【完結】「魔王が倒れ、戦争がはじまった」 作:松脂松明
これはある一人の戦士の物語だった。
遠くの国から人を助けに来た、無骨だが優しい戦士。
素晴らしい仲間たちと共に歩んで、輝かしい功績を打ち立てた。
誰かのために戦い、誰かを殺した。誰かのために素晴らしい世界を目指して、誰かの世界を壊した。誰かの味方になりたかった。誰かの敵になりたかった。
そうすれば誰も悩まない。
世の中はとても複雑だから、みんなが悩んで騙される。だったら全てが単純であればいい。
苦しいのは変わらなくとも、悲しみは減るだろう。誰かを殺してしまったことを悔いなくても良い。それは最初から決まった敵だから。
誰を助けるかどうかに頭を使わなくても良い。貴方の味方は最初から決まっていて未来永劫変わらない。
“なぜ”そんなことを思ったのか。“なぜ”を無くしてしまった戦士を誰も倒せはしなかった。
遠い国から来た戦士は、人間を信じていた。倒すべき相手がいる限り、決して絶望しないで進み続ける人の強さを信じていた。
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褐色の肌に穴が開く。
異形の使う聖剣は聖光を放出する。それを知らないクィネは刀身の長さを見誤り深手を貰った。わずかに体をずらして正中線を避けることには成功したものの、代償として重要器官の詰まった腹を抉られた。
「素晴らしい……! 物言いは気に食わないが、お前は最高の剣士だ。ここに来て単純にして効果的な技。技巧派と信じる俺の隙を突いたか」
どぼどぼと、汚泥か溶けた金属でも流れ出るような音を伴って、腹から人の血肉と黒い魔族の内臓がこぼれ落ちた。これで
融合した魔族が上質ではあるが最高でもないクィネにとっては……再生が可能なギリギリの一撃だった。次に貰えば再生が追いつかずに崩れ落ちるだろう。
「相打ちかな? それとも俺の負けかな?」
「相打ち……と言いたいところだけど、僕の負けだろう。もう治らない……やっぱり強いな、キミは。僕は結局、剣では君に及ばないままだった」
敵わないな。クレスの目は清々しい輝きに満ちている。
現在の凋落は許せずとも、かつての友の剣という輝きだけはそのままに残っていたのだ。やはり彼はセイフであったのだという証拠こそが、己の身に刻まれている。
そう語る異形クレスもまた脇腹が裂けている。クィネは己に穴を開けられた際に、あろうことか一歩前に出て一撃を放っていた。切り裂かれた分厚い甲冑の隙間から血が滝のように溢れ出している。神秘が付与された鎧を紙切れのように切られたことにも、もう驚かない。
これでクレスは都合
元剣聖からの斬撃の痛手も勿論軽くはない。だが彼自身が用いる聖なる武具と聖光こそが元勇者を蝕んでいる。クィネよりも上等な魔神の肉体ですら既に限界である。
彼が予測した通りにやはり一歩及ばない。かつての友は正しく最強の魔王であった。
「さて……では続きと行こうか」
「全く……ここまで変わらないと清々しいな。限界だと言っているだろう? 正直なところ、立っていられるのが不思議なのに、まだ油断するに当たらないと来るか」
構え直したクィネは先程までと同様に、好敵手へと全力で集中していた。
立っているのが精々ということはクィネにも分かっている。だが、これほど追い詰めても尚立っているという事実こそが敵手の非凡さを示している。
相手は既に限界だから手を緩める? 馬鹿な、逆だろう? ここまでしても倒しきれなかった相手だ。必ず限界を超えてくる。
そう思うクィネを前にクレスは別れを告げる。
「僕は本当にここまでだ。あの子の償いに手を貸すと誓ったからね……ここで消え失せるわけにもいかない。僕の負けだ、セイフ。そして……彼女達
