風に呼ばれた気がした

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夜凪

 午前一時。スマートフォンの電源を落としたのは、随分と久しぶりの事だった。

 ひやりとした潮風が肌を撫でる。いつの間にか、夏も終わりだ。

 

 無音かと思えば、時折流れる風切り音。

 優しく揺れるさざ波と、裸足を掴む砂の粒。

 きっと、ここにはあたし一人だけ。

 

 潮風に靡く前髪をかき分けて、遠くの水平線に目を凝らす。

 月夜と灯台。車道を照らす街路樹と、ポツポツとだけ残る民家の窓に灯る明かりに照らされるだけのここでは、少しわかりづらい。水面には不格好な月が浮かんでいる。

 いっそ、歩いていけないだろうか。あの月も綺麗にしてあげたい。

 ふつと湧き出たこの気持ちは、直ぐに冷めるんだろう。

 

 ただ、時間が過ぎる。

 身のない行動。携帯だけのポケット。伸びきった爪。

 どうしてこうなったんだっけ。

 家の事。バンドの事。大学の事。

 いつ、何が原因で、どれが問題で。全てに心当たりはあるのに、何が心当たりなのかさえわからない。

 気が付いたら、ご飯が喉を通らなくなって、部屋から出られなくなって、起き上がれもしない日さえできて。

 

 温度の感じない部屋のライトなんかより、月夜の明かりは心地良い。

 随分とみすぼらしい見た目になったなんて、一瞬だけ脳裏をよぎる。誰もいないのに誰かに見られたらとか、まだ思えるんだ。いや、そんなことだけしか思ってないっけ。

 

 頭の中がまたぐるぐると回り始める。動けるうちに、足が動くうちに。

 もう少し軽くなりたくて、波打ち際より少し遠く。波に濡れないようにサンダルを並べて、その上にスマホを置く。

 おお、身軽。なんだか、戻ったような、やっぱり違うような。

 らったった、とステップを踏んでみる。前までのあたしならこんなことをしなかったんだろうな。

 

 夜の海に入ると、何かに足を引っ張られるらしい。

 誰にだろうか。この海水浴場で水難事故にあった霊なのか、あるいは、もっと昔からの話らしい。

 北欧神話では、ラーンって神様が足を引っ張って人を捕まえるとか。名前が似ているって、モカが震えておちょくってきたのを思い出す。

 

 神様なんていうのは、無常なのか、適当なのか。

 美しい花は手元に置きたいからと、若い才能を早くに消したり。

 かと思えば、たまたま自分の近くを通った旅人を海に引きずり込んだり。

 そんな空想話を信じたことなんてなかったのに。今のあたしは現実とは違うところにいるようで、なんだかそこに近い気がしている。

 

 風に呼ばれた気がする。

 海に呼ばれた気がする。

 どこかに。

 呼ばれたいと、思った気がする。

 

 海に進んでみる。

 向かい風に向かって。砂を踏んで。三歩。

 指先に触れた波は、思っていた何倍も冷たかった。

 ズボンの裾を膝まで捲りあげて、濡れないようにと強めに留める。

 

 

「つめたっ」

 

 

 指先。

 足首。

 脛。

 

 神様は足を掴んでは来なかった。こんな浅瀬には来ないか。

 冷たさが痛みに変わっていく。

 海水に沈む足先に向かって、血であろうものが体内を駆け巡る感じ。

 

 今、まだ生きている。

 優しい波を感じて、この先まで行けば、多分。

 

 追い風を背に、乾いた砂浜に素足を付ける。

 乾いた足には興味も示さなかったの砂の粒が、風に乗って濡れた肌にまとわりつく。

 手で払おうにも、そうすれば今度は濡れた手のひらに砂が付く。何かで拭こうにも、残念ながら何も持ってきていない。

 

 浅く、ため息を吐く。

 エモそうな場所って言うのも、慣れてきてしまえばなんてことない。都会より、不便だ。肝心な景色だって、思ったより暗くて雰囲気もない。

 

 なんで今、思い出すんだろう。高校に上がってすぐの頃だっけ。

 ひまりがインスタで見たっていう、ものすごい大きいパフェが出るってカフェ。

 目の前に現れた巨大パフェに驚く間も無く開かれた、口うるさい写真タイム。

 ようやく終わったかと思えば、間髪入れずに、ひまりとモカがそれぞれとんでもない大きさのパフェに食らいついて、呆れながらあたしはつぐと巴と三人で一つのを分けて。

 それぞれのペースで食べていたはずなのに、一切手が止まらなかったひまりとモカが、そっちのも欲しいとか、私たちのもあげるとかで。結局、みんなでパフェをシェアした挙句、モカとひまりが二つと半分くらいを平らげたんだっけ。

