銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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ヴァンフリート戦役を終え、肩書きばかり立派になってしまったアルブレヒト・フォン・ファルケンハイン。
銀河帝国軍上級大将――聞けば荘厳だが、実態は会議に追われ、領地改革に追われ、アナと部下のために全力労働する怠惰希望の俗物である。

 本章では、そんなアルが「働きすぎで自分らしさを見失う」という、将官らしからぬ悩みを抱え、統帥本部次長グレイマン閣下のもとを訪ねる。真面目な相談の果てに何が起こるのか――いや、たぶん読者の皆さまは、あの人物が素直に終わらせるわけがないと察しているに違いない。

 愛ゆえに働き、愛ゆえに怠け、そして愛ゆえにイタズラに振り回される。
そんなアルの不器用で可笑しな日常を、どうか楽しんでいただければ幸いだ。


ファルケンハイン上級大将、お前は本当に無能で怠惰なのか問題

 ヴァンフリート4‐2からこっち、俺の人生はおかしい方向へ加速している。

 

銀河帝国軍上級大将、アルブレヒト・フォン・ファルケンハイン。肩書きだけ聞けば、余裕と風格を備えた老練の提督を想像しそうなものだが、実態は毎日バタバタ走り回っている俗物一名である。

 

自派閥の拡大、ラインハルトの伯爵家継承問題、領地改革、新規事業の立ち上げ、人材のスカウト。気がつけば、一日の中で艦隊戦より会議のほうが多い。これは何かのバグではないか。

 

 自宅―いや、今や「ファルケンハイン伯爵邸」と呼ばれるようになった家のサロンで、俺は豪華なソファに深々と沈み込んでいた。分厚いクッションが背中を包み込む。テーブルの上には、執事が選んだ高級ワイン。グラスを軽く揺らすと、照明を受けて深い赤がきらりと光る。見た目だけなら、人生を制した勝ち組貴族そのものだ。

 

「……なーんか、違くないか?」

 

思わず口から漏れた。誰に聞かせるでもない独り言だ。

 

「俺のモットーは『怠惰』と『俗』を保ち、人生を楽しく、できる限り楽して生きる、だったはずだよな。なのに最近の俺は、資料読んで根回しして、部下の昇進配置を考えて、貴族の屋敷をはしごして頭を下げて……どう考えても働きすぎだろ」

 

 ワインを一口飲む。舌の上に広がる複雑な香りを、水のように流し込んでしまう自分に、少しだけ笑いが出た。昔の俺なら、「高級ワイン?もったいねえ、安酒で十分だ」とか言いながら、寮のベッドでだらだらしていたはずだ。

 

 士官学校時代の俺の一日を思い返してみる。起床時刻ぎりぎりまで寝る。点呼の五分前にようやく布団から這い出し、隣のやつに「起こせよ」と逆ギレする。授業中は、板書を取ったふりをしながら、頭の中でゲームの攻略ルートを考える。訓練が終われば、安い酒を持ち込んでカードゲーム。レポート提出前日だけ本気を出して、どうにか単位を捕まえる。あれが本来の俺だ。

 

「うん、やっぱりおかしい」

 

 今のスケジュールはどうだ。朝から統帥本部との打ち合わせ。昼前に銀行家との面会。午後は領地の工業プラン報告会。その合間に、ラインハルトと門閥貴族の調整。夜になれば、艦隊の人事案に目を通し、アナから上がってくる陸戦隊の訓練報告を確認。どう見ても、優秀な野心家のライフスタイルである。

 

「これは、俺らしくないんじゃないか?」

 

 ソファに沈んだまま天井を見上げる。装飾がやたら凝っているシャンデリアが目に入る。家が侯爵邸仕様になってから、天井まで眩しくなった。だが、いくら天井が金ぴかになろうが、俺の中身まで金ぴかになって良いとは誰も言っていない。

 

「このままだと、俺、ただの有能な働き者になっちまうぞ……」

 

 口に出してみて、ぞっとした。有能な働き者。世間的には褒め言葉だろうが、俺にとってはほとんど呪いの文言だ。怠惰な俗物としての誇りはどこへ行った。

 

