銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
今回は、銀河帝国でもっとも華やかで、そしてもっとも胃が痛い――
ブラウンシュヴァイク公爵主催の晩餐会 が舞台です。
主賓に皇帝陛下、列席するのは門閥貴族と軍の精鋭。
そのなかに放り込まれたアルブレヒトとラインハルトは、
いつものように笑い、交渉し、巻き込まれ、そして……運命に直面します。
政治と恋と陰謀、そして突然の爆発。
銀河英雄伝説らしい混沌と静寂の交差点を、どうぞお楽しみください。
ブラウンシュヴァイク公爵邸の大広間は、さっきまでの設営現場から一転して、きらきらした絵面に仕上がっていた。
もちろんその裏で汗だくになっていた上級大将と少将の存在は、当然のように忘れられている。世の中、結果だけが評価されるという好例だな。
天井からはシャンデリアが光をばらまき、壁際には楽団が控えめにワルツを流している。磨き上げられた床には、宝石とドレスと軍服が入り乱れ、あちこちで笑い声とグラスのぶつかる音が飛び交っていた。
その中心近くに、俺の女がいた。
アナ。今日の彼女は、黒に近い深い紺色のドレスを身にまとい、うなじまできっちりまとめた黒髪に、銀の髪飾りを差している。普段は軍服で隠されている肩や背中のラインが露出していて、銀河帝国の治安が一段階悪化しそうなレベルの色気が出ている。
そして俺は、その隣でネクタイを直されている。
「アル様、少し曲がっています」
「今ので十回目くらいだぞ。初期不良じゃないのか、このネクタイ」
「初期不良ではなく、扱いの問題です」
俺が文句を言うと、アナはさらっと切り捨てる。手際だけはやたら優しい。
グラスも、さっきからずっとアナが持っている。俺の手が空いているのは、いつでも握手と愛想笑いができるようにするためだ。完全に要介護の老人扱いである。
いや、これがなかなか便利なんだけどな
両手がふさがっていると社交がやりづらい。かといって手ぶらだと何となく落ち着かない。
「アル様、笑顔」
「はいよ」
アナの小声の指示で、口元に仕事用の笑顔を張り付ける。顎の角度、目の開き具合、眉の位置。全部、戦場に出る前と同じくらい細かく調整されている自分が情けない。
まあいい。今日の俺は真面目モードだ
アナに怒られたくないのもあるが、それ以上に、結婚のために「元帥」を目指すと決めた以上、こういう場を全力で利用しない理由がない。愛ゆえの労働である。社交も戦場も、全部まとめて出世の踏み台にしてやる。
「おお!ベーネミュンデ侯爵夫人!」
ちょうど視界の端に、見慣れたマダムが入ってきた。シュザンナ・フォン・ベーネミュンデ。俺にとっては、わりと話の通じるご近所のおば……お姉さまだ。
「来ていたのですね。ごきげんよう、シュザンナさん」
俺が一歩前に出て声をかけると、彼女はパッと笑顔になった。
「あら、ファルケンハイン伯」
優雅な仕草で近づいてくる。その視線は、まっすぐにこちらへ――
――来たかと思ったら、俺の横を綺麗に素通りして、アナの手を取った。
「まあ、アナスタシアちゃん!」
「ごきげんよう、ベーネミュンデ侯爵夫人」
「今日のドレスも素敵よ。やっぱりあなたには濃い色がよく似合うわ。こっちにいらっしゃいな。さっきとても美味しいお菓子を見つけたの。あなたならきっと気に入ると思うの」
シュザンナさんは、俺の存在を風景扱いしながら、アナの腕を引いていく。
「ちょ、俺のごきげんようはスルーですか」
「ファルケンハイン伯はいつも通りお元気そうだから大丈夫でしょう?」
振り返りざまに、それだけ言って笑う。褒めても慰めてもいないのに、なぜか会話が成立してしまうあたりが、この人の恐ろしいところだ。
