その日、東京の喧騒はいつもと何ら変わりはなかった。人々が忙しなく行き交うスクランブル交差点、巨大なビルボードに映し出される広告の光、鳴り響くクラクション。ありふれた日常、平和な昼下がり。
「あーあ、甘いものが食べたいな。限定の喜久福、まだ残ってるかな」
雑踏の中を、一人の長身の男が歩いていた。白銀の髪に、目元をすっぽりと覆う黒いアイマスク。常人離れしたスタイルと相まって、その出で立ちは異様ですらあったが、不思議と人々の意識には留まらない。現代最強の呪術師、五条悟は、任務帰りの気晴らしに街をぶらついていた。
その、刹那だった。
ピリッ、と。肌を刺すような、それでいて不快ではない、奇妙な感覚。
五条の足が止まる。彼の周りだけ、空気が張り詰めたかのように錯覚した。
(なんだ……? このプレッシャーは)
呪力ではない。呪霊の気配でも、呪詛師の残穢でもない。
もっと根源的で、純粋なエネルギーの奔流。まるで、小さな太陽がすぐそばにあるかのような、圧倒的な生命力の塊。
五条はゆっくりと首を巡らせた。彼の「六眼」は、アイマスク越しに世界の本質を捉えている。呪力の流れ、術式の構造、あらゆるエネルギーの可視化。だが今、六眼に映っている光景は、彼の二十数年の常識を根底から覆すものだった。
人混みの中に、オレンジ色の道着を着た男がぽつんと立っていた。天を衝くような、黒く逆立った特徴的な髪。きょろきょろと辺りを見回すその表情は、まるで迷子の子供のように無邪気だ。
だが、問題はそこではなかった。
男の身体から、途方もないエネルギーが溢れ出ていた。それは青白いオーラとなって六眼に映り、天を衝き、地を割り、空間そのものを震わせているように見えた。呪力とは似て非なる、純粋な「力」の奔流。桁が違う。特級呪霊など赤子同然。これまで対峙してきたどんな敵とも、比較することすら馬鹿らしい。
(なんだ、アレは……呪詛師? いや、人間の形をした呪いの塊か? それとも、全く未知の……)
五条の背筋に、久しく感じたことのない緊張が走る。飄々とした表情の裏で、脳は最高速度で回転していた。
一方、その男――孫悟空もまた、一つの存在を捉えていた。
「腹減ったなー……。それにしても、ここの奴らはみんな、なんていうか……気が小せえな」
見知らぬ場所に突然来てしまった悟空は、とりあえず腹を満たそうと食べ物の匂いを辿っていた。だが、この世界の人間から感じる「気」は、あまりにも微弱で、彼にとっては存在しないも同然だった。
その時、雑踏の中に、ひときわ異質で、それでいて強烈に研ぎ澄まされた「気」を感じ取った。
「おっ?」
悟空の視線が、アイマスクの長身の男に吸い寄せられる。
弱々しい気しか感じられない世界で、その男の放つ気だけが、夜空に輝く月のように際立っていた。それは静かで、凪いだ湖面のようでありながら、その底には計り知れないほどの力が渦巻いているのが分かる。
(なんだ、あいつ……。すっげぇ変な気だけど、とんでもなくつええぞ!)