「これはマズい。非常にマズい」

 

 思考がぐるぐると回り始める。最近の俺は、アナのため、艦隊のため、部下のため、領民のためと、やたら理由を付けて働いている。確かに、どれも大事なことだ。大事だからこそ困る。大義名分を掲げて動いているうちに、「まあ今日は頑張るか」が積み重なり、「いつの間にか毎日頑張っている人」へ、人格がシフトしつつある。

 

「いやいやいや。俺はもっと、どうしようもない駄目人間だったはずだ。あれ?記憶違いか?」

 

 自分で自分にツッコミを入れる。防衛本能が働いて、「そこまで駄目じゃなかった」と自己弁護し始めるあたりが余計にタチが悪い。これは本格的にアイデンティティの危機だ。

 

「誰か、昔の俺を知っている人間に確認しないと」

 

 今の部下に相談したところで、「いえ、閣下はいつも有能で、我々の誇りです」とか言われるのがオチだ。そういうのが聞きたいわけじゃない。もっとこう、「お前は昔からサボりの天才だった」と断言してくれる人物が必要だ。

 

 候補者リストを頭の中でめくる。父母は論外だ。あの二人に相談したら、「やっと真人間になったのだから、そのまま働け」で終わる。

 

ラインハルトに言えば、「有能であることの何が不満なのだ」と真顔で返されるのが目に見えている。ロイエンタールに話したら、多分笑いながら酒を注がれて、「ではその有能さをこれからも私に捧げてください」と契約書を出される。

 

「……やっぱり、グレイマン閣下か」

 

 自然と名前が浮かんだ。俺の元上官であり、今は統帥本部次長を務める男。温厚で、部下の怠慢にも笑ってツッコミを入れてくれる器の広さを持ち、かつ現実をよく知っている。階級も俺と同じ上級大将になった今なら、少しは本音で愚痴をこぼしやすい。

 

「よし、決まりだ。怠惰の先輩に相談しよう」

 

 失礼なラベルを心の中で貼りつつ、俺はグラスのワインを飲み干し、ソファから腰を上げた。執事が驚いた顔をする。普段なら、もう一杯ねだってダラダラする時間だからだ。

 

「ちょっと出かけてくる。統帥本部まで」

 

「かしこまりました、閣下。お車の用意を」

 

こうして、俺のサボりたい悩み相談ツアーは始まった。

 

 統帥本部の建物は、いつ見ても胃が痛くなる造形をしている。巨大で、威圧感があって、窓という窓から書類の山という亡霊がこちらを見ている気がする。だが今日は、その亡霊の本拠地に自ら乗り込むのだ。自分でも物好きだと思う。

 

 受付で用件を告げ、通路を進む。軍靴の音が廊下に響く。かつて、若造だった俺が、緊張で足を震わせながらこの廊下を歩いた日々を思い出す。あの頃も怠惰だったが。

 

 重厚な扉の前に立つ。プレートには「統帥本部次長 グレイマン上級大将」と刻まれている。深呼吸をひとつして、ノックした。

 

「どうぞ」

 

 中から聞き慣れた穏やかな声が返ってくる。扉を開けると、そこには予想通りの地獄絵図が広がっていた。

 

 部屋の半分を占領する書類の山、山、山。机の上にも、棚の上にも、床の端にも、ファイルが積み上がっている。その中心に、柔和な笑みを浮かべたグレイマン上級大将が座っていた。山の主である。

 

「ご無沙汰しております、グレイマン閣下。お忙しいところ、申し訳ありません」

 

俺が敬礼すると、閣下は目を細めて笑った。

 

「おお、ファルケンハイン上級大将ではないか。いや、今は同じ階級だ。そんなに畏まらなくていいぞ。座りたまえ」

 

 言われるままに椅子に腰掛ける。正面から見ると、書類の山は本当に壮観だ。よく埋もれずに生きていられるものだ。

 

「で、どうしたのだね。そんな、宇宙が滅びる前夜みたいな顔をして」

 

「そんなに酷い顔してますか」

 

