雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
捕まらなかった。
正確には、警察には呼び止められた。道の真ん中で男を二人ほど転がしていたから、仕方ないと思う。片方は身体から針を飛ばし、もう片方は地面を波打たせていた。最近は一人で来る人が減った。学習しているらしい。
あまり意味はない。
針は血の壁で止めた。地面は跳んで避けた。人通りがあったので、いつもより大人しく戦った。最後は二人まとめて血で縛った。
「約束と違うじゃない」
返事はない。意外と人望ないのね。
そこへ警察が来た。
「……またですか」
「またよ」
いつもの人だった。
いつものように事情を聞かれた。いつものように目撃者を探され、いつものように相手が先に襲ってきたことが確認された。
だから、いつものようについていこうとした。
「どこへ行くんです?」
「警察」
「いや、来なくて大丈夫ですよ」
「そうなの?」
「そうです」
「本当に?」
「本当です」
変なの。
「緊急時における個性使用の規定が変わったんです。明白な危険があって、本人や周囲の人を守るために必要な範囲なら、資格がなくても――」
「帰っていい?」
「……いいです」
「じゃあ帰る」
「あ、連絡先だけ確認させてください。後日、追加で事情を伺う可能性がありますので」
「うん」
名前と住所を書く。
それだけだった。
帰れた。
警察署に行かなかった。留置所にも入らなかった。面会室の椅子にも座らなかった。
ちょっと物足りない。
慣れというのは怖い。
◇
それから数日後、和也から連絡が来た。
会いたいらしい。
珍しい。今までは私が捕まると勝手に来ていた。場所を決めて会うのは初めてかもしれない。
待ち合わせは公園だった。
昔は瓦礫が積まれていた場所だ。今は片付けられ、地面を均して木が植えられている。道もある。遊具もある。子供が走り、少し離れたところでは老人が日向ぼっこをしていた。
別に立派な公園ではない。
でも、公園だった。
先に着いたのでベンチに座る。しばらく待っていると、和也が来た。
スーツ。鞄。それから紙袋。
昔より少しだけ老けた。
私はたぶん変わっていない。
和也が私の前で立ち止まった。何も言わない。
「何?」
「いや」
和也が少し笑った。
「ガラス越しでない貴方は久しぶりですね」
「失礼ね」
「大変だったんですよ? 素行不良の女と密会してるって」
「誰が?」
「俺が」
「誰と?」
「貴方とですよ」
「密会してないけど」
「定期的に警察署の面会室で会ってたでしょう」
「面会じゃない」
「面会です」
「そう」
「事情を説明したら支持が増えましたけど」
「何で?」
「公共の場で個性を使った人が、人を助けた場合でも拘束される。その制度を変えるために、当事者の話を何年も聞き続けていた。そう説明しました」
「私、そんな立派な話した?」
「ほとんどしてません」
「じゃあ嘘じゃない」
「話を聞きに行ったのは本当です」
「強かになったわね」
「政治家ですから」
和也は笑った。
昔より、笑い方にも余裕がある。
そのまま隣へ座るのかと思ったら、持っていた紙袋を差し出してきた。
「はい」
「何?」
「焼きそばパンです」
「頼んでないけど」
「知ってます」
受け取る。
中を見る。
本当に焼きそばパンが入っていた。
「恩返し?」
「どうでしょう」
「何それ」
「もう返せたと思ってるので」
「そう」
袋から取り出す。まだ少し温かい。
「じゃあ、これは?」
「ただの差し入れです」
「そう」
一口食べる。
悪くない。
「美味しいですか?」
「普通」
「わざわざ評判の店まで行ったんですけど」
「政治家がそんなことで時間使っていいの?」
「たまにはいいんですよ」
「そう」
和也が隣へ座った。
ガラスはない。
焼きそばパンをもう一口食べる。
「それで、何の用?」
「今日は別に用があるわけじゃないです」
「ないの?」
「報告はありますけどね」
「やっぱりあるじゃない」
「貴方、今日捕まりました?」
「捕まってない」
