届かない星に手を伸ばし、僕は傷つくことを選んだ 作:加賀崎 美咲
あれから、1年の時間が経った。
桜もつぼみを膨らませようとする3月の終わり。暖かくなりかけた陽光に照らされながら、僕はどういった訳か月ノ森女学院の校門に立っている。
桜の木の香りを乗せた風がときどき舞って、僕の側を通り抜ける。
男の子の僕が女子校の通用門の前に突っ立ていたら通報されそうなものだが、今日は卒業式という事もあって父兄らしい人達が何人もいる。おかげさまで僕は周囲から時々見られるだけで済んでいた。
僕の横を通り過ぎていく人々。周りを見る余裕のある人は僕の顔を見る度に、特にドラマや映画が好きそうな人種は驚いた顔をする。時々、女学生の集団からもしかしてという声が聞こえるが、聞こえないふりをする。
いつまでこの場にいなきゃいけないんだと考えていると、待ち合わせ相手がやって来た。何度も遠巻きに見られ、げっそりした気持ちの僕を見つけて、みなみさんは陽気な声で笑っている。
「あらヒカル。ずいぶんと待たせちゃったわね?」
「そう思っているのなら、少しは悪びれた顔をしてください」
待ち合わせをしていたみなみさんが、見慣れた余所行きの顔で僕に相対する。
「……なんでサングラスとかの変装をするなって言ったんですか? おかげで、すれ違う人みんなに見られて……」
「だって睦の晴れの日なのに、あなたのいつもの不審者スタイルで来られたら主役よりも目立っちゃうじゃない」
「そうでなくとも目立ってますよ……」
大女優の森みなみと新進気鋭の若手俳優の紺野ヒカルの組み合わせは、それなりに目立ってしまうようで。どういった関係なのだろうかと楽しそうに邪推する声があちらこちらから聞こえる。
みなみさんはどこ吹く風という様子で周囲の目にも気後れした様子は無く、恥ずかしくて仕方がない僕は、彼女との芸歴の差を感じてしまうばかりだ。
「……本当に来たんだ。みなみちゃんも、ヒカルも……」
待ち合わせ場所からてこでも動こうとしないみなみさんとしばらく話していると、制服に袖を通した睦が僕とみなみさんを見つけ目を丸くしていた。みなみさんは腕を大きく広げて、嬉しそうに娘を抱きしめて。
「絶対行くって約束したじゃない? 今日の収録は断ってきちゃった! ……睦ちゃんのおめでたい日だもの。たーくんはロケの仕事で来られなかったけれど、その代わりほら……、ヒカルは連れてきたでしょう?」
得意げに鼻を鳴らすみなみさんを怪訝そうな顔で見ていた睦は、やがてゆっくりと目線を僕に向けた。その視線に含んだ色は複雑で、彼女にどう求められているか久しぶりに分からなかった。
「中等部卒業おめでとう、睦」
「……迷惑じゃなかった?」
声色は少し震えている。困った顔をした睦が不安を抱いてしまわぬよう、気にしないで欲しいと願いを込めて笑む。
「迷惑じゃないよ。家族みたいなものでしょ?」
「家族みたいなものなんて……、イイコト言うじゃないヒカル!」
「うわっ!」
心底嬉しそうなみなみさんが僕の髪を乱暴に撫でつける。あふれ出る喜びで背中を叩かれるのは結構痛い。みなみさんに良いようにされて、本気で困っていると小さく笑う声があった。
小さく肩を震わせ、睦は笑っていた。
「……そんな笑うことないだろ」
「だって、可笑しくって……」
睦に笑われたことが気恥ずかしく、乱れた髪を直しながら唇を尖らせ抗議しても睦は小さく肩を震わせ続けている。バツが悪くなって顔を逸らすと、切なそうな顔をしたみなみさんが睦を見ている。睦は顔を下げたままで、みなみさんを見ていない。その顔を見ているのは僕しかいなかった。
どうしてそんな表情をするんだ。
演技じゃないみなみさんの表情の意味が読み解けなくて、僕は少し面食らう。けれど、瞬きをする間に、みなみさんの表情は元通りだった。
「ヒカルどうかしたの?」
いつもの演技で作った笑顔のみなみさんは、何も無かったように僕に話しかける。その急な変化に、僕は置いていかれる。
「え、いや……、何でもないです」
「あら、そう? ならいいわ。あら! もうすぐ卒業式が始まるわ。睦ちゃんも急ぎなさい?」
「……うん」
みなみさんに急かされて、名残惜しそうな足取りで睦は校舎の方へ駆けていった。
過ぎ去っていく睦の後ろ姿を見つめながら、みなみさんがゆっくりと口を開いた。
「……私、ヒカルには感謝しているのよ?」
「どうしたんですか唐突に?」
あまりにも突拍子もないから、何を言いたいのかが分からない。どうしたんだと首を傾げているとみなみさんは感慨深そうに大きく息を吐いた。
「本当は今日、来るつもりじゃなかったわ」
「……え?」
「ドラマの収録を断ったのは本当。でも、簡単に断ってもいい仕事じゃなかった」
「なら、……どうして?」
心変わりをしたんですか? 口にしようとして、僕は言葉を飲み込んだ。言うべきじゃないと思った。みなみさんの表情は、告白をするためのものだ。愛の告白ではなく、罪のそれを。僕は聞き手に徹するべきだ。
「怖かったの。睦ちゃんが大きくなっていくのを知ることが」
みなみさんの言葉に偽りはなかった。それが余計に僕を混乱させる。怖い? 睦が?
