暗く、暗く。闇よりも混沌とした暗闇の中、ドアがあった。
一つ。一つ。また一つ。目を配って確認すればするほど、ドアはまた一つと増えていく。
いつからか、眠っている最中、こんな夢をよく見てきた。起きれば記憶に蓋されたように忘れる夢を。
この黒い世界は一体いつから自分を見つめるようになったのだろう。無言で見つめられて、まるで──色彩の集合のようで、
「────ッ!!」
理解した途端、黒は弾け、無数の色となって辺りを飛び交った。どこまでも続く地平線の存在しない世界を、──夢の中を極才色が駆け巡り、ドアを彩りで破壊。
『目覚めろ』
破壊。崩壊。全壊。破壊の限りに色が悲鳴をあげて砕け散り、視界一面が真っ白な生地へと整頓された世界。そこに色彩は凝縮される。寄せ集まり、密集し、彩りで満ち溢れたドアを究極の一として目の前に現れた。
ただ一つの黒。
──見方によれば、これはさまざまな色の集合体だ。
「────」
白い世界。見方によれば、ここは白い箱だ。
閉じ込めるための白い箱。そこから今出られる。──チャンスが、
『さぁ、夢を叶えるんだ』
ドアノブに手がかかり、金具が外れる。
その扉の中にいたのは──
*
*
「──っ」
──目覚めた。
息苦しさが嘘のように消え、痛いと諦めに満ちていた頭の中は靄がかかっているように曖昧だ。ドアを開けて、それから何が起こったのか。その記憶すら、意図的に目隠しされたように不鮮明。
しかし、道のわからない枝分かれした交差点に立たされてなお、見透には確信めいたものが蠢いていた。
──今ならなんでもできる。そんな荒唐無稽な開放感が。
鼻から空気を吸い、吐く。当たり前の動作が、今なお可能となっている。なぜだ。
なぜ。わけ。理由。全てが不鮮明。まるで現実と夢の境で彷徨い、夢遊しているような感覚だ。
「あ、れ」
生きている?
死んでいる?
手を動かす。動く。ついさっきなくなってしまった手のはずだ。
それに、鈍くなった下半身の感覚。先を失い、熱で隔たれた線の向こうで焼却された感覚も復活を遂げている。
なぜだかわからない。けれど、説明がつかないのは、何も寝ているときに見る夢と同じじゃないか。こうして生きているのは夢で、半分になった自分の脳ががむしゃらに現実に縋り付いて生まれた須臾を引き延ばしたからではないか。
もしかしたら、死んだのも夢で、起きたら保健室で目を覚ますかもしれないが、
「今は、どうでもいい」
どうでもいい。
これが夢なら、全力で絶やさないまでだ。
「とりあえずっ」
瞬き、見透は空から目を背けたのと同時に足を上げて、振り落とす。視界が縦に伸びるまま、上体が足の勢いに引き連ねて起き上がるほど、今の体はとても軽い。
「俺の夢の中に、悪魔はいらない」
「貴様……なぜ生きているッ」
背後に──いや、今はもう向いているから正面。感情の伝わらない大きな瞳が、今はまさに驚愕といった風に見て取れる色を宿した。
まぁ当然だろう。なんて言ったってぶつ切りされたにも関わらず、この身は一瞬でくっつき、食ったはずの手も今はあるべき場所に落ち着いているのだから辻褄が合わない。そう、文字通り一瞬だ。
「……ククッ。そうか、貴様は生き物として欠陥だったか。死を受け入れることすらできぬとは……夢に縋り、さながら夢の悪魔にでもなったつもりか?」
「…………」
「ハッ、現実に抗えぬ弱者ほど、夢を肥大させて怪物に成り果てる。惨めよなぁ……」
「さっきから」
鉤爪で血ぬれの大顎を撫で、カタカタと鎧の軋む耳障りな音を見透が止めた。
「さっきから言わせておけば欠陥だの、現実逃避だの、悪魔だの……怖い? 勝手に決めるなよ。──俺の心は」
漠然とした思い。それは言葉にするたびに行き先が決定づけられ、見透は伸ばした左手で自身の心を、──夢を、
「──俺が一番わかってる」
──掴んだ。
空を掴むように差し出された見透の手のひらに、熱が集っていく。輪郭のなかったものは震える光となり、やがて明瞭な球体へと変貌を遂げた。
「ふん、戯言をッ」
真に迫った表情で一人呟く見透を鼻で笑い飛ばす女王。語尾を強める女王はおもむろに腕を差し向け、瞬間──大気が破裂した。
連続して大気が断裂し、王女の腕から放たれたのは人差し指ほどの弾丸──毒針。
空間を一直線に穿つ先に立つ、標的となった。
「──セット」
叶を庇ったとき同様、勝ち余裕に飛び込む毒針によって撃たれ、鮮血が舞う。
ついで、痛みに膝を地面につけ、立ち所に病魔に侵され夢は閉ざされる。それが本来起こり得た結末だったのだろう。
──快音。
それは肉を破裂する音ではなく、金属が歓声を上げるような音が残響した。
心臓を狙った弾は狙いを失い、どこかへとはねる。
なぜ、弾かれたか。それは、
「俺は無敵のデビルハンター」
骨を、肉を乗り越え、心臓を守るように出現した斜めがけのものによって弾かれたからだ。
胸元に装着されたのは──ベルトだ。
黒を基調としたボディは、なだらかな曲線を描きながら肩から腰へと襷のように走り、人体との一体感を醸し出す。いや、一体だ。
動揺が走り、剣呑な雰囲気を見せる王妃はるか前で、見透は左手に握られた球をぽっかりと開いたベルトの中央へと運び、埋め込んだ。
「──っ」
途端、静かに叩く心臓が唸り声をあげ、全身の血が波打つ。湧き出す情動を一つたりとも見透はこぼさず、大きく吐息。
体を巡り続ける血が最高潮へと到達。息苦しく、喉が焼けたように擦れていくのを実感しながらも、見透は右手で胸の装置の輪郭を確かめるよう撫ぜ、引き金を、
『さあ、夢を叶えるんだ』
──引いた。
IMPACT──!!