『渦巻け森羅。ここに――全てを織りなし裁きと化せ――〈渾然渦〉』
クレスの言葉が終わると同時に高ぶる何者かの魔力。
今や魔を宿す身であるクィネではあるが、好敵手との戦闘の最中にそれを今更ながらに感知した。どこから発せられるものかを判断する前に見えぬ敵の術は完成していた。
ありとあらゆる属性の氾濫――それはかつて彼を襲ったはずの暴威。しかし既にセイフと決別した存在はそれを思い出すことができない。
いかにセイフ……クィネが自ら罠に飛び込んでくると言っても、ここまでの道のりは軽くは無かった。全てはここに誘導するまで、クレスの生命が保つかどうかにかかっていた。
しかし無理を押し通すからこその勇者。肉体を魔族と変えても、魂にその気力は健在。見事にその期待へと応えてみせた。
「なら今度はわたしの番よねー。こうなってしまって本当に残念だけれど、あなたの負けよセイフ」
伏兵、大魔女サリデナールはこれまでの中で最大の術を放つ。
〈渾然渦〉……魔王が居城で見せた単純にして最高の破壊術。それを人の身で行使してのける。
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「むぐぉおおおぉぉぉ!? 魔法使いか! しかし、この威力は一体……!?」
常は見せぬような必死の形相で堪えるクィネ。
足を固定し、腕を地面に突き立てて吹き飛ばされることを辛うじて防いでいた。人間の肉体ならばその風圧だけで四肢がちぎれ飛ぶであろう少竜巻を懸命にこらえる。
一方、同じ場所にいたクレスはそれを受け入れる。風に舞う枯れ葉のように吹き飛ばされながら、多大な損傷と引き換えに戦線を離脱した。
しかしクィネにそんな自由は無いし、受け入れる気も無い。好敵手の策を見事と内心で褒め称え、新たな敵の力量を認めた。
「おお……! 舐めるなよ、しゃらくさいわぁ!」
常識外の膂力をもってして足を地面に打ち込むクィネ。そこを軸にして放たれるのは奇しくもかつてのセイフと同じ対抗策……斬魔の一剣。
いまやその領域すら踏み越えて斬滅の域にまで至った一撃によって、敵の魔術そのものを消滅させる。そしてそれは融合個体クィネにとっては不可能ごとではなかった。
霧散していく虹色の旋風。それと同時にクィネは跳躍した。狙うは新たに現れた敵魔術師。一際高い建物の屋根上で佇む彼女に一刀を叩き込むべく……
「いや、本当に反則だわーその剣。こうもギリギリだと流石に心臓止まりそうだわぁ」
「なに……!?」
妖艶なる魔女。大曲刀はその首筋に触れたところで、ピタリと停止している。否、剣のみではなくクィネ自身も……これはいかなる魔術なのか。
さらには凄まじい勢いで引き戻されて、最新の魔王は地面に叩き伏せられる。
「これは……何だ! 穴だとでも言うのか!?」
「そう。それは穴よ。魔族と呼ばれた存在の故郷……世界の裏側への入り口。ひょっとしたらあちらが表でこちらが裏なのかもしれないけれど……かつて魔王が開き維持していた穴。ここはこの国の中心……そして今や塔が倒れて壁はない。余りに余って行き場を失う膨大な魔力……その手綱を握ればこんな真似も出来る。ごく短時間だけどねー」
クィネの落ちた場所を起点として黒い円が広がっていく。奇妙なことにクィネには石畳の感触がしっかりとあるのだ。だが、あるはずのない穴に引き戻されるように
「塔国の兵は勿論のこと……私達全員でも貴方を止めることはできない。それは分かっていたことよー。ならば話は簡単。倒すのを諦めればいい」
「何だそれは……! ふざけるなよ!」
勝負を放棄する気か!
