山を顎でしゃくる。
机の上には「帝都下水道系統図」「風紀違反分布」「改善案第一次案」と書かれたファイルが、これでもかと積み上がっている。
五百ページレポートを実物で見ると、普通にホラーだ。
「うん。見ただけで胃が痛くなる量だな。よくやるよ」
「貴様が言い出した仕事だからな。途中で投げ出す真似はしない」
本気でやっているから怖いのだよ、金髪。
…まあ、仕事中毒はいいとして。
俺は、ここに来た本来の用件を思い出した。
「そうそう、本題。本日だが、お前に研修が追加されている」
「研修?」
ラインハルトが眉をひそめる。
「幼年学校での特別講義だ。現役の大佐さまが、将来の士官候補生に夢と希望を語るのだよ。光栄に思え。ついでに、俺も校長に呼ばれているから、一緒に行く」
ラインハルトは、露骨に嫌そうな顔になった。
「子どもの相手などしている暇はない。私は、ここでやるべき仕事が山積している」
「幼年学校をサボるのか?皇帝陛下の未来の軍人たちに、帝国軍の将来を語る機会だぞ。お前の大好きな『国の行く末』というやつに直結する。いいのか?」
わざとらしく首をかしげると、ラインハルトは歯ぎしりをしながら黙り込んだ。
この金髪、こういうところは妙に真面目だ。
横でミュラーが、祈るような目でこちらを見ている。
多分、心の中では「大佐、行ってください。その間に私は寝たいです」と叫んでいる。
「……わかった。行こう」
観念したように、ラインハルトが短く答えた。
よし、一つ目の関門は突破だ。
「それとだな」
俺は、わざと何気ないふりをして言葉を続けた。
「キルヒアイスも連れて行ってよし、と俺が許可を出しておいた。幼年学校には、二人の思いでもあるだろう。久しぶりに見物してこい」
次の瞬間、ラインハルトの表情があからさまに変わった。
さっきまで曇天だった空が、一秒で快晴に変わる。目がやたらキラキラし始めた。
「……本当に構わないのか」
「構わんとも。公務だ。護衛兼付き添いとして連れて行け。キルヒアイスも、どうせお前がいないと落ち着かない」
そこまで言ったところで、ドアの外からノックの音がした。
入ってきたのは、よりによって本人だ。
「失礼いたします。ラインハルト様」
赤毛の好青年、ジークフリード・キルヒアイス。
この部屋の空気を、一瞬で柔らかくする歩く空気清浄機である。
「ちょうどいいところに来たな、キルヒアイス」
ニヤリと笑って彼に向き直った。
「今から幼年学校に行く。お前も同行しろ。俺の許可はもう出ている」
キルヒアイスは、驚いたように目を瞬かせたあと、静かに微笑んだ。
「よろしいのですか。ありがとうございます、中将閣下」
その横で、ラインハルトはそっぽを向いているが、耳がほんのり赤い。
分かりやすいにも程がある。
「で、二人とも。外出準備だ。制服の襟を直して、階級章も磨け。幼年学校のガキ共に、帝国軍人のかっこよさを見せつけてやれ」
「……命令なら従おう」
ラインハルトが渋々立ち上がる。
さっきまで机に根を張っていた仕事中毒が、あっさり椅子から離れた。
キルヒアイスは慣れた動作で、ラインハルトの軍服の皺を直し、襟の位置を整え始める。
その様子は、どう見ても長年連れ添った夫婦の朝の支度だ。
「ラインハルト様、軍服が乱れています」
「そんなことはどうでもいい」
「いけません。幼年学校の生徒たちに笑われます」
「……なら、任せる」
はい、完全に惚気である。
ミュラーが、その光景を見ながら妙に優しい目をしていた。
憲兵隊本部の一室が、急にほのぼのとした空気に包まれる。
この二人は、このまま勝手にどこまでも上っていけばいい。
ついでに、責任は全部上の連中に押しつけて、俺はアナといちゃつきながら元帥コースをのんびり歩く。
完璧な未来予想図だ。
「よし、支度が整ったなら、さっさと行くぞ。遅刻したら俺のせいにされるからな」
「貴様のせいにするつもりなどない」
「お前の上官たちは、全部俺のせいにしてくるんだよ。世の中というのは、理不尽でできている」
そう言いながら、俺はラインハルトとキルヒアイスを連れて執務室を出た。
背後で、ミュラーが深いため息をついている。
「ミュラー。大佐がいない間に、少し寝ておけ」
振り向きざまに声をかけると、彼は反射的に敬礼した。