『目覚めろ……』体を突き抜ける血液が、『目覚めろぉ……』エネルギーが『メツァメロォ……』ベルトへと押し流される。『メツァメロ……』
繰り返される、促しの合図。強制力に満ちた文言と高まる意識とは裏腹に、この体の形が鮮明から境が解け、ぼやけていく。
存在が消える。その一歩手前、見透は口元に残ったまま凝固していない自分の血を拭い、瞼を開けた。
ただ一つの目的を、その目に宿して。
「さあ、やろうか」
存在を示す。
夢を叶えて、
「──変身ッ!」
自分を変えるのだと。
左指を弾き、心の炉に火を焚べる。乾いた音は崩壊した街に響き、変換点を知らしめるかのようだ。
ベルトへと翳される左手。鼓動と共に発光する球体へと近づき、突き立てた親指で──弾いた。
瞬間、球体は回転し、なおもその速度を上げる。胸に埋め込まれた目標、信念、夢へと駆けるように。
「──この死に損ないが!!」
思い出したように動き出す王女。突き出した両腕を、恐ろしくも静かさと悠々さを持って歩き近づいてくる見透へと差し向け、執拗に毒針を打ち込む。
だが、遅かった。
刹那、毒針が肩を打ち抜く寸前、巡り続けるコアを媒介とするベルトが──見透を赤霧で覆い隠す。
当てようとも、鮮血のように紅霧は中までも覆い隠し、針は目標を見失うまま猪突猛進を繰り返した。腕、肩、足、頭。どれを狙えども結果は変わらず、幻想は邁進する銃弾から穴を作って逃げて避ける。
その停滞の攻防も束の間、カシュンッ、とけたたましい悲鳴めいた音が響く。
霧に包まれ、輪郭がぼやけた内側で、ジクジクと水気を含んだような音が立った。まだらに浮かび上がる影の奥、異様に歪んだ腕が、歩みで揺れて表へと顔を出す。
皮膚と呼ぶにはあまりにも不気味な質感、鱗のようにきめ細かいそれがのぞいた。足もまた同様に、霧は寄せ集まり人の形を作り出す。
GOOD MORNING! RIDER──!!
闇に溶け込むほどに黒い人の影。見透──影の存在は、今なお回転し発光する胸部の中心が人だと認識させた。
「チィ──」
避けられていたものが、ついに当たったと思えば跳弾に神経を苛立たせられる王妃。元来吊り上がっていた双眸を、複眼をさらに吊り上げ、翅を展開。風をいななかせ、前へ前へと押し出される堅牢な鎧肉体。
呼吸を失い、闇に沈んだ街に降り注ぐ星の灯りで、鉤爪は妖しく煌めいて、無防備にさらされる首を刈り取る。
その瞬間、
「ヌ……グオァ!?」
影の胸部が、真紅の光が暗黒の帷を突き刺し、刈り取る鉤爪から屈むまま拳で悪魔を打ち飛ばした。
輝きに呼応。全身を纏う漆黒の鱗は生き物のようにうねるのと同時に、波紋が浮かぶが如く翠色の光が浮かび上がる。淡い輝きが胸から伝播し四肢へと駆け巡り、紅の稲妻がラインに沿って迸る。
ZE ZE ZEZTZ──ッ!!
力強く、鋭く、閃光は血脈を辿るように脈動し、溢れ出るエネルギーは闇夜に紅花を咲かせて輪郭を刻む。
闇夜に佇む戦士。静寂を切り裂く名乗り。──ゼッツが、
IMPACT!!
──目覚めた。
赤黒い光。血液が流れ込むように瞳孔を満たし、やがて光はゆらめきながら下から上へと黒い瞳を覆い尽くして、染まり切る。瞳を開け──目覚めるように。
*
*
強い衝撃。堅固な装甲を突き破り、内臓を押し潰す圧力が王妃を宙へと吹き飛ばす。痛覚が王妃の思考を白に染める中、腕を差し向け、遠くなりゆくゼッツへと毒針を性懲りも無く放った。
だが、その毒針は腕一閃で弾かれた。赤い光が煌き、刃跡に一文字のような赤い軌跡を残す。弾けた光は花火のように散り、毒針は意味を失った。
瞬間、ゼッツの影が、暗闇に掻き消え──
「グギャ!?」
翠の拳が王妃の横面を叩き裂いた。握りしめられた拳が轟音と共に弾け、横へと伸びていた軌道が第二者のベクトルで変化。垂直に落ちる殴打となって地面へと叩きつけられる。
ドゴォオン──ッ
コンクリートが悲鳴をあげ、夜が裂ける。その小さくできたクレーターの中心で、王妃は体を起こした。
見上げ、大きな黒い双眸で睨みつけようも、そこにはやつの、ゼッツの影は見当たらない。
「──どこだ、あやつは──ブェッ」
ドッパァアアン──!!
