■005■
1983年12月25日 深夜
日本国××県鹿骨市興宮町
雛見沢村
「そもそも、最初の証言から変だったんだ」
走り出したライトバンを車で尾行していると、不意に小宮山が喋り始めた。
激しい風が横から叩きつけられ、わずかに蛇行する。
「最初の証言? 新聞配達員がですか?」
「お前、初めて柔道やったとき……相手の動きとか読めたか?」
「できたわけないでしょ、そんな事!
バンバン技をかけられて投げ飛ばされましたよ」
「出来るようになったのはいつぐらいからだ?」
「そりゃあ。きっつい練習を何年も積み重ねて、ある程度の鉄火場を体験して……でも、それが何か?」
懐からタバコを取り出そうとしたが、張込みの時に全部吸い尽くした事に気付き、手を止める。
代わりに禁煙パイポを取り出すと、物足りなさそうに口にした。
「なら──なんで新聞配達員の兄ちゃんは、あの現場を見て『大人数が暴れて荒らした』と思ったんだ?
単に『空き巣に入られた』と思ったんなら兎も角も」
「あ」
運転している熊谷が短く驚嘆する。
「よほどの場数を踏んでいるのか?
刑事でも暴力団員でもない人間が『室内で大人数が暴れて荒らす』なんて経験を積み重ねてる方がおかしい。
そんな奴は、朝の早くから新聞配達なんかしないよ。
ここで問題だ……じゃあ、あとはどんな可能性が考えられる?」
「……そうか。現場に居合わせて一部始終を見ていた」
「そう、多分それだ」
「あ、それで魅音ちゃんは移動手段を聞いてきたのか!」
大人数で移動する場合、車を使うほうが合理的だろう。
例えば、目の前を走っているライトバンの様な。
魅音に聞かれて気になった熊谷は、新聞配達員の移動手段を調べた。最初に駆けつけた警察官の話では「折りたたみ式の自転車」だったようである。
他にも聞いてみたが、やはり同様の証言を得る事ができた。
新聞配達に自転車を使うのは普通の事なので、今まで特に気にも留めていなかったが……
今になって考えると、新聞配達に折りたたみ式自転車というのは違和感がある。
「ライトバンに
冬の早朝なら人の目も少ないし、新聞配達という名目があるからな。
拉致したあとは自転車と配達員を残し、車で戻る。
配達員は何食わぬ顔で通報し、証言する」
「『大人数が暴れて部屋を荒らされています』……か。
思わず口に出ちゃったんでしょうね。
現場の様子を説明する時に」
「それこそ場数を踏んでなかったからだろうな。
そこが綻びだ」
禁煙パイポは本当に不味そうだった。
熊谷はハンドルを左手で操作しながら、懐に忍ばせたタバコを小宮山に差し出した。
「吸います?」
「あるなら最初から出せ、
後方に流されていく景色は、強風にあおられ歪んでいるようにも見えた。
ライトバンが左に曲がる。
この道は雛見沢村に行くための道だ。
こんな深夜に向かうような場所ではない。
「そういえば茂部氏にはスポンサーがいたんですよね」
速度を落とし、距離をとる。
ライトを絞り、最小限の光量で追尾する。
闇夜の中の車のライトは酷く目立つ。
警察車輌だけに搭載された秘密兵器だ。
相手のライトが目印になるので、少し離れても支障はない。
「魅音ちゃんにそう言いながら『変だな』とは思ったんですよ。
なんで小さなタバコ屋に出資者なんているんだろうって。
珍しい外国の輸入タバコを扱ってるから仲介業者はいても、わざわざ個人経営のタバコ屋に出資なんてしないでしょうし。
だからスポンサーって言葉に違和感ありまくりで」
小宮山は何も言わない。
タバコを吸っているからではないようだ。
「スポンサーは、いま尾行している赤帝新聞でしょ?」
「50点」
後輩の推理に厳しい判定が下された。
「政治的背景を考えろ。
赤帝新聞は左寄りの立場をとってる。
しかも『極』が付くレベルの奴だ。
困った事に何年か前のハイジャックとか銃撃事件に、えらく関心を持っている連中でな」
