銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
一番まともで、一番俗物で、一番楽をしたい中将が、
なぜか帝国改革の中心を歩く羽目になる物語です。
ラインハルトの理想主義、
キルヒアイスの誠実、
ミュラーの真面目すぎる献身、
そしてオッペンハイマー伯の悪徳と善意の混合液。
帝国とは、こうした矛盾と利害の綱引きの上に成り立っています。
アルブレヒトは英雄ではありません。
けれど彼の怠惰と現実主義は、
時に高邁な理想よりも人を救うことがあります。
そんな俗物の正義を楽しんでいただければ幸いです。
俗物と英雄の狭間で:帝都憲兵総監部にて
幼年学校での講師役を終えて、俺は一人で憲兵総監部の長い廊下を歩いている。
目的地は最上階の突き当たり。帝都憲兵総監、オッペンハイマー伯の執務室だ。階級は大将、年は親父より上。普通なら、若造の中将が気軽に押しかけていい相手じゃない。
……のだが。
あの人は、俺の「夜の遊び」における、もっとも信頼できる悪友でもある。
アナに絶対バレないルートで、健全かつ高級、ついでに検査体制万全な娼館を紹介してくれる、実にありがたいお方だ。俺のような「真面目で清廉な帝国軍人」が、たまに道を踏み外しても命だけは守られているのは、だいたいこの人のおかげである。……自分で言っててどうかと思う肩書きだが。
重厚な扉をノックし、返事も待たずに開けると、分厚い革張りのソファにふんぞり返ったオッペンハイマーが、葉巻をくゆらせながらニヤニヤしていた。
「おお、ファルケンハイン中将。いや、今は伯爵と呼ぶべきか」
立ち上がる気ゼロの声でそう言う。相変わらずだ。
軽く敬礼だけして、勝手知ったるソファに腰を落ち着けた。
「ちょうど良いところに来たぞ。先日な、とびきり良い女が一人、ある店に入ってな。顔もスタイルも声も一級品だ。今夜あたり、どうだね?」
葉巻の先で空中に円を描きながら、いやらしい笑みを浮かべる。条件反射で、俺の中の本能が勢いよく手を挙げかけた。
「おお、それは——」
口が勝手に乗りかけたところで、俺は全力でブレーキを踏んだ。
「……いや違う違う!今日はそういう話じゃないんですよ、閣下!」
あぶない。今ここで「行きます!」と答えたら、「アナのために真面目に出世する」という俺の決意が、泡と一緒にシャンパンの底へ流れていくところだ。
「ほう?」
オッペンハイマーは、露骨につまらなそうに片眉を上げた。やる気があるのは葉巻から立ち上る煙だけだ。
「わかった、それで? 何の用だね、中将」
ため息を一つついて、俺も姿勢を正し、真面目モードを装う。
「ミューゼル大佐のことですがね」
「ふむ」
「俺の艦隊から、法務研修の名目で憲兵隊に出向させています。ご存じの通り、グリューネワルト伯爵夫人の弟ですし、門閥連中のやっかみも強い。あいつは俺の『お気に入り』でしてね。妙な嫌がらせを受けて、余計なスキャンダルに巻き込まれると、こっちも頭が痛いんですよ」
要するに、「変な罠を仕掛けるな。やったら俺の顔に泥を塗った扱いにするぞ」という、珍しく真っ当な根回しだ。俺にしては相当真剣なお願いである。
しかしオッペンハイマーは、俺の顔をじろじろ眺め回し、やがて妙に納得したように深く頷いた。
「……なるほど。随分とご執心のようだな」
「ご執心?」