刹那、腹を押し潰す圧力。立て直しかけた体が再び豪烈な力に地面へと吹き飛び、ねじ伏せられる。
油断と慢心がこうした。──否、油断も理解も追いつかず、羽ばたく間もなく、王妃は腹部を抉られたように呻き声をあげる。
腹に一点にして鎧の内部、内臓をかき混ぜる潰す力に、女王蜂は苦しげにうめいて大顎を戦慄かせる。
その上、人としての外見を霧の内側から変容し、解き放った見透──ゼッツは音もなく王妃から打ち当てた拳を外し、歩を進めていた。
体を満たし溢れ出しそうな、充足感と力の奔流に大きく深呼吸。吸えば、視界は大きく引き込まれ、まるで世界を見渡せるかのような、思うがままの全能。吐けば、全能の行き先が一つへと定まり、目覚めていく無敵の感覚。
力、体が覚えているかのように動き出し、そうしろと叫ぶ本能のまま動いた。はずなのに、現実ならこの力を使えば見透は振り回されて、自分の体を壊してしまうだろう。こんな芸当ができるのは、一重に『夢』だからか。
「ぐ、ぅっ」
背後、蠢き、コンクリートに張り付いた五体を起こす気配に、ゼッツが悠々と体を向けた。立ち上がり、振り返るスズメバチの悪魔がついに会合を果たす。
「余の後ろに……立つでない!!」
女王の怒声が崩壊都市をこだまする。怒りは行動となり、先の一撃で傷ついた威厳に塩を、威厳に泥を塗ったようなもの。
頭を沸騰したと錯覚に陥るほどの激情に駆られるまま、ゼッツに、殺意に研ぎすんだ漆塗りの凶刃を振り翳す。
鎌は人の生身、外壁、鉄をも袈裟斬りにし、死をもたらす破壊の威力が見えるものだ。
だが──。
「──っ!?」
快音。
完全に、曲線美に富み、真っ赤な瞳に突き立てたはずの爪。それが、ゼッツの眼前で突如として止まった。
すぐそばまできた死神の鎌に見向きもせず、見透──ゼッツが寸前で止め、女王の黒く細い手首を握りしめていた。細身にも関わらず、女王が落とす斬撃は、打撃は鉄筋を粉砕するほどだったはず。
ではなぜ。
簡単だ。
こちらの方が──、
「任務を」
──フィジカルに勝ったからだ。
ピキっと音を立てる傍、驚愕に瞳を白黒させる蜂。堅牢だった鎧に確かなヒビが生まれるのも束の間、万力のゼッツの腕が拮抗を凌駕。
ゆっくりと持ち上がるゼッツの容貌。吊り上がる、復讐鬼にも似た大きく赤い怒りの目が閃く。
「──遂行する」
万力のように握られた拳が、胸目掛け一直線に突き出される。
「グハッ!」
紫色に濁った血が王妃から吐き出る。
若干の鉄臭さが嗅覚に入り込むものの、ゼッツは強引に雑かつ確実に、重たい殻の中に敷き詰められた命を叩き撃つ。
一目散に胴目掛け、肘にかけて色づく翠の拳が捉えるも、蜂が二度同じ手にかかるわけもない。右頬を通過する拳の軌道から逃れ、報復の刃を解き放ってくる。
強者だ。強者に同じ技を二度見せることは愚の骨頂。その返礼が、今まさに払われる時、ゼッツはすでに行動を起こしていた。
──瞬間、首筋に割り込む翠の折れ曲がった肘──ゼッツの肘鉄。
当たれば首の骨格は悲鳴をあげ、昏倒は不可避。故に王妃は、
「ぐっ」
正面で苦痛を喉の奥で噛み潰す呻き。
唸る肘鉄を、王妃は両手を持ってして迎え撃ったのだ。もとよりまともに受ければひとたまりもない打撃。それはガラ空きとなった腹に入った、たった一撃。そのたった一撃の威力に、王妃の脳髄は痛みを刻み込まれた。
故の防御。
だったはずだ。
無手となる右拳が引かれ、ゼッツの体表に刻まれた回路が赤く迸った。
「──しぃ……」
ゼッツの閉ざされた見えない口から呼吸が漏れる。
拳に送り込まれる力の奔流。握る拳は軋みをあげて獲物の肉欲しさに唸り、膨張する腕。
その一撃が、
「──アぁッ!」
「ごっ!?」
ゴオォン!
