「そんなつもりではなかったが。脱がせてみたくなった」––– 藩邸に藩士の稽古相手として出入りしていた隠し刀が大久保と間違われて襲撃された。春情冷淡(欲情を感じない女)と口さがない者に噂される隠し刀と、彼女に貸した自らの着物を纏う姿に思わぬ春機を抱いた大久保の話。

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「春、感ずる(しゅん、かんずる)」

 私の妻は春情冷淡かもしれないのです。

 そんな声を酒宴の席で大久保は耳にした。多くの藩士が参加している席で声の主が誰かはわからない。酒も食事もひとしきり回って無礼講になる時間帯の話題として夫婦の情に関することは何も珍しいことではない。国許に妻を残してきた者もいれば江戸の地で娶った者もいる。どんな形であれ大切に思う家族がいるからこそお役目に邁進出来るのだ。

 だからと言って、酒の力により好奇心が膨らむ場で妻が欲情しないことを口にするのはどうかとも思う。懸念した通り周囲の者が自分が代わりにやってみようだの、他の女を紹介するだの下世話な展開になっている。口にした本人は真剣に悩んでいるのかもしれないが、酒の緩みで漏らしていいことではなかった。

「余計な口を挟んでは酒も不味くなるか」

 自分の立場で声をかければ相手が萎縮してしまうことを知っている大久保は一人手酌で酒を口にする。酒宴で話すことは全て酒の肴なのだ。所詮、翌朝覚める酔いと共に失われるものでしかない。

「だったらあの女剣士こそそうだろう」

「あんな強い女を嫁にもらったら心休まる時がない」

「あれは褥で男の首を掻き切る類の女だぞ。情がまるでないからな」

「男を拐かすには絶好の女だが、春情冷淡とは勿体ないことだ」

「石女ならばそれはそれで使い途はある」

 一角で沸いた笑いの中から酒の肴と聞き流すことが出来ない会話が大久保の耳に飛び込んできた。盃を口に運びつつ視線を向けると、大久保には背を向けた数名が盛り上がっている様子だった。素早く視線を走らせて、再び手酌で満たされる透明な液体に視線を戻す。彼らは先日の稽古で師範として大久保が呼んだ女剣士に足腰が立たなくなるほど打ち込まれていたことを思い出す。女も強ければ彼らも弱かったのである。最悪な相性で立ち会う羽目になったとしても口さがないことは言うものではないのだ。

「一杯どうだ」

 そう声をかけられて振り返った先に酒瓶片手の大久保の姿があるものだから藩士たちは驚き、すぐに姿勢を正す。慌てて空けて差し出した盃の一つ一つに酒を注ぐ。

「無礼講だ、足を崩せ」

「い、いえ、そんなことはっ!」

 注がれた側からぐいっと煽る様に、味わうこともなく消費されるだけの酒へ同情が生まれる。

「稽古の方はどうだ。手を抜かない様に頼んでいるから少々手こずっているように見えたが」

「大変有意義な稽古になっておりますっ!」

「それは良かった。近々次の稽古もある、精進してくれ」

「はっ、はいっ‼︎」

 揃いも揃って仰け反りそうなほどに背筋を伸ばしている様子に、このくらいで十分だろうと酒瓶を置いて大久保は立ち上がった。ついでに外の空気でも吸ってこようと座敷を後にする。

 故あって因縁を結んだ隠し刀である、梵と名乗った女剣士を藩士の稽古にと呼んだのは先日のことである。大久保と対等に渡り合うほどの剣士である彼女に並の藩士が敵うわけはない。だとしても女性に向けて良い言葉と良くない言葉がある。性的な魅力は持ち合わせるが欲情はしない女であるなど、他の藩士も口にしている可能性を想像しただけで頭が痛くなってくる。

「美味いものを馳走するぐらいで報いることが出来るだろうか……」

 浪人としてしがらみのない彼女が大久保の依頼を受けた条件こそが、美味い飯、だったのだ。

 

 

