蒼白い一点が、夜空を貫いた。
それは砲撃と呼ぶには細すぎた。
光線と呼ぶには鋭すぎた。
アキユキが今この身に残した、すべてのプラーナを一点へ圧縮した、針のような生命電流砲。
それが、ナクセナザムドの額に宿る赤いヒルコへ向けて放たれる。
刹那――
ナクセナザムドが反応した。
赤いヒルコが、血の泡のように激しく脈打つ。
アキユキが何をしようとしているのか、理解したのだ。
いや、理解したのは
その奥にいるナクセナもまた、気づいた。
六本の腕のうち、二本が一瞬で裂ける。
掌から、肘から、肩口から、無数の白い触手が噴き出し、アキユキを包囲するように広がった。
残る四本の腕は、額の赤いヒルコの前へと殺到する。
巨大な白い腕が、盾のように幾重にも重なり、射線を塞ぐ。
月明かりが遮られる。
空が白い外殻に覆われる。
アキユキの視界の先から、赤いヒルコが消えかける。
だが、遅い。
ほんの一瞬だけ。
アキユキが完全に包囲されるよりも。
四本の腕が完全に重なり切るよりも。
蒼白い一点が放たれるほうが、わずかに早かった。
「――行けぇぇぇぇぇッ!!」
アキユキの叫びとともに、圧縮された生命電流砲が解き放たれる。
光は太くない。
直径にして一メートルほど。
百メートルを超えるナクセナザムドの巨体を思えば、あまりにも細い。
だが、その一メートルに、アキユキの全てが詰め込まれていた。
千年分の迷い。
千年分の祈り。
救えなかった者たちの声。
そのすべてを、一本の線へ変えた。
蒼白い光が、最初の腕に触れる。
触れた瞬間、白い外殻が音もなく穿たれた。
破裂ではない。
焼失でもない。
まるで最初からそこに穴があったかのように、生命電流砲は腕を貫通する。
一本目。
二本目。
三本目。
巨大な腕が、次々と穴を開けられる。
黒いプラーナが吹き出し、白い外殻が裂ける。
それでも光は止まらない。
四本目の腕が、赤いヒルコの直前で最後の壁となる。
ナクセナザムドの赤いヒルコが、狂ったように脈打った。
黒い防壁が展開される。
四本目の腕の内側から、さらに触手が生え、光を絡め取ろうとする。
だが、蒼白い針はそのすべてを貫いた。
「届け……!」
アキユキの喉が裂けるほどの声。
そして、光が赤いヒルコへ到達した。
直撃。
夜空が、一瞬だけ白く染まった。
ナクセナザムドの巨体が大きく仰け反る。
――――――――――――ッッ !!
これまでどれほど攻撃を受けても、声らしい声を発しなかった怪物が、その瞬間、初めて悲鳴を上げた。
それは金切り声だった。
金属を裂くような。
獣の断末魔のような。
そして、どこかで少女の泣き声にも似た。
空が震える。
黒雲が弾け、月が歪む。
地上の聖地跡へ、衝撃波が叩きつけられ、枯れた大地がさらに砕けた。
赤いヒルコの表面に亀裂が走る。
一本。
二本。
三本。
血のような赤い光が裂け目から漏れ出し、黒い怨嗟と混ざり合う。
ナクセナザムドの六枚の翼が乱れ、純白と漆黒の羽が嵐のように飛び散った。
(よし、このまま……!)