愚行を起点に捻じ曲げたゼッツの一撃が、女王の顎を撃ち抜いた。
「ぶ」
血反吐を吐く暇はない。
与えさせない。
明確な隙。そこをつかないものなどいるはずがなく、無論ゼッツも例外ではない。
飛び上がり、高々に掲げられた鉄拳。
「──づぁッ」
寸前、体に鞭を打ち、本能に鞭を打つ女王が飛び退いたことでマッシュドから免れた。それと引き換えに、獲物を見失ったゼッツの拳は避けて新しい場に落ち、土煙が爆裂する。
「おごるな、小僧!!」
ダダンダダダ!
撃って間もない砲身はまるで激昂し、地を転がる王妃に呼応するように未だ熱を持つ。
刹那、ゼッツをとらえた銃口が大気を爆裂。
遠くから撃ってノーダメなら、ゼロ距離発砲。そしてその効能は、
「くッ」
ゼッツの腕にのしかかる無数の破裂。毒針は肌を貫くことはできずとも、打撃を飛ばすことができるのだ。
泡を食わない。無数の射撃の重なりは一撃にも近く、衝撃を後ろへ受け流す。
この射撃はあくまでも殺害を前提としてのものではない。牽制と息を整えるための女王の思考だ。
だが、二度も同じ轍を踏まない。三度目は起こさない。
「はっ」
砲身付きの王女の腕を蹴り払い、
──ついで、詳らかになるくびれた胴が大外から風を貫いてかかるゼッツの蹴りで吹っ飛んだ。
ドオァアン──ッ
「ギャアっ!?」
吹っ飛び、人五人分にまで離れてもなお勢いは死なない。
地面に転がり、コンクリートを削りながら路肩で黒煙を上げる車へと激突。横合いから突っ込んできた丈夫な五体ではあるものの、車はくの字へとネジ折れてしまう威力がゼッツの蹴りにはあった。
「近づかなければ、まだ勝機は──」
揺れる視界。鎧を通り越して伝わるゼッツの打撃は内臓を損傷させ、口にするだけでも息が灼熱に焼かれたと王妃に幻覚させる。
だが、スズメバチの悪魔には、ゼッツにはない制空権がある。背中の翅。全開に羽ばたけば大空を我が物とし、風を通り越し、空気の壁に挑めるほどなのだ。
だから、だからこそ、持てる力を全て出し、ゼッツの隙を見出す。それは、遠距離。──毒針だ。
効きはしなくとも、先のようにゼッツの視界を遮ることが──
「この道は、沈む絨毯だ──」
翅を活気づかせ、腕を、腹を差し出し激鉄が落とされる直前、ゼッツがポツリとこぼした。
次の瞬間、ゼッツは拳を地面へと八つ当たりでもするかのように一撃を入れ、
ギュゥンルルルァ──!
──地面が引き寄せられた。
「は? ほ、は!?」
地面を掴んでいたはずの足は、逆に地面によって絡め取られ、王妃は驚愕に大顎をわなわなせざるを得ない。
だが、撓んだ地面は文字通りの絨毯のように、一息に引っ張ったゼッツの間合いへと引き込まれる。
入れ食いのようにこちらへと吸い込まれてくれる王妃をその目に捉え、引いた腕の勢いにつられるまま足が構える。
地面を叩いた足。直後、ビヂヂと体を走るラインが赤く迸り、力が隆起。
大木のように膨らんだ足は堰を破壊し、解き放たれ、
ゴアァァアン──!!
「ハグァアアア……」
軌道に乗る女王蜂の横面を蹴り抜いた。
一蹴は重厚な音撃を伴い、羽を使わずとも地面を水平に王妃が吹き飛ぶほどだ。
蹴りいったボールを追いかけない選手はいないように、蹴り飛ばした相手を追わないものはいない。
蹴り抜いた足を軸となった足に入れ替え、猛追するゼッツ。
考えることはただ一つ。ただ倒す。それだけだ。他の要素はただの一つもいらず、目の前の敵が野放しになれば起こる被害を根本から消しとばす。
だから、転がりながら立ち直り、迎え撃とうと鉤爪を突き動かす王妃の手を払いのけて、
そのくせ建物のように堅牢な鎧を、駆け上って、
「しぃ──ッ」
「おガァ!?」
ドッガアァアン──ッ
──その首を蹴り伏せる。
一度地をついたら離さない相手の安定感を逆手に、ゼッツは片膝をつく王妃を踏み台に跳躍。翻る体。それに伴う利き足の右が宙を旋回。
遠心力に狂うまま、右足は王妃の首根を蹴り飛ばすには飽き足らない。ダメ押しと言わんばかりに地面へと押し付け、コンクリートは波紋を打ったかのように炸裂した。
「舐めるなアァッ!」
押さえつける足をぐつぐつと煮える腸の激情で跳ね飛ばし、王妃が舌を飛ばした。
瞬間、ゼッツの視界に飛び込んでくる無数の黒い点とその背後で咲き乱れる赤い花。──銃弾。
脳裏によぎった予感。唐突に甲高く、まるで黒板に爪を立てたように鳴り響く脳内の警鐘に、一切のラグもなく右腕が視界を覆って、来たる衝撃からも緩和した。
ドダダダダダ──ッ
「うッ……くぅ──」
