すいませんでしたぁm(_ _)m
「ねえ、今日の夜、私の家で飲み直さない?」
そう言って俺の肩に腕を回し、顔を至近距離まで近づけてくるのは、公安の先輩である姫野さんだ。
赤い髪のストーカー上司、ハイライトの消えた目でフォークを握るカフェの店員、そして俺のベッドを占領して部屋着を借りていった銀髪のデビルハンター。
ただでさえ俺の周りは過密スケジュールだというのに、神様というのはどうしてこうも、俺のキャパシティを無視して次から次へと難題を放り込んでくるのだろうか。
姫野さんは、片目に黒い眼帯をつけ、いつもタバコの匂いを漂わせている人だ。
仕事中は頼れる先輩であり、修羅場をいくつも潜り抜けてきた凄腕のデビルハンターなのだが、ひとたびプライベートになると、この人はとにかく距離感がバグっていることで有名だった。
というか、俺にとってこの先輩は、マキマさんたちとはまた違った意味で、リアルな「命の危機」を感じる人間の一人である。
理由は極めてシンプル。この人は、酒が入ると見境がなくなるのだ。
以前、公安の合同飲み会があった際、完全に泥酔した彼女に強引に唇を奪われそうになり、危うく大人の階段を強制労働させられそうになった恐怖を俺は未だに忘れていない。
あの時は早川アキが間に入ってくれなかったら、俺の純潔は今頃どこか遠いお星様になっていたに違いない。
そんな姫野さんと、今日はたまたま二人きりでの合同パトロールだった。
幸いにも任務自体は何事もなく終わり、簡単な悪魔の気配を処理しただけで済んだ。時刻は夕暮れ時。……いや、まだ定時をちょっと過ぎたばかりの午後6時なのだが、なぜか俺は彼女の行きつけの居酒屋へと拉致されていた。
「先輩、まだ外はうっすら明るいですよ。しかも、なんで俺の真横に座るんですか。席、ガラガラじゃないですか」
店内はまだ早い時間帯ということもあって、俺たち以外には仕事帰りのサラリーマンが数人いる程度だ。カウンター席は他にもたくさん空いているというのに、姫野さんは俺の右隣にぴったりと張り付いて、すでに二杯目の生ビールジョッキを傾けている。おじさんか。
「いーじゃん、減るもんじゃないし。それにさ……」
姫野さんはジョッキをコト、とテーブルに置くと、じっと俺の首筋のあたりを見つめてきた。その眼帯のない方の目が、どこか値踏みするような、それでいて酷く寂しそうな色を帯びる。
「君ってさ、いつも他の女の匂いさせてるでしょ? マキマさんとか、あのカフェの可愛い子とか。……なーんかさ、最近は中国の、すっごく強そうな女の匂いまで混ざってる気がするんだよねえ」
「っ……!」
俺は思わず、口に含んだウーロン茶を吹きそうになった。
女の勘というか、デビルハンターの嗅覚というか、クァンシが俺の家に泊まっていったこと(何もしてないが)を、どうしてこの人は正確に察知しているのだろうか。
「何を不穏なこと言ってるんですか。消臭スプレーですかあなたは」
「ひどーい。先輩のピュアな乙女心を消臭スプレー扱いするなんて。ねえ、今のうちに私の匂いで上書きしとこうと思ってさ」
そう言ってにやにやと笑いながら、姫野さんは俺の脇腹をツンツンと人差し指で突ついてくる。本当に表情がコロコロ変わる人だ。美人で、スタイルも良くて、普通にしていれば大人の色気たっぷりのお姉さんなのに、中身が完全にサバサバしたおっさんである。いや、おっさんというよりは、獲物を前にした肉食獣に近いかもしれない。
「でもさ、冗談抜きで本当に私の家に来なよ。美味しいおつまみ作ってあげるし、何なら朝までずーっと、君の好きなことして遊んであげるから。……ね?」
カウンターの下で、姫野さんの細い足が、俺の足にすりすりと寄せられてくる。