「いや、わからんでもない。あれだけの美形は、そうそうおらん。だが、どれほど整った顔でも、男は男だぞ? ほどほどにしておけ」
「ちょっと待ってください。なんで今、男色前提の話になりました?」
思わず素でツッコミが出た。
俺は別に、金髪の孺子の顔にときめいたことなど一度もない。あいつの顔を見てまず浮かぶのは、この顔面偏差値なら門閥の連中が勝手に嫉妬するだろうなという、非常に現実的な感想だ。
「違うのか?」
伯は本気で意外そうな目を向けてくる。やめろ、その「てっきりそうだと思っていた」と言いたげな視線。
「違いますよ! 俺はただ、優秀な部下を無駄に失いたくないだけです。繰り返しますが、あれはグリューネワルト伯爵夫人の弟ですしね。あの人に泣かれたら、俺の方が怖い」
「ほう、姉の方が本命か」
「いや、それも違う」
この人、ときどき本気で話を聞いていない。だから気が合うのかもしれないが。
「まあいい。とにかくですね。ミューゼル大佐は、将来、帝国を動かすくらいの器を持っている男です。ここで変な傷をつけられて、出世コースから外されるのは、俺としても困る。閣下のお力で、少しばかり配慮してやっていただけませんか?」
そうまとめると、オッペンハイマーは葉巻の火を灰皿で落とし、指先でトントンと灰を払った。
「……将来の大物に貸しを作っておく、か。悪くない話だな」
口元がゆっくり吊り上がる。
「いいだろう。副総監と主だった連中には、よく言っておこう。あまり妙な真似をしたら、ファルケンハイン中将の夜の交友録を、私が全部喋ってやるぞとな」
「やめてください!? それ、俺の方が致命傷を負うやつですよね!?」
椅子からずり落ちそうになった。こいつ、悪友というより立派な共犯者だ。
「ハハハ。安心しろ。お前の名前が出れば、必ず私の名前も出る。つまり、どちらも喋れん」
「……それはそれで、安心していいのか悩みますね」
とはいえ、オッペンハイマーが配慮すると言った以上、ラインハルトの安全度はぐっと上がる。憲兵隊で足を引っ張られて、わけのわからん罪で拘禁、なんて展開はまずないだろう。
「まあ、話が早くて助かります。恩に着ます、閣下」
立ち上がって頭を下げると、オッペンハイマーはまたニヤっと笑った。
「礼を言うなら、物で言え。お前の家には、良い絵がたくさんあったはずだ」
「最初から賄賂前提で話を進めるのやめません?」
「口で『恩に着る』と言うより、絵の一点も送ってくれた方が、こちらも真剣になる。ファルケンハイム領の税収は、今や帝国でも指折りらしいではないか。ケチるな、ケチるな」
「……はあ。わかりましたよ。先日倉庫から発掘された、古代辺境様式の風景画があったでしょう。閣下が前に『渋くていい』と褒めていたやつ。あれを贈らせていただきます」
「おお、それは楽しみだ。贈賄の現行犯め。ありがたく頂戴しよう」
楽しそうに笑う大将を眺めながら、俺は肩をすくめた。
こういう連中が、帝国を裏から支えているんだよな
表向きは帝室の忠犬を演じながら、裏では「どこまでなら許されるか」という綱渡りを続ける。法の番人である憲兵総監がこれなのだから、帝国というのは、本当に不思議な国だ。
「ところで、中将」
新しい葉巻に火をつけながら、オッペンハイマーがふいに声を潜めた。
「お前、最近、真面目に働いているそうじゃないか。ブラウンシュヴァイクとリッテンハイムを同時に手玉に取り、ファルケンハイン領を黒字まみれにしたとか」