「このッ頭の高い! 死に損ないの愚者が!!」
語気が強まるたびに放たれる返礼の復讐は重く、鋭い。しかしながら、言葉の上では熱烈と沸騰したものでも、繰り出される技はまさに卓越された殺しの技。──動きはまさに冷静であり、ゼッツの、見透の背に氷柱めいた冷気が這い上った。
「この余に対して泥を舐めさせるなんて不敬!! 許してなるものかッ!!」
「──ッと」
銃撃の裏に隠れる王妃の動きに、守りに徹していたゼッツの視界で捉えることができず、追撃を許してしまった。
寸前、腕に隠れた砲身が火を噴くのを目に映し、ゼッツは希望の光に手を伸ばす。手のひらの確かな感覚を信じ、払いのけた。
そのまま、捻れる腰と共に引き絞った腕を──、
ズパンッ──
「──ッづ」
隙間を縫い開いた王妃の腹へ打ち込んだ。
重々しく重厚でありながら足が浮く王妃の体。痛みと血を飲み込んで殺すも、それでも王妃の眼光は死なない。
悪魔の強さは人間がそれに対してどれだけ恐れているかによって決まり、恐れられるほどに悪魔自身の力も増す。何度も何度も、地面を砕くほどの威力を腹にも首にも叩き込まれて、それで凹む程度で済んでいるのは、スズメバチの悪魔の、スズメバチへの恐れが強いからか。
民間のデビルハンターが歯が立たず、公安のデビルハンターも翻弄されていた理由も頷ける。
ブォン──
「──ッぬぅ」
側頭部を刈り取る拳の軌道から身を引くことで外れ、眼前で空気の揺らぐ現象に王妃が戦慄を喉で漏らす。
身を引き、足が引かれ、体勢が崩れる。危ういその立ち位置を彼女は理解していながら、足の鉤爪を地面を切り込み、固定。後ろに退ける体は力の変換点を得て、竜巻いた。
前腕部、肘を覆うように伸びた棘。それは銃身だ。
回転と重さの両方を獲得したエルボーバット。それが拳を外したゼッツに差し向かう。
ゴっシャァンッ
「くッ、おも、い……」
両の手のひらで受け、衝撃がゼッツの肘を突き抜けて声を顰める。だが、間はなく第二波の砲撃が今手の中で爆発する。
────ドパァンッ
一撃の込められた毒針の砲撃。それはゼッツの手のひらを傷つけるに足るものだったが、真正面から当たらず、上へ逸らすことで免れる。
上空へすっ飛んでいく銃声の最中、ガラ空きとなった脚目掛けゼッツの足が横へ跳ね飛ばし、
「ッンゥ──!!」
ッゴッハアァアン──!
「ごアァあ……!?」
浮上がった王妃の体、前にクロスされた腕をすり抜ける打撃が炸裂した。
────
吹き飛ぶ女王の体。
一瞬。ほんの一瞬だ。脳が揺れ、視界も揺れ、境が曖昧になりかけるも、女王は吹き飛ばされる最中に意識を手繰り寄せて、転がる地面に足を突き立て再戦。
瞬間、王妃が腕を翻し、隠し爪が鞭のように展開。
鞭は蛇のように大気を舞い踊り、
「なに……!?」
ゼッツの腕を絡め取った。
肉を締め付け、摩擦熱と共にやってくる刺さる感覚に、ゼッツの声音が驚き跳ねた。
「そのまま毒を流し込まれ、恍惚に酔うがいい!」
瞬間、王妃の背が波打って翅が闘争で熱い空気を押し出し、加速。耳を刺す、乱射する銃弾ような音色が放たれるのと共に、ゼッツを支える二本の足が地面を擦らせ、剥がれかける。
体が地面から剥がれていくのを足を地面に埋め込むことで稼ぐも、時間の問題だ。大木のように力み、隆起した肉体でも空へと引き摺り込まれるだろう。
なんだこれは。
なんなんだこれは。
ゼッツの、見透の中で蠢く疑問のような粗悪感。いやまるで思うようにいくはずなのに、足がもつれて早く走れないようなチグハグな気持ちが押し寄せてくる。
「勝手なことしないでくれるかな……」
夢の中の、何しろ、ようやく手にした自分の世界で勝手するこの不条理に、ゼッツの喉の震えに熱が籠り始める。
次第に、頭の中で相乗的に芽生え始める想像──イマジネーション。数多に枝分かれし続けるイマジネーションを、須臾の間にたどり選び取っていく。
いや──選ぶ必要なんてない。
いつだって夢は──、
「俺の夢は、俺のものだ──ッ!!」
晴れ渡る感覚が脳内から溢れ出す。爽快は握りしめた不条理の鞭を伝い、宙に止まる王妃の元へと迸り、
ガシャンッ
「──っ!? 貴様、何をした!?」
ゼッツにまとわりついていた鎖。それが瞬きの間に棘鞭は己を縛るものではなく、王妃を絡め取り、羽交い締めにするものへと姿を変えていた。
途端に、ガクンと下へと落ちていく王妃の体。縛り付けたのは腕だけではなく、羽にまで及ぶもの。もはや飛行能力を失った彼女にはもう、
「ふんヌゥウゥウ──ッ!!」