届いた。
確かに届いた。
アキユキは全身を軋ませながらも、右腕から生命電流砲を放ち続けた。
赤いヒルコを砕く。
砕いて、ナクセナと
その先に何があるかは分からない。
何があろうと、必ず決めきってみせる。
だが、ナクセナザムドもまた、黙ってはいなかった。
ヒルコに直撃を受けたまま、六本の腕が一斉に蠢く。
二本の腕から分裂した触手の群れが、背後からアキユキへ殺到した。
すでに逃げ場はなかった。
アキユキは撃っている。
全身のプラーナを右腕へ流し込み、ヒルコを貫くことだけに集中している。
いま移動すれば、射線がずれる。
一瞬でも逸れれば、ヒルコの再生が始まる。
だから、動けない。
「ぐっ……!」
最初の触手が、アキユキの左腕に絡みついた。
凄まじい力だった。
ただ巻きつかれただけで、外殻が軋む。
骨の芯まで押し潰されるような圧力が走る。
続けて、二本目が胴へ。
三本目が右脚へ。
四本目が翼へ。
五本、十本、二十本。
無数の白い触手が、アキユキの身体へ絡みついていく。
それは抱擁にも似ていた。
だが、そこに温もりはない。
ひたすら強く、逃がさないためだけに締め上げる、飢えた執着。
アキユキの全身に激痛が走った。
外殻が割れる。
青白いプラーナが漏れる。
翼の一枚がねじ曲がり、肩から嫌な音がした。
「がっ……!?ぐあああああああああッ!!」
それでも、右腕の光は止めない。
止められない。
ナクセナを救うこと。
いまのアキユキにとって、それは自分の命より重かった。
ナキアミの制止を振り切った。
ナクセナの叫びを振り切った。
その果てにここまで来た。
ここで止めたら、本当に何も残らない。
「ぐっ、まだ……まだだ……!」
赤いヒルコの亀裂が広がる。
中心部にまで、蒼白い光が食い込んでいる。
黒い防壁が砕け、赤い表面が剥がれ、内側に渦巻く
あと少し。
あと少しで、届く。
アキユキは歯を食いしばる。
触手の締め付けがさらに強くなる。
背中の翼が一枚、完全に潰れた。
脚の外殻に亀裂が走り、視界の端が白く明滅する。
それでも、止めない。
赤いヒルコが、今にも決壊しようとしていた。
その瞬間だった。
声が、聞こえた。
『――いや』
それは、ナクセナザムドの金切り声ではなかった。
《邪悪なる真正ヒルコ》の怨嗟でもなかった。
少女の声だった。
『いや……いやぁ……!』
アキユキの瞳が見開かれる。
その声は、ヒルコを通じて直接流れ込んできた。
防ぐことも、聞かなかったことにすることもできない。
ナクセナの声。
怪物ではない。
教祖でもない。
天女の偽物でもない。
一人の少女の、魂からの悲鳴だった。
アキユキの右腕が、わずかに震えた。
『痛い……怖い……助けて……』
胸が張り裂る感覚になった。
いま撃っているこの光が、ナクセナを殺すかもしれない。
切り離すつもりだった。
止めるつもりだった。
救うための一撃だった。
ナクセナの声が、泣いていた。
『消えたくない……!』
その刹那―――
アキユキは躊躇ってしまった。
その一瞬だった。
生命電流砲の出力が、ほんのわずかに落ちた。
本当に、わずかだった。
迷いと呼ぶにも小さい。
ためらいと呼ぶにも短すぎる。
けれど、ナクセナザムドにとっては十分だった。
赤いヒルコが、脈打つ。
亀裂の奥から、黒いプラーナが爆発的に噴き出した。
砕けかけていた外殻が、内側から盛り上がる。
蒼白い光を押し返すように、赤黒い防壁が再構築される。
「しまっ……!」
アキユキはすぐに出力を戻そうとした。
だが、戻らない。
もともと万全ではなかった。
邪悪なる真正ヒルコにプラーナを喰われ、音速機動で削られ、触手に全身を締め上げられている。
一度でも緩めた全力を、再び同じ高さまで引き上げる余力など、もう残っていなかった。
「くそっ……ここまで来て……!」
右腕の光が揺れる。
赤いヒルコの亀裂が、少しずつ閉じ始めた。
蒼白い針が、奥へ進まない。
逆に、じりじりと押し戻されていく。
「まだ……まだ、終わってない……!」
アキユキは吼えた。
触手が首元へ絡みつく。
胸部を締め上げる。
腕を固定する。
右腕の射線をずらそうと、何百もの力が集中する。
全身が砕けそうだった。
痛みが、思考を白く染める。
それでも、アキユキは出力を維持しようとした。
だが、蒼白い光は細くなる。
