三月中旬。
プロムの準備は、順調そのものに見えた。
装飾班はデザインを仕上げ、音響も試験段階に入っている。
玲は生徒会室と体育館を往復しながら、
忙しさの中にも確かな手応えを感じていた。
「これなら、予定通り開催できそうですね」
美羽の言葉に、玲は小さく頷いた。
「うん。少しずつだけど、“形”になってきたね」
笑い合う声が廊下に響く。
その響きの奥に、玲はほんのわずかなざらつきを感じた。
――何か、見落としている気がする。
でも、その正体を確かめる暇もないまま、
次の打ち合わせの時間が来る。
その日の放課後、生徒会室に戻った玲の机の上には、
一通の封筒が置かれていた。
差出人は――PTA。
生徒会室に、静寂が降りていた。
蛍光灯の白が、紙の上でやけに冷たく光っている。
机の上には、PTAから届いた「意見書」。
そこには赤い印字で《再検討を要す》の文字が並んでいた。
玲はその紙を見つめながら、深く息を吐いた。
「ここまで順調だったのに……」
「私、一人じゃ、何もできない」
言葉が、空気に溶けていく。
窓の外では、春を待つ風がカーテンを揺らしていた。
紙の端が、ふっと浮く。まるで彼女の迷いを映すように。
「……どうして、こんなに悔しいんだろう」
「“正しい”ことを言われてるだけなのに」
静かな独白。
その声は震えていたが、涙はこぼれなかった。
ただ、心の奥で音を立てて崩れていくものがある。
――カチ、カチ
時計の針の音が、やけに大きく響いた。
それが唯一の音だった。
「……もう、ダメかもしれない」
その瞬間、扉がスッと音を立てて開いた。
顔を上げると、そこに立っていたのは――瑠美、大磯、美羽。
「玲さん……」
瑠美が静かに声をかける。
玲は驚いたように立ち上がり、言葉を探した。
「どうして、ここに……」
「様子を見に来ました」瑠美が答える。
「顔に書いてあります。全部」
大磯が腕を組んで、少し困ったように笑った。
「無理してんの、バレバレだぞ」
美羽は一歩前へ出て、机の上の紙を見る。
「……PTA、ですか?」
玲は小さく頷いた。
「“プロムは今の時代に合わない”って。
“華美すぎる”“誤解を招く可能性がある”……そう言われました」
その言葉のひとつひとつが、氷のように落ちる。
空気が静まり、誰も言葉を挟めなかった。
「全部、正しいんです。
でも、“正しい”のに、どうしてこんなに苦しいんでしょう」
玲の声が震える。
「何が間違いで、何が正しいのか……もう分からないんです」
沈黙。
長い沈黙のあと、瑠美が小さく息を吸った。
「玲さん」
「……はい」
「私、思うんです。強い人って、泣かない人じゃない」
玲が顔を上げる。
瑠美はそのまま、まっすぐ見つめながら言った。
「私は」
玲が目を瞬かせる。
大磯が続く。
「俺は」
美羽が小さく頷く。
「私も」
三人は、互いを見てうなずき合う。
そして、言葉を重ねた。
「あなたを」
「お前を」
「玲さんを」
ほんの一拍の間があって、三人の声がひとつに重なった。
「『助けたいと思ってる』」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
蛍光灯の白が、ゆっくりとやわらかな橙に変わる。
玲の瞳が大きく揺れ、涙が一粒、光の中に落ちた。
「……ずるいです、みんな」
「そんなこと言われたら、泣くしかないじゃないですか」
声が震えて、笑いに変わる。
その笑顔は、ほんの少し前の自分とは違っていた。
美羽が静かに言う。
「泣いてもいいですよ。泣きながら立て直せば」
大磯が続けた。
「問題は山ほどある。でも、山は登るためにあるだろ」
瑠美が微笑む。
「私たちは、玲さんの隣で登ります」
玲は、涙を拭いながら笑った。
「……ありがとう」
机の上の書類を束ね、姿勢を正す。
「もう一度やります。みんなで、もう一度」
その声には、迷いがなかった。
窓の外から射し込む光が、彼女の背中を照らす。
それは、夜明けのようにまぶしい光だった。
――奉仕部の言葉は、確かに受け継がれていた。
翌日。職員会議室。
玲たちは八幡・雪乃・結衣の前に立っていた。
「PTAからの反対理由、整理しました」
玲は資料を広げる。