「う!? ギニャアアアアアァアァ!!??」
ドッゴオオン──ッッ
何もできない。
背負い投げの応用。背を向けるゼッツに一本釣りされ、廃ビルに叩きつけられた。
最も容易く持ち上げられ叩きつけれられる王妃の棘鞭は限界を迎えちぎれ、王妃はフルスピードでビルを突き抜けていった。
だが、そこに待っていたのは──、
「は、ガボボボぼ」
滝。大自然。通り過ぎていく天に手を伸ばす木々の数々。
水切りのように川を突き抜け、飛んでいく蜂の女王。
「ず!? ぐ、アアアアアアアアアアア!!」
世界は王妃が横へ一直線で吹き飛ばされ、勢いが衰えぬままに変わり果てる。
そこは終末。いや、母なる大地の生まれた瞬間の溶岩地獄。
肌を焼かれ、黒焦げになる王妃は苦しみに抵抗が増すものの、岩石を突き抜けていくごとにその気が不能へ落とされて、
「ぎゃああアアアアアぁああぁあああっっ──!!」
天から降り注ぐ無数の怒りの柱に身を焼かれ、蝕み、感電。
鎧に伝導する一億の電圧に王妃の口から、稼働する節々から、筋肉からは黒煙が湧き立って蒸発し、体をめぐる紫の血が沸騰。
「────」
仰け反ることも、苦しみに転がり狂うことも、空中で衰えない力の強制からは許してはもらえない。
灼熱に、電撃に、自らの血肉が王妃自身の体を溶かし──、
────
「はっ……!!」
それは王妃の見ていた──『悪い夢』だった。
体に刻まれた絶えることのない苦悶、痛み。その現象は心を絶対な死が蝕む、絶望だ。これが全て、夢で起こったこと。
夢。夢夢夢夢夢。
夢で────
ザッ……ザッ……
「──ひっ!?」
恐怖に身慄いし、全身を冷たく覆う現在から両腕で体を包む王妃に近づく足音。
肩を跳ねさせ、豆鉄砲を喰らったように頭を差し向けた王妃の目の先には──ゼッツ。
肩から腰に、襷のようにかけられたベルトとバックル。そのトリガーに──
1つ、
「や、やめろっ」
2つ、
「こないで!」
3つ、
「ごめんなさいぃ!!」
三度、立てられた親指が運命の戸を叩くようにトリガーを押し込むたびに、腹を震わせる低い音は鋭さを増し、空気そのものを震わせた。
威厳も何もない。心を覆う尊大な鎧は丸裸にされ、怯えることしかできない悪魔に、ゼッツは容赦なく執行のスイッチを押すように、
──胸にはめ込まれた夢球を弾き、回転を加速させた。
瞬間、帯を伝い、全身をめぐるエネルギーが膨れ上がって脈動するように全身を赤光が駆け巡る。
夜の闇を裂くように、駆け巡る赤光のエネルギーはゼッツの右足に稲妻を走しらせる。
鋭い呼吸と共に腰が沈み、両腕を構えた姿勢のまま、光は膨れ上がるように脚部へと集中。ギリギリ限界まで堰き止められたエネルギーは地面を伝って火花が散り、足裏から舞い上がる高密度のエネルギーが渦を巻く。
「……ッ!」
ついで、瞳がさらに赤く瞬き、右足にまとわりつく炎の本流が熱気と火の粉を伴い切迫。──臨界を、
「──消えろ」
超えた。
刹那、朧げの存在を明らかにするゼッツの輪郭が闇夜に伸び、立体のレトロフューチャーを置いていく。
──奔走。疾走。疾駆。
逃げ出そうにも足をすくませただ終わりを待つことのできないスズメバチの悪魔へと。筋骨猛々しい体に反して驚くほど身軽に、夢の使者は地面を飛ぶように駆けて──跳んだ。
「ハ──っ」
ブファアン──!!
──7──
「ドュオ……!?」
一つ、踏み切った足が宙を裂く。横薙ぎの蹴りが疾風の如く相手の首へ叩き込まれ、溢れ出る力の本流が赤い稲妻となって空気を弾く。
転がり、膝の笑いが収まる王妃だが、
「──ほッ!」
ドュオオォン──!!
──7 7──
「げっハァっ!?」
二つ目、転がる王妃の体を待つことなく、捻った体をしならせ振り向きざまの踵が突き刺す。重みを乗せた蹴撃はまるで鉄槌のように相手を押し砕く。
前、後ろ。飛び蹴りの挟撃に砕き揉まれる王妃。
その前方。現実を幻で侵食させる者が加速するまま、踏み切り──、
IMPACT──!
「ハアァ──ッッ!!」
VANISH──ッッ!!
最終。叩き込まれた地面で押し上がり、宙を駆け上がる勢いのまま、正面へまっすぐ伸びた腿から足先。一直線に突き進む力が爆発するようにうねり、巨大な槍と化したかのようだ。
宙を割いて放たれる飛び前蹴り、いや現実をも打ち砕く一条の軌跡が──音を、消した。
王妃の視界を焼き尽くすほどの赤光が、弾丸のように迸り、空気そのものが圧縮され衝撃波に波紋が伴って直進。
──紅蓮の閃光が伸び、
「ぐあ、ぉああァアあ──っ!!」
ZE ZE ZEZTZ!!
