拠点の扉を閉めた瞬間、背後から聞こえるはずのナキアミの声が、まだ耳の奥に残っていた。
――行くな。
――戻ってくると言え。
――アキユキ。
アキユキは、振り返らなかった。
振り返れば、きっと足が止まる。
あの細い手を、もう一度取ってしまう。
彼女の側にいたいという、抗いがたい欲求に負けてしまう。
だから、振り返らずに、前を見た。
夜の街は、異様な静けさに包まれていた。
人々は窓の向こうから聖地の方角を見つめている。
街灯の光は弱く、路地の草花はうなだれ、空には薄墨を流したような黒い雲が広がっていた。
それは雲ではない。
アキユキは街外れまで走ると、足を止めた。
「ふぅーっ……」
肺が焼けるように痛い。
プラーナを喰われた身体は、思った以上に重かった。
それでも彼は息を整え、右腕のヒルコへ意識を沈める。
白い光が、皮膚の下から溢れた。
骨格が組み替わる。
肉体が変質する。
背に蒼白い翼が生え、四肢が白き外殻に覆われていく。
ザムド化したアキユキは、夜空へ飛び上がった。
聖地へ向けて飛翔する。
遠ざかる街の灯りが、足元で小さくなっていく。
風が顔を打った。
だが、その冷たささえ、今のアキユキには遠かった。
飛びながら、アキユキの心には、無数の声が渦巻いていた。
――ナキアミを頼む。
それは、伊舟の声だったのか。
ヤンゴの声だったのか。
あるいは、自分が勝手にそう聞いていただけなのか。
もう判然としない。
彼らから託されたものを、自分は守れたのだろうか。
ナキアミは戻ってきた。
千年の眠りから、確かに現実へ帰ってきた。
けれど、自分はまた彼女を置いてきた。
病室で、震える手で袖を掴んだ彼女を振りほどいた。
行くなと願う声を、聞いたうえで振り切った。
それは、ナクセナにしたことと同じではないのか。
行かないでと叫ぶ声を、聞きながら背を向けた。
アキユキの胸に、鈍い痛みが広がる。
「はは……堕ちるところまで堕ちたな……」
声は風に消える。
リュウゾウの苦悩。
ナズナの祈り。
垣巣の執念。
ハルの想い。
伊舟の決意。
ヤンゴの願い。
そして――ナキアミの夢。
ただ、彼らの想いに応えたかった。
千年のあいだ、そのすべてを繋ごうとしてきた。
世界は変われると信じてきた。
人は間違えても立ち上がれると信じてきた。
想いは受け継がれると信じてきた。
平和な世界も。
ナキアミの帰還も。
迷える魂の救済も。
ナクセナの救いも。
全てを手に入れようとして――
ナクセナは怪物に成り果て、
黒い影たちは救われず、
聖地は滅び、
ナキアミは死の淵を彷徨っている。
――全てを失ってしまった。
(もし、もっとナクセナの心の声を聞こうとしていたなら……あの胎動窟の扉が開いたとき、ナクセナの方へ振り返っていれば……)
後悔先に立たず。
そんなことは百も承知だ。
けど――もうアキユキは、何の未来も見ることができなかった。
千年先の、果てしない遠い未来を見据えていたはずの眼に、何一つ先のことが映らない。
ナクセナの救いを求める声を振り払った。
そして、ナキアミの懇願も振り払った。
あの瞬間から、アキユキの心は死んでしまっていた。
「……俺は、一体何がしたかったんだ?」
そして残っているのは、使命の形をした空洞だけだった。
◇
夜空の先に、聖地が見えてくる。
そして、アキユキは息を呑んだ。
「……なんだよ、これ」
胎動窟の上に立つ白い巨体は、先ほど見た時よりも遥かに大きくなっていた。
数十メートルどころではない。
もはや百メートルを超えている。
かつてアキユキが空の上で相対したヒルケン皇帝。
あの巨大なザムドでさえ、今のナクセナザムドの前では小さく思えるほどだった。
六本の腕が、黒い空を支える柱のように広がっている。
白い外殻は異様なほど滑らかで、美しさすらあった。
だが、その美しさは白骨にも似ていた。
額には、巨大な赤いヒルコ。
血の塊のようなそれが、脈打つたびに、周囲の世界が痩せていく。
聖地の周辺は、すでに死んでいた。
湖畔の木々は枯れ、枝は黒く炭化している。
草は灰のように崩れ、土はひび割れていた。
巡礼者たちの仮設住居は崩れ、灯籠の火は消え、風だけが黒い粉塵を巻き上げている。
