雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
襲撃は、あれで終わらなかった。むしろ、あれから増えた。
「また?」
「またです」
彼が言う。脇腹にはまだ包帯が巻かれていた。前の傷はもう塞がり始めているらしいが、笑ったり身体を捻ったりすると痛むそうだ。
「暇なのね」
「そういう感想になります?」
「だって、何度来ても失敗してるじゃない」
「雛子さんがいるからですよ」
「じゃあ諦めればいいのに」
「そうはいかないんでしょうね」
そうはいかないらしい。
最初の襲撃を、私は人前で潰した。銃を持った男を転ばせた。刃物を持った男も転ばせた。バールを持った男も転ばせた。硬くなる男は首を絞めた。それだけ。大したことはしていない。
でも、それを見ていた人間は多かった。市場の人間、組の人間、商人、農民、工房で働く者。誰がどこで話したのかは知らない。ただ、次の日には話が広まっていた。
組が送った人間が、四人まとめて女一人に負けた。銃まで持っていたのに、傷一つ付けられなかった。
「傷は付いたわよ」
「そこ訂正する必要あります?」
「事実でしょう」
「撃たれたの俺です」
「じゃあ私は無傷」
「最悪ですね」
話は広がった。少しずつ形も変わった。四人だった刺客が五人になった。銃が二丁になった。私が十人を相手にしたことになり、二十人になり、最後には組の幹部までその場にいたことになっていた。
「いなかったわよ」
「知ってます」
「みんな適当ね」
「噂なんてそんなものでしょう」
「訂正しないの?」
「誰に?」
「知らない」
「俺もです」
問題は、人数ではなかった。
負けた。
それだけ。
力のある者が上に立つ。それが、この時代ではまだ分かりやすい。組が町を守るのも、食料を運ぶ道を確保するのも、水源を押さえるのも、最後には力があるからだ。逆らえば殴られる。襲えば殺される。奪おうとすれば奪い返される。そうやって守ってきた。
なら、守る側が負けたところを見られるのはまずかった。しかも、たった一人の女に。
「私、関係なくない?」
「俺を守ったでしょう」
「成り行きよ」
「それでもです」
「迷惑ね」
「すみません」
謝られても困る。
◇
次は夜だった。
焦げ臭いと思った時には、窓の外が赤かった。
「起きなさい」
「……何です?」
「燃えてる」
「は?」
「家が」
「先に言ってくださいよ!」
「言ったわよ」
寝ぼけた彼が跳ね起きる。その間にも窓の外で炎が揺れ、次の瞬間、壁の一部が外から赤く染まった。
燃え移った、という感じではない。炎そのものが飛んできている。
「伏せて」
「え?」
窓が割れた。細い炎の筋が室内へ突っ込み、壁を舐める。外を見ると、通りの向こうに人影があった。両手をこちらへ向けている。
また炎。
単純。でも、人を殺すには十分。
「火を出す人ね」
「見れば分かります!」
「そう」
「感想それだけですか!?」
三発目。血を板状に固めて窓を塞ぐ。炎が当たり、表面が焦げた。少し蒸発する。熱い。別に困らないけど。
「裏から出るわよ」
「はい!」
燃え始めた廊下を抜ける。煙が肺に入る。肺の一部が駄目になる。作り直す。
「雛子さん、普通に歩かないでください!」
「何で?」
「煙!」
「平気よ」
「俺は平気じゃない!」
そうだった。
面倒なので、彼の襟首を掴んで裏口から放り出した。
「痛っ!」
「生きてるでしょう」
「もう少し丁寧にできません?」
「できるけど?」
「してくださいよ!」
「嫌」
外へ出る。炎を出していた人間はもういなかった。建物は半分焼け、彼は寝床を失った。
「困ったな……」
「別のところで寝れば?」
「そういう問題なんですけど、そういう問題じゃないんですよ」
「難しいわね」
「雛子さんが簡単すぎるんです」
そうかもしれない。
◇
その次は、道だった。
曲がり角を通った瞬間、空気が鳴った。横へずれる。さっきまで頭があった場所を白いものが通り過ぎ、後ろの壁に突き刺さった。
「……骨?」
白い。硬い。尖っている。