「……やっぱり、アナ目当てか」
取り残された俺は、虚空に向かって呟いた。
「俺は空気か?いや、むしろ壁紙か?」
天井の装飾を見上げる。金の蔦と天使のレリーフ。この場での俺の立ち位置を視覚化すると、確かにああいう感じかもしれない。
「アル様」
すぐ横から、聞き慣れた声がした。振り向くと、なぜかアナが戻ってきている。片手にはさっきのグラス、もう片方には、小さなプレートに載った一口サイズの菓子があった。
「置いていかれたのか」
「違います。お菓子を取ってくるよう、命じられました」
「あの人、うちの家令に何させてんだ」
「アル様のお菓子も、ついでに持ってきました」
アナは涼しい顔で言い、俺の前にプレートを差し出した。
「お、気が利く」
「その代わり、アル様は笑顔で仕事をしてくださいね」
「厳しいな」
とりあえず、一つつまんで口に放り込む。口の中でふわりと溶ける甘さが広がった。うまい。さすが門閥貴族のデザートだ。これだけで今日ここまで来た価値の三割くらいは回収できた。
「さあ、そろそろ来ますよ」
「何が」
「ハイエナです」
アナが視線だけで合図する。俺もそちらを見る。
大広間の向こうから、分かりやすい動きをした男たちが三人ほど、こちらに向かってきていた。年齢も服の色も微妙にバラバラだが、目線の泳ぎ方と歩幅の統一感で、同じ種類の人間なのはすぐ分かる。
「いやはや、ファルケンハイン伯!」
真っ先に前に出てきたのは、赤ら顔の中年男だ。腹のあたりに資本主義の成功が詰まっているタイプ。
「次期侯爵への内定、おめでとうございますな!」
「ありがとうございます」
営業用の笑顔で応じる。
「いやあ、さすがはブラウンシュヴァイク公が見込んだお方だ。実に将来が楽しみですなあ」
その後ろから、別の男が顔を出した。
「今度、ぜひ我が領地のワインをお試しいただきたく。ファルケンハイン伯のお口に合うような、渋みと深みのある自慢の一本でしてな」
「光栄です。機会があれば是非」
言葉自体は悪くない。悪くないが、目が笑っていない。俺の肩章と、背後に控えるアナと、部屋の隅にいるブラウンシュヴァイク公の姿を、交互に何度も確認している。
なるほどな。グラスを傾けながら、小声でアナにささやいた。
「こいつら、公爵と親しくて、なおかつ上り調子の俺に取り入って、将来の栄達を狙ってる……という解釈で合ってるか」
「ええ、そんなところでしょう」
アナはにっこり微笑みながら、別のテーブルからナプキンを一枚失敬してきた。ぱっと見には、ただの優雅な所作だ。
「ハイエナとも言いますが」
「毒のある例えをさらっと言うな」
「いて困るものでもありませんよ」
アナは小さく肩をすくめた。
「獲物が大きくなればなるほど、匂いを嗅ぎつけて勝手に集まってきます。掃除に使うか、放置しておくかは、アル様次第です」
「掃除って表現が怖いんだが」
「意味はご想像にお任せします」
さらっと恐ろしいことを言うな、この女は。
目の前では、別の貴族が俺の祖先を褒め始めている。
「ファルケンハイン家といえば、やはりシリウス戦役で名を上げられた先祖のお話が有名でしてな。私など、少年の頃から伝記を読み返しておりまして――」
話が長くなりそうだ。
「……どうなさいます?」
アナが、控えめな声で尋ねてくる。
「取り込んでおくに越したことはないだろう」
「ブラウンシュヴァイク公と繋がりが深いということは、帝国内で動きやすい手駒になる。情報、金、兵站。全部、チャンネルはいくつあっても困らない」
グラスを揺らしながら、もう一口ワインを飲む。
「リッテンハイム侯ともバランスは取らないといけないけどな。あっちの連中ばかり得をするように見えると、公爵が拗ねる」
「拗ねますね」
アナが即答した。経験則らしい。