そして、地面のあちこちに黒い結晶が転がっていた。
人間の形を残したもの。
獣の輪郭をしたもの。
祈るように両手を合わせたまま固まったもの。
逃げようとした姿勢で、途中から結晶化したもの。
「……また、か……!またなのか……!」
アキユキの脳裏に、千年前の光景がよぎる。
ヒルケン皇帝が流した黒い涙。
それに触れ、南北の兵士や巡礼者たちが次々と石へ変わっていった光景。
悲鳴。
絶望。
空を覆う闇。
だが、これは同じではない。
似ているだけだ。
ヒルケン皇帝の黒い雨は、人を石に変えた。
命を止め、世界に沈黙をもたらした。
だが、ナクセナザムドの侵食は違う。
止めるのではない。
喰うのだ。
魂を。
プラーナを。
存在そのものを。
赤いヒルコが脈打つ。
そのたびに、遠方からも細い光が吸い寄せられていく。
人々の祈り。
動物の命。
大地に宿る微かなプラーナ。
すべてが、あの空虚へ流れ込んでいる。
それでも、巨大ザムドは満たされていなかった。
胸の奥に、大きな穴があるようだった。
どれほど喰らっても埋まらない。
世界すべてを呑み込んでも、なお足りない。
「それが……君の虚無なのか、ナクセナ」
アキユキは、空中で静かに停止した。
巨大ザムドの顔が、ゆっくりとこちらを向く。
そこにナクセナの面影は、ほとんどなかった。
それでも分かる。
あの奥に、彼女がいる。
満月のような髪を揺らし、喫茶店の窓際で本を読んでいた少女。
穏やかに笑いながら、どこか危うげだった少女。
自分の存在を誰かに埋めてほしかっただけの少女。
その彼女が、今、世界を滅ぼす怪物になっている。
「……そうか」
アキユキは、ようやく悟った。
自分が千年の旅路の果てに出会うべき敵。
それは、アニマ=ノアという邪教集団ではなかった。
「……ナクセナ、君が……。俺の……いや俺たちの《敵》だったのか」
彼らは確かに歪んでいた。
想いの連鎖を否定し、魂を真理の名のもとに閉じようとした。
リュウゾウの苦悩も、垣巣の執念も、ナズナの祈りも、ナキアミの想いさえも、不純だと断じる思想を掲げた。
だが、彼らは中心ではなかった。
以前、ナクセナは言っていた。
――「アニマ=ノア」という言葉が指すのは、組織ではありません。
あの時の意味を、アキユキは今になって理解する。
アニマ=ノアとは、彼らの集団名ではない。
彼らが崇め、彼らを呑み込み、彼らの空虚を餌に育ったもの。
魂の箱舟を名乗りながら、魂を流さず、繋がず、ただ喰らうもの。
孤独を癒やすのではなく、孤独ごと無に溶かすもの。
名前を与えるのではなく、名前を奪うもの。
それこそが、アニマ=ノアの本体だった。
そして、その中心にいるのは――
ナクセナ。
ただ、誰かに選ばれたかっただけの少女。
空白を埋めてほしかっただけの少女。
儚く、可憐で、危うくて。
本来ならば、救われるべき一人の人間だったはずの少女。
「……ナクセナ」
アキユキの声は、かすれていた。
敵と呼ぶには、あまりにも痛ましい。
けれど、止めなければならない。
放っておけば、世界が喰われる。
想いも、祈りも、命も、死さえも。
すべてがあの赤いヒルコに吸われ、無意味な黒へ変わる。
「君をそんな怪物にしたのは……他でもない、俺だ」
アキユキの胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
怒りではない。
闘志でもない。
諦めに似た覚悟だった。
「……そのケジメは、取らなきゃいけない」
たとえ、それが遅すぎたとしても。
たとえ、もう声が届かないとしても。
たとえ、この身が砕けるとしても。
「だから……今度こそは、君を受け止めてみせるよ」
巨大ザムドの赤いヒルコが、アキユキを捉える。
黒い奔流が、ゆっくりと渦を巻く。
アキユキは、ひとり、その怪物と向き合った。
千年の旅路の果て。
神話でも、伝承でも、邪教でもなく。
世界の終末に立ちはだかったのは、救い損ねた一人の少女の、底なしの空虚だった。
◇
巨大なナクセナザムドが、六本の腕を広げた。
その動きは、遅かった。
あまりにも巨大な身体。
胎動窟を見下ろすほどの白い巨体。