振り向くと、少し離れた屋根の上に男がいた。腕から白い棒が突き出している。それを引き抜く。血が出る。すぐ塞がる。また伸びる。
「伏せて」
「もう伏せてます!」
「偉いわね」
「慣れたくなかったなあ!」
二本目が飛んでくる。血の板で受ける。刺さった。結構強い。
「雛子さん?」
「何?」
「大丈夫です?」
「うん」
「それ、刺さってません?」
「私じゃなくて血に」
「同じでは?」
「違うわよ」
たぶん。
三本目が伸びる前に血の糸を屋根まで飛ばし、足首に絡めて引く。男が屋根から落ちたので、途中で糸を緩める。死なれると面倒だから。
地面に転がった男は呻いていた。
「骨を飛ばすのね」
「みたいですね」
「便利ね」
「殺されかけた側の感想じゃないでしょう」
「私は殺されかけてないもの」
「俺ですよ!」
「そうね」
炎を出す。骨を飛ばす。身体を硬くする。この辺りまでは分かりやすい。できることが一つ増えただけ。
昔は、それでも十分珍しかった。
◇
少し面倒なのも来るようになった。
ある日、彼と道を歩いていると、急に足元が沈んだ。
「ん?」
石畳が柔らかい。泥ではない。見た目は石のままなのに、踏んだところだけが沈み込んでいる。
「動かないで」
「もう遅いです」
彼の足は膝近くまで地面へ埋まっていた。私も足首まで沈んでいる。
「何これ」
「俺に聞かないでくださいよ」
少し離れたところに、地面へ手をついている女がいた。その周囲だけ、石も土も境目がなくなったように波打っている。
触れた場所を柔らかくする。それだけなら単純。
「来ます!」
彼が叫ぶ。
別の男が走ってきた。柔らかくなった地面を、普通に。
「あら」
沈まない。男の足元だけ、踏む直前に固くなっている。女が地面へ触れたまま、こちらを見る。
柔らかくする。固くする。
同じものなのか、それとも二人の能力を合わせているのか。考えるのは後でいい。
走ってきた男が刃物を振る。腕を血へ戻して避ける。刃が赤い液体を通り抜ける。そのまま血を男の腕へ巻き付け、地面へ叩きつけた。
「ぐっ!」
女が手を離す。足元が固まる。
「あ」
私の足が石に埋まったまま固まった。
「雛子さん!?」
「ちょっと待って」
足首から下を切る。
「えっ」
置いていく。血で足を作る。
「行くわよ」
「いや、今、足」
「後で」
「後で!?」
女が逃げようとする。血の糸を伸ばして捕まえ、彼を埋めているところだけもう一度柔らかくさせる。
「便利ね」
「襲われてるんですよ、俺たち」
「知ってる」
「楽しんでません?」
「少し」
「最悪だ」
前より、変なのが増えた。単純に火を出すだけではない。身体から何かを作るだけでもない。触ったものの性質を変える。条件によって効果が変わる。他人と組み合わせると、できることがさらに増える。
人間の方は大して変わらないのに、異能だけは随分と器用になってきたらしい。
◇
殺し方も、少しずつ器用になった。
食事を運んできた人間の指先から、透明な液体が一滴落ちた。
「待って」
「はい?」
「それ何?」
「何って……」
手を掴む。指先を見る。爪の下に、小さな穴がある。
「出して」
「何を」
「今の」
「知りませんよ」
「そう」
指を一本折った。
「ぎゃあっ!」
「雛子さん!?」
「もう一度」
「ま、待っ――」
爪の下から透明な液体が滲んだ。血を少し触れさせる。駄目になった。
「毒ね」
彼が黙った。
「……個性?」
「たぶん」
毒を持つ。それだけなら分かりやすい。でも、その人間の話を聞いてみると少し違った。
自分で毒を作っているわけではないらしい。食べたものや飲んだものによって、出てくる液体の性質が変わる。酒を飲めば酔わせるもの。腐った肉を食べれば腹を壊すもの。薬を飲めば、似た働きをするもの。
「便利ね」
「どこがですか」
「薬にも使えるんじゃない?」
男が私を見る。彼も私を見る。
「何?」
「いや」
「何よ」
「そういう使い方、考えたことなかったんじゃないですか」
「俺を何だと思ってる!」
「暗殺者」
「違う!」
「今はそうでしょう」
「……そうですけど」
面倒なので、殺さずに返した。
「いいんですか?」
「殺した方がいいの?」