その憤りを無視して、大魔女の述懐は続く。
「貴方は確かに魔王。でもそれは実力での話であって、貴方が魔王という種族に変わった訳ではないの。剣しか使えない貴方には穴を開くことも、楔を打って維持することもできない」
「くそっ! 落ちてたまるか! 勝負も付いていない……全てが黒白に分かたれていない!」
「魔族の肉体を持つ者は故郷へと引き戻されていく……かつて魔王が倒れた時、多くの魔族がこの世界から忽然と消えたようにね」
黒い穴は広がり続ける。
クィネはその光景に初めて恐怖を覚えた。敵の技量に対しての恐怖ではない。目的が半ばで中断されるという恐怖だ。
失敗するのならば良い。負けて死ぬのも怖くは無い。だが、周囲全てから無かったことにされ忘れ去られることなど……
「私達は友達で仲間だった。貴方を殺したくも無かった……でも貴方はこの世界を壊してしまう。その気概と善意で、全てを切り裂いてしまう……」
「認められるか! これが俺への救いだとでも言うつもりか! 友だったというのなら共に歩め! そうでないなら俺を憎んで殺しに来い! そのどちらでも無いから……俺を異界へと送り込んで済まそうと?……何だその中途半端はぁ!」
今や世界へと繋がる蜘蛛の糸となった大曲刀。その柄を握りしめて、魔王は切実に訴える。なぜなら、それは完全にクィネの理想と対極にある答えだ。
「主義主張は異なり、敵味方も絶対ではない! だから人は裏切られ、失望して嘆くのだ! 相手への態度を! 立場を! 明確にして己の考えを直に相手へとぶつけ合え! 正義も悪も無くして、己と相手だけの二色へと変えれば世界は安定を見せるのだ……だと言うのに!」
価値観は千差万別。ある人にとっての正義は誰かにとっての悪となる。逆もそうだ。そんなあやふやなモノでは人の標となることはできない。
「世界を黒と白へと分けるのだ……落ちてたまるかぁ!」
「……ねぇ。何でそう決意したかを覚えてる?」
めくれ上がる世界と世界の境界。そこの時間すら止まったように感じた。
「……味方に討たれるような光景を見たからだ!」
「どこで? 誰が? どうやってそうなるのを見て貴方はそう思ったのー?」
「それは……!」
「答えられないでしょうね。貴方はそれを捨てた……いいえ、その悲劇が起きた時にセイフは死んだのだから。覚えてもいない悲劇に囚われて、周囲に当たり散らして泣く子供……それが貴方よ」
――俺はなぜここまで来たのだろう? ならば、そんな半端な存在に切られてしまった人々は……
再びへし折れた大曲刀。わずかにこぼれ落ちた破片はクィネ自身であるようだった。心身の支えを失い、世界に穿たれた穴へと落ち込んでいく。
「さようなら。かつて私達の友であった人。私達だけはセイフもクィネも忘れはしないわ――」
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「おお……! あの国が消えて無くなる!」
半死の肉体に鞭を撃って皇帝は馬車から身を乗り出した。その目には涙が溢れ、少年のような輝きを一瞬だけ取り戻していた。
あの国が無くなるように手は尽くした。だが、どうしてああなったのかは分からないし、どうでもいいことだろう。
黒い黒い穴のようなモノが広がり、名高い塔に囲まれた街を覆っていく。
……塔主の何人かは戦場で死ぬところを見た。樫の塔が崩れていくのも見た。だがこれほど滅びというものを体現した光景があるだろうか?死体も瓦礫もどこか遠くの光景であり、その黒円ほどに心には響かなかった。
そしてその黒は街全体を飲み込み……収束した。
全ての建造物は消え去り、荒野が広まるのを見た復讐皇帝は微笑みとともに永遠の眠りについた。
その黒円の中で消えたのは半魔の兵だけであり……ただの人間で円に飲み込まれて死んだ者はいなかったという事実を知ることもなく。