「うむ。少なくとも、『これから休暇に出ます』という顔ではないな」

 

 図星だ。俺は苦笑しながら、テーブルの上のカップに視線を落とした。香りだけで眠気が吹き飛びそうな濃いコーヒーが入っている。さすが統帥本部、カフェインの濃度まで軍規レベルだ。

 

「実はですね、閣下」

 

どこから話すべきか一瞬迷い、それから、もう全部ぶちまけることにした。

 

「ここ最近、俺、自分でも引くくらい働いてるんですよ」

 

「ほう」

 

「自派閥づくりだの、領地の改革だの、ラインハルトの伯爵家調整だの、陸戦隊編成だの。気がつけば、毎日会議と書類と人事の話ばかりで。戦場に出ていたころのほうが、まだ自由時間ありましたね」

 

「ふむふむ」

 

 グレイマン閣下は、うんうんと頷きながら聞いている。

 

「で、ある日ふと気づいたんです。『あれ?俺のモットーって何だったっけ』と」

 

「モットー、かね」

 

「はい。怠惰を尊び、俗を愛し、人生を楽しく、できるだけ楽して生きる。これが俺の生き方の基本原則のはずだったんですよ。それなのに、最近の俺は、どう見ても『有能な野心家』側の人間になっている。これは由々しき事態だ、と」

 

 自分で言っていて、改めて意味不明だなと思う。普通の人間なら、「有能な野心家になれた、やったね」で終わるところだろう。

 

「アナのためとか、部下のためとか、艦隊のためとか、色々理由をつけて働いてはいるんですけどね。ふと気づいたら、サボる隙間が行方不明になってまして」

 

「サボる隙間」

 

「そうです。昔の俺は、どれだけ忙しくても、『この五分はサボれる』『この一時間は寝られる』と、怠惰用の隙間を必ず確保してたんですよ。それが最近は、気づいたら予定がぎゅうぎゅうに詰まっている。誰だ、こんなスケジュール組んだ奴は。俺だ。最悪です」

 

思わず机を軽く叩く。閣下が笑いを噛み殺しているのが分かる。

 

「で、ですね」

 

身を乗り出した。

 

「このままだと俺、ただの有能な働き者になってしまうんじゃないか、と。本来怠惰で俗物でどうしようもないはずの俺が、周囲の期待に押されて『そこそこ人格者』みたいに扱われ始めている。これ、アイデンティティの危機ですよね?」

 

「ふむ」

 

「なので、昔の俺を知っている人間に確認したくなったんです。俺は本来どれくらいダメな人間だったのか、と。俺の記憶が美化されていないか、と」

 

そこまで一気にまくし立ててから、俺はようやく息をついた。

 

「……というわけでして。俺、もっとこう、ダメな人間だったはずなんです。怠惰の権化くらいの評価をされていてもおかしくないのに、最近は『仕事が早い』とか『頼りになる』とか言われ始めていて、正直落ち着かないんですよ」

 

沈黙が落ちた。部屋の中で、時計の針の音だけが聞こえる。

 

グレイマン閣下はしばし俺の顔を見つめ、それから、腹の底から声を上げた。

 

「はっはっはっは!」

 

豪快な笑いが、書類の山を揺らした気がした。

 

「なるほど、なるほど!確かに君らしくない悩みだ!」

 

 閣下は、本当におかしそうに笑い続けた。俺は少しだけ肩の力が抜けるのを感じていた。少なくとも、「らしくない」という評価だけは、ちゃんと維持できているらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 グレイマン閣下の爆笑が一段落したところで、ようやく部屋の空気が落ち着いた。書類の山が揺れない程度には笑い終えたらしい。俺の悩みを肴にここまで楽しんでもらえたなら、本望と言えば本望だが、若干複雑な気分だ。

 

「いや、すまんすまん」

 

閣下は目尻を拭きながら、まだ口元を緩めている。

 

「しかし、君が『働きすぎて自分を見失いそうだ』などと言いに来るとは思わなかった。若い頃の君を知っている身としては、感慨深いよ」

 

「俺も、自分で言いながらだいぶ意味不明だと思います。まあ今でも若いですが」

 