「いや」
「じゃあ何」
「雛子さんなら簡単でしょう」
「簡単よ」
「ですよね」
「でも増えるでしょう」
「何が」
「面倒が」
殺せば、また別の人間が来る。家族が来るかもしれない。仲間が来るかもしれない。恨まれる。説明も増える。
面倒。
「合理的ですね」
「褒めてる?」
「たぶん」
「ならいいけど」
◇
襲撃される回数が増えるにつれて、彼の周囲にも人が増えた。護衛を買って出る者。食事を運ぶ者。寝床を貸す者。移動先を知らせないようにする者。最初は商人だった。次に農民。工房の人間。荷運びをしている者。組の下っ端まで混じっていた。
「あなた、人気者ね」
「困ってます」
「嬉しくないの?」
「嬉しいですよ」
「じゃあ何で困るの」
「俺じゃないと駄目だと思われるのは困ります」
「何それ」
「俺がいなくても残るようにしたいんです」
「前も言ってたわね」
「俺が特別だから成り立ってるみたいに思われたら、全部逆になります」
「そう?」
「そうです」
彼は本気で嫌そうだった。
「英雄みたいね」
「やめてください」
「私に言われても」
「本当にやめてほしいんです」
「じゃあ死なないことね」
そう言ったら、彼は少し笑った。
「努力します」
◇
組の方も、意地になっていた。たぶん。
最初は彼一人を止めれば済む話だった。紙に書く。人を集める。規則を作る。それだけだった。
でも今は違う。彼を狙えば、誰かが隠す。捕まえようとすれば、別の人間が知らせる。会合を潰せば、次は違う場所に集まる。壁の文字を消せば、また書かれる。木札を抜けば、次の日には新しいものが立つ。
殴れば従う。それは変わらない。でも、前より少し時間がかかる。一人を殴れば終わったものが、二人、三人と必要になる。三人を殴れば、翌日には別の誰かが同じことを言う。
打たれた杭が、沈まなくなった。
それどころか、打つたび隣に新しい杭が増える。
「最近、余計に嫌われてません?」
「誰に?」
「組に」
「前からじゃない?」
「そうなんですけど」
彼は苦笑した。
「父さんからも、もう話は来ません」
「殺すって言われたんでしょう?」
「はい」
「じゃあ話すことないんじゃない」
「そうですね」
「寂しい?」
「少し」
「そう」
彼は黙った。私もそれ以上は聞かなかった。
◇
それでも、決まりは動いていた。
彼が寝床を変えている間にも、市場では場所代が決められる。水路では水の配分が書き直される。工房では給金の変更が壁に残る。荷車には荷車の限界が決められ、橋の向こうでは橋の向こうなりに話し合いが始まっている。
彼がいないところで。彼に聞かずに。時には、彼が考えたものと違う形で。
「あなた、要らないじゃない」
私が言うと、彼は紙から顔を上げた。
「そうですね」
「嬉しそうね」
「それが一番いいんですよ」
「変なの」
「俺が死んだら全部なくなるんじゃ、意味ないでしょう」
「死ぬ予定なの?」
「ありませんよ」
「なら言わなきゃいいのに」
「例えです」
「縁起でもないわね」
「前に同じこと言ったら、雛子さん何て言いましたっけ」
「忘れた」
「『死んだんじゃない?』って言いました」
「よく覚えてるわね」
「結構ひどかったので」
「そう」
彼は笑っていた。
最近、名前を聞くことも増えた。誰かが呼ぶ。誰かが探す。紙を持ってきた人間が、どこにいるのかと尋ねる。
直人。四ツ橋直人。
別に珍しい名前でもない。名前を知ったからといって、何かが変わるわけでもなかった。
私にとっては、相変わらず彼だった。
◇
襲撃は、だんだん隠されなくなった。夜道、人気のない場所、寝ているところ。そういう気遣いがなくなった。
昼でも来る。人が見ていても来る。組の印を隠しもしない。
ある時は、腕を振るだけで衝撃を飛ばす男が来た。拳が届くより先に壁が砕ける。
「離れて」
「はい!」
もう一発。空気が歪む。血を厚く固めて受ける。表面が弾けた。
強い。でも単純。飛んでくるなら、避ければいい。
血の糸を左右の建物へ伸ばし、身体を引く。衝撃が足元を砕く。男が次の一撃を放つ前に距離を詰め、顎を蹴った。
倒れた。