 次の日から、暫くひまりのお昼ごはんが残念なことになってたから覚えている。モカのは変わらなかった。

 

 写真、まだ残ってたっけ。

 スマホ、もう遠くだもんな。久しぶりに見てもいいかも。でも、今は良いや。

 

 足首に付いた砂は、気が付けば乾きかけていた。じっとりと張り付いていた砂が、空気と緩やかな風に吹かれて、ピタリと張り付く。

 さっきまでしつこい様相だったのに、手で払えば、簡単に落ちてしまう。

 なんだ、こんなに簡単に落ちちゃうんだ。

 

 もうどれくらいここにいるんだっけ。

 波打ち際のギリギリを歩いたり、潮風を大きく吸い込んでみたり、真っ暗な水面を見つめて魚を探してみたりもした。

 じっと海を見つめたら良からぬものが顔を出して、あたしを何処かに連れていくかもなんて、少し耐えてはみたけど、本当に何も起きなかった。

 

 じっとしていても何も無いし、歩くのにも飽きてきた。

 ずっと寝てばかりだったからだろう。久しぶりの感覚だ。息が切れるわけではないし、いつもみたいに体に力が入らないわけではないのに、健全な倦怠感。

 

 寝てばかりで部屋から出ないと気が滅入るって言うのは、事実に近いらしい。

 外に出て、歩いて、風を感じて、空気に触れて。

 生きているという実感は、案外簡単にできる。

 こんなに全身の感覚に意識が向いているのなんて、何時以来だろうか。

 余計なことに意識を取られすぎていて、大事なものを見失っていたのかな。今更だよね。そんなこと。

 

 夜の海自体は悪くないけど、これ以上やることも見るものもしたいことも、何もなくなった。

 なにもないのにここに来た。その割には、よく持った方だ。

 今現在、体感の時刻は深夜二時。

 

 

「……帰れないじゃん」

 

 

 終電はない。

 行きは人を避けるように夜遅くに出たんだから、当然だ。帰りの事なんて考えていなかった。ただ、夜の海に行けば少し楽になるような気がして。

 あたしの中にずっといる、明確な何かから逃げたくて。遠くに行きたくて。自分から離れたくて。

 自分の体、道案内のスマホ、それだけを持って、両親の気配が薄まった隙に逃げ出した。

 帰れるだけの残高が入っていたかなんて、全く覚えていない。最後に使った記憶自体、思い出せないんだから。

 

 肌が震える。

 風に吹かれて、心が震える。

 足元の砂を払って、座り込む。膝を抱えて少しでも暖かくと思うが、部屋着のジャージなので特に変わらない。

 さっきまで心地よかった孤独感が表情を変える。笑っていたはずだろう。見たことも無い表情が、暗く、より暗く。

 見えない海の底に変わる気がするのに、海はずっと変わらない。体育座りで睨んでみるが、ずっと変わらない。いつまで経っても暗いまま。

 

 ──── 一人か。

 

 あれ、声が出なかった。

 まぁ、いいか。今更、珍しいことでもなくなった。

 

 真夜中の海辺で独りぼっち。良い詞でも浮かびそうなものだけど、不思議と一つも湧いてこない。

 止まない波に、時たま風の鳴き声。

 そこの一部になれそうな気がするけど、きっとあたしは一生なれないんだ。

 

 ざざん、ざざん、と規則的な、少しずれているような。強弱があって、メロディではない。

 風切り音は、もうあたしを海に誘うことはない。

 不思議と眠たくはならなかった。ただ、瞼はいつの間にか降りていた。

 視界が消え、耳だけに流れてくる。

 波。

 風。

 

 

「旅のお方」

 

 

 声。

 

 うずくまっていたところから目を開けると、変わらずの砂浜。

 知らない何処かから、風が背を撫でる。

 

 

「こちら、お忘れものではございませんか~」

 

 

 これは、聞き馴染みのある。

 あまりにも、あの日通りの。

 

 作り上げた偶然よりも自然に、体が動いた。

 月明かりに照らされた、少しだけ変わった気のする彼女。

 両腕を真横に伸ばし、ひらひらと見せびらかす。それぞれに一足ずつサンダルと、右手にあたしのスマホ。

 

 目が合って数秒、少しだけ背が縮んで、いつかみたいにふにゃりと笑って見せた。

 

 あ、いや。

 

 どうしよう。

 なに、いえばいいんだろ。

 

 

「綺麗ですなぁ」

 

 

 あたしから目を離して、真っ暗な海に向かって。

 力が抜けるみたいに頷く。

 

 