「やめてください、その言い方。俺だって、好きで働いているわけじゃない。必要だから、たまたま頑張っただけです」
「必要?」
視線が、「どうせロクでもない理由だろう」と言っている。失礼な。
「好きな女を嫁にするためですよ」
少し照れ臭さをごまかすように、肩をすくめて笑う。
「元帥になれ、公爵になれ、宰相になれ。親父と祖父と義理の祖父に、揃ってそう言われましてね。アナを正妻で迎えるには、それくらいの地位が必要らしいんですよ。面倒ですが」
オッペンハイマーは、一瞬ぽかんとした後、盛大に吹き出した。
「ハハハ! 期待を裏切らんな、お前は。帝国制覇の野望でも持っているのかと思えば、動機が『好きな女を娶りたい』か。最高に健全だ」
「そうでしょう? だから、俺のストレス発散先を、今後も責任持って確保しておいてくださいね。過労死したら元も子もないですから」
「その『好きな女』の耳に入ったら、過労死より先に首をはねられるぞ」
「その時は、閣下の店の名簿を全部抱えて、一緒に墓まで持っていきます」
「やめろ」
「では閣下。絵の件は、近日中に」
「ああ。代わりに、ミューゼル大佐には、できる限りの『善意の手心』を加えておこう」
葉巻の煙に半分隠れた笑みを背中で受けながら、俺は執務室を後にした。
◆
資料室の扉を開けた瞬間、空気が重い。紙とインクと徹夜の匂いが混ざった、いかにも役所仕事な空間だ。そんな場所で、金髪と赤毛と白髪の真面目くんが、肩を寄せ合って古いファイルを覗き込んでいる。なんだその青春サークルは。
「おーい、ワーカーホリック三銃士。息してるか?」
声をかけると、キルヒアイスが振り返った。相変わらず優等生の笑顔だ。
「ファルケンハイン閣下。お疲れさまです。今、少し興味深い事件記録を見ていたところです」
「事件ねえ。どうせ胸糞展覧会だろ。どれどれ…」
俺はラインハルトの横から、強引に紙束を引き寄せた。表紙には、古臭い様式のタイトルがでかでかと印刷されている。
『第三宙域惑星○○における不敬事案報告書』
嫌な予感しかしない。
「ふむふむ。息子が二人とも戦死した老婦人が、悲しみのあまり、ルドルフ大帝とフリードリヒ四世陛下の肖像画を足蹴にして、それを近所の住人に密告され、不敬罪で逮捕……」
読んでいるうちに、自然とため息が漏れた。
「うん、テンプレみたいな話だな。読んだだけで胃が痛くなる種類のやつだ。で?これのどこがそんなに面白いんだ」
ラインハルトは、きつく唇を噛みしめている。今にも「こんな帝国はぶち壊す」と言い出しそうな目つきだ。キルヒアイスは、横でそっと袖をつまんで、ギリギリのところで暴走を止めている。
かわりに、ミュラーが遠慮がちに口を開いた。
「……この事件、処刑ではなく、流刑で済んでおりまして」
「ふん。うちの領地では、こんな話は起こらんぞ」
胸を張ると、三人の視線が一斉に向いた。期待と疑念と、若干の怯えが混ざった視線だ。
「……それは、密告制度を運用なさらないから、でしょうか」
キルヒアイスが、おそるおそる尋ねる。
「運用しないどころか、密告したやつを怒鳴りつけるからな。『隣人と仲良くしろ』が、うちの領地の基本方針だからな」
「なんと……」
キルヒアイスの目が、ぱあっと光った。え、そこまで感動する要素があったか?
