眉間に皺を寄せながら、長崎そよは思考していた。
「はぁ…………」
メンバーの突飛な発言や行動に苦い顔をすることはあれど、彼女自身、身の置く環境に不満は無い。長崎そよは、どちらかと言えば周りに振り回されることに充実感を覚えるタイプだった。
それでも彼女は、何かを想うように溜息を着く。
「はぁ……………………」
「いい加減やめてくんない?」
「客が来なくなるんだけど」と、吊り目で毒づいた少女に、そよがじとっとした目を向けた。
「いいじゃない、別に。いつも空いてるんだから」
「よくない。紅茶一杯で延々と溜息聞かされ続けるわたしの気持ち、考えたことある?」
「じゃあおかわりをくださいな」
「そういうことじゃ……もういいや」
ティーカップを渋々受け取った少女、椎名立希を尻目に、長崎そよは思考を続ける。
休日の喫茶店はがらんとしていて、紅茶を注ぐ音と、蓄音機から流れるジャズミュージックだけがそこにあった。静寂は苦手だが、落ち着きのあるこの空間を、そよは密かに気に入っている。
バイト先へ頻繁に来るそよに、立希がうんざりしていることは知っていたが、そこはご愛嬌と知らないふりをしていた。
「はい、おかわり」
「ありがとう」
カチャ、と受け取ったティーカップから音が鳴った。琥珀色の水面からは仄かに湯気が立ち上り、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。彼女の中で、幾分か心が和らぐような感覚があった。
「はぁ……」
「……で、なんでそんなに溜息ついてんの」
「気にしてくれるんだ。優しいね」
「うっさい」
食器を拭きながら客の話を聞く様子が妙に様になっていたから、「変わったね」とそよがからかうように言えば、「はぐらかすな」と立希が怒った。
「言わないと追い出すからね」
「ひどいなぁ。お客さんだよ、私」
「早く言え」
そよは溜息を一つついて、口を湿らせるように紅茶を少し飲む。最後の音楽を流し終えた蓄音機は沈黙を語っており、妙な静寂が辺りを包んでいた。
「本当に、どうでもいい話だよ?」と、ティーカップと共に前置きをひとつ置いてこう語った。
「――愛音ちゃんって、モテるんだなぁって」
後日渡された立希の給与明細には、「食器弁償代」の文字が刻まれていたらしい。
####
時は巻き戻り数日前、平日の都内某所にて。そよはバンド仲間の千早愛音との待ち合わせ場所へ向かっていた。
街の中には溢れんばかりの人。目的地へ辿り着くのも一苦労である。メッセージアプリで「遅れるかも」と愛音へ送信すると、数瞬の内に「了解!」と書かれたスタンプそよの画面に届いていた。
大学の授業は午前だけで、バンドの練習やライブの予定もない。暇を持て余した平日の昼下がり。家に帰ってからすることもないので、服でも見てから帰ろうかと思い、バンド仲間の千早愛音を呼びつけるところまでは良かったが、想定以上の混雑度合いにそよは辟易していた。
(みんな、案外暇してるのね)
自分もその一人だと、そよは自嘲した。
秋を思わせる、乾いた冷たい風がそよの髪を揺らす。まだ微かに夏の香りの残る九月の風だ。がさり、と街路樹の葉の揺れる音を耳にしながら彼女は歩く。
長い、長い、迷宮のような人混みをぬけた先、見慣れた桃色の髪が目に入った。
「愛音ちゃん、お待た――」
「えー! お姉さんバンドやってるんだ!」
「モデルさんかと思った!」
言葉を紡ぎきる前に、そよは閉口した。
「やば、そう見えちゃう?」
見慣れた桃色は、見慣れない声と共にあった。
「見える見える! げーのーじんかと思っちゃったもん!」
八重歯を見せながら愛音は笑う。あれは調子に乗っているな、とそよは一目でわかった。