王妃の胸を突き破った。
右足に凝縮されたエネルギーの奔流そのものへとゼッツは成り変わり、一直線に貫通。背後へと突き抜けたのだ。
__7 7 7__
 ̄  ̄  ̄
──Z Z Z──
「ぐぅ……スゥ……スゥ……zzz」
胸に風穴が開き、放たれたゼッツの赤の閃光はぐずぐずと王妃の体を侵食。
にも関わらず、ガックリと全身の力が抜け落ち、悪魔の意識は二度と這い上がることのできない泥の中へと沈んでいく。
直後、赤く空間に焼きついた三つの紋章。『Z』が掻き消え──、
「ぐ、ぎゃあァア…………」
悪魔は永遠の眠りへと霧散──夢散した。
いっぺんの血も、肉も、影さえも残さず、──まるで最初から夢であったかのように、王妃の体は光の粒となり、夜空へと溶けていく。
その背後。ゆっくりと立ち上がるゼッツのシルエットだけが、揺るぎなく存在する。
「…………。任務、完了」
──ゼッツと、スズメバチの悪魔の戦いが、終わった。
*
*
崩壊した街を見下ろす月。
街の一角は死んだように、死んで息もしないように、光はなく、それでいて真ん丸に輝く月が生き返って息づく。
そんな崩壊した街の中、一人の男が背負っていた刀を杖代わりにしながら、一番にひどく刻まれた洗浄痕を目の当たりにしていた。
「──っ、姫野先輩は……? スズメバチの悪魔は……どこに」
足が折れているのか、この男の歩みはひどく緩慢だ。
黒を基調とする、喪式に参列するかと思う黒いスーツを身に纏う、頭に特徴的なちょんまげを携えた男──早川アキが無言の街に尋ねた。
だが、無言の街は地と瓦礫を腹に乗せていて、当たり前だが答えてくれなんてしない。
無謀にも、掠れた喉で息をし、朧げな視界をそのままにするアキは奥歯を噛んで耐え忍ぶ。
いつまた、公安の同僚をあっさりと紙切れ同然のように切り殺し、狐を使っても予知したように躱す『スズメバチの悪魔』が建物ごとかまいたちするかわからないのだから。
全神経を張り詰めさせ、風が肌を撫でるのでさえ気持ちが悪くなるくらい集中の池に意識を浸らせる。
そんなとき──、
コツっ……コツっ……
「──っ」
警戒網の糸に引っかかる、快活に地面をつく音。これは──足音だ。
瞬間、その気配に全身の毛が粟立ち息を呑んだアキはバッと、背後へ振り返る。
なし崩れになったビルの隙間、路地裏は月の明かりで生まれた影のせいでひどく暗く、奥の存在を覆い隠した。
「早川君、大丈夫?」
「……ぁ」
暗闇から聞こえたその声。静かで、柔らかく、それでいてそこが見えない、まるで水面のように穏やかな声。
その声に、アキは疲れの籠った空気を吐いて、弦のように張った緊張の糸が急激に緩んだ。
「──マキマさんっ……」
こんな薄汚れた場所には合わない真っ白いシャツに黒のネクタイ、糊の効いた黒のスラックス。飾り毛のない服装のはずだが、不思議とアキの目は奪われてしまった。
赤い髪は背で纏められ、落ち着いた仕草の中に計算されたような色気が漂う。
──マキマ。公安のデビルハンターである早川アキが所属する公安対魔特異4課。この4課を取り仕切るリーダーが、アキの目の前にいる女性マキマなのだ。
「怪我は……してるみたいだね。足、大丈夫?」
「こんなの、二、三週間で治りますよ……」
自分なんかに心配をかけてくれる。麗しの女性にかけられる言葉に気が緩みかけるも、アキは考えを首で振るい落として、惨状に目を落とした。
デビルハンターとは、ある日急に同期が全滅したり、先輩や後輩が気付けば死んでいたなんてことは日常茶飯事だ。詰まるところ、今日という日がその日であった。
だが、まさかこれほどとは思ってもいなかった。
「そう、思うのは……俺の想像不足だったんでしょうか」
スズメバチの悪魔は街のビルを巣窟としていて、気づけば従業員が悪魔によって寄生され溶け込んでいた。故のビル爆破。
もちろん、周辺の避難は済ませていた。とは言っても、大規模の解体工事という体で行ったものではあったが。
だがどうだった。
爆破し、周囲を警戒していたときには、激昂する女王蜂は音もなく背後に立っていて、凶刃がすでに振り下ろされていた。
途端、空間そのものが支配されたドス黒い圧迫感が吊り上がった怒りの目によって放たれ硬直。
そして事態は急変。
地獄絵図そのものだ。
怒りのまま荒れ狂う女王蜂はプライドを傷つけられたとしてビル三棟を、周辺住宅を単独で破壊。人民も殺し尽くすという未曾有の被害を生み出した。
行方不明者、死傷者数は三ケタも下らないだろう。
「……っ……」
声が震える。視界が定まらない。目頭が熱い。
だめだ。こんな弱いところを、背後にいるマキマにも、誰にも見せたくない。
人がいない。周りには、関わったもの全てが、姫野先輩もいない。寒空の下、一人極寒の中放り出されたようにアキの心はひどく閑散として、途方もない損失感が削ぎ落としにかかってくる。