「何年か前のハイジャック事件……
ああ、ダッカ日航機ですか」
ダッカ日航機ハイジャック事件。
1977年9月に日本赤軍を名乗るグループがインド上空で日本航空のDC-8型機をハイジャックした事件である。
バングラデシュのダッカ国際空港に強制着陸させ、拘束されているメンバーの解放と身代金を要求した。
日本政府は、要求に応じて、拘束中のメンバーなど6人を解放し600万ドルの身代金を払った。
「ん? 銃撃事件ってなんですか?」
「イスラエルの空港で、日本人が銃を乱射して何人も殺された事件だよ」
テルアビブ空港乱射事件。
1972年5月30日、アラブ赤軍を名乗る日本人3名が起こしたテロ事件だ。
イスラエル・テルアビブのロッド国際空港(現ベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルを、AK47自動小銃と手榴弾で攻撃。一般旅行者ら100人を殺傷(うち死亡24人)。
1名が逮捕され、残りの2名は射殺された。
「へぇ。しかし、よくそんな情報が手に入りましたね。
ああいうのは巧妙に隠れて、なかなか尻尾をつかませないモンでしょ」
「大石さんの知り合いで、赤坂さんって人いたろ。
あの麻雀が異様に強かった人。
その赤坂さんが公安の人でな。
赤帝新聞が絡んでるって大石さんから聞いて、こっちに情報を流してくれたんだ」
今日1日で十数本目になるタバコに火をつける。
今までとは別の方向から風が吹く。
まるで左右から殴られるかのように風の塊が叩きつけられ、車体が大きくふらついた。
見れば先を走るライトバンのライトも左右に揺れている。
「さすがに冬の風は厳しいな」
「雛見沢は盆地ですからね。興宮より強いです」
風に翻弄されつつも、揺れていたライトが停まり──消えた。
熊谷もブレーキを踏み、ライトを完全に消す。
ダッシュボードから双眼鏡を取り出すと、小宮山はライトバンがいる辺りを覗き込む。
月の明かりと積もった雪にその光が反射して、思っている以上に夜は明るかった。
ライトバンから降りた男が、淡く光る白の中を歩いていく。
前後左右からの風が地表をなでて、白い粉雪が舞い上がる。
状況さえ違っていれば、実に神秘的な光景だったに違いない。
「ビンゴだ。所詮は素人か。焦りすぎたな」
双眼鏡を熊谷に手渡す。
車のエンジンを切り、期待の若手が数十メートル先に有るものを拡大された視線で追った。
今はもう主のいない家。
小さなタバコ屋。
茂部英太郎の家である。
■006■
「あった」
込み上げる下卑た笑いを抑える事ができない。
手にした1カートンのタバコは、一般それとは明らかに重さが違う。
赤帝新聞社の社員である
自分達の手で革命を起こし、世界を変えてやるのだと頑張ってきたが──彼は扇動者としても実行犯としても無能すぎたのである。
失敗と挫折を重ねるうちに、情熱だけが先走りして身体を壊した。
それでも加賀石は自分の青春を、人生を賭して目指した理想を捨てきる事はできなかった。
だから彼は支援する側に回った。
同志達に一つでも多くの武器を与える側に回ったのだ。
確かに彼は扇動者や実行犯としては無能者だったが、後方支援で才能が花開いた。
しかし、ハイジャックや誘拐事件が多発したため、これまで以上に公安の目が厳しくなってしまった。
どうしたものかと思案に暮れていた、そんなある日。
場末の酒場で茂部英太郎と出会った。
茂部は仕事が上手くいかず、かなり意気消沈していた。
自分の店を持つのが夢だと、見ず知らずの人間である加賀石の前で語ったりもした。
そこで加賀石は思いついた。
酔った茂部の頭に「如何に今の日本が駄目か」を巧みに刷り込みつつ、こう持ちかけた。
「店を持たせてあげよう。
だが、代わりに手伝って欲しい事がある」
仕入れが比較的簡単なタバコ屋を経営させ、指定されたタバコの中に分解した銃器や爆弾の部品を隠し、特定の客に渡す。
