(有志の方が主催した、合同誌に寄稿した作品を加筆修正したものです。規約に乗っ取った上で再掲しています)
(有志の方が主催した合同誌に寄稿した作品を、再度修正したものです。規約に乗っ取った上で再掲しています)
「うーん……どうしよう……」
北宇治高校教師、黄前久美子は悩んでいた。
黄前久美子は吹奏楽部副顧問である。しかし副顧問とも言えど、全体の指導を任されているのは彼女だ。そんな久美子の一番の目標は部員たちを全国コンクールの金賞に導く事だ。今年は関西大会ダメ金で終わってしまった事もあり、来年こそはと気持ちはなおさら強まっていた。
しかし、彼女は音楽教師ではなく国語教師であった。なので四六始終音楽の事を考える訳にはいかない。その証拠に彼女が唸りながら悩んでいるのは、音楽とは関係の無い事柄に対してだった。
「源氏物語、いざ生徒に教えるとなると本当に難しいなぁ」
久美子が悩んでいるのは源氏物語の授業用のカリキュラムである。「日本最古の長編小説」「日本文学の最高峰」とも名高いこの作品は、古典文学としては非常に著名な物であり、名前だけなら小学生でも知っているような作品である。
おまけに北宇治高校がある場所はこの物語の主要地でもある宇治だ。まさにお膝元の作品という他は無く、宇治で生活を営む者なら、心の物語と言える物である。
しかし作品が親しみやすいと言われたらそうでもない。そもそもこの作品が書かれたのは今から千年以上前の平安時代、今とは全く違う言葉遣いである古文体で書かれたその作品は、パッと読んだ限りでは話の流れすらつかみ取るのも難しい。
おまけに同世代の竹取物語や枕草子と比較しても、文の途中で変化する主語や頻出する敬語表現という要素が、物語を汲み取る事をより困難なものにさせている。
それならばと久美子は、各登場人物に感情移入してもらう形で話を理解してもらおうと授業をしたのだが、それも一筋縄ではいかなかった。主人公の光源氏が生徒(特に女生徒)に対してどうにも受けが悪いのだ。
この光源氏、容姿端麗・頭脳明晰とファンタジー世界の王子様と言っても過言ではない男性なのだが、作中でやっている事と言えば、父親の再婚相手であり、義母である藤壺と男女の契りを結び、正妻である葵の上を放っておいて夕顔といった他の女性と逢瀬を遂げ、挙句の果てにメインヒロインともいえる紫の上を十歳という幼い時に京に連れ去り、同じように性交渉を持ったのは十四歳の時だ。(しかもそれを紫の上の同意を無しに行われている)その後は、寵愛を受けたと言っても光源氏は彼女を正妻にする事は無く、内縁の妻という不安定な立場のままに置いていた。
そんな彼を、男子生徒は「イケメンは正義」「なろう主人公」と言い、女子生徒は「女の敵」「ヤリチン男」だの評すという散々な有様であった。
だが、久美子は光源氏を単純に生徒たちのように評する事は出来なかった。そもそも彼が、栄華を極め、幸せでいたかというとそうでもない。正妻である葵の上とは不仲の期間が長く、ようやく心が通じ合えたと思ったら先立たれているし、紫の上とは最終的に気持ちがすれ違ったまま死に別れた。
第二部の主人公である薫については、正妻の一人である女三宮が自分の息子である夕霧の親友に托卵されて産まれた子供だ。多くの女性と契りを結んだとはいえ、彼の心が満たされ続けたとは言い難い。
「何でこんなに女性と関係を持ってしまったのかなぁ?」
久美子は授業の解説を作りながらそう考えていた。それが分かれば生徒も物語に関心を持ってくれるに違いないからだ。けれどもそう簡単にいかないのが文学の世界だ。全ての女性に亡き母親の影を重ねていたからとはよく言われるが、そうだとしたら彼は母を亡くした三歳の頃から不幸が決まっていたとしか言えなくなる。そんなのはゴメンだった。何よりに久美子には一つ解せない事があった。
「光源氏の本当の気持ちや寂しさを、理解してくれる女性はいなかったのかな?いたのなら、彼の心は満たされたと思うのに」
平安時代では女性に気持ちを伝える際に和歌を送ったと言われている。実際光源氏は和歌の名手だ、気持ちを伝えるのにはお手の物だったはず。それなのに最後まで心を寄せてくれていた女性はいなかった。何故だろうか?気持ちなんて伝える事が出来れば伝わる物なのに。
「けど私も古文は苦手だったからなぁ。流石に学術的考察はキツイいんだよね……」
久美子は誰もいない職員室で一人ぼやいた。恥ずかしながら久美子は成績優秀な生徒という訳ではなかったし、二年くらい前まで大学に通っていた学生である。今なお専門家や大学教授が躍起になって研究しているこの高尚な文