「──早川君のバディ、姫野ちゃんは民間人二人を助けたのち一時退避してる。心配ないよ」
「────」
寒さに耐えるように肩を小刻みに震わせるアキに、通り過ぎざまにマキマはそう言った。
アキにとって、それはほんの少しの救いだった。砂漠で、一人彷徨っていたとき、逸れたはずのラクダに巡り合って歩く。そんなこと、実際に会ったことはないが、少なくともアキにとってのマキマの一言は吉報だった。
「そう、ですか……」
「うん。それともう一つ」
そこで区切り、マキマが鼻を啜って平静を装うアキの前で止まる。両腕を後ろに組んで、赤い髪を揺らしながら振り返った。
「スズメバチの悪魔は消滅しました」
「──……え」
小首を傾げて、上目気味に見上げるマキマ。呆然と立ち尽くし、事実を突きつけられて口をぽかんと開けるアキ。
二人の間に、寂寞とした風が沈黙を運び込んでくる。
聞き間違い。ではない。アキはマキマの言葉を一言一句違わず、顔の横についたこの耳でしっかり聞き及んだ。
であれば、
「誰がやったんですか……?」
「それが……わからない。けど……」
眉を絞るアキの疑問に、マキマは一言で切り捨てた。
「──どうして観客席から出てきたんだろうね」
*
*
ふわふわとした思考回路に、電源がついたように思考が流れ始めた。
意識の覚醒とは、ときとして、バッと起き上がれるものもあれば、疲労感に苛まれてダラダラと枕や体にかかる布団と格闘したりして負けて、で二度寝。
こんなことが日々を過ごす上で起こるのだが、
「……はっ」
今日は違うらしい。
体が何者かに押し付けられているのかと錯覚するくらい、見透はひどくだるいものの、その二つ眼はぱっちり開いていた。黒い双眸は見慣れた天井を写し込んでいて、安心感に息が解ける。
安心感。安堵に体が布団に溶け込みかけるも、この感覚が現実感を呼び起こしてくれる。
あのとき、スズメバチの悪魔と戦って、勝って、その後の記憶がない。それに関しては別段普通だ。
なぜならこれは見透が見ていた──、
「……あ、夢か」
思考から溢れ出たものを口に出してみれば、納得といったように瞑目。
振り返ってみても、すごい夢を見た。
ここは自宅であるから、おそらく学校の授業からが夢であり、あの肺に絡んでくる埃っぽいものも、鼻を突き刺す鉄の匂いも、崩壊した街も。自分が死んで、痛いなんて生やさしい苦痛が身を食い尽くしていたのも、──泣き叫ぶ叶も夢だった。
「悪い、夢だった。……けど」
けれど、そんな夢だったからこそ、スズメバチの悪魔を奇跡のような変身で倒すことができて、夢であってもあの後の世界に一抹の平穏が訪れたことに変わりない。
「人助けできた、いい夢だったなぁ」
いい夢だったと、そう言える。
そう思えば、この疲労感に見合ったいい夢を久々に見られた。途中から明晰夢みたいなこともあって、爽快感が半端ないけれども。
「はあぁあ……ん?」
カチャッ
大きな伸びとこれまた大きな欠伸をかます見透が疑念の声を喉で鳴らした。
何か、胸の上で変なものが巻かれている気がしたからだ。
恐る恐るといった様子で、見透は腕を伸ばしたまま鎖骨と顎がくっつきそうなくらい首を曲げた。
──それは腹巻というには遥かに上にあった。襷のように巻かれるそれは黒く、固い。
「うぇっ!!?? え? へ?」
疲労感も何もかもが吹っ飛んでしまい、驚愕に背中から棒を突っ込まれたように見透は飛び起きた。
理解も何も、訳のわからないものが胸に張り付いている。一旦冷静になろう。
俺 夢みてた。起きたら 変なの ついてた。
・
・
・
= 夢
「うんうん、二重に夢を見るなんてこともあるらしいし……これが夢なら、ほっぺつねっても痛いはずっ」
体を覆い隠すように抱えた布団から腕を脱出。そしてすかさず、見透は己の頬目掛け親指と人刺し指を差し向けて、──思いっきりつねった。
刹那、見透の脳みそに電流走る。
「──ったぁ!? ………………へ? ………………んぇえ、いたい……?」
思いっきりつねったため頬が刺されたと錯覚に、手をおいて見透はさするも眉はさらにへの字に。気ぬけた声を漏らすも至って真面目なのだ。
ノット夢。いや、だがしかし駄菓子菓子、お菓子は一旦置いておいて。
これが夢じゃなければ、つまりは幻覚といった線も見えてくる。が、あいにくお目目ぱっちりの、体の疲労と心臓以外健全男子。いや、心臓病抱えている時点で健全ではないのかもしれないが、意識は雲を掴むよりも明らかでむしろ鉛筆を持って筆記している。
途端に、押し寄せてくる現実感に背中にまで抱き込められた帯が暑苦しく感じ始めてくる。では、胸の前にあるものは、
「ええぇええ〜!!?? 夢じゃないいぃぃいいい!!??」
──夢で見たものと全くの同じ。夢は夢ではなく、現実の世界で起こったことだった。