ネロファウなのかもしれない
夜の帳が降りて久しいというのに、魔法舎の倉庫の灯りはまだ消えない。
響くのは乾いた葉を擦る音と、煎じた薬の香り。
その中に、ファウストの微かな息づかいが混じっていた。
「⋯⋯まだ起きてたのか、先生。」
ネロは戸口に立ったまま、声を落とす。
小さな木製の机の上には調合しかけの瓶がいくつも並び、ファウストはその1つを指で回しながら、疲れた笑みを見せた。
「⋯⋯眠れないだけだ。次回の難解な授業を、どうやって君たちに説明しようか考えていたんだ。
⋯⋯そのほかにも、色々と。」
「なんか、すみません。
だけど、そうやって、無理をするのは良くないぜ。先生。
《アドノディス・オムニス》。」
ネロはゆっくり近づき、ファウストの魔法の灯りを大きくした。
橙の光がファウストの髪と頬とを照らすと、淡い影がその頬を撫でた。
その光景が、ネロの胸をひどく掴む。
ファウストはいつもこうだ。
自分を削って誰かを助ける。
知らなかった大昔も、今も、変わらず。
その優しさが、時に痛いほど眩しい。
「⋯⋯ここ。火傷してる、先生。
手、見せてくれ。」
ファウストが抵抗する前に、ネロはその手を取る。
小さな火傷。薬を扱ううちについた跡だろう。
細く白い指先を撫でると、わずかに震えが返ってくる。
「⋯⋯ネロの手は冷たいな。髪色のせいか?」
「はは、多分関係ねーよ。
冷たいのは⋯⋯先生の手は、あったかいからかな。」
そう言った声が、あまりにも静かで。
ファウストは思わず、顔を上げる。
視線が交わる。
その瞬間、時間が止まったようだった。
触れてしまえば、壊れるかもしれない。それでも。
ネロはそっと、ファウストの頬に手を添える。
薬草の香りと、夜の湿気。
すべてが溶けていくような錯覚の中で、触れるような優しいキス。
短く、深く。
ファウストは何も言わなかった。
ただ瞳を伏せ、少しだけ微笑んだ。
それだけで、ネロの心はどうしようもなく揺らいだ。
ファウストの指が、まだわずかに震えていた、
触れた唇の温度が、熱となって残っている。
ネロは何も言わず、ただその手を見下ろしている。
しばらくの沈黙ののち、ファウストはふっと息を吐く。
「⋯⋯ありがとう、ネロ。」
それだけを言って、背を向けた。
ネロが倉庫から遠ざかるたび、薬草の香りが静かに薄れていく。
ファウストは追いかけなかった。
代わりに、自分の胸元をそっと抑えた。
まるで、そこに灯を隠すように。
戸口に残りわずかな予熱だけが、ふたりが確かに触れ合った証のように漂っていた。