 それから数日後のことである。

 約束通り稽古に師範として現れた梵と名乗る女剣士は今日も今日とて藩士を片っ端から打ちのめし、良い汗をかいたと寿司を片手にご満悦の笑顔を浮かべていた。見た目は年増になろうかというような童顔であるが故に剣術で敵わぬ悔しさが増すのだが、実際は中年増でありじきに大年増も見えてくるであろう頃合いである。小柄であるが育ちは十分で、顔に大きな傷さえなければ遊郭で太夫になってもおかしくないであろう造形だ。もっとも、お猪口から溢れそうな酒を小さくすぼめた口で受け止めようとする仕草は遊女とは最も縁遠いところにいるとわかる。

「さすが江戸前寿司だ。酒も最高に美味い」

「ならば良かった」

「こんなに馳走になって良かったのか?」

「気にするな。貴公に対する無礼はこんなものでは詫びることが出来るものではないからな」

「詫び……? 何か詫びなければならぬことでもしたのか?」

「稽古で負けた藩士が、貴公を春情冷淡だと噂していた。耳には入らなかったか?」

「なんだそれは」

「婦人特有の病だ。男に欲情しない女をそう呼ぶ。石女など無礼にも程がある」

 卓子の向こう側で大久保はやたらと改まっていたが、一方の梵はちらりちらりと背後の屋台を振り返っている。落ち着いて話を聞けない様子に大久保の眉間には深い皺が増えた。

「じゃあ、詫びついでにもう一貫頼んでもいいか?」

「一貫でも二貫でも好きなだけ食え」

 大久保の言葉に喜びの声を上げた梵は屋台のおやじを呼ぶ。やがて運ばれてきた新たな寿司を満面の笑みで頬張った。

「存外間違っていないかもしれない。わたしは石女だろう」

「その様なことを言うものではない」

「わたしは隠し刀だ。子を成し命を繋ぐ様には育てられていない」

「それと石女は違う。まして春情冷淡など……!」

「大久保さんは優しい人だな」

 梵は手酌で注いだ酒をクイっと煽り笑みを大久保へと向けた。ほんのりと頬を染めた笑顔はどこか嬉しそうにも見える。

「優しいなど、そのような評価を受ける人間ではない」

「わたしの様な者を並の娘のように扱う。わたしは娘として育っていない。子の成し方も教わっていないのだ」

 ガタガタッ、と大きな音がした方向に大久保が慌てて視線を向ける。屋台のおやじが向こう脛をさすっているところだった。音のタイミングといい梵の発言に動揺したのが丸わかりだった。

「待て。今の貴公は酔っている。この話は改めて」

「そうか? 残念だ」

「長屋まで送ろう。途中で甘味が売っていればそれも買おう。団子は好きか?」

「団子かぁ、良いねぇ」

 思わぬ話の展開に大久保は慌てて梵を長屋へ連れて帰ることになった。途中で約束した通り団子を買ってやると両手に持ったそれもまた満面の笑みで頬張る。この小柄な身体のどこにそれだけの食い物が入るのか不思議でならなかった。長屋の前まで辿り着き、ようやく一息ついた大久保に梵は深々と頭を下げていた。

「ご馳走様でした。とても美味しかった」

「礼を言われるほどではない。あんなもので良ければまた馳走しよう」

「本当か!」

「あぁ、それから……」

 美味い食い物のことになると子供のように目を輝かせる女であった。だがそれも、誰かと一緒に食事をすることを覚えて初めて知ったと聞いた時に隠し刀の生い立ちに考えを至らせた。だからこれから大久保が口にする言葉の意味も彼女は理解できないであろう。何より先刻、自分で口にしているのだ。

「私は貴公が春情を持たぬとは思っていない。いずれ確認してみよう」

「あぁ、頼む」

 子の成し方を教わっていない女は、男の欲情など微塵も汲み取らずに笑顔で頷いたのであった。

 

 

 ⚪︎⚫︎⚪︎

 

 

 その夜、薩摩藩の江戸屋敷に血塗れの剣士が現れた。まるで血の雨でも浴びたかのように血を滴らせながら迫るその姿は多くの藩士に威嚇されて早々に両手を上げている。そうして目通りを求た大久保は、屋敷の奥から慌てて出てくるなりあまりにも酷い姿を目の前にして言葉を失っていた。