わざと田舎に店を作り、輸入タバコなど珍しい銘柄を売る事で「遠くから客が買いに来てもおかしくない」状況を作り出した。
それが加賀石の考えた同志への支援方法である。
実際、既に何人かの同志に物資を流す事に成功していた。
しかし。
「あの野郎、途中でビビリやがって」
カートンの紙袋をビリビリと破る。
偽装された箱の中には、小型の自動拳銃が分解された状態で収められていた。弾丸も弾倉1本分の数が同梱されている。
それを加賀石は黙々と組み立て始める。
もともと政治的思想に無関心だった茂部は、村人と打ち解ける事で「良心の呵責」を覚えたらしい。
加賀石による洗脳と呼ぶには烏滸がましい、即席的な思想の植付けが甘かったのもあるのだろう。
様子がおかしいので監視を付けてはいたのだが、それに気付いてさらに臆病風に吹かれたようだ。
ある日「もうこんな事は辞めたい」と言い出したのである。
このままだと警察に相談しかねない雰囲気だった。
だから……
「だから拉致した、か?」
弾込めと組立てが終了し、弾倉を収めた瞬間。
突然、背後から声をかけられた。
心臓が口から飛び出るのではないかと思うほど、胸の奥から驚きがこみ上げてくる。
銃の組み立てに意識を集中していたせいで、周囲に気を配っていなかった。
「だ、誰だ!?」
「誰だも何も警察だよ」
あまりにも陳腐な台詞に、小宮山がうんざりした口調で正直に言い返す。
熊谷と小宮山は茂部家の入り口に立っていた。
2人とも拳銃を抜いて構えている。
突然の来訪者の出現と『警察』という言葉に、加賀石は硬直してしまう。
「銃刀法違反の現行犯だな。
銃を捨てて両手を挙げろ!」
警察で制式採用されている
ぐう、と加賀石がうめく。
「茂部氏はどうした?
新聞社にでも監禁してるのかな?
それとも別の場所か?」
「お、俺を逮捕したところで何も変わらん!
同志が、か、必ず日本を変えてみせる!
こっこ、国家のい犬には俺達を……
おお俺達のりっりり、理想を止める事は、で、できん!」
質問に答えず、歯を鳴らしながらも啖呵をきる加賀石。
しかしそれも予想通りだったのか、小宮山の口元に皮肉な歪みが宿る。
「そりゃ立派だがね。
今頃、俺達の仲間である『国家のお犬サマ』が新聞社に踏み込んでるぞ」
「な!?」
「だから諦めて銃を捨てろ!」
小宮山の言葉を否定しようとするが、その言葉に含まれた『凄み』に口を動かす事ができない。
そこへすかさず熊谷が相手の戦意を喪失させるべく一歩踏み出した。
「夢見る権利は誰ににだってあるからな。
思想信条、理想理念や御題目、立派なのは構わないさ。
人に迷惑をかけない範囲でなら、な」
「ぐ……うぅ……」
小宮山も、銃を構えながら1歩前へ出る。
加賀石は2人に気圧され、半歩下がった。
夢想的で大言壮語を吐くくせに、1人では何もできず、大事なところで肝が小さくなる男。
この短いやり取りの間で、小宮山が加賀石に対して抱いた人間像である。2対1という状況と拳銃や権力をチラつかせれば根負けして折れると踏んでいた。
彼は数多くの犯罪者を相手に経験を積んでいる。
だからその『予想』には、ある程度の自信を持っていた。
「な、ぅっ……あ……な、な、な」
確かに彼が想定した人間像は的確だった。
しかし、いくら小宮山でもテロリストと対峙した経験はない。「腐っても鯛」という言葉があるように、加賀石がどれほど腐っていても、その身体には「反体制」の血が流れていたのである。
「な、な、ナメるな公僕ッ!!」
「!?」
撃鉄を起こしながら、加賀石は小型の自動拳銃を熊谷へと向ける。
「銃を下ろせ! スライドも引かないで撃てると思うのか、このド素人!」
すかさず小宮山が怒鳴りつけるが、加賀石は警告に従わない。
「ば、馬鹿だなぁ。
こっこの小型拳銃は、げげ撃鉄を起こすと、弾が薬室に送られるタイプだっ!