悟空の口元に、戦士としての笑みが浮かぶ。腹が減っているのも忘れ、心が躍る。こんな途方もない強者がいるなんて。退屈していた心に、一気に火が灯った。
悟空は人混みをかき分けるようにして、まっすぐに五条へと歩み寄る。その動きに気づいた五条は、内心で舌打ちをした。
(まずい、こっちに気づいたか。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない)
「よお!」
悟空は屈託のない笑顔で、五条の目の前に立った。
「あんた、名前はなんてえんだ? オラは孫悟空だ!」
「……」
五条は警戒を解かないまま、口の端を吊り上げて応じた。
「僕? 僕は五条悟。で、その悟空クンが、最強の僕に何か用かな?」
あえて挑発的な言葉を選ぶ。相手の出方を探るためだ。しかし、悟空の反応は五条の予想の斜め上をいった。
「ごじょーさとるか! やっぱ、あんたすっげえつええな! 見ただけで分かるぞ!」
悟空は興奮したように、目をキラキラと輝かせている。
「なあ、頼む! ちょっとだけでいいんだ! オラと戦ってみてくれねえか!」
その言葉に、五条の纏う空気が変わった。
(……戦闘狂。なるほど、話が早い)
彼の六眼が捉える悟空のオーラに、敵意や悪意は一切ない。あるのは、強者と戦いたいという、子供のような純粋な渇望だけ。だが、その純粋さこそが最も厄介だった。この男が本気で力を振るえば、この街は一瞬で更地になる。
「へえ。僕と手合わせしたい、ね。いいよ、面白そうだ」
五条はわざとらしく肩をすくめ、笑ってみせた。
「でも、こんな人通りの多いところでやるのは無粋じゃない? 周りの人がビックリしちゃう」
「お? そうか? じゃあ、広いとこに行こうぜ!」
悟空はあっさりと頷いた。話の分かる相手で助かった、と五条は内心で安堵する。
「ついてきて。とっておきの場所に案内してあげる」
五条はそう言うと、ひらりと身を翻し、雑踏の中を縫うように歩き始めた。悟空も嬉しそうにその後に続く。
数分後。
二人がたどり着いたのは、再開発地区の広大な空き地だった。打ち捨てられた鉄骨やコンクリートの残骸が転がる、人気のない場所。一般人への被害は、ここなら最小限に抑えられる。
「ここでいいか?」
悟空がワクワクした様子で尋ねる。
「ああ、十分すぎるよ」
五条は悟空と距離を取り、ゆっくりと対峙した。そして、ふぅ、と一つ息を吐くと、自身の黒いアイマスクにそっと指をかけた。
「君が何者なのか、呪詛師なのか、あるいは神様か何かは知らないけど……」
アイマスクがずり下がり、隠されていた両の目が露わになる。
吸い込まれそうなほどに蒼く、澄み渡った空をそのまま閉じ込めたかのような瞳――「六眼」。
「僕の生徒たちに手を出すようなら、ここで祓っておかないとね」
五条の全身から、凄まじい呪力が立ち上る。空気がビリビリと震え、空間が彼の存在感だけで歪んでいく。
その圧倒的なプレッシャーを浴びて、悟空の笑みはさらに深くなった。
「へへっ、すげえ気だ! やっぱあんた、とんでもねえや!」
悟空は腰を落とし、両腕を構える。武道家としての、戦いの型。
彼の身体からも、青白いオーラが静かに、しかし力強く溢れ出し始める。地面の小石がカタカタと震え、浮き上がった。
五条の六眼が、そのエネルギーの奔流を捉え、分析する。
(呪力じゃない。だが、この密度、この出力……規格外だ。術式も見えない。まさか、肉弾戦だけで僕とやり合うつもりか? 無下限呪術をどう突破する……?)
未知との遭遇。最強の名を冠する男が、初めて体験する「理解不能な強者」。
五条はニヤリと笑った。
「いいね。退屈しなくて済みそうだ」
最初に動いたのは、五条だった。
常人には目で追うことすら不可能な速度で、悟空との距離を一瞬で詰める。呪力を込めた拳を、シンプルに、だが必殺の威力で叩き込む。
五条の拳と悟空の間には、不可侵の領域「無限」が存在するはずだった。どんな攻撃も、彼に届く直前で限りなく遅くなる。それは、絶対的な防御。
だが。
ゴッ!!!
鈍い、肉を打つ音が響いた。
五条の目が見開かれる。
信じられない光景が、そこにはあった。
孫悟空が、いとも容易く、五条の拳を片腕で受け止めていたのだ。
「無限」が、そこには存在しないかのように。
「……は?」
五条悟の口から、初めて、純粋な驚愕の声が漏れた。
悟空はニカッと笑い、こう言った。
「いくぞ、ごじょー!」
最強と最強の戦いの火蓋が、今、切って落とされた。