「一緒に写真撮ろうよー!」
「いいよー! じゃあこっち寄って〜」
手は顔の前に。馴れた様子で、顔を小さく見せるようにパシャリ。
「せっかくなら連絡先交換しない??」
「いいよ〜じゃあIDを――――」
トントン拍子で連絡先交換まで、愛音と見知らぬ女性達は進めた。
楽しげに会話する彼女達の姿は、道行く人達の姿よりも一層明るく、眩しげに思える程にそこにあった。
愛音達の姿が人混みに遮られて現れてを繰り返す様は、まるで映写機のようだとそよは思った。見知った人間の見知らぬ一面を見ているようで、ドラマか映画のワンシーンのようにさえ彼女は感じる。
「ライブ見に来てね〜!」
そよが言葉を紡げないまま、愛音を取り囲んでいた彼女たちは去っていた。そよの知らない女性達を愛音を見送っていた。
彼女達の姿が見えなくなり、手を振るのをやめた頃。錫のようにも見える灰色の瞳がそよのほうへと向けられる。
「あっ、そよりん」
人懐っこい笑顔がそよに向けられる。見知った人間の見知った表情が、そよへと向けられている。そよの内心には妙な安心感と、少しざわついたような感覚があった。
そよは努めて、目を細め、口角を持ち上げる。
「おまたせ、愛音ちゃん」
####
「……という感じでずっとわたしが近くにいたのに気づかなくて」
「はぁ」
「大学でも色んな人に声をかけられていてね」
「はぁ……」
「本人もチヤホヤされるのは好きだから、満更でもないような感じ出しちゃって……」
「はぁ…………」
「なによ、言えって言ったのは立希ちゃんでしょ」
「惚気とは思わないじゃん」
「惚気じゃない!」
「惚気でしょ」
箒で床を掃きながら、立希は呆れた様子を隠そうともしなかった。
改めて、時は進み現在へ。
アルコールを摂取していないのに、そよのギアは絶好調であった。紅茶は紅茶でも、ロングアイランドアイスティーを飲んでいたのだろうか?
MyGO!!!!!のメンバー同士で飲み会をしたことはまだ無いが、面倒なことになるのは間違いないと立希は確信していた。なんとしてでも燈を
「聞いてる?」
「ハイハイ、聞いてる聞いてる」
あからさまな生返事に顔を顰めるそよを見て、立希がまた一つため息をつく。
「愛音が人気なのは今に始まったことじゃないでしょ。ライブ後もよく声掛けられてるし、一緒にファンと写真撮ってたりするし」
立希の言う通り、千早愛音は人気がある。
揃いも揃ってアクが強いバンドメンバーの中でも、愛音は比較的一般ウケする方であった。人懐っこく、流行に敏感で、頭も良くて思い切りも良い。バンド活動を通じた経験も相まって、第一印象の良さだけで言えばMyGO!!!!!の中でも随一だと立希は考えている。そよも社交性は高い方だが、愛音のそれに比べるとやや見劣りしていた。
「愛音ちゃんのこと、ちゃんと見てるんだ」
「やらかさないか見張ってるだけ」
「素直じゃないなぁ」
「出禁にするよ」
「冗談じゃない」とそよが呆れてみれば、呆れたいのはこっちだと言わんばかりに、立希が溜息をつく。いつの間にか、そよ以上に自分の方が多く溜息をついてしまっている気がすると、立希はこめかみの辺りを押えた。
「はぁ……」
「幸せが逃げちゃうよ?」
「どの口が」、という台詞を立希は飲み込んだ。
食器を片し終えた立希は、蓄音機上のレコードを取り換える。この喫茶店のマスターは雑食で、蓄音機の傍に積み重ねられている分だけでも、様々なジャンルのレコードがあることが見て取れた。
立希はその中から、女性と思われるシルエットが描かれたジャケットを手に取る。取り出した黒い板へと針を落とせば、先程までとは異なるファンキーな音楽が流れ出した。陽気な歌声が響けば、聴く者を浮き足立つような気持ちにさせる。