「はっ!……三時間だけ、寝てもよろしいでしょうか」
「三時間で足りるのか?」
「いえ、本当は一週間ほど休みたいのですが、欲張ると罰が当たりそうです」
その謙虚さ、ラインハルトと半分こしろ。
笑いながら手を振り、金髪と赤毛を従えて廊下を進んだ。
すれ違う憲兵たちが、一様にぎょっとした顔をして敬礼してくる。
そりゃそうだ。この部屋の主は、ついさっきまで帝国と憲兵隊のあり方について全力で吠えていたのだから。
「なあ、ミューゼル」
歩きながら、ふと俺は隣の金髪に話しかけた。
「幼年学校に行く前に、一つだけ言っておく」
「何だ」
「ガキ共の前で、さっきの『憲兵隊とは弱者を脅す云々』の演説はするなよ。間違いなく俺のせいにされる」
ラインハルトは、ふんと鼻を鳴らした。
「当然だ。あれは、ここでだけ口にする話だ」
そこは分別があるのか。ちょっと安心だ。
◆
教官の声が、やたら元気よく教室に響いている。
「帝国歴九年。神聖なるルドルフ大帝は、優性思想に基づき、『劣悪遺伝子排除法』を制定し、帝国の血統を浄化されました——」
……はい出た。大嫌いなワードランキング、ベスト3に入るやつだ。
廊下側の見学スペースから教室を見下ろしながら、こめかみを押さえた。
うわぁ、やっぱり今もこの授業やってんのかよ。時代遅れもいいところだな。内容も名前も胸糞悪い法律だ
そして、それ以上に「やばい」と思ったのは、隣にいる金髪の孺子の顔である。
ラインハルトは、教壇を睨みつけるようにじっと見据えていて、今にも手を挙げそうな雰囲気を全身からだだ漏れさせていた。
おいおいおい、その顔やめろ。
キルヒアイスは、その横で「頼むから落ち着いてくれ」という顔でそわそわしている。
こっちはこっちで、相変わらずラインハルトの感情メーターを見ながら動く、高性能安全装置だ。もはや、あいつの心のペースメーカーでも入ってるんじゃないか。
俺はというと、シュテーガー校長と一緒に、教室後方の見学スペースに立っている。
さっき挨拶した時に、校長からはこんなことを言われている。
「ファルケンハイン中将も、士官学校卒業から四年での大将候補とは、実に見事ですな。ミューゼル大佐とキルヒアイス中佐も、我が校の誇りです」
年上から面と向かって褒められるのは、くすぐったいが悪い気はしない。
だが今それどころではない。ラインハルトの表情筋が、明らかに「そろそろ行くぞ」と準備運動を始めている。
教官は、何も知らずに話を続ける。
「劣悪遺伝子排除法により、帝国は不要な——」
そこで、ラインハルトの肩がビクッと動いた。
口を開きかけ——た、その瞬間。
俺は、教官室側の入り口から、わざとらしくドアを開け放ち、腹の底から声を張り上げた。
「下らん!!!!!」
教室が、ビシッと音を立てて凍りつく空気になった。
教官は文字通り飛び上がり、変な声を上げた。
「ひぃっ!ファ、ファルケンハイン中将閣下!」
ラインハルトは、発言のタイミングを邪魔されて、殺気をこっちに向けてきた。
一方、キルヒアイスは、俺の意図を完全に理解したらしく、すぐさまラインハルトの腕を掴み、さりげなく引き戻す。ナイスアシストだ。
◆
「ラインハルト。さっきの授業の内容に、納得いってない顔だな」
そう切り出すと、金髪はギッと俺を睨んだ。完全に喧嘩を売る前の顔だ。
「当然です。『劣悪遺伝子排除法』だの血統の浄化だの…あんなものが、今も神聖な歴史として教科書に載っているなど、悪い冗談にしか見えません」
隣のキルヒアイスが、慌てて肩に手を置く。
「ラインハルト様、声が…」
「いい。ここは休憩室だ。俺の前なら大声で怒鳴っても、憲兵は呼ばれん」
そう言うと、ようやく少しだけ険が抜けた。単純で助かる。
「お前は今、こう言いたかったんだろう?」
指を一本立てて、金髪の方に向ける。
「遺伝的な形質は本人の責任じゃない。生まれた瞬間に、その命に優劣をつけるのは、不当で愚かだ、ってな」
ラインハルトの眉が、ピクリと動いた。図星だな。
「……その通りです。閣下にも、理解できるのですね」
「失礼なやつだな」
「俺も同じ意見だよ。そんな法、胸糞悪いに決まってる」
金髪の目が、「ならなぜ止めた」と言っている。言葉にしなくても分かる。
「けどな」
テーブルに肘をつき、指を組んだ。