あ、あとはトリガーをひ、引くだけだ!」
そういうタイプかよ、と小宮山は口内だけで悪態を
東側で使用される護身用拳銃のモデルによっては、襲撃などに即応できるよう備えられている機構だと聞く。
革命思想に溺れた彼らが使用する武器なのだ、それを想定しなかったのは失策だった。
更に、この状況で熊谷が一番経験が浅い事を見抜き、彼に銃口を向けることで活路を見出そうとしているのであろう。
加賀石という男を読み違えた。
心の中で小宮山は大きく舌打ちする。
「そんな事で逃げれると思ってるのか」
と、再度の警告。
「この若い兄ちゃんを道連れにされてもいいのか」
と、窮鼠の脅迫。
「小宮山さん。撃ってくださいッ。
こんな奴を野放しには出来ませんよ!」
と、若者の蛮勇。
3方向から風が家を叩きつけ、
3つの銃口が交錯する。
家が軋む。
寒さが指先から体温を奪う。
なのに汗が噴き出して暖める。
無言が部屋を支配する。
風が唸る。
熊谷の銃口が揺れる。
電線が泣き叫ぶ。
トリガーにかけられた加賀石の指が痙攣しそうだ。
遠雷が聞こえる。
小宮山の神経が磨耗する。
沈黙が3つの指先にのしかかり、
今にも耐え切れず動いてしまいそうだ。
山を滑るように下る風が家を叩く。
風が強い。
窓を叩く。
風が強い。
ビリビリと音が。
風が強い。
風が
ガシャンと 窓が
割れる。
3人の指と意識が連動し、同時に動く。
火薬が炸裂する乾いた音も同時。
しかし重い破裂音は微妙にズレた。
爆発で急速に過熱され吐き出された弾丸は、冷たい空気を削り取る。
タバコの箱がいくつも粉砕されて舞い上がる。
そのうちのひとつが熊谷の左肩に突き刺さった。
灼熱の痛みが脳へと直に運ばれる。その痛みが筋肉を収縮させ、彼の指先をさらに動かした。
発砲音。白い煙。
火が入っていないストーブに命中。
加賀石が撃ち返す。ドアノブが砕ける。
熊谷が銃撃の反動で後ろへ倒れこむ。
小宮山は前へと歩を進め、銃撃のターゲットを分散させようと試みる。
加賀石は割れた窓へと走り出す。
しかし銃口はこちらへ向かって来る刑事へ向けたまま。
小宮山がすかさずトリガーを引く。
加賀石の脇腹をかすめるも、動きを止めるには至らない。
それでも身体に走った熱と痛みが、加賀石に反撃を実行させる。
銃口が向いた先も見ずに、デタラメの3発が放たれた。
ラジオと花瓶が砕け散る。
小宮山の顔をかすめた弾丸は、黄色にくすんだ眼鏡を弾き飛ばした。一瞬、脳が揺れる。
ぐう、という呻き声。小宮山の足が止まった。
その隙に、加賀石が割れた窓から外へと飛び出した。
「小宮山さん!」
「動けるなら追え!
野放しにはできないんだろうッ!?」
「ハイッ!」
ドアから熊谷が外へ出る。
小宮山はボヤけた視界と暗闇の中から、どうにか眼鏡を拾い上げる。弾丸の衝撃と床への落下によって、眼鏡はヒビ割れてしまっていた。
フレームは何とか無事なようだったので、とりあえず装着する。
「やれやれ」
亀裂の入った視界のまま外に出て、小宮山は溜息混じりに呟いた。
「どこの西部警察だ、ここは」
■007■
白い田んぼに3人分の足跡が点々と伸びている。
加賀石は必死に逃げた。車に乗る暇なんてなかったし、何より反対方向へと逃げてしまった。
雛見沢は田舎だが、かなり広い。
開けた場所のほとんどは田畑であり、今は深い雪に覆われてしまっていた。
その中を加賀石は逃げ回り、2人の刑事はそれを追っている。しかし互いにとってこの雪は酷く邪魔だった。
加えて、右から左から、前から後ろから吹きつける強風が3人を時々立ち止まらせる。
その風が絶えず運ぶ寒さが「体温」と「機敏さ」と「気力」を奪う。
逃走と追跡の速度が目に見えて遅くなってきた。
「もういい加減にしたらどうだ!
お前の銃は、そのサイズからして残り1発だろう!
それで何が出来る!」
いい加減この状況が嫌になってきた小宮山は、灰色の夜空の下で叫んだ。
広い広い真っ白な田んぼの真ん中で3人は立ち止まった。
荒い息は熱を失い、白く姿を変えて、すぐに掻き消える。
「このクソ寒い中で『理想』も『左右』もないだろう。
あったかい取調室で話を聞いてやるから、今日はこの辺にしておかないか?」
肩で息をしながら小宮山が提案する。
熊谷が傷口を抑えながら苦笑した。
ごおおおう、と。
相変わらず3人を風が襲う。
「そ、そんな……そんなちゃらんぽらんな姿勢だから!