「素晴らしいお考えです、閣下。帝都でも、それが……」
「惜しい。違う」
人差し指を立てて遮る。
「そんな生ぬるい話じゃない。うちの領地で、こういう事件が起きない一番の理由はな……皇帝の肖像画そのものを飾っていないからだ」
資料室の空気が、スポンと抜けた。三人とも見事に固まる。
「…………は?」
揃った声が、妙にハモった。
「だって置いてないものは足蹴にしようがないだろ。実に合理的じゃないか」
我ながら完璧な説明だと思ったのだが、その瞬間、背後でガタガタと椅子が鳴った。
「き、貴様!今、なんと言った!」
振り向けば、資料室の片隅で書類整理をしていた憲兵たちが、血走った目で立ち上がっていた。完全に獲物を見つけた猟犬の目だ。
「皇帝陛下の……肖像画を……飾らない、だと……? 不敬!不敬にもほどがある!総監部に報告……」
「あーはいはいはい。ちょっと待て」
俺は片手を上げて、連中の突進を制した。
「お前ら、俺の階級、知ってるよな」
胸の階級章を、これでもかと指で突く。中将。伯爵。イゼルローン要塞勤め。ついでに領地の税収トップクラス。肩書きだけ並べれば、だいぶ面倒な相手だ。
「フ、ファルケンハイン……中将閣下……」
「そう。ついでに言うとだな。さっき俺は、総監閣下と一緒に、今夜の飲み屋の相談をしてきた。分かるか? 今ここで俺に噛みついたら、お前らの昇進コースから、総監執務室へのエレベーターがきれいに消える」
憲兵たちの顔色が、一斉に青くなった。さっきまでの勇ましさはどこへ行ったのか、背筋がピンと伸びる。
「も、申し訳ございません、中将閣下! われわれの早とちりで!」
「分かればよろしい」
敬礼を浴びながら、俺はひらひらと手を振った。去っていく背中を見送りながら、少しだけ肩をすくめる。
「持つべきものは、夜遊び仲間の大物上司だな」
振り返ると、ラインハルトたちが、凍結保存した魚のような視線をこちらに向けていた。冷たい。北の氷原か。
「な、なんだよ、その目は。俺は、合法的にコネを活用しただけだぞ」
「……閣下の領地が、どういう統治をされているのか、大変興味がわいてきました」
ミュラーが、いい笑顔で笑っている。だが、目が笑っていない。怖い。
「うちの領地は平和だぞ。飢えてるやつはいないし、鉱山労働者は日曜にサウナ通いだし、酒場はいつでも満席だし、給料日は商店街が祭りになる」
「……税率は?」
「帝国平均の一割以下」
三人の顎が、同時に落ちた。
「え?」
「だってさ、税金取り過ぎたら、みんな細く長くしか働かなくなるだろ。どうせなら、太く短く儲けて、どーんと消費してもらった方が、回り回って俺の懐も潤う。結果的に税収は増える。簡単な話だ」
俺が肩をすくめると、ラインハルトがゆっくりと目を細めた。
「やはり俗物だな、貴官は」
「褒め言葉として受け取っておく」
「ですが……」
珍しく、続きがあった。金髪が少しだけ柔らかい色になる。
「その『俗物的』な考え方は、民を幸せにしている。そこは認めましょう、伯爵」
「素直じゃない褒め方をするな。照れるだろ」
そこへ、キルヒアイスが控えめに咳払いをした。
「それで、閣下。先ほどの記録の続きですが……」
「あ、そうだった。続きを読んでくれ」
◆
ミュラーが指で示した箇所を、俺とラインハルトとキルヒアイスが同時に覗き込む。鼻先がぶつかりそうな距離感だ。近い。金髪、赤毛、銀髪が一列に並んで紙に張り付いている構図は、冷静に考えると妙な迫力がある。
そこには、副総監の所見が、重々しい筆致で書き込まれていた。
『あの老女が憎むべきは、帝室に弓引く叛徒たる共和主義者どもである。帝室に感謝し、国家に奉仕する道を知らぬものは、人間としての待遇に値しない。大罪にふさわしい罰、すなわち、拷問により死に至らしめよ』
うへえ、と心の中で声が出た。さすが憲兵隊、期待を裏切らないテンプレ悪役コメントである。ここまで教科書通りだと、もはや様式美だ。