「古い言葉に、こんなのがある。悪法もまた法なり」
案の定、ラインハルトの顔が即座に険しくなる。
「それで、唯々諾々と、その悪に従えと?帝国の悪徳を、そのまま認めろと?」
「違う違う」
手を振った。
「法なら、法なりの殴り方をしろ、って話だ。嫌なら、その法を作れるか変えられる場所まで、自分を持っていけってことさ」
「……」
「教科書が嫌なら、教科書を書き換えられる立場になれ。授業の内容が気に入らないなら、カリキュラムを決める側に回れ。ルドルフの名前が虫唾ものなら、その名前を歴史資料の片隅に追いやれる位置まで行け。俺は、そうするつもりだ」
ラインハルトは、しばらく黙り込んだ。何かを必死に噛み砕いている顔だ。子どもが苦い薬を飲み込もうとしている顔、と言い換えてもいい。
「……閣下は」
やがて、彼は静かに口を開いた。
「一体、何を願って軍に身を置いておられるのです?何を成そうというのですか」
よくぞ聞いてくれました。
目の前の赤髪――キルヒアイスの肩に、ぽんと腕を回した。びくっと肩が跳ねる。驚かせたいわけじゃないが、絵面的に必要だ。
「何をって、決まってるだろう」
わざと間を置いて、ニヤリと笑ってやる。金髪と赤毛が、同時にこちらを見る。
「好きな女を、嫁にするためさ」
休憩室の空気が、一瞬で固まった。
「………………は?」
最初に声を出したのは、キルヒアイスだった。お前じゃない。そこはラインハルトの台詞だ。
「俺にとっては、それ以上に大事なことなんて、ないんだよ」
「帝国の改革?銀河の平和?そんなものは、全部ついでだ。アナスタシア・ヴァン・ホーテンを、堂々と正妻に迎えるために必要なら、元帥にもなるし、公爵にもなるし、ついでに宰相の椅子も引っこ抜いてやる。その過程で帝国が少しマシになるなら、まあ、得したなって話だ」
ラインハルトの目が、限界まで見開かれる。教官室で悪法に噛みつこうとした時とは、全然別ベクトルで。
「……そ、そんな動機で」
「おい」
眉をひそめる。
「そんなとはなんだ。人が誰かを愛して、そいつと一緒に暮らしたいと願う。それのどこが、政治的野心より劣るって?」
「い、いえ、そういう意味では……」
金髪の元帥候補生が、珍しく口ごもった。キルヒアイスが、横でそっと微笑んでいる。
「お前は?」
カップを指で回しながら、ラインハルトを見た。
「お前は、一体何を願って軍に入った?何を成したくて、こんな面倒な組織に身を投じた?」
ラインハルトは、視線を一瞬だけ伏せた。すぐに、俺の目を真っ直ぐに捉え直す。
「……姉を、狭い鳥籠から出すためです」
きたな、その答え。
「アンネローゼ様を?」
確認するまでもないが、あえて口にする。
「はい。姉は、あの腐った宮廷に囚われている。皇帝の気まぐれ一つで、いかようにも弄ばれる立場にある。私は、その鎖を断ち切りたい。そのためには、力が要る。権力が要る。だから、俺は軍に入った。帝国を変えるために、いずれ、その頂点に立つために」
休憩室の空気が、さっきよりも重くなる。こいつ、本気で言ってるからな。冗談の欠片もない。
「ほう」
あえて軽く鼻を鳴らした。
「なら、お前も、立派な女のための野心家ってことだな」
「なっ……!」
金髪が真っ赤になる。耳まで赤い。
「違います!私のは、もっと高邁な……!」
「はい出た、自己美化」
カップを置き、指を一本立てる。
「いいか、ラインハルト。動機なんてのは、大体二種類だ。自分と身内を幸せにしたいか、その他大勢を幸せにしたい(風に見せたい)かだ。お前は前者だ。姉を救いたい。キルヒアイスを裏切りたくない。そのために帝国をぶっ壊して、新しい何かを作りたい」
図星を突かれて、ラインハルトは言葉を失う。キルヒアイスは、困ったように笑った。お前は何も悪くない。たぶん一番苦労するのはお前だ。
「俺も前者だ。アナと一緒に笑って暮らしたい。そのために必要なら、帝国中の悪法を燃やして回る。やってることは似たようなもんだ」
「ただ、お前は『高尚な理念』の皮を被るのが好きで、俺は面倒だから被らない。それだけの違いだ」
ラインハルトは、しばらく俺を睨み、その後、ふいと視線を逸らした。
「……………わかりますよ」
小さな声だったが、はっきり聞こえた。
「ん?」
「貴方の、その俗物の願望とやらも、理解できます」