に、日本は駄目になったのだ!」
寒さに身体を震わせながら、加賀石は拳銃を握り締める。
「……いや、俺もまた駄目だったようだ。
駄目になってしまった。だが……だがしかし。
最後まで国家権力と戦えた事を誇りに思う。
お前達には感謝するぞ」
握りこんだ拳銃を、ゆっくり、自分のこめかみへと向ける。
「なっ」
「馬鹿、よせ!」
風が渦を巻くように唸る。
「俺は最後の最後で!
昔からの夢だった『革命戦士』になれた!」
加賀石は笑っていた。
心は熱かった。
満足していた。
自分も戦う事ができたのだ、と。
そして、引き金を。
熊谷がやめろと叫ぶ。
小宮山が深く雪に埋もれた脚を引き抜き走り出す。
風が
これまでにない強烈な突風が
2人の刑事の間を縫うように
4方向から同時に襲い掛かった。
「あ?」
加賀石の体が、ふわりと浮いた。
そこだけ時間が切り取られたかのような静寂が通過する。
小宮山と加賀石の目が合った。
しかし、それも一瞬。
爆発にも似た衝撃と共に、風が真上へと吹き上がる。
加賀石の身体を、周囲の雪と一緒に巻き込んで。
それはまるで風の柱。
この世の終わりのような轟音をBGMに、風は灰色の雲を突き破り──
加賀石は天へと消えた。
音が止む。
静寂が戻る。
加賀石がいた場所に、ぽっかりと穴が開いていた。
いや、そこだけ雪が無くなっているのだ。
突風の余波で倒された2人は、空へと吹き飛ばされていく加賀石を見送るしかなかった。
その加賀石の姿はもう見えない。
呆然と、ただただ空を見上げるしかなかった。
「熊谷」
「なんです」
見上げながら名を呼び、見上げながら聞き返す。
「クリスマスの奇跡かな」
「知りませんよ」
雲に開いた穴も、次第に風に流され、崩れ、消えていった。
2人はしばらく空を見上げていたが。
──ついに加賀石は落ちてこなかった。
■008■
「上昇気流?」
入江診療所のベッドの上で、熊谷は耳にした単語をそのまま口にした。
「ええ。小宮山さんと熊谷さんの話を聞く限り、そうなんじゃないかと」
診療所の所長である入江は、検査器具を点検しながら口にする。
簡単な手術を終えて検査入院している熊谷が「夢見たいな話」として入江に先日の事を話したのである。
それを見舞いに来ていた小宮山が、補足する形で全容を伝えたのだ。熊谷の説明だけでは「ビュー!」とか「ドーン!」という擬音ばかりで、まったく説明になっていなかったからだが。
ちなみに診療所の別室では、茂部英太郎が横になって寝ている。赤帝新聞社に監禁されていたところを、警察が発見・保護したのである。
ひどい暴行を受けていたらしいので、治療のためにここへ運ばれたのだ。
赤帝新聞社の社員を拉致・監禁の容疑で逮捕。
背後にいるテロ組織の情報や武器の購入者などのは、大石の判断で赤坂の──公安の下へと流された。
こうして雛見沢で発生した「鬼隠し未遂事件」は一応の終結を見せた。
ある謎を除いて。
「上昇気流って、周りよりも空気が軽くなるので起きる現象じゃないんですか?」
「うーん、それもそうなんですが。
大きく分けて4つありまして」
困ったような表情を浮かべて入江が説明する。
「まず『地上の一部が暖められる』というもの。
地上の一部分だけが、何らかの方法で暖められると、その部分だけがまわりの空気より軽くなり上昇します。
いま小宮山さんが仰った現象ですね」
検査器具から手を離すと、入江は作業を中断した。
説明に専念するためだろう。
「次に『暖かい空気の塊と冷たい空気の塊がぶつかり合う』というもの。
暖かい空気の塊の方が、冷たい空気の塊よりも軽いので、暖かい空気は冷たい空気の境を沿うように上昇します。
天気予報なんかでよく言われる『前線』というのが、この境目です」
「へぇ」
「そして『どこかで下降気流が発生している』場合。
地上のどこかで『空気が下がっていく流れ』が起きると、別の場所で上昇気流が起きます。