「なので、とりあえず今は餌を撒いて、紐だけつけておきましょうか」
「そういう物騒な言い方をやめてくれ」
「アル様の心の中では、だいたい同じことを考えているはずです」
図星なので何も言えない。
「……よし」
内心でスイッチを入れた。
「愛想笑い開始」
「はい、いつもの仕事顔で」
アナの合図に合わせて、口元の角度を上げる。頬の筋肉が営業モードに変わり、目尻にちょうどいいシワが寄る。
「それでですね、伯爵。わが領地の川沿いに新しい別荘を――」
「それは興味深いですな。ちょうど夏季の避暑地を探していたところでして」
見事なまでの社交用テンプレートを口から滑らせながら、心の中では別の計算を回している。
こいつはリッテンハイム側とのパイプに使える。こっちは税制の情報を持っていそうだ。向こうの痩せた男は軍需産業か。覚えておこう。
欲のある連中は、利用しやすい。向こうもこちらを利用する気だろうが、そこはお互い様だ。
「さすがファルケンハイン伯ですな。お話が早い」
「お褒めいただき光栄です」
にこやかに返しながら、内心ではお前の話は長いと別のツッコミを飛ばしていた。
その横で、アナは美しい背景として機能している。必要なときにだけグラスを差し出し、視線の誘導を手伝い、危険そうな酔っ払いが近づきそうになると、さりげなく位置をずらして遮ってくれる。
この女がいなかったら、今日の俺はとっくに酔いつぶれているか、誰かに絡んで騒ぎを起こしているかのどちらかだ。
結婚のために元帥を目指すつもりが、元帥になる前から既に尻に敷かれている気がするな。
「アル様」
「なんだ」
「今の笑顔、少し冷たく見えました」
「マジか」
「はい。もう少しだけ目元を柔らかく」
「こうか?」
「ええ、そのくらいで」
アナの指示通りに表情を調整すると、目の前のハイエナ――もとい下級貴族たちが、さらに安心したように笑い出した。
「お優しい目をしておられる」
「いやあ、公爵が目をかけるのもよく分かる」
「そうおっしゃっていただけると、励みになります」
◆
俺はワインを一口だけ飲んでから、壁際でグラスを空にしていた金髪の若造に声をかけた。
「おい、ラインハルト。壁の花になってないで、少しは学べ」
「……何をだ」
不機嫌そうな横顔がこちらを向く。相変わらず造形だけは完璧だが、中身は功績だけを燃料に動く危険物だ。
「さっきから顔に出まくっているぞ。『貴族同士の会話は反吐が出る』と心の中で連呼しているな?」
「心を読むな」
「読む必要がない。表情で字幕が出ている」
肩をすくめた。
「いいか、お前も貴族だ。反吐が出るのは分かるが、一流の貴族はな、その反吐を飲み込んで笑顔を作る生き物だ。今のお前は、まだ二流だな」
「……貴様と一緒にしないでくれ」
ラインハルトが、ワインのグラスを指先で弄びながら吐き捨てる。
「俺は、俗物たちと同じやり方でのし上がるつもりはない」
「そう言いながら、ここに来たのは誰だ。しかも開宴六時間前に」
「それは、その……」
視線があからさまに泳ぐ。姉上案件になると、こいつは急にポンコツになる。
からかい半分に口を開きかけたその時、視界の端で妙な動きがあった。
会場の入り口。さっきルドルフ大帝の肖像画を献上したクロプシュトック侯爵が、誰にも声をかけず、そそくさと外へ出ていくところだった。付き従う召使いも最小限。
「ん?」
思わず声が漏れる。
「どうかしたのか」
「いや、あの爺さん、もう帰るのかと思ってな」
俺は扉の方を顎で示した。
「せっかくブラウンシュヴァイク公に出席を許されたのに、挨拶もろくにせず退場か。しかも、まだ皇帝陛下もお見えになっていない」
「そういえば……少し遅いな」
ラインハルトも、不審そうに眉をひそめる。