その後ろから、もう一人。そちらは面倒だった。
男が手を叩く。音がした。ただ、それだけ。
次の瞬間、身体が重くなった。足が動かない。腕も重い。直人が膝をつく。
「雛子さん……!」
「喋れる?」
「一応……!」
なら死んではいない。
男がもう一度手を叩く。さらに重くなる。
「重ねられるのね」
「分析してる場合ですか!?」
「大事よ」
血を地面へ広げる。身体を動かす必要はない。赤い線が地面を這い、男の足元まで届く。
「え」
巻き付ける。転ばせる。手を叩けなくするため、両腕をまとめて縛った。
少し待つと、身体が軽くなった。
「時間で戻るのね」
「雛子さん」
「何?」
「楽しんでます?」
「少し」
「やっぱり」
単純な力は強くなった。単純ではない力も増えた。何をするかだけではなく、どうすれば発動するのか。どこまで届くのか。何を重ねられるのか。何をすれば止まるのか。そういうものまで考えなければならない。
面倒。でも、少し面白い。
人間は、自分の身体から炎を出せるようになっただけでは満足しなかったらしい。別に本人たちが望んだわけではないけれど。
◇
「何でそんなに怒ってるのかしら」
「面子じゃないですか」
「面子って命より大事?」
「人によっては」
「変なの」
「この辺りじゃ、力がないと思われる方が命取りですよ」
それは分かる。弱いと思われれば奪われる。守れないと思われれば人が離れる。命令が通らなければ、次はもっと大きな命令が通らなくなる。
だからこそ、私が直人を守れば守るほど、組は引けなくなる。
「私がいるせい?」
「まあ」
「じゃあ離れた方がいい?」
「それは困ります」
「勝手ね」
「すみません」
謝る。やめない。直人はずっとそうだった。
◇
その日は、朝から空が曇っていた。雨が降りそうで降らない。空気が重い日だった。
私は直人と一緒に歩いていた。
「今日はどこ?」
「会う人がいます」
「誰?」
「隣の地区の人です」
「また規則?」
「まあ」
「よく飽きないわね」
「雛子さんもずっと付いてきてるでしょう」
「護衛じゃないわよ」
「知ってます」
「本当に?」
「たまたま行き先が同じだけですよね」
「そうよ」
「ここ一月ずっと」
「偶然ね」
「すごい偶然だ」
笑っていた。
建物は町の外れにあった。古い倉庫。昔は何を入れていたのか知らない。壁は厚い。窓は少ない。人目もない。
「ここ?」
「一度ここで待つよう言われてます」
「誰に?」
「先に来てるはずなんですけど」
誰もいなかった。机、椅子、古い木箱。それだけ。
「変ね」
「ですね」
直人が辺りを見る。
私は壁を見る。何かがおかしい。匂いではない。音でもない。壁の一部だけ、色が違う。古い倉庫なのに、そこだけ妙に新しい。
「直人」
「はい?」
「出るわよ」
顔が変わった。
「分かりました」
余計なことを聞かなかった。
入口へ走る。扉に手をかける。開かない。
「閉じ込められた?」
「みたいね」
血を刃にして蝶番へ振る。
硬い。
「……あら」
木の扉だったはずなのに、血の刃が弾かれた。表面には鈍い光沢が浮かんでいる。
「これ」
触る。金属。違う。木が金属になっている。
外から足音がした。誰かいる。
「下がって」
壁へ血を打ち込む。
今度は壁が柔らかくなった。刃が沈む。泥みたいに。さっきまで石だったものが形を失い、血へ絡みつく。
「雛子さん」
「うん」
「これ、前にいた奴と似てません?」
「似てるわね」
性質を変える。でも前より広い。扉を硬くする。壁を柔らかくする。同じ人間なのか、別なのか。
どうでもいい。
血を楔にして壁の中へ押し込み、一気に広げる。柔らかくなった壁が外へ弾けた。
「行くわよ」
直人を先に押す。
外には三人いた。一人が壁へ手を向けている。一人は少し離れて立っている。最後の一人は何もしていない。
いや。
手のひらが光っている。
「走って」
「雛子さんは?」
「後ろから行く」
直人が走る。男が手を向ける。光が倉庫へ飛ぶ。
何も起きない。
「……?」
一瞬だけ。
それから、壁の中から同じ光が滲んだ。床、柱、木箱。さっき男が触れた場所だけじゃない。倉庫のあちこちから、同じ光が浮かび上がる。