針のように研ぎ澄まされた一撃が、少しずつ解けていく。
赤いヒルコが、さらに強く脈打つ。
まるで、笑うように。
(あ………)
その瞬間、アキユキは悟ってしまった。
――また、しくじった。
殺したくなかった。
助けたかった。
だから一瞬、躊躇った。
その一瞬が、全てを奪った。
赤黒い防壁が、ついに蒼白い光を完全に押し返した。
生命電流砲が弾ける。
夜空に、蒼白い光が散った。
赤いヒルコの表面には、大きな亀裂が残っている。
だが、砕けてはいない。
核には届かなかった。
アキユキの最後の一撃は、防がれた。
「……っ」
右腕から光が消える。
同時に、アキユキの身体から力が抜けた。
触手の締め付けだけが、さらに強くなる。
彼の身体は完全に絡め取られ、空中で吊り下げられるように固定された。
ナクセナザムドの巨大な顔が、ゆっくりと近づく。
右腕は垂れ下がり、先ほどまで極限まで絞り込まれていた蒼白い光は、指先から完全に失われている。
背の光羽は半ば潰れ、幾枚かは輪郭すら保てず、燃え尽きた燐光のように空へ散っていた。白い外殻には無数の亀裂が走り、そこから漏れるプラーナは、もはや光というより、命の残滓に近かった。
もう、指一本動かせない。
触手が絡みついているせいだけではない。
今の一撃に、残っていた力のほとんどを注ぎ込んでしまった。
ナクセナザムドのヒルコに届いたはずだった。
あと一歩だった。
あと一歩で、止められたかもしれなかった。
だが、止めきれなかった。
アキユキは、ゆっくりと顔を上げる。
目の前には、傷ついた赤いヒルコがある。
表面には深い亀裂が刻まれ、そこから赤黒い光が滲んでいる。
確かに痛手は与えた。
だが、砕けてはいない。
ナクセナザムドは、静かに彼を見下ろしていた。
怒っているようにも見えた。
泣いているようにも見えた。
あるいは、そのどちらでもないのかもしれない。
六本の腕のうち、生命電流砲を受け止めた四本が、ゆっくりと持ち上がる。
貫かれ、穿たれ、穴だらけになった腕。
しかしその傷口は、黒いプラーナを吸い上げながら、すでに再生を始めていた。
四つの掌が、アキユキへ向けられる。
(はは……これは助かりそうもないな……)
四本の腕の掌に、膨大で眩いプラーナ光が集まり始める。
それは生命電流砲だった。
いや、生命と呼ぶにはあまりに強大すぎた。
ナクセナザムドが喰らった魂。
胎動窟のプラーナ。
アニマ=ノアに呑まれた黒い影たちの怨嗟。
そして、ナクセナ自身の空虚。
それらすべてが、四つの掌に凝縮されていく。
大気が震えた。
月明かりが歪む。
周囲の黒雲が引き裂かれ、しかしすぐにプラーナの光に染め上げられる。
遥か眼下の聖地跡で、枯れた大地が震えている。
あれを受ければ終わり。
そんなことは分かっている。
避けることも、防ぐこともできない。
抵抗する力すら残っていない。
今のアキユキは、断頭台に立たされた罪人だった。
首を差し出し、刃が落ちるのを待つだけの存在。
自分の罪状も、判決も、そのどれもが明白だ。
――救えなかった。
満月のような髪の少女。
自分とナキアミの伝承を読んでいた少女。
喫茶店の窓際で、静かに笑っていた少女。
「ごめん……ごめんよ……ナクセナ……」
唇から漏れたのは、それだけだった。
アキユキは、目を閉じなかった。
これから来るものを、真正面から受け止めるつもりだった。
逃げる資格などない。
四つの掌に集まった光が、限界まで膨れ上がる。
緑の球体の中心に、細い蒼白が混じっている。
皮肉なことに、それは先ほどアキユキが放った生命電流砲の残響を喰らい、取り込んだ光だった。
ナクセナザムドの額のヒルコが、最後に大きく脈打つ。
そして――
四本の腕から、渾身の生命電流砲が放たれた。
世界が、削り取られた。
音は遅れてやってきた。
まず光があった。
プラーナの奔流が、夜空そのものを裂き、アキユキの身体を呑み込んだ。
その光は、聖地近郊の空だけにとどまらなかった。
北大陸全体の夜空に、巨大な傷跡のような緑の閃光が走る。
遠く離れた街々で、人々が窓を開け、空を見上げる。
山脈の向こうでも、海辺の集落でも、灰色の雲の裏側が終末の色に染まる。
まるで大陸そのものが、断末魔の光を上げているかのようだった。
アキユキは、その奔流の中にいた。