「でしょう?」
「警察の人には会った」
「それは仕方ないです。道の真ん中に二人転がしてたら確認くらいしますよ」
「知ってるの?」
「今回の制度改正に関わった政治家ですから」
「偉くなったわね」
「そこまで偉くはないです」
「じゃあ和也が変えたの?」
「まさか」
和也が笑った。
「俺一人で法律を変えられるなら、もっと早く終わってますよ」
「じゃあ誰?」
「大勢です」
和也は少し考えた。
「役人も、警察も、消防も。試験に付き合ってくれた人もいます。反対した人もいましたし、解放寄りの人たちにも助けられました」
「反対してたのに?」
「反対されたから見つかった穴もありますから」
「仲良くなった?」
「まさか」
「そう」
「向こうからすれば、俺は自由を制度の中に閉じ込めた人間です」
「違うの?」
「半分くらいは、その通りです」
和也はあっさり認めた。
「最初に考えてたものとは、随分違います」
「失敗?」
「いいえ」
即答だった。
「妥協です」
「同じじゃないの?」
「違いますよ」
「どう違うの?」
「全部欲しがって何も取れないのが失敗です。欲しかったものの一部でも、実際に使える形で残したなら、俺は妥協って呼びます」
「便利ね」
「便利ですよ。妥協できないと何も決まりませんから」
「政治家っぽい」
「政治家ですから」
「それ気に入ってるの?」
「最近は」
和也は少し笑った。
「最初は、個性をもっと自由に使えるようにしたかったんです。自分の身体の一部なんだから、使うだけで罪になるのはおかしいって」
「言ってたわね」
「でも、自由にすれば全部解決するわけじゃなかった」
「火事とか」
「火事とか。事故とか。犯罪とか。何かあった時に誰が責任を取るのかとか」
「面倒ね」
「ものすごく」
「やめればよかったのに」
「嫌です」
「そう」
知っていた。
何人もそういう人に会ってきたから。
「結局、自由にはできませんでした」
「前と同じ?」
「いいえ」
また即答だった。
「使えるようになりました」
和也が言った。
「それが一番大事です」
公共の場所でも、決められた条件なら個性を使える。人を助けるために使える。災害に対応するために使える。そのための訓練を受け、仕事として金を貰っている人も出てきた。
何でもできるわけではない。
でも、何もできなかった頃とは違う。
「名前は?」
「何のです?」
「そういう人たち」
「まだ統一されてません」
「名前もないの?」
「候補はいくつもありますよ。自治体ごとに違う名前を使ってたりしますし」
「不便ね」
「そのうち誰かが勝手に呼び始めますよ」
「そういうもの?」
「たぶん」
和也が笑う。
「名前なんて、後からついてくるでしょう。今は仕事が先です」
「人気あるの?」
「ありますよ」
「何で?」
「格好いいからじゃないですか?」
「そんな理由?」
「大事ですよ、そういうの」
和也が公園の向こうを見る。
何人かの子供が遊んでいた。一人が手の中に小さな光を灯し、隣の子供が喜ぶ。母親らしい人に何か言われると、すぐに消した。
「人を助けて、感謝されて、自分の個性が役に立つ。子供には分かりやすいでしょう」
「そうね」
「もう、そういう仕事をしたいって言ってる子もいるらしいですよ」
「名前もないのに?」
「子供はそんなの気にしません」
「何になりたいの?」
「さあ。強い人とか、人を助ける人とか、格好いい人とか。今はそのくらいじゃないですか」
「曖昧ね」
「始まったばかりですから」
私は焼きそばパンを食べる。
普通。
少し麺が多い。
「異形の人は?」
聞いてみた。
和也が少し黙った。
「それは、まだです」
「そう」
「何もしてないわけじゃありません。でも、俺が今回やった仕組みだけじゃ解決しません」
「うん」
「犯罪もなくなりません。勝手に個性を使う人もいなくならないでしょうし、作った制度だって事故が起きれば直さないといけない」
「ずっと?」
「ずっとです」
「嫌ね」
「俺もそう思います」
「やめないの?」
「やめません」
「そう」
やっぱり、そういう人だ。