世界を喰らう赤いヒルコを額に宿し、聖地全体のプラーナを吸い上げながら立つその姿は、まさしく災厄そのものだった。
ナクセナザムドの顔が、わずかに動く。
その瞬間、六本のうち一本の腕が振り上げられた。
ゆっくりと。
あまりにも大きく、あまりにも重く。
空気が押し潰される。
腕そのものが巨大な塔のようにアキユキへ向かって迫る。
「…………!」
アキユキは翼をひと打ちし、横へ滑った。
白い巨腕が、彼のいた空間を握り潰す。
遅れて衝撃波が走り、湖面が大きく陥没した。
黒く濁った水が爆ぜ、聖地の岸辺に泥の雨となって降り注ぐ。
まともに当たれば、ただでは済まない。
だが――当たらなければ関係ない。
アキユキは空中を切り返し、ナクセナザムドの肩口へ回り込む。
「大きすぎるんだよ、君は」
呟きと同時に、右腕にプラーナを集める。
蒼白い光が一点へ収束し、右腕から弾丸のように放たれた。
――超速生命電流砲。
それは、かつて黒い影を一撃で消し飛ばした音速の光だった。
空気が裂ける。
蒼白い閃光がナクセナザムドの脇腹を貫き、巨大な白い外殻に風穴を開けた。
一瞬、赤黒いプラーナが傷口から噴き出す。
(……さて、どうだ?)
アキユキは目を細めた。
全く効かないわけではない。
少なくとも外殻は撃ち抜ける。
ならば、戦いようはある。
だが次の瞬間、風穴の縁が蠢いた。
肉ではない。
白い外殻が粘土のように波打ち、黒いプラーナが傷を塞ぐ。
わずか数秒。
穴は完全に消えた。
「やっぱり、そう簡単にはいかないか」
想定内だった。
ナクセナザムドは《邪悪なる真正ヒルコ》と融合している。
周囲のプラーナや魂を喰らい続けている以上、再生力は尋常ではない。
闇雲に削っても、こちらが先に消耗するだけだ。
ならば狙うべきは一つ。
額の赤いヒルコ。
あれが核だ。
あれを砕くか、少なくとも一撃で機能を止めるほどの損傷を与えなければ、この怪物は止まらない。
(……けど、疎らに撃っても喰われるだけだよな)
額のヒルコの周囲には、濃密な黒いプラーナが渦を巻いていた。
それは防壁であり、吸収口でもある。
中途半端な攻撃は、逆に喰われる。
必要なのは、決定的一撃。
自分が今使える全てのプラーナを束ねた、必殺の一撃。
だが、そのためには時間がいる。
(上手く時間を稼ぎつつ、デカい一撃をお見舞いしよう)
アキユキは翼を広げた。
その瞬間、ナクセナザムドの残る五本の腕が一斉に動いた。
掴もうとしている。
六本の腕が、空中のアキユキを包囲するように迫る。
巨大な掌が、上から、横から、下から、ゆっくりと閉じていく。
普通の相手なら、それだけで逃げ場を失うだろう。
だが、アキユキにとっては違った。
遅い。
圧倒的な質量と範囲を持つがゆえに、動き出しが遅い。
そして、掴むという単純な動作しかしていない。
力に身体が追いついていないのだ。
(まだ適合しきってない、が……あと、どれだけ猶予が残されているか……)
かつてのヒルケン皇帝が脳裏に浮かぶ。
あの巨大なザムドも、最初から完全ではなかった。
戦いの中で成長し、自らの力に適合していった。
空を裂く生命電流砲の弾幕も、暴力的な突進も、戦いの中で精度を増していった。
ならば、このナクセナザムドもきっと同じだ。
元になったナクセナは、もともとヒルコやプラーナの流れを感知する能力に長けていた。
それが《邪悪なる真正ヒルコ》と融合し、さらに魂とプラーナを食い続けている。
成長する。
間違いなく。
(……やはり短期決戦。他に手はない)
六本の腕が閉じる直前、アキユキは真下へ落ちた。
掌同士が衝突し、空が震える。
その衝撃で黒い雲が渦を巻いた。
アキユキは落下の勢いを利用してナクセナザムドの胸元へ迫る。
途中で身体を反転。
翼を畳み、矢のように加速する。
(プラーナは極力温存したい……けど、牽制くらいはすべきか)
右腕を突き出す。
生命電流砲を三連射。
一発目が左肩を抉る。
二発目が胴体を貫く。
三発目が頸部の外殻を削り取る。
ナクセナザムドの巨体がわずかに傾いた。
しかし、すぐに再生が始まる。
白い外殻が蠢き、瞬く間に傷口が塞がっていく。
「大した再生速度じゃないか」