触手は、彼を逃がさないために絡みついたままだ。
生命電流砲の奔流が、触手ごと彼の身体を焼き、削り、剥がしていく。
痛みは、最初にあった。
次に、それすら遠くなった。
外殻が砕ける。
翼が消し飛ぶ。
白いザムドの身体が、膨大なプラーナの中で少しずつ崩れていく。
その中で、アキユキの脳裏に、無数の景色が流れていった。
◇
――自分は、ただ応えたかった。
皆の願いに。
託された想いに。
死者の声に。
生者の祈りに。
どれだけ歳月が過ぎても、人の願いは尽きない。
誰かを想う気持ちは失われない。
たとえ肉体が滅びても、言葉が薄れても、想いは次の誰かへ渡っていく。
それを証明したかった。
自分が歩き続けることで。
千年という時間を越えても、なお人は変われるのだと。
間違えても、もう一度立ち上がれるのだと。
迷いながら生きることこそが、人の美しさなのだと。
それを信じたかった。
けれど――
自分は弱かった。
非情になりきれなかった。
甘さを捨てきれなかった。
肝心なところで迷い、手を止め、選び損ねた。
ナクセナを救いたかった。
だから撃ち切れなかった。
ナキアミを守りたかった。
だから彼女の声を振り切った。
――結果、全てを取りこぼした。
緑の奔流の中で、アキユキの意識が薄れていく。
自分は、何のために生きてきたのだろう。
千年。
あまりにも長い時間だった。
その時間に意味はあったのか。
受け取った想いを、ちゃんと繋げたのか。
自分は本当に、誰かを導けたのか。
分からない。
もう、何も分からない。
ただひとつだけ、確かなものがあった。
――ナキアミと出会えて、本当によかった。
それだけは、決して嘘ではない。
彼女と出会わなければ、自分はザムドのまま暴走した挙句、物言わぬ石くれと成り果てていた。
ナキアミがいたから、自分は生き延びることができた。
故郷へと帰還し、竹原ハルという良妻にも恵まれ、平穏な暮らしを取り戻すことができた。
自分と向き合い、迷い苦悩し続け、己の弱さに打ち克っていく人間の美しさを知った。
けれど。
――きっと、ナキアミにとっては、そうではなかった。
彼女が救ったザムドは、自分であるべきではなかった。
魂の導き手という役割を担ったのが、自分でなければ。
もっと強く、もっと賢く、もっと迷わず誰かを救える者であれば。
ナキアミは、置き去りになどならなかった。
ナクセナも、こんな怪物にならずに済んだ。
黒い影たちも、きっと救われた。
すべてを失わずに済んだ。
――俺じゃ、なければ。
その思考が、最後の支えを折った。
アキユキの中で、自分という輪郭が崩れていく。
名前。
役割。
願い。
約束。
それらがプラーナの奔流に削られ、溶け、遠ざかっていく。
自分が、消えていく。
《竹原秋幸》
その音が、遠い水底に沈んでいく。
誰かが呼んでいた気がする。
泣きながら。
怒りながら。
どうか戻ってこいと。
だが、その声の持ち主が一体誰だったのか、もう思い出せない。
生命電流砲の奔流が、ようやく途切れた。
夜空に、緑色の残光だけが残る。
触手が緩む。
支える力を失った白い身体が、空から落ちていく。
ザムドの外殻は、完全に剥がれ落ちていた。
腕も、脚も、胸も、白い殻は砕け、人としての輪郭が剥き出しになっていた。
だが、顔だけは違った。
白いザムドの顔が、彼の顔面を覆っていた。
それは表情のない顔だった。
泣きも笑いもしない。
怒りも悔恨も映さない。
ただ空っぽの白。
――……何だっけ……俺の、名前……。
名前を失い、最後の殻を残した忘我のザムドは、荒れ果てた聖地へ向かって墜落していった。
◇
月明かりの下。
蒼白い一等星だったものが、墜ちていく。
荒れ果てた聖地の地上で、その様子を見上げているモノがいた。
一体の黒い影。
あるいは、かろうじて流れから外れたのか。
理由は分からない。
その影は、崩れた祈りの札のそばに立ち、空から落ちてくる白いものを見つめていた。
かつて救いを求めて伸ばした腕を、今度はゆっくりと上げる。
それが祈りだったのか。
助けようとする仕草だったのか。
あるいは、ただ目の前の光が消えていくことを惜しむ、本能的な動きだったのか。
誰にも分からない。
ただ、黒い影は、落ちていく白い仮面を見上げながら、かすかな声を漏らした。
「アレハ…………」
その声は、風にさらわれて消えた。