「ああ」
分かった。
あれは光で攻撃する個性ではない。触ったものに、何かを溜めておける。たぶん。どれくらい。いつから。どこまで。
考える時間はなかった。
倉庫全体が光った。
「あ、これ死ぬわ」
「雛子さん!?」
直人の声。近い。思ったより近い。
駄目じゃない。
「もっと走って」
血を広げる。直人と倉庫の間へ。厚く固める。身体の大半を使って、赤い壁を作る。
間に合うかは知らない。
まあ。
私は死んでも平気だし。
光。
音。
身体が消えた。
◇
目が覚めた。違う。目ができた。
最初に見えたのは、曇った空だった。まだ雨は降っていない。
視界が低い。地面に転がっているらしい。
身体を作る。血を集め、まず頭から首、胸、腕。面倒なので脚は後でいい。周囲に散った自分を引き寄せると、赤いものが瓦礫の間を這って戻ってくる。
少ない。随分飛んだらしい。
まあいい。足りなければ後で増やせばいい。
腕ができる。身体を起こす。
「……ひど」
倉庫はなかった。壁も屋根も、机も椅子もない。焼けた木、砕けた石、黒い土が広がっている。少し離れたところでは、さっき外にいた人間も倒れていた。
自分たちまで巻き込まれる距離でやったらしい。
馬鹿なのか。馬鹿なんだろう。
脚を作って立つ。
「直人?」
返事がない。
周囲を見る。
いない。
少し歩く。血が足りず、右脚の形がまだ変だ。
まあいい。
「直人」
返事はない。
瓦礫をどかす。石。木。焦げた布。知らない腕。
違う。
もう一つどかす。
「直人」
呼んでから、少し変な感じがした。
そういえば、私は今までほとんど名前で呼んでいなかった。彼。あなた。ねえ。それで足りていた。本人が目の前にいたから。
もう一つ石をどかす。
紙が出てきた。焦げている。端がなくなっている。見覚えのある字。水路のこと。市場のこと。橋のこと。途中までしか読めない。
「……馬鹿ね」
紙を置く。また掘る。石。木。布。血。
私のではない。
「直人」
返事はない。
おかしい。
さっきまでいた。私より先に外へ出た。走れと言った。走っていた。
なら、いるはず。
私は生きている。
だから、いるはず。
もう少し大きな石をどかす。その下に、見覚えのある布があった。
「あ」
手。
指。
その先は、なかった。
少しだけ止まる。
「……直人?」
返事はない。
手を取る。冷たい。
でも、私だってさっきまで身体がなかった。
だから。
また瓦礫をどかす。急ぐ。別の腕。違う。脚。違う。血。多い。違う。焦げた紙。違う。
何が違うのかは分からない。
探す。
直人の身体を。
探せばある。あれば、何とかなるかもしれない。何をどうするのかは知らない。私は血を動かせる。傷を塞ぐくらいならできる。血を戻せば。足りないなら私のを入れれば。心臓が止まっていても。
まだ。
「……ねえ」
返事はない。
そこで、ようやく思い出した。
私は私だ。身体がなくなっても、血が残っていれば作り直せる。腕がなくなっても作ればいい。心臓が潰れても、次を作ればいい。さっきみたいに全部吹き飛んでも、それで終わりではない。
ずっと、それを当たり前にしてきた。
だから、忘れていた。
普通の人間は、そうではない。
「……生きてる筈がないか」
口に出した。
変な言葉だった。当たり前のことを確認しただけなのに。
もう一度、手を見る。普通の手。紙を持っていた手。文字を書いていた手。私を指差して、もう少し真面目に考えてくださいと言った手。
ただの人間の手。
直人には、何もなかった。炎も出せない。骨も飛ばせない。身体も硬くならない。触ったものを変えることもできない。爆発の中から戻ってくることもできない。
何もない。
紙に書くだけ。人と話すだけ。決めたことを、決めた人間より長く残そうとしただけ。
「……そっか」
手を置いた。
雨が降り始めた。焦げた紙に一滴落ち、炭が滲む。文字が少し崩れる。
私はそれを拾った。
紙切れに刃はない。拳もない。炎も出せない。爆発から人を守ることもできない。
それでも、直人がいなくなった後にも。
そこには、まだ文字が残っていた。