皇帝陛下が来れば、嫌でも空気が変わる。衛兵の動き、楽団の曲、招待客の視線。まだその前触れが一切ない。
クロプシュトック侯がここで引く理由は、普通ないはずだが
俺が顎に手を当てて考え込もうとしたところで、その疑問を吹き飛ばす勢いで誰かが走ってきた。
「ファルケンハイン伯爵!」
ブラウンシュヴァイク公の執事だ。普段は氷みたいに落ち着いた顔をしている男が、今は血相を変えている。
「公爵閣下が至急、お呼びです!」
「あー、はいはい、ただいま」
グラスをアナに預け、肩をすくめた。
「また面倒ごとか?」
「アル様、気をつけて」
「うん、できれば胃薬を用意しておいてくれ」
軽口を叩きながら、執事の後を追って大広間を出る。
案内されたのは、少し離れた小さな応接室だった。重そうな扉をくぐると、そこにはブラウンシュヴァイク公がいた。さきほどまでの自信満々な笑みは影も形もなく、頭を抱えて椅子に沈んでいる。
「閣下」
「……来てくれたか、ファルケンハイン伯」
公は顔を上げると、額の汗を拭った。
「どうなさいました。顔色が、公爵家の財政状況くらい暗いですが」
「今それを言う必要があるのかね、君は」
弱々しく突っ込んでくるあたり、まだ元気は残っている。
「まさかとは思いますが、陛下がお見えにならないとか」
冗談半分で言ったつもりが、公の表情がさらに渋くゆがんだ。
「……うむ」
「実は、陛下が急な腹痛を訴えられてな。先ほど、ノイエ・サンスーシへ引き返された」
「……………………」
しばし、言葉が喉で止まった。
「……医師の診立ては?」
「単なる体調不良だそうだ。命に別状はない。明日には持ち直されるだろうと」
「それは何よりですが」
こめかみを押さえた。
「今日に関しては、何も良くないですね」
「そうなのだ!」
ブラウンシュヴァイク公が机をどんと叩く。グラスが小さく震えた。
「この晩餐会は、陛下をお迎えするために開いたのだぞ!それなのに主賓不在とあっては、私のメンツが立たん!門閥貴族の笑い者になる!」
「まあ、事情を知れば同情くらいはしてくれるでしょう」
「してくれるものか。やつらは皆、私が失敗するところを血の涙を流してでも見たい連中だ」
公は大げさに嘆息するが、あながち誇張でもないのがこの世界の怖いところだ。
「リッテンハイムのやつは、明日には必ず言うぞ。『さすがはブラウンシュヴァイク殿、皇帝陛下すら退屈させてしまうとは』とな!」
「容易に想像できますね」
俺の脳内には、あの細目の侯爵が笑いをこらえながら皮肉を言う姿が再生されていた。声まで勝手に再生されるあたり、俺のストレスも相当溜まっている。
「このままでは、私は恥をかく!陛下を迎えるための場で、主賓もいない空宴会!私は一体どうすれば――」
公の愚痴は、戦場の砲撃よりうるさい。だが、言っている内容は正しい。
皇帝が来ない晩餐会
主催はブラウンシュヴァイク公
招待客は門閥貴族と、新興勢力の将官たち
この構図で、何もせずに終わったら、確かに公の評価は地の底まで沈む。せっかくクロプシュトック侯に恩を売るチャンスも潰れる。
一度だけ深呼吸し、頭の中で状況を並べ替えた。
陛下不在=主賓不在
しかし、会場には「これから伸びる若手」が揃っている
さらに、公は俺を侯爵へ推そうとしている真っ最中
……もう答え出てるだろ
「閣下」
姿勢を正した。
「メンツの問題なら、まだ挽回できます」
「どういうことだ」
「この晩餐会の看板を変えればいい」
公が怪訝そうに眉を上げる。俺は続けた。
「陛下をお迎えする会から、『次世代の英雄を祝福し、公爵の威光を示す会』に、看板を差し替えるんです」
「……?」