どうしてみなみさんが睦を恐れているのか、僕には理解できないことだった。
「良く分からないって顔ね?」
脱力した表情でみなみさんが苦笑する。できの悪い生徒と対面した教師のように、みなみさんが教えてくれる。
「睦ちゃんはね、ヒカルと一緒にいる時は普通なのよ」
「睦が?」
睦は口数は少ないけれど、優しい僕の幼なじみだ。そんな彼女を普通じゃないなんて思ったことはない。けれど、みなみさんの思う睦の姿はきっと、僕の睦とは違うのだろう。
「ヒカルは知らなくて良いの。ただ、今まで通り睦と一緒にいてくれたら、私は嬉しいわ。そしたら森みなみは、『普通』の若葉睦のお母さんでいられるの。強制は出来ない。嫌だったらいつでも睦から離れてしまえば良いわ」
「そんなこと、……しませんよ」
「なら良し。いっそ、そのままお嫁にもらってもいいのよ?」
途端にみなみさんは僕をからかって遊ぶ、普段通りの口調に戻った。一体、今の会話は何だったのか。みなみさんの真意は読み取れない。
「お嫁にって……、母親がそんな軽々しく言わないでくださいよ」
子供をまるで所有物のように扱う口ぶりが嫌だった。自分の子供なら、もっと大事にして欲しい。
「軽々しくなんかないわ。だって普通の母親のなのよ? 自分の子供の幸せが一番に決まっているじゃない?」
脳裏を過ったのはあの男と、叔母と、血の繋がらない弟と、……そして若い姿から変わらない母の顔だった。
「……子供の幸せが一番」
なんて素敵な言葉だ。オーロラのような触れられない輝きは僕には眩しくて、辛くなって目を伏せてしまった。
「……まぁ、睦ちゃんはまだ15歳だし、あなたも17なんだから、あと一年はゆっくりと考えてちょうだい? それまではいつも通り、過ごしていたらいいわ」
「いつも通りに、……過ごして」
桜の香りのする風が吹いて、僕は顔をあげた。
もうすぐ始まる卒業式に間に合うように駆けだしていく月ノ森の生徒たち。気がついたら、生徒たちの後ろ姿を目で追っていた。探して、探して、また次へ。
けれど、その後ろ姿の中に、祥子の姿はなかった。
もう既に、『いつも通り』の世界は崩れ去っていた。それでも僕たちは、過ぎ去った時間の中にいつまでも縋っている。
●
季節は少しだけ過ぎて、夏が少しだけ顔を出し始めた六月。
暖かくなってきて、薄手の上着で十分な夜の街を僕は歩いている。
居酒屋の並ぶ繁華街を通り過ぎ、たどり着いたのは赤羽警察署。
「お話は聞いています。こちらに署名をお願いします」
顔見知りとなった婦警さんに言われ、身元引受人の書類に僕の名前を記入する。
何度目か分からない手続きを終え、奥の方から清告さんが歩いてくる。
清告さんを睨む婦警さんから清告さんを預かる。
警察署を出る時、「あんな子供に迎えに来させるなんて一体何を考えて……」と吐き捨てるように言う婦警さんの言葉が聞こえたのか、清告さんは一度肩を大きく震えさせた。
「うぅ……」
けれど、彼は何かを言うのでもなく、とぼとぼと振り返りもせず歩き出した。
祥子のアパートに向かいながら、僕は口を開いた。
「……祥子はまだアルバイトが終われなかったので僕が来ました」
歩きながらそう伝える。別に返事を期待した訳ではなく、ただ事実を言ったまでだ。この人にどう接すれば良いのか、未だに決めあぐねている。
この人だって、瑞穂さんを失って、仕事で失敗をしている可哀想な人なんだ。
「……祥子はちゃんと働いてて偉いな……。俺なんかとは違って……」
「……っ! 誰のせいでこんな時間まで祥子が働いていると思って!」
清告さんの呟きに、頭に血が上ったことを自覚する。だらしなくよれたシャツを掴みあげると、清告さんは簡単なくらいによろけた。膝をついて、僕を見上げる清告さんの顔は精気に欠けていて、こんな人のために祥子があんな思いをしているのかと思うと余計に腹が立ってくる。
「あなたが失敗して、自暴自棄になるのは勝手だ。……でも、祥子は違うだろ。瑞穂さんはもういなくても、祥子はまだ……、まだ……」
「瑞穂は……、優しかったもんな……」
清告さんは懐かしそうな顔で、虚空を見つめて動かない。瑞穂さんのことを思い出すと僕も苦しい。あの無償の暖かさをくれた人がもういない事実を、否定できなくなる。
まるで自傷だ。
「過ぎた過去ばかり見て……。今の祥子はどうするんですか。……こんな生活、いつまでも続けられるはずがないでしょ」
「……でも、俺はもう頑張れないんだ」
襟を掴む両手が強ばる。無責任な清告さんはただ、現状を嘆くばかりで、
「あんたが頑張らないと、祥子がこのままなんだよ?」
「なら、ヒカルくんが祥子を貰っていってくれ……。もう俺は、一人になりたいんだ……。一人にしてくれ……」
「あんたって人は……」
掴んでいた手を乱暴に突き放し、縮こまって動かない清告さんを見下す。
「僕と一緒になったって……、それで祥子が幸せになると思ってるんですか?」
けれど、清告さんは何も言ってくれない。誰かの吐瀉物が酷く臭かった。