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皇帝の崩御と第2軍団長の失踪。3大強国の中で勝ち残ったと言っていい帝国もまた、それによって血なまぐさい状況に追い込まれていた。
帝国はラズリ4世に代わり、新たな皇帝を打ち立てたが……新皇帝は毒にも薬にもならないような者であり、各軍団長が操るために玉座へと座らせたようにしか見えなかった。
そうなれば元より北が根城の軍団長が有利であり、南に進軍していた軍団長の不仲は加速していった。
「帝国も北と南で分かれるのかね? ディアモンテと講話して、ペリドントの首都が何故か無くなった……平和になったのはほんの一瞬だったな。残らなくて良かったのかライザ?」
顔に傷のある男……傭兵タンザノはかたわらの美しいと言っていい女傭兵に声を投げた。万事強かなライザは少しだけつまらなそうに返す。
帝国の首都を一望できる小高い山の上で、一時過ごした街を眺めて感傷に浸っている。
「唯一生き残った強国で成り上がるなんて、幾ら生命があっても足りないわ。特に第2軍団長みたいな魔族との融合体みたいな技術があるんじゃ……近寄りたくもないわ」
「ホエスは残るんだってな。すげぇ複雑そうな顔してたが」
「こっちで正式に大学の学徒に成れそうな見込みがあるらしいからね。無学者には何が良いのかは分からないけど……素直に応援しておきましょ」
彼らはしばらくは世間を離れる決意をしていた。先の戦争での裏側をほんの僅かだけ知る者でも、生命あっての物種という真っ当な思考である。
「クィネは……どうなったんだろうな……」
「生きてはいない……と考えた方が無難でしょうね。塔国への遠征軍は首都を壊滅させた代わりに被害は甚大だったって発表だしね……」
沈黙が2人の間を流れる。
一時的に彼らの仲間だった奇妙な男。2人はいずれまた戦場に戻って金を稼ぐだろうが、あれほど存在感のある男は二度と現れまい。
「出世して、死んだんじゃ世話ねぇな……まぁでも将軍まで行きゃ悔いはねぇのかも知れねぇな」
きっと折に触れてあの褐色の男を思い出すだろう。
クィネという傭兵がいて、あり得ないほどの強さを誇っていたと口を滑らすこともある。
これが戦中に現れた、多大な功績を打ち立てて忽然と姿を消した将の人となりを示す記録となった。
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かつてペリドント塔国と呼ばれていた廃墟に彼らはまだいた。フードで姿を隠し、生き残った住人達を陰ながら支援していた。
己の仲間を倒したという衝撃から未だにここに残っていたのだ。だがそれも終わる。
「計画通りの展開ではあったけれどー、後味は悪いわねー」
いつもの間延びした口調で大魔女は言う。
なにせ仲間を世界そのものから追放したのだ。それも相手が殺された方がマシだと思う人物だと知っていながら。だからこそサリデナールの内心は酷く傷ついていた。
「なぜですか……もう一度4人でやり直せる機会だったのに……」
墜落の聖女もまた嘆きの縁に変わらず立っている。
計画を知らされていないオニキスにはこの事態は完全に予想外だった。きっとかつての仲間が再び揃い、輝ける明日へと戻るのだと信じていた。
異形の勇者はその手を優しく握った。
「セイフにも言ったけど、そんな機会はもう無かったんだよ。生が一度きりだからこそ人間は全力を尽くす。かつて僕たちが魔王に立ち向かえたのも、それが元だったはずだ」
「そんな……ではっ、では私がしてきたことは……」
「僕も力を貸す。できるだけ多くを償い、己を全うするんだ。誰に石を投げつけられようとも……君はどうする、サリデナール?」
大魔女は肩をすくめて、豊満な胸を揺らした。
「……似たようなものねー。私は世界中にある魔族を利用した秘儀を潰していくわ。それがある限り、魔王があちらから来るどころか、こちらから呼び寄せかねないから」