「襲われ……たんだな?」

 しばし思考を巡らせたあと、ようやく絞り出した言葉だった。

「私に怪我はない」

「何人斬った?」

「六人。三人は逃した、申し訳ない」

「九人も、か。逃した者の人相は?」

「もちろん覚えている」

「助かる。あとで聞かせてくれ。それから……」

 そこで言葉を濁した大久保を梵はじっと見つめていた。しばらくしても口を開く気配がないので、小さな吐息混じりで頭を掻く。

「口々に、大久保だ、天誅だと叫んでいた。相当恨まれてる様子だったが」

「誠に申し訳ない」

 深々と頭を下げた大久保をこれ以上責める気にもなれず、梵はくるりと背を向けた。とにかく一刻も早く返り血に塗れた着物から自由になりたかったのだ。その背中を大久保は慌てて呼び止めて屋敷での湯浴みを勧める。大久保と因縁を結んだが故の襲撃なのだからそのぐらいは、と素直に頷く梵であった。

 その後、梵が大久保の代わりに襲撃された現場を幾人かの藩士が検分に行っていた。斬り殺された骸は申告通り六人、すでに血液が凝固していたが判別できた家紋は複数あり、所持品や人相の特徴から人物の割り出しは容易であろう。そして、逃走したという者の素性にもあたりはついていた。あとは梵の口から証言を得るだけだ、と人払いをした居室で大久保は一刻近く待っているのだった。

「遅くなって申し訳ない」

「構わぬ。腹は満たせたか?」

「あぁ、美味い飯だった」

 満足げな表情を浮かべて居室に入ってきた梵は見慣れぬ着物姿であった。血塗れの着物を洗濯する間にと大久保が貸した着物を着ている。当初は新たに仕立てようと申し出たが梵は頑なに拒む。それならば、と箪笥に大事にしまっていた着物を持ち出してきて勧めたのである。背丈はあまり変わらぬので問題ないだろうと思っていたが、やはり女の体躯だ。男物の着物が胸と尻の形に輪郭を崩している。

「ふむ、貴公は安産型か」

「なんだそりゃ」

「尻の大きな女は立派な子を産む。女の誉れの一つだ」

「大久保さんの好みか?」

「お家存続のためには些末なことだな」

 はいはい、とご高説の気配を察した梵は話を切り上げる。用意された座布団に腰を下ろし胡座をかく所作は男と相違なく、輪郭は女特有の丸みを帯びた様に大久保は妙な違和感を抱いた。

 そういえば、と以前似たような会話をした気がして梵の顔をじっと見る。

「飯、子、……あぁ」

「どうした?」

「なんでもない。本題に入ろう」

「わかった」

 屋台で酒を片手に寿司をたらふく食った梵が子の成し方を知らぬと言い出した時のことを思い出す。些細な殺気すら逃さない剣士だが、男の欲情は一片すら拾わなかった。春情を持つか試そう、など冗談だろとあしらってもらわねば大久保の立つ瀬がないのだ。

「それはまずい」

 思わず口をついた言葉に気付いた時には梵の視線がじっと向けられていた。真剣なまなざしに彼女が襲撃時の記憶を辿り懸命に伝えようとしていると知る。

「やはり、難儀な相手か」

「あ……、あぁ、出方がな、非常に難しい」

 大久保とて梵の話を聞いていないわけではない。意識の半分は梵の口から語られる襲撃者の人相について留めている。月明かりの下で複数人と立ち会ったはずなのに、太刀筋含めて恐ろしいほど細部まで記憶していたのだ。

「助かった。始末はこちらでつけさせてもらう」

「そうしてくれ。藩のしがらみには巻き込まれたくない」

 無論だ、と短く返した大久保が立ち上がる。続いて立ちあがろうとした梵を大久保は止めた。

「今夜は屋敷に泊まっていけ。部屋はそうだな……人払いはしているからここで良ければ使え」

「ここで……って、一緒に寝るのか?」

「……そんなわけなかろう。この件で詰めなければならない事が山積みなんだ。私一人に九人がかりで襲ってきた。貴公でなければ三人も追い返せていない」

 自嘲気味にこぼした大久保だったが、しばし梵を見つめてから視線を遠くに投げた。もうそこには誰もいないような風情である。

「頼む、今夜はここに居てくれ」

「……承知した」

 振り返らずに居室を後にした大久保の背中を見送ると、身体に馴染まぬ着物の袖に顔を寄せた。ゆっくりと息を吐き出して、さらに時間をかけて吸い込む。こうして身につけなければわからないほど控え目にまとう香りに武骨な男の意外な一面を記憶に留める。