いつもの冗談めかした軽い調子。だけど、その声のトーンは、これまでに聞いたことがないほど低く、甘く、そして逃げ道を塞ぐような重い執着に満ちていた。
(怖い、怖すぎる。この先輩、酔ってるフリして外堀を埋めにきてるタイプだ)
マキマさんは微笑みながら圧をかけてくるbotだし、レゼは無職になっても一緒に暮らそうと微笑むヤンデレだし、クァンシは外から爆破してくる武闘派だ。そして目の前の先輩は、アルコールの勢いを借りて既成事実を作ろうとしてくる肉食系。俺の周りの女性陣は、どうしてこうも極端なアプローチしかできないのだろうか。
「遠慮しておきます。俺、帰って洗濯しなきゃいけないんで」
「えー、洗濯なんて私の家でやればいいじゃん。そのまま私の家に衣食住すべて移しちゃえば、毎日私が洗ってあげるよ? 職場も一緒だし、毎日一緒に通勤できる。これって良い事しかなくない?」
「デジャヴ!! そのセリフ、どっかの上司からも全く同じトーンで言われました! 断ります。なんで俺の周りの女性陣は、どいつもこいつもすぐ一緒に暮らそうとするんですか? 流行りなんですかそれ。公安の福利厚生の一環か何かなんですか」
残念ながら、今の俺に「お姉さん系肉食獣」と化した先輩をいなすスキルは残されていない。二日酔いの頭でクァンシの朝食を食べたばかりの俺には、これ以上の精神的負荷は耐えられないのだ。
ここは三十六計逃げるにしかず。俺は隙を見て、机の上の伝票をひったくって会計に駆け込もうとした。
だが、気づいた時には遅かった。
「おっと」という短い声と共に、俺の右腕は姫野さんの両腕によってがっちりとホールドされていた。しかも、わざとなのか、彼女の柔らかい胸の感触が腕にダイレクトに伝わってくる。不可抗力だ。俺は悪くない。だが、脳が思考を停止しかける。
「だーめ。今日は絶対に逃がさないから。……私から離れたら、私、本気で怒っちゃうんだからね?」
赤くなった顔で、だけど絶対に離さないという驚くほどの強い力で腕を絡めてくる姫野さん。
デビルハンターの身体能力をこんなところで無駄遣いしないでほしい。
結局、俺の抵抗は虚しく潰え、居酒屋を出た後、俺は引っ張られるようにして姫野さんのマンションへと連行されることになったのだった。
***
「はい、特製おつまみ。君の大好きな餃子だよ」
姫野さんの部屋は、予想に反して(失礼だが)綺麗に片付けられていた。
通されたリビングのローテーブルに、手際よく作られた羽根付きの餃子が置かれる。香ばしい匂いが鼻をくすぐり、俺の胃袋が正直にグゥと鳴った。
「ありがとうございます。いただきます」
一口食べると、パリパリの羽根とジューシーな肉汁が口の中に広がって、普通にめちゃくちゃ美味しかった。あの激辛麻婆豆腐を汗ひとつかかずに食べていたマキマさんの食事風景に比べれば、目の前で缶ビールを開けている姫野さんの姿は、まだ人間味があって安心できる。
「美味しい?」
「はい、すごく美味しいです」
「よかった。……ねえ、やっぱり私のところで暮らしなよ」
またその話に戻るのか、と俺はフォーク(居酒屋の名残か、なぜかフォークで餃子を食べていた)を置いた。
「姫野さん、さっきも言いましたけど、俺みたいな普通の男にそこまで執着する理由が分からないんですよ。強いわけでもないし、顔だって普通ですし」
俺の言葉に、姫野さんは缶ビールをゴクゴクと飲み干すと、ふっと寂しげに笑った。その表情は、居酒屋でのあけすけな態度とは違って、どこか脆くて、壊れてしまいそうな繊細さがあった。
「理由、聞きたい?」
彼女はローテーブルを回って、俺のすぐ横へと滑り込んできた。クァンシの時もそうだったが、どうしてこうも女性陣はゼロ距離まで近づいてくるのだろうか。