「サリデナール様!準備ができましたよ!」
息を切らせて少年騎士が駆け寄ってくる。それを優しく抱きとめて、大魔女は力強く笑った。
「また会えるかは分からないけど、次はもっと落ち着いている時にしましょう? 二人とも幸せになっても良いと思うわよー?」
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どこまでも落ちていく。
表裏一体の魔なる世界へと落ちるというのもおかしな話だった。文字通りの世界であるとするならば、立ち位置をめくり返すように一瞬でそこへと到達する方が自然だろう。
闇の波紋が幾重にも重なる世界で、折れた曲刀を手にクィネは落ち続けていた。
時間の感覚も曖昧であった。丸一昼夜落ちている気もすれば、瞬きほどの時間のような気もしている。あるいは既に年単位で経過しているのかもしれなかった。
分かっていることは少ない。
己が憎んだ曖昧さに撃退されたという事実と、このままでは危険だという実感だ。無意識に手を上げれば、うっすらと向こう側の闇が見えていた。
それは瓦解の兆しだと、クィネには思えた。
思えば人魔戦争は“あちら側”から“こちら側”への侵略戦争だった。逆にこちら側……人の世界から魔の世界へと行った人間を聞いたこともない。
その可能性を考えていた人は少なくないだろうが、試そうとは思わなかったのだろう。あるいは試して戻ってこれなかったか。どちらにせよクィネには分からない。
「ああ……」
呻きがもれる。クィネは戦士であり、戦いを縁として地上と結びついてきた。ゆえにこうした何もできずに待つだけの時間こそが彼を腐らせていく。
その度に体は崩壊を早めていく。
それがなぜなのか朧気に理解はしているが、既に長くここにい過ぎた。最早独力での復活は不可能だった。敗北の果てにある惨めで孤独な最後……己が今まで振りまいてきたモノが返ってきたのだ。
『……ィネ』
そんな哀れな落とし子の耳に声が届く。
耳慣れた声は既に懐かしくさえ感じる。だが、元の人間の肉体へと戻った五感でも聞き逃すことは無い。
『……ィネ!』
そしてクィネは星を見つけた。
同じ外道を歩んできた同朋だが、その輝きはいささかも衰えていない。流れ星のように闇の世界を駆け下りてくる。
「クィネ!」
必死の顔で異形の腕を差し伸べている、その女の名をクィネは忘れてはいない――
「スフェーン……なぜ……」
その疑問には幾つもの疑問が込められていた。自由落下の如き姿勢のまま動けないクィネとは違い、スフェーンは男の元へと
だが、それよりも彼女はなぜ自分の元へと落ちてくるのだろう? スフェーンは塔国の戦いで離れた場所にいたはずで、聡い彼女ならば“穴”から退避するのもできたはずだった。
その疑問全てに答えるようにとうとう彼女は、己の勝者を抱きとめた。
「……ようやく追いつきました。我が勝者、クィネ」
「スフェーン、我が雇い主殿。貴方も罠にかけられたのか? それとも……」
「無粋ですね、単純に恩を返しに来ただけです。クィネ、あなたのお蔭で私達の願いは叶った。しかし、余韻に浸る暇もなかったですよ、全く……世話がかかる殿方です」
そう言うとスフェーンはクィネの存在を確かめるように、腕に少し力を込めた。
背丈ほどもある巨腕による抱擁は傍から見れば不気味この上ないが、クィネにとっては生まれて初めてのゆりかごのようである。
「迷惑を……いや、心配をかけた。俺はどれだけ落ちたのだ。それにこんなところまで来て、お前は戻れるのか?」
「表の世界で何日が経過しているかは分かりません。戻れる方法も知りはしません。ですが……この場を乗り切ることならできます。私は融合個体法の研究者であったのですよ?」
金と緑の星は、照れたように微笑んで見せた。
それは第2軍団長でも、魔将でもない、ただのスフェーンが見せる最後の笑みだった。