素直に認めるしかない。

 

俺がため息をつくと、グレイマン閣下はふっと表情を引き締めた。さっきまでの笑いを引っ込め、軍人としての視線に戻る。統帥本部次長の顔だ。

 

「だがな、アルブレヒト君」

 

「はい」

 

「私は、今の君こそ、最高に君らしいと思うよ」

 

「え?」

 

 思わず間の抜けた声が出た。

 

「働き者の俺が、ですか」

 

「ああ」

 

閣下は、迷いなく頷いた。

 

「君は昔から、惚れた相手のためなら、どんな苦労も惜しまない男だった」

 

「……はあ」

 

「逆に言えば、それ以外のことには本気を出さない男でもあった」

 

「それはまあ、否定できませんが」

 

妙に刺さる総括だ。

 

「君がまだ大尉の頃、覚えているかね。休日は一日中寝ていて、レポート締め切り前夜だけ、妙に真面目な顔で指令室に駆け込んでいた君を」

 

「やめてください、黒歴史の口座を開設するのは」

 

「だが、好きな娘が見に来る訓練の時だけは、誰より真面目に準備していただろう」

 

「……うっ」

 

 図星すぎて言葉に詰まる。そんな事まで覚えている上官の記憶力もどうかと思うが、反論できない自分がもっと情けない。

 

グレイマン閣下は、そんな俺を眺めながら、穏やかな声で続けた。

 

「君は基本的に怠惰だ。これは事実だ」

 

「はい」

 

「だが同時に、惚れた女のためなら、どんな苦労も厭わない。これも事実だ」

 

「……」

 

「今の君は、その両方をちゃんと実践しているように見えるがね」

 

「いや、どう見ても前者死んでませんか」

 

「そうでもないさ」

 

閣下は机の上の書類を軽く指で弾いた。紙の山がさわりと揺れる。

 

「自派閥の拡大も、領地改革も、ラインハルト君の伯爵家問題も、陸戦隊の整備も。全部、アナスタシア嬢のためだろう?」

 

核心を突かれて、思考が一瞬止まった。

 

「……まあ、そういう面はあります」

 

「面どころか、そのものではないかね」

 

柔らかい口調なのに、逃げ道が無い。

 

「彼女が君にとって、本当に代えがたい半身なら、その彼女を支えるために必死に動くのは、君にとってごく自然なことだ」

 

「半身、ですか」

 

「そうだ。戦場で背中を預け、政治で隙を埋め合う相方だろう?」

 

アナの顔が頭に浮かんだ。冷静で、鋭くて、俺よりよほど働き者で、ときどき信じられないくらい無茶をする女。

 

 ワルキューレで、あいつが先陣を切って突っ込み、俺がそれをフォローする形で戦線を維持したあの感覚。ロンゴミニアドの艦橋で、陸戦隊の編成案を叩きつけてきたときの目の光。

 

どの場面でも、俺は結局あいつの隣にいた。

 

「彼女を手に入れるために、どんな苦難があっても、どれだけ働いても、それを苦痛と感じないなら」

 

グレイマン閣下は静かに言葉を重ねる。

 

「それはもう、立派な君らしさだ。怠惰も俗物根性も、全部含めた上での、君という人間の形だよ」

 

胸のあたりに、何かがすとんと落ちた感覚があった。

 

 俺はてっきり、「怠惰」と「働きすぎ」は両立しないと思い込んでいた。だが、よく考えれば当たり前だ。どうでもいいことはサボり倒し、どうしても譲れない一点には全力を突っ込む。それを人は「メリハリ」と呼ぶ。

 

そして今、俺が全力を突っ込んでいる一点が、アナなのだ。

 

「私はね、アルブレヒト君」

 

閣下は、少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「君とアナスタシア嬢は、そういう関係だろうと見ていたよ。互いに背中を預け合う、相棒であり、恋人であり、戦友だ。違ったかな。私の買い被りか」

 

「……いえ」

 

 気づけば、俺は背筋を伸ばしていた。

 迷いなく、顔を上げる。

 