場違いな選曲にそよが眉をひそめたが、そんなことはどこ吹く風。不満気なそよの様子を尻目に、立希は自分が飲む為の珈琲を注ぐだけ。
「取り敢えず、難しいこと考えてないで話してみればいいんじゃない?」
「簡単に言うね」
「簡単でしょ」
焦げたように黒い珈琲を眺めながら独り言のように、立希は呟いた。
「寂しいなら、寂しいって言いなよ」
簡単じゃない。そういうのじゃない。寂しくなんかない。
否定する言葉はいくつも思い浮かんだ。それでも、喉元まで出ていたそれらの言葉が、そよの口から出て行くことはなかった。
「……うん、そうだね」
蓄音機から流れる歌の登場人物みたいに、真っ直ぐに言葉を紡げたならどれだけいいか。そよは少しだけ、彼らの在り方を羨んだ。
窓の外を見てみれば、すっかり夜の帳が落ちていた。財布から紙幣と硬貨を取り出しつつ、帰り支度を済ませる。渡された請求書には珈琲代が含まれており、そよが不満を漏らせば、「追い出さないだけマシでしょ」と立希が返した。
ドアベルを鳴らしながら扉を開けたその先からは、虫の鳴き声が聞こえてくる。秋の夜は空気が乾いていて、少し肌寒さを感じさせた。
「また来るね」
「来なくていい」と返す立希の言葉は呆れ混じりで素っ気なかったが、どこか友人に向けたような気安さがあった。
####
「寒い……」
吐く息はまだ白くなかったが、そうなるまでもあっという間なのだろうとそよは予感している。
時が経つのはあっという間だ。みっともなく泣いて縋った
時の流れは残酷だ。気づけば『大人』と呼ばれる手前にいるのに、そよはまだ迷子のままだった。
寂しいと言えなかった。
寂しいと言っても離れていった。
どちらでも一緒ならばと諦めたのに、それもまた間違いだった。
街灯を頼りに、記憶頼りの道を行く。歩き慣れたはずの帰り道が、まるで迷路のように思えてくる。ぐるぐるぐると、思考は渦を巻くようだった。曇天の空模様の様に、重く肺に詰まった空気を吐き出すように、溜息を吐く。
『取り敢えず、難しいこと考えてないで話してみればいいんじゃない?』
立希の言葉が、そよの脳内でリフレインする。とても簡単なように思えて、そよにとってはこれ以上ないほどに難しく思えたそれを、どうしても蔑ろにすることができなかった。
「そうできたら、どれだけ」
楽だろうか。そんな呟きは、ポケットで震えた携帯電話に遮られる。
「愛音ちゃん……?」
メッセージアプリの通知が2件。送り主は愛音だった。
『そよりん! ここ知ってる?』『今度一緒に行かない?』
そうやって送られてきたのは、可愛げのあるアフタヌーンティーセットの写真と、お店の位置情報。たまたまSNSで見かけたものを脊髄反射の如くメッセージを送ってきたのだと、容易に読み取れる。
あまりに突拍子のないアフタヌーンティーのお誘いに、そよは思わず脱力してしまった。
「……ほんと、いきなりなんだから」
――全く人とは不思議なもので、ぐるぐると陥っていた思考の渦から。誰かに声をかけられるだけで抜け出せることもある。
「仕方ないなぁ」
そう言って、少し幼げに彼女は笑った。
自身の内に救っていた雲が払われていくような感覚と一緒に、そよは一つ溜息をつく。
『いいよ』
そよがまだ迷子のままでも、今日の溜息はこれでおしまいだと。彼女自身で区切りをつけるように。
『おっけー!』『いつ行こうか』
この『いつ』が、近いうちに『いま』になり、いずれ『いつか』になってしまったとして、いつかの思い出を持つ人と確かめ合うことができたなら――
『来週の日曜日って、空いてる?』
それはきっと、幸せなことだろう。