「“華美な演出の懸念”“安全対策の不透明さ”
“保護者の理解不足”」
「全部、私たちの責任です」
八幡が腕を組み、短くうなずく。
「……よく分析したな」
雪乃が資料に目を通しながら言う。
「結論としては、誤解が大きいわね」
「”プロム”の言葉が先行している」
「言葉のイメージだけで反発されるの、昔もあったよね」
結衣の声に八幡が視線を向ける。
「……ああ。“ダミープロム”のときか」
雪乃も静かに頷く。
「そうね。あの頃、私たちは本物を守るために“仮の形”を作った」
「でもさ、あのときは……まだ私たち、怖かったんだと思う」
結衣が少し笑う。
「正面から言う勇気、なかったから」
玲がじっと彼らを見つめていた。
八幡は彼女の視線に気づき、ゆっくりと続ける。
「昔は、影でやるしかなかった。
“通らない本音”を守るために、裏で形を作る――
あれが、当時の俺たちなりの答えだった」
雪乃が静かに補足する。
「でも今は違うわ。私たちはもう、隠れる必要がない」
「そう。あのとき遠回りした分だけ、今はまっすぐ進める」
結衣の声に、玲の目が揺れた。
八幡が資料の束を軽く叩いた。
「だから今回は、正面から行こう。
“ダミー”じゃなく、“本物の説得”で通す」
「本物の……説得」
玲が小さく繰り返す。
「見せよう。
お前らが何を大事にして、何を伝えたいのか。
“形”じゃなく、“想い”で示せばいい」
雪乃が頷き、柔らかく笑う。
「私たちが保証するわ」
「あのときの“影”のやり方じゃなくて、
”光”の中でやる奉仕を」
結衣も笑顔で続ける。
「“ダミー”を作らなくても、本気はちゃんと伝わるし!」
玲は目を伏せ、深く息を吸った。
「……はい。伝えます。正面から、ちゃんと」
⸻
数日後。PTA説明会。
会場のスクリーンに映し出されたのは、
生徒たちが飾り付けをする姿、練習を重ねる笑顔。
玲は壇上に立ち、マイクを握る。
「私たちが目指しているのは、
“豪華な式”ではありません。
“ありがとう”を伝えるための、一夜です」
保護者席に静けさが走る。
後方で八幡たちは見守っていた。
「これは、生徒だけの行事ではありません。
私たちが育ててもらった“日々”の、集大成です」
玲の言葉が会場に落ちていく。
硬かった表情が、少しずつほどけていく。
発表が終わると、PTA会長が立ち上がった。
「……いい行事に、なりそうですね」
八幡が腕を組みながら呟く。
「通ったな」
雪乃が微笑む。
「ええ。“レプリカ”ではなく、“本物”の答えを出せたわ」
結衣が涙ぐんで笑った。
「ゆきのんたち、ホントに大人になったね」
「お前もな」八幡が小さく返す。
玲はステージ上で深く一礼した。
ライトの下、彼女の頬に柔らかな光が宿る。
⸻
放課後。
夕焼けの廊下を歩きながら、玲は呟いた。
「……“ダミー”じゃなくても、届くんですね」
八幡が横で応える。
「ああ。ちゃんと顔を上げて言えば、届くもんだ」
玲が小さく笑う。
「先生たちは、昔からそうやって歩いてきたんですね」
「いや。昔は――目、逸らしてたよ」
「でも今は違う」
「そうだな。今はもう、ちゃんと見てる」
玲は立ち止まり、春の光を仰ぐ。
「私も、見えるようになりたいです。
まぶしくても、ちゃんと」
「なら――そのまま前を見てりゃいい」
八幡がぼそりと呟く。
夕陽が傾き、影が長く伸びていく。
それは、過去と現在を繋ぐ一本の道のようだった。
――“ダミープロム”から始まった想いは、
いま確かに“本物”へと届いた。
だが、その「本物」を形にするには、
まだいくつもの壁が残っていた。
装飾、音響、照明、衣装、警備。
当日動ける人数を算出した瞬間、玲の表情が曇る。
「……人が、足りません」
「あと十人はいないと、全体が回りません」
部室に沈黙が落ちた。
美羽が資料を見つめ、瑠美が唇を噛む。
大磯も腕を組んで目を閉じる。
その静寂を破ったのは、八幡の声だった。
「……なるほどな」
「だったら――俺たちに任せろ」
玲が顔を上げる。
八幡は窓の外の夕陽を見つめたまま、低く言い切った。
「何とかしてやる」
その言葉が、春の光よりもまぶしく響いた。
次回最終話です。
最後までよろしくお願いします