「今夜の場で、私が正式に侯爵へ昇る旨を発表します。その場で、これはすべて『ブラウンシュヴァイク公のお力添えあってこそ』と、私が高らかに宣言する。陛下不在の穴を、次期侯爵誕生の祝賀で埋めるわけです」
公の目に、ゆっくり光が戻っていく。
「そうすれば、この晩餐会は、陛下を迎え損ねた失敗の場から、将来有望な将官と公爵家の結びつきを天下に示した記念の夜へと変わる」
「門閥貴族どもは、こう評価するでしょう。『さすがブラウンシュヴァイク公。皇帝が急にお帰りになられても、瞬時に次の手を打ち、若手を取り込む場へと転換した』と」
「……!」
ブラウンシュヴァイク公の顔が、見る見るうちに明るくなっていく。
「さらに」
俺は畳みかけた。
「陛下に対しても、『私が侯爵に昇ることを、ブラウンシュヴァイク公が先んじて社交界に広めてくれました』と、しおらしく報告できます。陛下から見ても、『自分の寵臣を盛大に盛り立ててくれた有力者』という評価になる」
つまり、公は上下どちらにも借りを作らないどころか、貸しを積み増しできる。しかも出血はほぼゼロ。使うのは言葉と会場の空気だけだ。
ここまで言えば、もう理解してくれただろう。
「どうです、閣下。悪くない取引だと――」
「おお!」
公が立ち上がりかけて、机に膝をぶつけた。グラスがかたんと鳴る。
「それだ!」
子供が新しいおもちゃを見つけたときのような顔で、俺を指さす。
「さすがはファルケンハイン伯!いや、もう伯などというのもおかしいな。さすがは次期侯爵だ!」
「褒め言葉は昇爵の書類でお願いします」
「話が早くて助かる。やはり、君を推して正解だったわけだ」
公は上機嫌で笑った。さっきまで頭を抱えていた人物と同一とは思えないテンションだ。
「儂は門閥の連中に対し、こう言うことができる。『皇帝陛下はご体調の都合でお帰りになられたが、そのおかげで、わがブラウンシュヴァイク家とファルケンハイン侯爵家の結びつきを披露する場となった』とな!」
「ええ。ついでに、ラインハルトも少し持ち上げてやれば、あいつの株も上がります」
「ミューゼルの小僧もか」
「はい。あれでも、陛下のお気に入りですから。公にとっても損はありません」
公は顎に手をやり、ぐっと口角を上げた。
「分かった。今夜の主役は、陛下から君たち若者へバトンタッチという形にしよう」
「それがよろしいかと」
ここまで来ると、打ち合わせはほぼ不要だ。公と俺の間で、必要な台詞と順番が自然に組み上がっていく。
「では、段取りを確認しよう」
公が指を折る。
「儂が挨拶の中で、陛下の急なご体調不良を簡潔に伝える。しかし、せっかく集まった場を無駄にせぬため、次世代の英雄を祝福したいと宣言する」
「そこで俺とラインハルトの名前を出す」
「うむ。そして、儂が君の昇爵について、陛下から耳打ちされている風を装ってほのめかす」
「そこで俺が、『すべてはブラウンシュヴァイク公のお力添えのおかげです』と全力で持ち上げる」
「完璧だ!」
公が手を叩いた。
「阿吽の呼吸というやつだな!」
「呼吸がぴったり合い過ぎて、どちらかが先に窒息しそうですが」
「はっはっは!窒息するのは、きっとリッテンハイムのやつだ」
公が愉快そうに笑う。確かに、あいつはこういう展開が一番嫌いだろう。想像するだけで酒がうまくなる。
「では、そろそろ戻りましょう。客たちも、そろそろ『陛下はまだか』とざわつき始める頃合いです」
「そうだな。任せたぞ、ファルケンハイン……いや、近いうちにファルケンハイン侯爵よ」
「光栄です、公爵閣下」
軽く一礼し、応接室を後にした。
廊下を歩きながら、深く息を吐く。
急な腹痛で晩餐会すっぽかしとか、皇帝もかなり自由だな
だが、その程度で右往左往しているようでは、貴族社会では生き残れない
さっきのやりとりを思い返して、苦笑が漏れる。