「違いません。その通りです、閣下」

 

言葉が、驚くほど滑らかに口から出た。

 

 俺はアナが好きだ。戦場で背中を預けられる腕前も、政治の場での容赦ない采配も、俺の欠点を容赦なく突き刺してくる辛辣さも、全部ひっくるめて好きだ。

 

 そして多分、あいつが本気で笑える未来を作るなら、そのために俺が元帥になろうが宰相になろうが、徹夜で書類の山と格闘しようが、それは労働ではなく、愛ゆえの奉仕だ。

 

そう考えた瞬間、胸のむかつきがすっと消えた。

 

「……ああ、そうか」

 

思わず笑いがこぼれる。

 

「これも、俺なんですね」

 

「そうだとも」

 

グレイマン閣下は頷いた。

 

「君は怠惰だ。遊びも酒も俗っぽい話も大好きだ。その一方で、惚れた女のためなら、元帥でも宰相でも、銀河の裏方仕事でも平気で引き受ける。そういう欲張りな男だ」

 

「欲張り、ですか」

 

「そうだ。怠惰も愛も出世も、全部欲しがっている」

 

そこまで言われると、さすがに苦笑いしか出ない。

 

「それは、それでいい生き方だと思うがね。少なくとも、若い頃に君が掲げていた『楽しく生きる』という方針からは外れていない」

 

「……言われてみれば、そうかもしれません」

 

楽しく生きる。そのために、怠惰を選んでいた。

 

 今は、その楽しいの中に、アナが全力で働く姿が含まれている。それを支えるのが、今の俺の楽しみだ。

 

「ありがとうございます、閣下」

 

頭を下げると、言葉が自然と続いた。

 

「目が覚めました」

 

「それは良かった」

 

閣下は柔らかく笑う。

 

「ただし、勘違いしてはいけないよ」

 

「え?」

 

「愛の名の下に、無茶をしすぎるなということだ。君が倒れたら、アナスタシア嬢は怒るだろう」

 

「……間違いなく、怒鳴られますね」

 

 容易に想像できる。ベッドの上で点滴につながれている俺に向かって、「誰のために働いているつもりですの」と冷たい声で言い放つアナの姿が。

 

「だから、たまにはきちんと休め。その怠惰も、彼女のためになる」

 

「怠惰までアナのため認定ですか」

 

「そう考えれば、気兼ねなくサボれるだろう?」

 

「……さすが閣下。怠け者の扱いをよく分かっていらっしゃる」

 

 二人で笑った。

 統帥本部の一室、書類の山の真ん中で交わした小さな会話。それだけのことなのに、俺の中のもやもやは、嘘のように晴れていた。

 

 

 

 

 

 

「うむ。迷いが晴れたようだな」

 

書類の山の主が満足げに頷いた。書類の壁の向こう側から覗く顔は、相変わらず穏やかだ。

 

「本当に、助かりました。閣下のおかげで、自分の中身が少し整理できましたよ」

 

「そうかそうか。それは何よりだ」

 

そこで閣下は、ふっと視線を落とし、今度は少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「……それに、礼を言うのは私の方だ」

 

「え?」

 

「私のような凡庸な軍人が、上級大将にまでなり、こうして中央で働けるのも、すべて君のおかげだよ」

 

穏やかな声で、とんでもないことをさらりと口にする。

 

「ファルケンハイン上級大将がいなければ、私は今もどこかの辺境要塞で、砲塔の数と食糧備蓄を数えて過ごしていたかもしれん」

 

「いやいやいや。何をおっしゃいますか」

 

思わず手を振った。

 

「閣下に拾っていただかなければ、俺は今ごろ、どこかの小艦隊でゲーム仲間を増やすことだけ考える怠惰な少将くらいで終わってましたよ。今こうして、元帥だの宰相だのを視野に入れる暴走コースに乗せたのは、閣下ですからね」

 

「謙遜が過ぎるぞ」

 

グレイマン閣下は首を横に振る。

 

「私は、君を見つけて、少し背中を押しただけだ。君自身が、アナスタシア嬢や部下たちのために走り始めなければ、今の位置にはいない」

 