「実にわかりやすいな」俺は鼻を鳴らした。「自分の正義に酔って、弱者を踏みつける権力者の文章というやつだ。こういう文体だけで酒が飲める」
ラインハルトが、唇の端に冷笑を浮かべる。
「知っているか、ファルケンハイン。この副総監には息子が二人いるが、二人とも父親の職権で安全な後方勤務に回されている。前線にも出ず、帝室に奉仕という名目の温室生活を満喫しているそうだ」
「おお、出た。貴族社会の常套手段だな」
俺は肩をすくめた。
「それに比べて、伯爵様は最前線で砲火のシャワーを浴びながら、その麗しい顔に傷が付かないよう必死で避けているのに。世の中の配分は、本当に不公平だ」
自分で言っておきながら、あまりの自画自賛ぶりにちょっと笑いそうになったが、口には出さない。ところがだ。横を見ると、金髪と赤毛が、そろって妙な視線を向けてきた。
ラインハルトは、少しだけ目を細める。
「少なくとも、危険な場所には立っているのか。そこは評価しよう」
キルヒアイスも穏やかな笑みを浮かべた。
「ファルケンハイン閣下が前線に出ておられるという話は、幼年学校の同期の間でもよく話題になっていました。門閥貴族でありながら、逃げない方だと」
おいおい、やめろ。そんな真正面から褒められると、くすぐったいだろうが。
「大げさだ」
照れ隠しに、わざと軽く笑ってやる。
「砲火の届く場所で遊ぶのが好きな変人というだけだ。それより、続きがあるだろう。早く読め」
ミュラーが、ページの下段を指さした。そこには、さっきとは違う筆跡で、新たな所見が書き足されている。
『本件、密告者を臣民の道に反する行為により逮捕す』
「……は?」
思わず声が出たのは、俺だけではない。三人同時に、同じ音を立てた気がする。
記述は、さらに続いた。
『老婦人が陛下の肖——』
そこで、肝心の字が、見事に黒インクで塗りつぶされている。誰の仕業だ。仕事がやけに丁寧だ。
『——像を足蹴にするのを目にしながら、それを止めなかったのは不義である。後になって手柄顔で密告しても、内心では同調していたに違いない』
静まり返った資料室に、紙をめくる音だけが響いた。ラインハルトが目を見開き、キルヒアイスが小さく息を呑む。
「密告者を、逮捕……」
金髪が低く呟く。
「すごい論理ですね」
キルヒアイスが、感心したように記述をなぞった。
「密告を同調の証拠として扱うなんて」
「気に入った」
口元を吊り上げる。
「この担当者、頭の回転が速い上に、相当な皮肉屋だ。行間から毒とユーモアが漏れている」
さらに目を走らせる。
『なお、老婦人は尋問はしたが、拷問は行わなかった。そもそも、陛下の——』
また同じ字だけが、律儀に塗りつぶされていた。ここまでやると、もはや執念だ。
『——像を足蹴にするなど、正気の沙汰ではない。よって狂人である。狂人に拷問を加えても無意味であると判断した』
うん、完全に皮肉だ。俺は思わず肩を震わせた。
「狂人に拷問は無意味、ね。理屈としては筋が通っている」
俺は頷いた。
「それにしても、主君の顔を足で蹴る狂人、ねえ……」
ここで、嫌な連想が湧き上がる。脳裏に浮かんだのは、俺の腹を平然とひざ蹴りしてくる女の姿だ。そう、アナである。
要らないことを言うたびに、無言でスネを踏んでくる。膝の上に座った状態で、器用にかかと落としを決めてくる。最近は、頭を撫でる代わりに軽く顔面を靴先で押し返してくることまである。
第三者がメモを取ったら、確実に「主君を足蹴にする副官」と記録される案件だ。
「……ということは」
俺は小声で呟いた。
「アナも公式記録上は狂人扱いになる可能性があるのか……」
「何かおっしゃいましたか、閣下」
ミュラーが首を傾げる。
「いや、なんでもない」
「俺の生命と家庭の平穏に関わるので忘れてくれ」
ラインハルトは、俺のくだらない独り言など完全に無視して、記録の末尾を追いかけている。
「この結果、平民たちは快哉を叫んだ、とある」
金髪が静かに読み上げた。
「旧市街では、しばらくの間、『密告者が捕まった日』として、この事件の日付が語り草になったようだ」