皇帝の急病に、公爵のメンツ。それを埋めるために、俺の昇爵とラインハルトの未来をひとまとめにして売り出す
人間の胃もたれは加速するが、出世のスピードも加速する。悪くない取引だ
大広間のざわめきが、徐々に近づいてくる。
「さあて」
俺はネクタイを軽く締め直した。
「阿吽の呼吸とやらを、見せてやるか」
◆
ブラウンシュヴァイク公の乾杯の挨拶が終わり、楽団が一段高いフレーズを鳴らしたところで、俺は会場中央に押し出された。スポットライトを浴びる気分でグラスを掲げる。正直、心の中では布団を掲げたい。
「諸君!」
声を張ると、大広間がすっと静まる。シャンデリアの光が、無数の視線と一緒にこちらへ突き刺さってきた。
「本日は、このような場を設けていただき、感謝する。先ほど公爵閣下からもお言葉があった通り、私が侯爵へと列せられるのは、ひとえにブラウンシュヴァイク公爵閣下のご尽力あってこそだ」
ここで、ちゃんと公を持ち上げる。約束だ。
「私のような、まだ若輩者を高みに押し上げてくださった恩義は、生涯忘れない。よって、ここで改めて、閣下のご厚情に感謝を捧げたい。ブラウンシュヴァイク公爵閣下に、乾杯!」
掲げたグラスを、これでもかと高く上げる。
「乾杯!」
どよめきとともに、会場中から声が重なる。水晶のグラスがぶつかり合い、澄んだ音が波のように広がっていく。俺は公の方を振り返り、少しだけ腰を折った。公は、満足そうに大きくうなずいている。
よし。陛下の腹痛も、公のメンツも、とりあえずはカバー完了
ワインを一口だけ口に含み、喉の奥に流し込む。浮かれた笑い声が再び大広間に満ちていくのを背中で感じながら、俺は優雅そうに見える速度で人ごみの端へと戻った。
壁際で、金髪の少年が露骨にうんざりした顔をしている。
「……くだらん」
ラインハルトだ。軍服の襟が、いつもより窮屈そうに見える。
「俺は帰る」
「待てや」
逃げようと半歩踏み出した腕を、俺はがっちりつかんだ。
「どこへ行くつもりだ、うちの少将殿。主賓代理の俺がまだここにいるのに、子分が真っ先に退散したら格好がつかんだろ」
「子分と言うな。離せ」
「嫌だ。これは上官命令だ。最後まで付き合え」
ラインハルトが心底嫌そうな顔で睨んでくる。
「貴様の見栄のために、くだらない宴会に付き合う義理はない」
「見栄だけじゃない」
顔を近づけ、小声で囁いた。
「デザートだ」
「は?」
「厨房から情報を仕入れてある。今夜のデザートには、帝都でもなかなかお目にかかれない極上のザッハトルテが出る」
ラインハルトの眉が、ぴくりと動いた。
「濃厚なチョコレートと、絶妙な甘さの生クリーム。そして、香り高いコーヒーがセットだ。しかも、希望者には持ち帰り用の箱付き」
そこまで言うと、彼の青い瞳がほんの少しだけ揺れた。
「……それがどうした」
「分からないか。キルヒアイスへのお土産に最適だ」
追撃である。
「お前が戦場で功績を上げている間、オーディンで書類の山と格闘していた忠臣に、甘い褒美を持ち帰れる。『晩餐会は退屈だったが、ケーキはうまかった』と報告すれば、やつも納得するだろう」
「…………」
しばしの沈黙。ラインハルトは視線を泳がせ、小さく息を吐いた。
「……一切れだけだぞ」
「よし、交渉成立」
満面の笑みで手を離した。
チョロいな、こいつ
さっさと背中を押して人の輪の中へ戻す。
「では少将殿、しばらくは好きにしていていい。ただし、号令がかかったら、ちゃんと前に出ろよ。英雄は、見られてこそ英雄だ」
「ふん」
そっぽを向きながらも、足取りは会場の外ではなく、テーブルの方へ向かっていた。素直じゃないところも含めて、扱いやすい。
「アル様」
振り返ると、アナがそっと近づいてきていた。さっきの乾杯で注ぎ直されたグラスを、俺の手に押し戻してくる。