「それでも、スタート地点に立たせてくれたのは閣下です」

 

これは本音だ。あの頃、俺を使える変人として拾ってくれた上官がいなければ、今の地位も、アナとの関係も、何もかもあり得なかった。

 

「なので、礼を言うのはこちらのほうです。ありがとうございます、グレイマン閣下」

 

深く頭を下げると、閣下はしばし黙り、それから小さく息を吐いた。

 

「……ありがとう。アルブレヒト君」

 

柔らかい声だった。

顔を上げると、閣下が少しだけ感極まったような表情で、ゆっくりと右手を差し出してくる。

 

「これからも、銀河をほどほどにかき回してくれたまえ。私も、老骨にむち打って、できるかぎりついていくよ」

 

「閣下……」

 

胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚がする。こういう真面目な場面は照れくさいが、嫌いじゃない。

 

くそ、年寄りにこんな顔で感謝されて、泣かずにいられるかよ

 

立ち上がり、その右手を力強く握り返した。固い握手。師弟の絆。感動の瞬間。銀河の中枢で交わされる、静かな誓い。

よし、ここは男らしく、全力で握り返して―――

 

その瞬間。

 

スポッ。

 

「…………え?」

 

手の中の感触が、あり得ない方向へ変化した。

 

 さっきまで確かにそこにあったはずの生身の温もりが、妙に軽く、妙につるりとしたものに変わっている。

 

 見下ろすと、俺の手の中には、グレイマン閣下の「右手」だけが、綺麗に収まっていた。

 

 手首のところで、色も質感も妙にリアルな断面が再現されている。閣下の右腕の袖口からは、何も出ていない。

 

情報が処理しきれず、頭の中で警報が鳴り響く。

 

「ぎ……」

 

喉から、変な音が漏れた。

 

「ぎぎぎぎぎ……」

 

声帯が再起動する。

 

「ぎゃあああああああああああああ!!」

 

統帥本部次長室に、上級大将の情けない悲鳴が盛大にこだました。

 

「う、腕がああああああ!!」

 

思考より先に口が動く。

 

「閣下の腕が抜けたああああああああ!!!」

 

 慌てて握っていた右手を放り投げそうになり、寸前で踏みとどまる。投げたら投げたで、さらに取り返しがつかない気がしたからだ。

 

 俺の目の前で、グレイマン閣下はというと――真顔で頷きながら、ゆっくり立ち上がっていた。

 

「ふふふ……」

 

低い笑い声。

 

「ドッキリ大成功」

 

 そう言いながら、机の下から本物の右手をひょいと出し、ピースサインを作って見せた。

 

「…………」

 

 思考が一瞬真空になった。

 

 もう一度、手の中の腕を見る。先ほどの断面は、よく見ると精巧な塗装で、関節部分には金属の継ぎ目がある。素材は軽量合金とシリコンか何かだろう。義手のオモチャ。悪趣味を極めた業物だ。

 

「あ、あんた、なにやって――」

 

「いやあ、良い反応だった」

 

閣下は腹を抱えて笑い出した。

 

「見事に腰を抜かしてくれたな。期待以上だ」

 

気づけば、本当に腰が抜けていた。脚に力が入らず、その場にへたり込む。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……!心臓止まるかと思いましたからね!?」

 

「それはすまんすまん」

 

言葉とは裏腹に、まったく悪びれていない笑顔だ。

 

「だがな、こうでもしないと、君は本気で泣きそうな顔をしていた。重苦しい空気で部屋を出ていく君の背中を見るのは、私の趣味ではないのでね」

 

「だからって腕を抜くなああああ!!」

 

「抜いてはいない。差し替えただけだ」

 

「どっちでも同じです!」

 

俺が絶叫すると、閣下はますます楽しそうに笑う。

 

「忘れたのかね、アルブレヒト君。私は要塞司令室でサプライズパーティーを仕掛けるような男だぞ」

 

「覚えてますよ!あの時も、敵襲警報を流しておいて、全員を地下フロアに避難させたら、そこに巨大ケーキと『おめでとう』の横断幕が用意されてた事件ですよね!」

 