ラインハルトは、悔しそうに、それでも正面を見て言った。
「俺も、姉を救いたい。そのためには、どれほどの血を流そうとも、どれほどの非難を浴びようとも構わない。だから、貴方が、愛する者のために帝国の頂点を目指すと決めたのなら……俺は、その点において、貴方を嘲る資格はない」
……おいおい。急に真面目なことを言うな。こっちが照れるだろうが。
「そうか」
わざと軽く言ってやる。
「なら、そのうち、どっちが先に頂上に辿り着くか、競争だな。俺が先に元帥になったら、お前を好きにこき使ってやる。お前が先に元帥になったら……まあ、その時は、アナとの結婚式に、元帥閣下として出席してくれ」
「誰が元帥になると決めつけている」
ラインハルトは、むくれた子どものような顔をした。
「俺は、ただ…」
「ただ帝国をひっくり返すだけ、か?」
言い終わらないうちに、キルヒアイスが噴き出した。ラインハルトがギロリと睨むが、赤毛は笑いを堪えきれていない。
「キルヒアイス!」
「す、すみません、ラインハルト様…でも、閣下の仰ることも、一理あるかと…」
ニヤニヤしながら立ち上がり、ソファの背もたれを軽く叩いた。
「まあ、いいさ。お前がどれだけ高尚な理由を並べようと、最終的には『大事な人を守りたい』に収束する。だったら、やることは同じだ。上に行け。権力を掴め。悪法を笑い話に変えられる立場になれ」
ラインハルトは、ゆっくりと立ち上がった。その顔には、さっきまでの苛立ちではなく、どこか吹っ切れたような色が浮かんでいる。
「……ミューゼル大佐」
「お前がいつか、本気で帝国を変えたいと思った時には、俺の艦隊に来い。ブラウンシュヴァイクのケツも、リッテンハイムのヒゲもまとめて蹴っ飛ばしてやる」
「嫌です」
即答で返ってきた。
「即答かよ!」
「貴方の艦隊に入ったら、書類地獄か、不意打ちの白兵戦訓練か、どちらかしかないではありませんか!」
「おい、俺の指揮法への信頼が不安になるぞ、それ」
キルヒアイスが、苦笑しながら二人の間に入る。
「でも、ラインハルト様。ファルケンハイン閣下が、ここまで本音を話してくださったのは、きっと…」
「やめろキルヒアイス。その先は言うな。俺が照れる」
俺は手を振って遮った。二人とも、きょとんとしている。
「お前らはお前らで勝手にやれ。俺は俺で、好きな女のために帝国元帥コースを歩く。それだけだ。必要なら、途中で手を貸す。邪魔な時は、適当に避けろ。その程度の関係でいい」
ラインハルトは、ほんの少しだけ笑った。珍しいものを見た気分だ。
「……承知しました、閣下」
「よし。じゃあ、今日のところは解散だ」
伸びをして、ドアの方へ向かう。
「キルヒアイス、あいつを頼んだぞ。暴走しそうになったら、頭を小突いて止めろ」
「はい。お任せください」
「誰のことを言っている!」
背中に飛んできた金髪の抗議を聞きながら、俺は内心、ひっそりとガッツポーズを決めた。
俺は、上を目指す。面倒だが、仕方ない。アナを堂々と嫁にする。その過程で、このどうしようもない帝国の法を、少しでもマシな方向に蹴り飛ばしてやる。
愛のための帝国制覇。目的としては、十分すぎる理由だろう。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
ファルケンハイン中将は、書けば書くほど勝手に走り出すタイプの主人公で、
ラインハルトやキルヒアイスとの対話も、気付けばこちらがメモを取るほど勝手に喋り出します。
もし少しでも「続きが読みたい」「ここの会話が好きだった」
「ラインハルトのこの反応が面白い」など、心に何か引っかかるものがございましたら、
ぜひ一言だけでも感想をいただければ嬉しく存じます。
今小分けにしている章を
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週1で一気に読みたい(3万字くらい)
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毎日小分けでいい(4千字くらい)
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毎日なら文字数気にしない