「この香は何か聞きそびれたな」

 香りだけで判別がつくほど香について造詣は深くない。しかし居室に残るのは煙草の匂いばかりで、香を嗜む様にも思えなかった。香をまとわせた柔らかな肌触りの着物は特別に誂えた物かもしれない。

「私は何も知らぬな」

 瞼を閉じて再び香りを吸い込んだ。大久保という男の記憶を香で埋めるかの如く。

 

 

 ⚪︎⚫︎⚪︎

 

 

 それはある雨の日の昼下がりであった。梵が暮らす長屋に大久保は姿を見せる。手には大きな荷物と小さな荷物が抱えられていた。

「こちらから行ったのに」

 と申し訳なさそうに言った梵に、落ちついて話がしたい、とだけ答えて上がり込んだ。

 大久保が持参した荷物の小さい方は団子であった。赤、白、緑と色とりどりの団子は一人で食べ切れるかどうか悩むほどの量である。手土産が好物の甘味と知って目を輝かせた梵は勇んで湯を沸かし始めた。甘味といえば茶であるのだ。

「美味いぞ。美味すぎる!」

 一人で団子の山を崩しにかかる梵を大久保は茶をすすりながら眺めているだけであった。一本どうだと勧められても丁寧に断り、無邪気に頬張る姿を目を細めて見つめている。

「日本橋の遠藤屋と言ってな、すすり団子もうまい店だ」

「それは一杯ひっかけねばならぬやつだな」

 嬉しそうに笑う梵の目の前にある団子の山は三分の一まで減っていた。相変わらず女にしては大食漢の様子に安心した大久保は大きな荷物を差し出した。梵はそれを受け取ると結び目を解く。先日の襲撃で血塗れになったので預けていた着物だった。これが自分の物であったかと疑いたくなるほどの良い香りと柔らかな手触りの着物に生まれ変わっている。

「遅くなって申し訳ない。過日預かった着物の洗濯と繕いが終わった」

「繕いまで……預ける前より綺麗になってしまったな」

 驚きと感謝で満たされた心の片隅で小さく顔をもたげた感情があった。手元に自分の着物が戻ったということは、大久保から借用している着物は返さなければならないのだ。近頃は身体に馴染んだ感があったので名残惜しさを覚える。

「それから、貴公を襲撃した者たちの件についてだが」

 大久保の口からは事件の顛末が語られた。襲撃者は複数の藩に属する侍で、個人的に大久保に恨みを持つ者が集まっていた。現場から逃走した三人も程なくして見つかり、一人は襲撃時の手負いが原因ですでに死亡。残り二人も刀も握れないような状態で捕えられて尋問の末に処される。背後関係はなく、今後の心配はないと言った。

「皆、武芸を習った者達であったろう」

「そうだな。身元が判明した全員がそれなりの家柄であった」

「難儀な世の中なことだ」

「難儀、とは?」

「誰もがこの国を憂い、誰もがこの国のためと過ちを正そうとする。己の信念こそが真であると信じて」

「貴公には私もそのように映るのか?」

「大久保さんは血の臭いより香の方が似合うと思うが」

 梵が口にした単語に大久保は驚きを見せた。意外そうな反応に梵は着物の袖に頬を擦り付ける仕草を見せる。

「大久保さんの着物は良い匂いがした。外でこの香りがすると思い出してしまう」

「それは……、昔ある方から賜った物でな。大切に仕舞っているうちに似合わない年になってしまった。そうか、香が残っていたのか。もし気に入ったのであれば貴公に贈ろう」

「そんな大事なものは貰えないよ」

「私が貴公にそれを着てもらいたいのだ」

「それでも貰うわけには……」

 珍しく強く押してくる大久保がにじり寄ると梵の手を取った。急なことに身を引くがしっかりと手を握られている。

「貴公が春情を持つか確認してみよう」

 頼む、と躊躇いなく答えたはずの梵は小さく首を横に振った。あの日とは異なる反応に戸惑いを抱く。それでも一度口に出してしまった言葉は取り戻せない。簡単には引き下がれなかった。