「風邪、引いちゃうよ~。まー、かくいうモカちゃんも、上着もなんにも持ってきてないんだけどね~」

 

 

 また、風が吹く。

 さっきよりも冷たいと思う。顔を膝にくっつけるように、もう少し丸まって。

 

 さく、さくと五回。砂を踏む音に、とすんと降りる。

 横は向けなかった。

 浅く、呼吸音が聞こえる。

 

 モカが自分から口を開くことはなかった。

 かと言って、何かを待っているように急かすことも無くって。

 

 波。

 風。

 そして、呼吸音。

 

 流れる時間に応じて、鼓動は静かになっていく。誰かがいることに安堵を覚えたのっていつ振りだっけ。

 少しだけ、ほんの少しだけ。

 視線を左手に。

 

 あんまり、変わっていなかった。

 化粧もしていない。少しだけ髪は伸びてるけど、雰囲気はそのまま。高校生の時みたいに。

 夜を映すエメラルドグリーンの瞳は、あの時のままで。

 

 普通、こういう場合って、お互いに聞きたいことが出てくるはずなんだろう。

 どうやって来たとか、どうしてわかったとか、そんなことが。

 でも、あたしたちは何も無かった。あったんだろうけど、口に出ることは最後まで無くって。

 あたしが、この空間を壊したくなかった。

 

 ヒュッと、空気を吸うのが聴こえた。

 

 

「真夜中なのに意外と明るいんだね」

 

 

 少し硬い感じで。先に口を開いたのはモカの方だった。

 

 

「待ち合わせ場所はともちんだって相場は決まってたんですがな~。案外、遠くからでも、ちゃーんと蘭だって、すぐにわかったよ」

 

 

 いつもみたいにおどけて、少しだけ奥に堅さが見えたような。

 昔みたいに、いつもがわからないあたしには、全てが理解できないんだろう。

 モカが隣にいても、そうなのかな。

 

 

「……嘘。髪もぼさぼさだし、酷い顔してるし」

「だいじょーぶ。ほら」

 

 

 両手でぶいと作ってみせる。

 

 

「ちゃんと、蘭は蘭だよ~」

 

 

 ……なんじゃそりゃ。

 

 声にならないような笑いが漏れて。自然と目があって。

 あっ。眼、見れてる。

 

 びくりと体が反応するかと思ったけど、力の抜けたモカの表情に肩透かしを食らったというか。なんか、何ともない。

 

 

「蘭、車乗れるっけ?」

「…………免許、持ってないでしょ」

「ともちんがね、乗せてきてくれたんだ~。深夜に海辺をドライブってね~」

 

 

 車なんか見えないけど……と周りを見渡すと、あっちあっちとモカが指さす。

 堤防の上の方に、ゆっくりとライトを付けた車が動いているのが見えた。あれ、巴の車なんだ。

 腰を上げ、腰の砂を払って、車に向かってモカが大きく手を振る。

 車のライトが点滅して、見えてるよと聞こえる気がする。

 

 

「お嬢さん、良ければ俺とデートしない~?」

「ナンパの時間も相手も間違えてるでしょ」

「えへへ~。でも、ちゃんと蘭は捕まえたでしょ~?」

 

 

 あたしの足元にサンダルを置いて、優しく手が伸びてくる。

 白く、細い手。

 どうしてか、少し震える。

 この数秒が、酷く長く、あたしの背にまとわりつく。

 モカは動かず、じっと待っていてくれた。

 

 少し、ほんの少し伸ばして、触れる。

 重なった手を、壊さないようにゆっくりと握る。

 冷たい。けど、あたしよりほんの少し暖かい。

 

 引き上げる手に身を任せて、いつもよりもずっと楽に立ち上がって。

 急に握る手の力が強くなった。

 

 

「うわっ」

 

 緩やかだった時間が速まる。

 

 あたしが引き寄せられた。

 違う。

 モカがこっちに突っ込んできて、今、抱きしめられて。

 

 腕ごとしっかりと巻き込まれて、身動きが取れない。苦しいと思うほどに、その力は強かった。

 耳元で、呼吸音。

 さっきよりも浅く。さっきよりずっと近く。止まっては、吸って。不器用なリズムで。

 

 背中を手が這う。

 何度も、何度も撫でる。

 そうして、また抱き寄せられる。

 

 ちょっと痛い。やっぱり、苦しい。

 啜られたそれには、気が付かないふりをした。

 

 

「ごめん」

 

 

 口からこぼれた。

 ふりをしたけど、あたしは心をごまかすのがやっぱり下手くそで。

 

 回された手に、力が強く籠る。

 滲む痛みに身を委ねて。

 

 

「ばか」

 

 

 夜凪にただ、二人。


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