その『下がる流れ』を下降気流と呼ぶんですが……まぁ、もっとも下降気流や上昇気流が起きやすい場所って大体は決まってるんですけどね。
特に夏場には赤道北側の太平洋上に上昇気流が起きやすいんですけど、これが台風発生の原因になっています」
小宮山が病室で煙草を吸おうとする。
それを奪い取るように没収し、入江は説明を続けた。
「そして最後は『空気が山に沿って上昇する』。
山など高くなっているところに風が吹くと、空気は山に沿って上昇します。
山頂に雲がかかるのは、この上昇気流が原因なんですよ」
「成る程……しかし加賀石が、その、飛んでいったのは、村のほぼ中央に位置する田んぼです。
考えられる可能性としては4番目が高そうですが……確かに風はかなり強かったですけども」
「なら5番目の原因があるとすれば?」
「え?」
「昨日は周囲の山々から風が吹き降ろされ、あらゆる方向から強い風が吹いていました。
前後左右から冷たい突風が。では、この風がまったく同時に吹いて衝突したら?」
2人の刑事の目が大きく見開かれ、丸くなる。
「互いの風が山と同じ様な効果を持って、上へと上昇するでしょうね」
「し、しかし!
それだけで人間一人が吹き飛ばされたりするんですか!?」
熊谷は肩の傷の痛みを感じながらも、そう叫ばずにはいられなかった。
「冬の冷たい風です。雪を運ぶ風ですから、当然その温度もマイナスに近かったはずでしょう。
それが同時にぶつかった。空気同士が冷却されて、さらに温度が下がる。
0℃以下に。
さて。その凍る空気の中にひとつ『暖かい』物体があります」
「加賀石か……!」
「風の強さから考えれば彼の体重なんて紙風船みたいなものでしょう。
温度差による上昇も手伝って、物凄いスピードで風に運ばれていったはずです。
弾丸になって、拳銃で撃たれて飛んでいったようなものですかね」
詳細は知らないはずだが、入江の例えは皮肉なものであった。
加賀石は拳銃のために身を滅ぼしたようなものだから。
「きっと上昇中に肺の中は凍りつき、一瞬で窒息・絶命したはずですよ。
落ちてこなかったところを見ると、おそらくジェット気流にでも乗ったんじゃないですかね?
しばしばこういう上昇気流は乱気流などになって飛行機に襲い掛かるらしいですから、そこまで到達していても不思議じゃないでしょう」
台風も発生できるようなレベルで同じことが起れば、戦艦だって飛ぶはずですよ──と入江。
「加賀石は……どうなるんでしょう。
いつ落ちてくるんですか……?」
「ジェット気流に乗ってしまったとしたら、簡単には落ちてこないでしょうねぇ。
それこそ数年、10年20年。いや、下手をしたら30年は空を流され続ける事になるかも」
「30年……」
四半世紀以上もの間、雲の上を流れ、さまよい続ける光景。
もしかしたら加賀石のように、大昔から空を漂流している物体が幾つもあるかもしれない。
それを想像し、熊谷は震えた。
冬の寒さのせいではないだろう。
「しかし、そうするとすごい確率だな。
まさにクリスマスの奇跡というやつか」
小宮山が新しい眼鏡を外し、嘆息しながらレンズを拭く。
熊谷の具合を診ていた入江が聴診器を外し、小宮山の方を見た。
「果してそうですかね?」
「え?」
「せっかく平和になった雛見沢に、外から災いを持ち込んだ人間に奇跡なんて起こると思いますか?」
「──先生、まさか」
「これこそ本当の『オヤシロサマの祟り』……鬼隠しって奴じゃないですかね」
入江は器具を片付け終わると「じゃあ、メリークリスマス」と挨拶して部屋から出て行った。
外は未だに強い風が吹いている。
白い世界の中では、子供達が楽しそうに雪合戦をしている。
診療所の中ではジングルベルが院内放送でかけられている。
2人は互いの顔を見合わせると、苦笑いを浮かべながら拳を突き合わせ、
「メリークリスマス」
と、同時に口にした。
まだまだ寒くなりそうである。
(了)