キルヒアイスの瞳が、ぱっと明るくなる。
「素晴らしいです。憲兵隊にも、こういう判断をする方がいたのですね。名前は……」
ミュラーが、欄外の署名を指差した。その指先が、わずかに震えている。
「ここに、担当官の名前が」
俺たちは同時に、そこへ顔を近づけた。そこには、流麗な筆致で署名が記されている。
◆
「ケスラー、ウルリッヒ・ケスラー中佐」
ケスラーという男の話を聞いた瞬間、俺の頭の中で「ピコン」と音が鳴った。便利そうな人材の匂いがする。こういうのを嗅ぎ分ける嗅覚に関しては、自分で言うのもなんだが帝国有数だと思う。主に、俺が楽をするためだけに発達した能力だが。
ミュラーが端末を操作しながら、真面目な顔で説明してくる。辺境勤務、反骨精神、現場感覚、住民からの信頼厚し、上層部からは煙たがられている、などなど。聞けば聞くほど、俺好みの人材だ。
つまり、現場でよく動くのに政治センスがゼロで、放っておくと一生出世できないタイプ。
そういう奴をさっさと拾ってきて、俺の下で使う。最高の贅沢だろう。
ニヤニヤしながら腕を組んだ。
「そんなに会いたいのか?金髪の孺子よ」
つい口が滑ったが、隣のラインハルトは本気で怪訝そうな顔をしている。
「……なんですか、その顔は」
「いやな、今お前の頭の中で『帝国を変えるための同志が一人増えるかもしれない』とか、そんな崇高なことを考えているのが丸見えでな。うちの艦隊から見ると、『俺の代わりに面倒ごとを背負ってくれる有能な奴が増える』という、非常にありがたい話にしか見えんのだ」
ラインハルトは、少しだけ言葉に詰まり、わずかに視線をそらした。珍しい反応だ。
「……ケスラーに会ってみたい。それは事実です」
「素直でよろしい」
机に肘をつき、わざと偉そうに笑ってみせた。
「いいか、よく聞け。お前の『憲兵隊ごっこ』が終わったら、俺のコネでお前を准将にしてやる。准将ともなれば、頼りになる佐官の部下が欲しくなる。そこでこのケスラーだ。俺が辺境から引っこ抜いてきて、お前の軍団に放り込んでやる」
「……貴様にそんな権限が」
ラインハルトが目を細める。疑っているというより、半分くらいは期待している目だ。こういうところ、わかりやすい。
「権限はない。だがコネはある」
胸をドン、と叩いた。
「どうせそいつ、辺境で厄介者扱いされてるんだろう?なら、ブラウンシュヴァイク公かリッテンハイム侯に、『貴重な人材が、あんなところで腐らされている』とかなんとか適当に吹き込めば良い。あのオッサンたち、今は俺に貸しを作るのに必死だ。二つ返事で回してくれる」
ラインハルトは、完全に絶句していた。いい顔だ。今すぐ絵画にして屋敷に飾りたいくらいだ。
隣でキルヒアイスが、深々と頭を下げてくる。
「ファルケンハイン閣下。本当に、ありがとうございます」
「ああん?まだ何もしてないぞ。口だけだ」
「いえ。『そういう発想ができる』という時点で、もう充分にすごいです」
真顔でそんなことを言われると、むず痒い。褒められ慣れているつもりだが、この幼年学校コンビに真面目に礼を言われるのは、妙にこそばゆい。
横でミュラーが目を輝かせていた。
「腐敗した貴族社会のコネを利用して、反骨の軍人を抜擢する……。やはり、この御方は……」
「やめろミュラー。変なナレーションをつけるな。俺はただ、自分が怠けるために有能な部下を集めているだけだ」
「結果として、帝国のためになっているのであれば、動機はどうでも良いのでは?」
「お前まで真顔で言うな」
少し空気が和んだところで、キルヒアイスがふと端末を見返した。
「あの、閣下。一つ気になることが」
「なんだ」
「その後です。事件記録には流刑としか書かれていませんが、住民登録データと照合すると……あれ?」
キルヒアイスの眉が跳ね上がる。
「流刑後、ファルケンハイン領へ移住。現在の居住地は、ファルケンハイン伯爵邸の本宅……。ええと、これは……ああ!このお婆ちゃん!」