「魔族の世界は精神の世界。己を確固として描き、何もかもを心で行わなければなりません。ただ生きることすらも」
「ならば俺には無理だ……置いていけ、スフェーン。ここまで来てくれて感謝する」
「嫌です」
らしからぬ結論をはねつけて、スフェーンは解決策を提示する。
クィネに魔法を扱う素養はなく、融合個体であったときに後付された感覚があるのみだ。仮にその感覚を取り戻せても、消滅するまでに方法を習得する時間も残されてはいない。
この世界の狭間にあっては最強の剣聖も、大海へと落とされた雫に過ぎない。いずれ消え去るのみでむしろここまで保っただけで奇跡である。
「クィネ。融合個体になった時を覚えていますね」
「ああ……儀式を行い、己の中に入ってくる存在を屈服させて共存した」
「貴方は今、人間の魂だけの状態です。繋ぎ止める方法を知らないがため、取り込んでいた魔族の力も失われている。だから……これから私の存在座標を貴方に近づけます。そして私を食らうのです」
それは狂気的な結論だった。つまりは融合個体とさらに融合するということだ。
実験した記録さえない初の試みであり、仮に成功してもどうなるかも不明。
だが狭間にあっては表裏一体の存在を見つけることはできない。今ここにいるのは塔国から落ちた魔兵の素体しかおらず、遭遇する可能性は皆無だ。確かに方法はそれしかなかった。
「なぜ……? こんな俺を? 最早俺は敗北した身。お前の大願は成就され、そんなことをする価値は無いはずなのに……」
「決まっています」
透き通るような顔に浮かぶ笑み。
どこかで見たことのある、疑いなく信じられる澄んだ瞳だった。
「貴方を愛しています、クィネ。我が勝者。どれだけ落ちていても関係が無い……今度は私が貴方を助ける番なのです」
クィネは絶句する。
そんな思いを告げられたことは今までになく、この同志の思慕を今まで知ろうともしなかった。クィネの願いは敗れた。それは一人で戦っていたに等しいからだ。
「なるほど……俺の負けは必然だったか。ならばスフェーン、こんな俺だが恥を偲んで言う――共に生きて、このみっともない男と共に戦ってくれ」
「ええ。今度こそ二人で最後まで――」
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かつてその地はペリドントと呼ばれていた。遠い昔には一国の首都であったとも。
一度完膚なきまでに滅び去り価値が無くなった場所。だからこそそこは以後、戦に巻き込まれることも少なく復興を遂げていた。
鳥が歌い、子どもたちが笑う。大戦を経た人間であるなら誰もが夢に見た光景がそこにあった。
この街には英雄たちの像が立ち並んでいた。
おとぎ話のような勇者達を象ったものであり、歴史書にも出てくる名前の像さえある。
そこに一つだけ名前の無い像があった。背が高く、細い男を象った石像。身の丈近い大曲刀を背負っている。名もなき像と呼ばれており、高名にならなった者たちを象徴しているのではないかとされている。
その像が突如として縦割りに裂けた。
まさに裂けている。不思議なことに像自体は物理的に壊れていないようで……そこから暗い穴が覗かれていた。
僅かな裂け目を掴むように指、ついで手が現れた。現実の生き物にはあり得ないような巨大さで、かつ硬質の金属のようなものでできている。
その時、この街から笑い声が消えた。
何か良くないことが起きることを、全ての人々が同時に感じ取ったのだ。
醜悪な手指は、奇妙な裂け目を強引にこじ開けていく。
それが石像の幅と同じくらいまで広がった時、一人の男が現れた。
背丈に近い豪腕を両腕に持つ、細長い体。金の髪と男とも女とも見える顔つき。
奇妙なことにそれ自体が狂気のような巨腕の先に、折れた曲刀を携えて……
この日より始まる戦いは後に、『人魔戦争』と呼ばれることになる。
最後までお読みいただきありがとうございました。