「お疲れさまです。見事なご挨拶でした」
「喉が渇いただけだ」
「それなら、別の意味で成功ですね」
くすりと笑うアナの姿を見て、ようやく肩の力が抜けた気がした。
「さて」
グラスを給仕に預け直し、俺は彼女に向き直る。
「一仕事終えたご褒美に、一曲付き合ってくれ」
「喜んで、アル様」
アナが軽くスカートの裾をつまみ、優雅に礼をしてみせる。その仕草だけで、周囲の視線がまた集まってくるのが分かった。楽団に目配せすると、すぐにワルツの調べが流れ始める。
アナの腰に手を回し、手を取り、ゆっくりとステップを踏み出した。
大広間の中央が、自然と空いていく。貴族たちの視線が、渦のようにこちらへ集中した。誰が仕掛けたとも言わないが、今夜の見世物のひとつになっているのは間違いない。
「視線が痛い」
「良い宣伝です」
アナが微笑む。
「『ブラウンシュヴァイク公が推す若き侯爵と、その婚約者』。これ以上分かりやすい看板もありません」
「看板にされている側の気持ちを、誰か考えてくれ」
「考えていますよ」
アナが少しだけ身体を寄せてきた。
「アル様に負担を強いている分、今こうして一緒にいられる時間を増やせていますから」
「そう言われると、何も言えないな」
苦笑しつつ、ステップを続ける。アナの腰は驚くほど軽く、ほんの少しの力で滑るように動いてくれる。戦場での彼女の動きと同じく、無駄がなく、精密で、美しい。
「……最高だな」
思わず口から本音が漏れた。
「このまま時間が止まればいい」
「ふふ。ロマンチストですね」
「俺のロマンは、基本的に現実逃避だ」
「存じております」
アナの黒髪が揺れ、耳元のイヤリングがきらりと光った。
その瞬間だけは、本当に世界が自分たちを中心に回っているように感じた。戦場の砲火も、貴族の陰謀も、全部遠くの出来事になっていく。ただ、目の前の彼女だけが、確かな現実だった。
……だからこそ、次の瞬間の衝撃が、あまりにも唐突だった。
楽団の音が、不自然に途切れたような気がした直後。
空気が震れた。
次の瞬間、耳をつんざく轟音が、世界を引き裂いた。
腹の底から突き上げるような圧力。肺の中の空気が、一気に押し出される。鼓膜が悲鳴を上げ、視界が白い閃光で焼き付いた。
「……っ!」
本能が、勝手に身体を動かす。
アナの腰をつかんだまま、全力で彼女を抱き寄せた。そのまま床へ押し倒すように身をかがめ、自分の身体を盾にする。背中の方で、ガラスが砕ける音と金属がねじ切れる音が重なり合った。
頭上で、巨大な何かが崩れ落ちる重低音が響く。シャンデリアだと理解するのに、一拍遅れた。
やばい
判断が終わる前に、全身を何かが打ちつけた。熱と衝撃と痛みが、ごちゃまぜの塊になって押し寄せる。
誰かの悲鳴。複数の悲鳴。高い声も低い声も、全部まとめて爆音に飲み込まれていく。
俺はとにかく、アナの頭を腕の中に押し込んだ。自分の背中側で何が起きているかは知らない。知りたくもない。今、世界で守るべきものはひとつだけだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
もしよければ、
アルとアナの関係について
ラインハルトの扱いの是非
公爵の阿吽の呼吸の感想
ラストの爆発の衝撃度
など、率直なご意見をいただければ励みになります。
そろそろ長期連載になってきたので章ごとに簡単なあらすじ(ネタばれあり)をつけるべき?
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つけるべき
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いらない