昔、直人達も似たようなことをしていた。
水の取り分を決めても、盗む人はいなくならなかった。市場の決まりを作っても、喧嘩はなくならなかった。人を殴らなくても揉め事を終わらせられるようになっても、殴る人はいた。
それでも、前よりは少なくなった。
たぶん。
「全部はできなかったのね」
「はい」
「悔しい?」
「悔しいですよ」
「じゃあ失敗?」
「いいえ」
和也が笑った。
「できたものがありますから」
「そう」
最初に会った時は、怒っていた。
何がおかしいのかも、どうすればいいのかも、よく分かっていなかった。それから何年も悩んで、紙を増やして、選挙に二回落ちて、三回目で受かった。全部は手に入らなかったらしい。
それでも私は今日、捕まらなかった。
「和也」
「はい?」
「恩、返したんじゃない?」
和也がこちらを見る。
少しだけ目を丸くした。
それから笑った。
「だから、そう言ったでしょう」
「そうだった?」
「そうですよ」
「じゃあ、もう聞かないの?」
「何を?」
「恩返せてますかって」
「聞きません」
「そう」
「寂しいです?」
「別に」
「でしょうね」
和也が立ち上がった。
時計を見る。
また予定があるらしい。
「もう行くの?」
「はい。この後、会議です」
「忙しいわね」
「政治家ですから」
「便利ね、それ」
「最近気に入ってるんです」
「そう」
和也が鞄を持つ。
私は紙袋を持つ。
「じゃあ、また」
「うん」
数歩歩いてから、和也が振り返った。
「次は警察署じゃないところで会いましょうね」
「今日も違うけど」
「だから次もです」
「捕まったら?」
「……制度の穴が見つかったと思ってください」
「和也に連絡する?」
「してください」
「嫌」
「してください!」
公園に声が響いた。
子供がこちらを見る。
和也は咳払いをして、何事もなかったように歩いていった。
政治家は大変ね。
◇
それから、個性を使って人を助けることを仕事にする人間は、少しずつ増えていった。
最初は地域ごとに何もかも違った。名前も違う。資格も違う。できる仕事も違う。火事へ行く人もいれば、崩れた建物へ入る人もいた。危険な人間を止める仕事まで任される者もいた。
上手くいくことばかりではなかった。
失敗した。事故も起きた。人を助けた。人を傷つけた。規則が増えて、使いにくくなって、減らして、また事故が起きて増えた。仕事の範囲も少しずつ変わった。
そのうち、制服を揃えるところが出てきた。
さらに時間が経つと、逆に目立つ服を着る人も出てきた。自分を覚えてもらうために、勝手に名前までつける人が現れた。
馬鹿みたい。
でも、人気が出た。
人を助ける。強い。格好いい。
子供には、それで十分だったらしい。
誰かが人を助ける。それを見た子供が、自分もそうなりたいと言う。その子供が大きくなる頃には制度が少し変わっていて、できる仕事が増えている。また別の子供がそれを見る。
何年も。
何十年も。
いつからだったか、そういう人たちをまとめてヒーローと呼ぶようになった。
随分と大袈裟な名前だと思った。
誰か一人が作ったわけではない。
和也だってそうだ。
彼がヒーローを作ったわけではない。そんな名前すら、あの頃にはなかった。
ただ、人が個性を使って人を助けてもいい場所を、少しだけ作った。
そこへ別の誰かが何かを足した。その上へ、また別の誰かが何かを積んだ。上手くいかなければ崩して、作り直した。そうして何年も、何十年も経って、いつの間にか当たり前になった。
たぶん歴史というのは、そういうものなのだろう。
後から振り返れば、綺麗な物語に見える。始まりがあって、英雄がいて、苦難があって、勝利がある。
実際は、もっと面倒だった。
書類があった。会議があった。選挙に落ちた。また落ちた。妥協した。反対された。事故が起きて、規則を書き直した。誰かが怒った。誰かが助かった。
ついでに、焼きそばパンを買いに行った政治家もいた。
そんなものだ。
英雄の時代は、まだ始まっていない。
これは、その少し前。後から叙事詩になる物語の、序文くらいの話だった。