「どのお婆ちゃんだ」
「この前、閣下とホーテン閣下が領地にお戻りになったとき、『若様と姫様のために』と言ってクッキーを焼いてくださった方です!あの、やたらと元気な」
俺の頭の中に、あの皺だらけの笑顔と、とんでもなくバターを使ったクッキーの味が蘇る。
「……ああ!ハンナさんか。なんか『陛下より若様です』とか、とんでもないことをさらっと言ってたが、そういう前科持ちだったのか。道理で物怖じしないわけだ」
キルヒアイスが、今度は本気で目を潤ませていた。
「閣下……。貴方は、やはり、偉大な方です……!」
「おい待て。今の流れでそうなるのか」
「理不尽な扱いを受けた平民を、領地に受け入れ、本宅で暮らさせていらっしゃる。しかも、陛下よりも『若様』と呼ぶことを咎めずに」
「いや、俺は何もしてない。気づいたら祖父とアナが勝手に居場所を作ってた。俺はクッキーを食っただけだ」
「そのクッキーを、心から美味しいと笑って食べてくださったのでしょう?」
「もちろんだ。あれはマジでうまい」
「だからこそ、ハンナさんは救われたのです」
なんだこの聖人伝みたいな空気は。俺の人生観とズレすぎていて、頭が痒くなる。
ラインハルトが、珍しく素直な目で俺を見た。
「……認めたくはないが、貴様にも、貴族らしからぬところがあるらしい」
「貴族らしくないのは昔からだ。だから軍人になった」
「いや、門閥貴族らしくない、という意味だ」
「そこは褒め言葉としてギリギリ受け取っておこう」
調子に乗るのも何なので、咳払い一つで話を締めにかかる。
「まあ、現場のささやかな抵抗でも、なんとかなるときはなんとかなる。だが、解決にはならん」
俺は、改めてラインハルトの方を向いた。
「理不尽が簡単には通らない世の中にしたい、というお前の気持ちは、まあ、わからんでもない。俺にとっては、アナと平和に昼寝できるかどうかくらいの違いだが」
「……スケールが小さい」
「黙れ。俺の人生では重要事項だ」
ラインハルトの口元に、わずかに笑みが浮かんだ。こいつの笑顔は、本当にレアだ。写真に撮って売れそうだ。
「だからこそ、筋道は通せ。いきなり法そのものを殴り倒そうとするな。俺みたいに、ちゃんと法を使え。コネでも抜け道でもいい。枠組みの隙間を突いて、少しずつ変えていけ」
「……俗物のやり方だな」
「そうだ。俗物のやり方だ。だが、俗物が積み重ねた細工の上で、お前みたいな英雄が最後に旗を掲げればいい。世の中、大体そうやって回る」
ラインハルトは、じっと俺を見つめ、やがて短く息を吐いた。
「覚えておこう」
「よし、それでいい」
大きく伸びをした。
「さて。ケスラーとやらを引き抜く算段でも考えるか。俺の怠惰で平和な老後のために、優秀な人材を確保するのは重要だからな」
「結局そこに行き着くのですね」
キルヒアイスが苦笑し、ミュラーが「そういうところも含めて、この御方は……」などとブツブツ感動している。
お読みいただき、心より感謝申し上げます。
本作は、シリアスの皮をかぶったコメディでもあり、
政治劇に見せかけた恋愛物語でもあり、
帝国改革に見せかけた好きな女を幸せにしたい男の戦記です。
もしよろしければ、
・今回のエピソードのどこが印象に残ったか
・キャラの掛け合いで好きな部分
・もっと読みたい場面
・アルブレヒト(俗物)の行動へのツッコミ
など、皆さまの率直なご感想をいただければ、
今後の執筆の何よりの励みになります。
今小分けにしている章を
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週1で一気に読みたい(3万字くらい)
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毎日小分けでいい(4千字くらい)
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毎日なら文字数気にしない