「うむ。良い思い出だ」

 

「良い思い出にするまでに、どれだけ部下の寿命を削ったと思ってるんですか!」

 

 怒鳴りながらも、腹の底から笑いがこみ上げてくる自分がいた。

 泣きそうになるくらい感動した直後に、右腕ドッキリである。感情のジェットコースターが急角度で上下したせいで、もはや怒ればいいのか笑えばいいのか分からない。

 

「君は相変わらず純粋だなあ」

 

閣下は、偽の義手を器用にひったくって、机の上にぽんと置いた。

 

「この義手を見た時の顔、実に見事だった」

 

「褒めないでください」

 

「いやいや、ああいう素直なリアクションが取れる者は貴重だ。統帥本部の連中など、もう何をやっても『はあ、またですか』と諦め顔しかしないからな」

 

「そりゃそうですよ。こんな上司の下に何年もいれば、心の筋肉も鍛えられるでしょうよ……」

 

と言いつつ、そのこんな上司に心底感謝している自分がいる。

 

 さっきまで胸の奥に溜まっていた重さが、今は跡形もなく吹き飛んでいた。代わりに残っているのは、「なんなんだよこのクソ茶目っ気ジジイ」という、どうにも憎めない感情だけだ。

 

「……やられましたよ、閣下」

 

床に座り込んだまま、俺は苦笑した。

 

「いい年して、何やってるんですか。本当に」

 

「何を言う。年を取ったからこそ、こういう遊び心を忘れないのだ」

 

グレイマン閣下は、胸を張ってそう言った。

 

「真面目な顔で感謝などしてしまうと、老い先短い身には刺激が強すぎるからな。少し悪ふざけを挟んで、心拍数を均しておく必要がある」

 

「心拍数の上げ下げを人の腕でやらないでください」

 

「君も、さっきよりずっと良い顔をしている」

 

言われて、はっとする。

確かに今、顔の筋肉がゆるゆるだ。さっきまでの、自己分析と人生相談でこわばった表情はどこかへ消えている。

 

「元気が出たろう?」

 

「……はい。悔しいですけど」

 

「それでいい」

 

閣下は、本物の右手でひらひらと手を振った。

 

「さあ、行きたまえ。君にはまだ、アナスタシア嬢のためにやるべき仕事と、怠けるべき休暇が山ほど残っている」

 

「最後の一言が実に閣下らしいですね」

 

 立ち上がり、ズボンの埃を払った。偽の義手が床で転がっているのを見て、もう一度だけため息混じりに笑う。

 

「……長生きしてくださいよ、閣下」

 

「おや、珍しいことを言う」

 

「俺が銀河をほどほどにかき回すには、こういうクソ茶目っ気ジジイが、中央で笑ってくれてないと困るんで」

 

その言葉に、グレイマン閣下は少しだけ目を丸くし、それから静かに笑った。

 

「努力しよう」

 

「お願いします」

 

 敬礼をして、部屋を後にする。

 

 扉が閉まる直前、背後から「今度は左手バージョンも用意しておくか」という恐ろしい独り言が聞こえた気がしたが、全力で聞かなかったことにした。

 

……くそ。やっぱり、元気が出たわ

 

廊下を歩きながら、自然と口元が緩む。

 

 愛ゆえに働き、愛ゆえに怠け、愛ゆえにイタズラに振り回される。銀河帝国の将官という肩書きの裏側で、俺の人生は今日も、くだらなくて、最高に楽しい。




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回はアルのアイデンティティ危機がテーマでした。

怠惰を愛し、俗を誇り、楽して生きたい男が──
愛ゆえに働く
という矛盾をどう折り合いをつけるのか。

その答えをくれたのが、まさかのグレイマン閣下というあたり、
アルの人生はやっぱり運命の悪ふざけに満ちています。

読者の皆さま、
もしこの話が少しでも「面白い」「好き」「続きが読みたい」と感じてくだされば、
ぜひ感想をお寄せください。

そろそろ長期連載になってきたので章ごとに簡単なあらすじ(ネタばれあり)をつけるべき?

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