学作品の神髄に近づこうだなんて不可能に近かった。
「ダメだ、考えてもロクな案が浮かばない。気分転換にユーフォを吹いてこよう」
仕事が詰まった時に、軽く一曲吹いて気分を入れ替えるのが、久美子の息抜きであった。最も周りの迷惑になるからそう気軽には吹けないが、今は夕方の六時半・それも秋が深まった十月末である。大半の生徒は下校し、残っている教職員も少ないから大丈夫だろう。そう考えた久美子は自分の楽器を持ってこようと、職員室を後にした。
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「よし、一曲吹いてまた頑張ろう」
久美子はそう独り言をつぶやきながら、マイ楽器を音楽準備室から取って来た。後はどこか吹けそうな場所を探すだけだ。
「……あれ?」
そんな久美子の耳にホルンの音色が響いた。そのメロディはアップテンポでとても激しく、柔らかい音色が特徴なホルンには似つかわしくない物だった。
音色の出所は職員室の二つ隣にある二年生の教室からだ。吹部でもよくパート練習で使っている場所だ。だが今は部活を終え、下校時間もとうに過ぎている。部員が吹いているとしたら校則違反だ。
(まぁ……吹きたい気持ちはわかるけどね。でも教師としては見過ごすわけにはいかないからなぁ)
ついつい学生時代を思い出した久美子は内心苦笑して、音が響いてくる教室の扉を開けた。
「ちょっと、もう下校の時間だよ。早く帰りなよ」
「あ、黄前先生……」
「……矢野君?」
そこにいたのは、男子生徒の矢野であった。ホルン担当の吹奏楽部の二年生、久美子が赴任をした年に入学した生徒である。担任として受け持ったことはないが、授業では何度も顔を合わせており、吹部員という事を抜きにしても見知っている生徒の一人だ。
「もう完全に下校時間は過ぎてるよ。他の先生に見つかったら怒られるよ」
「すんません……吹かずにはいられなくてつい」
矢野は随分と軽い口調で謝罪をした。教師に対しての言葉遣いでは無いかもしれないが、どこか憎めなかった。色素が薄い茶色の染髪を行い、髪の毛の外側が撥ねているラフな容姿をしていることもそれに拍車をかけていた。
最も久美子はそれに悪感情を抱く事はない。そもそも生徒たちと年が近いこともあってか、女子生徒には「くみちゃん先生」と呼ばれるくらいだ。それに比べたら名字で先生呼びをしている分、礼儀正しいとも言える。
「しかし珍しいね。いつもは部活が終わったら真っ先に帰っているのに」
「はは……まぁ俺だって居残りで頑張りたい時もあるんですよ」
「それにしたって今吹いていた曲はコンクールにも文化祭にも関係ない曲だったけどね」
「うっ、そんな突っ込まないでくださいよ」
二人はそんな軽口を交わす。相手の矛盾を見抜いて容赦なく突っ込む久美子のコミュニケーションは学生時代から変わらない。
「はは。でも随分と激しい音を出していたかららしくないなぁとは思ったかな。矢野君、いつも楽しそうに吹いているから」
久美子はバツが悪そうにしている矢野に対してフォローをするように言葉を返した。その矢野から返ってきた言葉はどこか暗さを感じる物であった。
「俺だって二十四時間年中無休で賑やかしをやっている訳じゃありませんよ…」
その言葉にはやるせなさや悔しさが含まれているのを、久美子は直感的に感じ取った。
「無理には踏み込まないよ。けど何か悩み事が有ったら遠慮なく言ってね。先生も話くらいなら聞けるから」
久美子は、彼の目を覗き込みながら言った。それは彼に話して欲しいという気持ちを込めてだった。けど話して欲しいと直接言っても思春期の少年は話してはくれないだろう。だから目を見て、目の前の私から離さないようにしたのだ。
部長時代は自分の発言が誰かに刺さったと感じる時はままあったが、今回もこうすれば彼に刺さるという確信があった。かつて北宇治吹部の部長だった時に黄前相談所ともよばれた彼女の察しの良さや調停力は、教師になってからも失われていないのである。
「……妹が今年高校受験なんすよ」
矢野はそうぼそりとつぶやいた。
「今十月でしょ?受験までそんなに日が無いのに模試の結果が微妙で荒れてるんす」
「そっか……」
受験、それは教師である久美子にとっても他人事ではなかった。
「いつもはうるさい妹ですけど、仲は悪くない方だと思いますからね。落ちて欲しいなんて思っている訳じゃないですから。色々励まそうと声をかけたりしているんですけど、どうも効果が無くて……」
その語りからは忸怩たる思いがひしひしと伝わって来た。