「私のバディってさ、みんなすぐ死んじゃうんだよね。悪魔に食われて、バラバラになって、名前も残らないで消えていくの。……でもね、君といる時だけは、何だか不思議と死ぬ気がしないんだ」
姫野さんの手が、そっと俺の頬に触れた。その手は少し震えているように見えた。
「君からはね、すごく心地よくて、あったかい匂いがする。マキマさんみたいに冷たくなくて、ちゃんと生きてる人間の匂い。ずっと側にいて、私を安心させてくれる匂いがするんだよ。だから……他の女に取られるくらいなら、私がここに閉じ込めちゃいたいなって、本気で思っちゃうんだよね」
その言葉に含まれた感情の「重さ」に、俺は息を呑んだ。
彼女たちは、それぞれ理由は違えど、俺の中に何か「救い」のようなものを求めているのだろうか。マキマさんは匂い、レゼは楽しさ、クァンシは独占欲、そして姫野さんは安心。
美人で可愛くて、こんな風に迫られて嬉しくない男はいない。だが、彼女たちの背後にある感情は、あまりにも巨大で、あまりにも狂気に満ちていて、普通の人間である俺の許容量を遥かに超えている。
「……先輩、酔いすぎです」
「酔ってないよ。シラフだったら、こんな恥ずかしいこと言えないでしょ?」
姫野さんはクスッと笑うと、そのまま俺の胸へと頭を預けてきた。タバコと、ビールの泡と、彼女自身の甘い匂いが混ざり合って、俺の脳を麻痺させようとしてくる。
「ねえ、一回だけでいいから、私とヤってみる? そうしたら、もう他の女のところに行けなくなるような体にしてあげるけど」
耳元で囁かれたあまりにも過激な変態発言に、俺の心臓はドラムの乱れ打ちのように跳ね上がった。
からかっているのか、本気なのか。いや、この人の目は本気だ。ハイライトが消えかけている。ここで一歩でも対応を間違えれば、俺の人生の何かが修復不可能なレベルで変貌してしまう。
「……お断りします。俺、明日も早いんで、帰ります」
俺は決死の覚悟で姫野さんの体を優しく引き剥がし、立ち上がった。
「あーあ、フラれちゃった。相変わらずガードが固いなぁ、君は」
姫野さんは唇を尖らせて不満気な顔をしたが、それ以上は無理に追ってこなかった。ただ、玄関に向かう俺の背中に向かって、彼女は楽しそうに、だけど逃がさないという意志を込めて声をかけた。
「諦めないからね。次回のパトロールの時、覚悟しといてよ?」
***
自分のアパートに帰り着き、鍵を閉めてようやく大きなため息を吐き出した。
どっと押し寄せる疲労感。仕事で悪魔と戦うよりも、身内の女性陣から逃げ回る方が遥かに体力を消耗している気がする。
「はぁ……本当に、あいつら全員ヤバすぎるだろ……」
リビングに入り、ベッドに倒れ込もうとしたその時。
ふと、机の上に置いてあったはずの、見覚えのない「赤い手袋」が目に留まった。さらに、部屋の空気に微かに混ざる、ツンとした香水の匂い。
――これは、マキマさんの匂いだ。
スマホを見ると、マキマさんから一件のメッセージが届いていた。
『今日はお疲れ様。クァンシさんと仲良くお酒を飲んでいたみたいだね。今度、君の家で3人で、じっくりこれからの生活について話し合おうか(にっこりとした絵文字)』
俺は静かにスマホを画面伏せに置いた。
我が人生、百片の悔いあり。
明日、俺が五体満足で出勤できているかどうかは、もはや神の味噌汁……いや、味噌汁ではなく神のみぞ知る領域である。
俺は静かに毛布を頭から被り、現実逃避のために深い眠りへと落ちていくのだった。
(もうあんな重い出来事は起こらないで欲しいと、心の中で切に願いながら……)
アサとヨルが難しいです。