アキユキは攻撃後の反動を殺しながら、巨体の背後へ回る。
「まぁ……狙いどころが分かりやすいのは有難いね」
額の赤いヒルコ。
傷を負うたび、必ずあそこが脈打つ。
再生の中心。
侵食の起点。
ナクセナの心の虚構と、
アキユキは胸の奥でプラーナを練り始めた。
少しずつ。
戦いながら。
消耗を抑え、余剰を一点へ集める。
ナクセナザムドが振り向く。
六本の腕が再び伸びる。
アキユキはそれを避けた。
右へ、下へ、背後へ。
巨腕の隙間を縫い、時に指の間を高速ですり抜ける。
その動きは、巨大な怪物から見れば羽虫のようだったかもしれない。
だが、その一匹の虫は、決して捕まらない。
アキユキはさらに生命電流砲を撃ち込む。
今度は膝。
次に脇腹。
続けて肩の関節。
巨体のバランスを崩すための攻撃。
痛みを与えるためではない。
注意を散らし、動きを誘導し、額への射線を作るための布石。
ナクセナザムドの白い身体に、いくつもの穴が開く。
だが、そのすべてが瞬く間に塞がっていく。
(……ダメだな。やはり、決定打にはなりそうにない)
分かっていた。
だが、実際に見るとやはりキツイ。
これほどの攻撃を受けても、ナクセナザムドは倒れない。
怯みはする。
遅れはする。
しかし、ダメージにはならない。
ナクセナザムドの額のヒルコが、また脈打った。
その瞬間、アキユキは違和感を覚えた。
「……?」
次の腕が、予想より早く来た。
先ほどまでなら、肩の動きで軌道を読めた。
腕が振り上がり、肘が遅れて動き、掌が迫る。
その間に十分な隙があった。
だが今の腕は、違った。
アキユキが移動しようとした先へ、先回りするように伸びてきた。
「っ!」
咄嗟に翼を捻り、ギリギリで回避する。
白い指先が、彼の外殻をかすめた。
たったそれだけで、肩の一部が弾け、プラーナが散る。
(まさか……先回りされた?)
ナクセナザムドの顔が、ゆっくりとアキユキを追っている。
目ではない。
視線ではない。
額の赤いヒルコが、こちらを捉えている。
アキユキの背筋に冷たいものが走った。
(……!!そういうことかよっ……!)
ナクセナの能力。
ヒルコやプラーナの流れを読む力。
それが、戦闘の中で武器へと変わり始めている。
アキユキは再び加速した。
ナクセナザムドの周囲を高速で旋回する。
上下左右、絶えず軌道を変え、生命電流砲を散らすように撃ち込む。
普通なら対応できるはずがない。
百メートルを超える巨体が、これほど小さく速い相手を正確に追えるはずがない。
だが、ナクセナザムドは徐々に追いつき始めていた。
最初は空振りだった腕が、次第に近くをかすめる。
次に、逃げ道を塞ぐ。
さらに、アキユキが撃つ直前の姿勢へ反応する。
「ちっ……!」
アキユキは急降下し、湖面すれすれを飛ぶ。
水面が黒く濁り、侵食の波が広がっている。
そこへ近づくのは危険だ。
だが、巨体の腕を誘導するには使える。
ナクセナザムドの六本の腕が湖面へ突き込まれる。
黒い水柱が立つ。
アキユキは水柱の影を利用し、巨体の真正面へ抜けた。
額のヒルコが見える。
今だ。
胸の奥に溜めたプラーナを右腕へ回す。
生命電流砲とは違う。
もっと太く、もっと密度の高い一撃。
音速の弾丸ではなく、貫通と破砕を目的とした槍。
蒼白い光が腕の先端に収束する。
「――そこだ!」
アキユキは撃った。
蒼白い槍が夜空を裂き、赤いヒルコへ一直線に向かう。
――徹甲式生命電流砲。
だが、着弾の直前。
ナクセナザムドの二本の腕が額の前へ割り込んだ。
「これを防ぐのか……!」
光の槍は白い腕を貫いた。
一本目を砕き、二本目を半ばまで抉る。
着弾して一拍置いた後、放たれたプラーナの弾が破裂した。
ナクセナザムドの巨体を覆いつくすほどの大爆発だった。
だが、赤いヒルコには届いていない。
砕け散った腕は、瞬く間に再生していく。
アキユキは奥歯を噛みしめた。
偶然ではない。
完全に反応していた。
こちらがヒルコを狙うと判断し、その射線に腕を置いた。
つまり、ナクセナザムドはもう、守るべき場所を理解している。
戦いながら成長している。
しかも、その速度が異常だった。
(全てにおいて、あのヒルケン皇帝を上回っている……!)