「別にありがとうとかお礼を言われたいわけじゃないですけど、『俺の気持ちを分かれよ!』くらいは兄として思いたくなるんですよ。はは……ダサいっすよね。こんなシスコン丸出しの姿なんて」
照れくさそうに頬を掻く矢野、しかしそこに隠されている憂いは、人の感情に聡い久美子でなくても気付くだろう。背中を丸める彼は、普段目にする姿よりもとても小さく見えた。
「あんまり遅いと迷惑かけるんで、もう帰ります……って先生何やってるんすか?」
そんな彼を尻目に、久美子は楽器ケースから自分の楽器を取り出し、譜面台を自分の傍に近づけてた。
「ちょっと矢野君に聴いて欲しい曲があるんだ」
「そこは早く帰れって急かすところじゃないんですか?教師として」
「そこは新米教師として見逃してよ」
そう言いながら楽譜をクリアケースの中から取り出し、マウスピースに口を当て、唇を震わせた。
久美子のユーフォから吹き出ているその音は、とても優しい音色だった。朝露が残る早朝を照らす陽の光が自分を包み込んでくる。そんな慈愛に満ちた温かみを矢野は感じ取る事が出来た。
「これは…?」
「高校の時の先輩が卒業した時に、私に残してくれた曲なんだ。仕事に行き詰まった時とか今でもよく吹くんだよ」
久美子は過去を振り返るように言った。
「私はね、気持ちを伝えられるのは言葉だけじゃないと思うんだ。先輩も普段は何を考えているかよく分からない人だった。けどこの曲を吹いている先輩の姿を見ている時は、先輩の気持ちとかが良く伝わってきたんだよ」
常に飄々としていて掴み所が無かった先輩、田中あすか。それは卒業してからも変わる事は無かった。けれども生き別れた彼女の父親が残してくれたこの曲を吹いている時だけ、彼女は自分の感情をさらけ出していた。久美子は今もそう感じずにはいられなかった。
「矢野君もさ、伝えたい事があっても無理に言葉にする必要は無いと思うよ。演奏から気持ちを伝える事だってできると思うし、何だったら何も言わないで差し入れを持っていくとか、そういう些細な事でも人の気持ちは十分に伝わるんじゃないのかな」
「先生……」
「何て、偉そうなこと言っちゃったかな」
「……いえ、この聞いているだけでも優しい気持ちになりましたよ。俺」
「そう?なら良かった」
久美子はそう言いながら、譜面台を彼にも見えるように傍に寄せた。
「いっしょに吹いて見る?これユーフォの曲だけど、どの楽器で吹いても成立するから」
「いいんすか?大切な曲なんでしょ?」
「今は多くの人にこの曲を知ってもらいたいと思っているから」
かつて複雑な気持ちを抱いていた同級生、黒江真由にこの曲を教えてから、久美子のその気持ちは変わっていなかった。
二人は息をそろえて、マウスピースに唇を震わせる。その振動がベルを伝わって出てくる音は、久美子は一人で吹いたものよりも、深い安らぎを与える物だった。
楽譜を追いながら久美子は考える。光源氏は多くの女性に自分の気持ちを完全に伝える事は出来なかった。けどもし音楽でなら、自分の想いを届ける事が出来たのではないかと。
彼は短歌の名手だと言われているが、それも言葉の一つだ。言葉ではない、何か別の物でなら、光源氏もそれを取り巻く女性たちも、本当に幸せになれたのではないかと。久美子はそう思わずにはいられなかった。なぜなら久美子は音楽を通して、あすかや奏、真由や麗奈と心を通わせる事ができたのだから。
(次の授業で話してみようかな。今までより光源氏に共感してくれるかもしれない)
次の国語の授業は充実した物になりそうだ。久美子はワクワクが止まらなかった。
「俺、今度妹に元気が出そうな曲でも聴かせてやります」
「うん、是非そうしてあげて」
紫の上と死に別れた光源氏は嵯峨のお寺に出家したのち、二、三年後には亡くなった事が示唆されている。だがどんな最期を迎えたのか、物語にもその様子は書かれていない。
けれども、どうか彼の最後には自分の心が満たされたまま、生涯を終えて欲しい。久美子はそう願わずにはいられない。
(どうかこの優しい音色が、彼に届きますように)
久美子と矢野が奏でるメロディは、久美子の慈しみと共に穏やかに奏でられ続けた。
ユーフォと源氏物語を組み合わせた作品は一度書いて見たかったので、今回かけて感無量です。主催者様に強い感謝を致します。香織先輩の藤壺、南先輩の葵の上感は異常。
副題はユーフォ創作仲間であり、ハーメルンで「音を愛す君へ」を連載しているtanuu様が読んだ一首「想いつつ 会えぬものとは 知りながら 今日鶯の 初音に言寄す」から頂きました。
〆切間近だったにもかかわらず、和歌の要素を入れたいとの相談に最上の対応をしてくれた事、心から感謝しています。この場を借りてお礼を申し上げます。