「そのつもりで来た」

「大久保さんとは……ダメだ」

「どうした?」

「ある[[rb:女性 > にょしょう]]に教えてもらった。春情とか、子を成すとか……」

「私ではダメか?」

 どこの誰だか知らないがすでに教えられているのなら話が早い、とばかりに強引に梵の腕を引く。引き寄せられて近づいた顔を慌てて背け、自由になる片手で大久保を押し返そうとする。これは拒絶ではなく羞恥だ、と確信している大久保は引き寄せた手を緩めることはしない。

「だって……まだ、待って」

「何を待てば良い? 教えてくれるか?」

 それから梵は沈黙した。返す言葉を必死に考えるように時折小さく唸る以外は何も言わない。このまま抱き寄せることができそうな距離ではあるがもう少し様子を見てやることにした。

「誰に入れ知恵をされてきた?」

「入れ知恵……じゃない」

「おおかた、こんな時にはこう答えるものだとか言われたのだろう」

「あの方を悪く言うな。私などに[[rb:女子 > おなご]]同士の秘密を下さる方だぞ」

 やけに敬意を示す口ぶりなのは気になったが、理由がわかったのであれば待つ必要もない。無理矢理腕の中に抱え込むと、身を縮めただけの梵を組み伏せた。背中を丸めて顔を背けていることで無防備にさらされたうなじに唇を寄せる。生温く柔らかな感触がうなじを這い回る違和感に丸めた身体が一層こわばる。

「なぜ、こんなことをする」

「貴公が自分の着物を着ているのが存外そそるものでな」

「何を言っている?」

「そうだな。貴公にはわからぬことだ」

 胸元に滑り込ませた手で襟を掴むと力任せに引き出して梵の肩を露わにした。目の前に現れた白い肩口を逃げ出さないように抑え込み軽く歯を立てる。うっすらと赤みを帯びる跡を幾つも残し、鬱血した跡も転々と散りばめる。

「そんなつもりではなかったが。脱がせてみたくなった」

 自分を守るように縮めたままの身体を開いてやる。大久保の腕に組み敷かれる梵は精一杯顔を背けて視線から逃げ出そうとしていた。露わになっている肩口から鎖骨をなぞりサラシから溢れる乳房まで指先を滑らせる。着物の輪郭が崩れた通り想像していた若い女の肢体がそこにはあった。

「貴公に春情がないわけなかろう」

「嫌だ、わたしを見るな」

「どうしてだ?」

「こんな酷い顔、見せられるものか」

 手を伸ばし背けた顔を掬い上げた。梵は頬に朱を差し双眸を揺らしている。半開きの唇を親指の腹でなぞると大久保は満足げな笑みが浮かべた。

「春機に満ちた顔をしている」

「……言うな」

「他には何を教わった? 閨房術はそれだけか?」

 梵の瞳がじっと見つめるのをしばらく受け止めていると、おずおずと伸ばされた指先が大久保の頬をなぞった。見知っている顔だが造形を確かめるように、瞼をそっと撫で、鼻筋をなぞり、口髭の感触を指先で堪能する。それから、梵の細い指先は簾のように落ちる大久保の黒髪を漉いた。何度も指を絡めては解き、サラサラと指の間を滑る髪の柔らかさを味わう。やがて髪を絡めた指のまま大久保の頭を包み込んで抱き寄せる。大久保も抗うことなくゆっくりと身体を寄せた。組み伏せられる腕の中で、全体重をかけないようにする優しさと、筋張った男の体躯と、僅かに残る煙草の匂いに包まれていた。

「全て、あなたにお任せする」

「承った」

 雨の日は暗くなるのが早い。大久保越しに見える天井ではいつの間にか蝋燭の灯りばかりがゆらめいていた。それは閉じた瞼の中でいつまでもゆらめいていた。


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