認めざるを得なかった。
かつてのヒルケン皇帝は、巨大な力を持ちながらも空虚だった。
魂を持たず、世界への憎しみで暴走していた。
だがナクセナザムドは違う。
ナクセナ自身の異常な感知能力がある。
それらが《邪悪なる真正ヒルコ》と結びつき、想像を超える速度で戦闘へ適応している。
このまま続ければ、近いうちに捕まる。
捕まれば終わりだ。
(くそっ……このままじゃ、完全にジリ貧だ……!)
決めるしかない。
今使える全てのプラーナを一点に集め、額の赤いヒルコへ叩き込む。
外せば終わり。
防がれても終わり。
今回ばかりは自分の身体も、無事では済まないだろう。
だが、それ以外に手はない。
アキユキは急上昇した。
ナクセナザムドの六本の腕が追う。
だが、アキユキはそれらを振り切るように、さらに高く、高く飛んだ。
聖地が下へ遠ざかる。
胎動窟が黒い穴のように見える。
巨大なナクセナザムドの全貌が、ようやく視界に収まる。
百メートルを超える白い巨体。
六本の腕。
赤いヒルコ。
足元に渦巻く黒い奔流。
その姿は、まるで世界の終末に現れた白い死神だった。
アキユキは上空で静止し、全身のプラーナを集める。
翼から。
四肢から。
外殻の奥から。
魂の導き手として千年を歩いてきた、その存在の中心から。
蒼白い光が、彼の周囲に輪を作る。
大気が震え、雲が裂ける。
夜空に、一等星のような輝きが灯った。
だが、その瞬間。
下方で、ナクセナザムドの巨体が大きく脈打った。
(……なんだ?何をしている?)
次の瞬間、アキユキは目を見開く。
白い巨体の背中に、黒い亀裂が走る。
そこから光が漏れた。
いや、光だけではない。
黒い怨嗟と、白い外殻と、赤いヒルコの脈動が混じり合い、巨大な翼の輪郭を形作っていく。
一枚。
二枚。
三枚。
そして、さらに三枚。
六つの翼が、ナクセナザムドの背に広がった。
「はは……ウソだろ……」
アキユキの乾いた笑いが漏れる。
それは、かつてヒルケン皇帝が見せた光の翼に似ていた。
だが、それよりも遥かに神々しく――禍々しい。
一枚一枚が、百メートルを超えるナクセナザムドの身体を包み込むほど大きい。
羽根の縁は光を帯びているのに、内側は底なしの闇を抱えていた。
純白と漆黒が入り混じった、神聖で邪悪な翼。
六つの翼が、一斉に開く。
聖地の空気が爆ぜた。
胎動窟周辺の黒雲が渦を巻き、湖面が裂ける。
次の瞬間、ナクセナザムドの巨体が浮いた。
(――何て力だ……あの巨体を飛ばせるとは……!)
巨体が、空へ上がる。
ありえない速度ではない。
だが、その質量が空を昇るという事実そのものが、世界の理から反している。
ナクセナザムドは、赤いヒルコを輝かせながら、アキユキを追ってくる。
六つの翼を広げて。
純白と漆黒の羽根を撒き散らしながら。
アキユキは、上空で歯を食いしばった。
距離を取って一気に決める。
その作戦は、もう崩れた。
ナクセナザムドはもはや、地を這う怪物ではない。
まるで、天空から下界を見下ろし、世界の終末を告げる堕天使のようだった。
「……君は神にでもなるつもりなのかい?ナクセナ」
終末の堕天使が、夜空へ昇ってくる。
それを迎え撃つように、蒼白い一等星がさらに強く輝いた。