雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
それから、さらに三年が経った。
私の背丈は変わらない。けれど、周りは変わった。
「ただいま」
扉を開けて入ってきた男を見て、私は少し考えた。
「……誰?」
「ひでえな!」
怒られた。
冗談よ。
知っている。項司に拾われた時には、私より少し大きいくらいだった男の子だ。
「久しぶり」
「ああ。雛子は……本当に変わらないな」
「変えようとしてないもの」
「そういうもんなのか?」
「そういうものよ」
たぶん。
彼は大きくなった。声も低くなった。肩幅も広くなった。頬には知らない傷が増え、服装も変わった。三年前までは拾った服を継ぎ接ぎして着ていたのに、今の上着は少なくとも彼の体に合っている。
腰には刃物。上着の下には拳銃。そして、腕には見覚えのない印があった。
「それ、何?」
「これ?」
青年が袖を捲る。
「印。俺たちの」
「ふうん」
誰の仲間なのか、一目で分かるようにしているらしい。
便利ね。
「お前、その格好……」
奥から出てきた項司が足を止めた。
青年が笑う。
「久しぶり、項司」
「何しに来た」
「何って、帰ってきたんだよ」
「どの面下げて」
「俺の面だよ」
「そういうこと言ってんじゃねえ」
項司は腕の印を睨んでいた。青年は気にした様子もなく、背負っていた袋を床へ下ろす。どさりと鈍い音がした。随分と重そうだった。
「ほら」
中から出てきたのは米だった。それも、かなりある。
「…………」
項司が黙る。
青年はさらに缶詰を取り出した。塩。乾燥させた肉。薬。見たことのない瓶まである。三年前なら、何日歩き回ればこれだけ集められただろう。
子供たちが集まってくる。
「触るなよ。あとで分けるから」
「これ、全部?」
「ああ」
「すごい!」
「だろ?」
青年が笑った。
みんな嬉しそうだった。
項司以外は。
「持って帰れ」
空気が止まった。
「……は?」
「聞こえなかったか。持って帰れ」
「何言ってんだよ」
「そんなもん受け取れるか」
青年の顔から笑みが消えた。
「なんで」
「どこから持ってきた」
「俺の分け前だよ」
「だから、その分け前はどこから来た」
「仕事したから貰った」
「何の仕事だ」
「…………」
「言えねえのか?」
「見張り。荷運び。揉め事の仲裁。色々だよ」
「仲裁?」
項司が鼻で笑った。
「殴って言うこと聞かせるのを仲裁って言うようになったのか」
「だったら何だよ」
「持って帰れ」
「だから!」
青年が袋を蹴った。
「食い物だぞ!」
袋が倒れ、口から米が少し床へ零れる。
「あ……」
近くにいた子供が声を漏らした。
二人とも黙った。
私は床に落ちた米を見る。
勿体ない。
拾おうとしたら、項司に先を越された。一粒ずつ摘まみ、袋へ戻していく。受け取らないと言ったくせに、捨てることもできないらしい。
「……食わせるもん、ないんだろ」
青年が言った。
項司の手が止まる。
「畑も駄目になったって聞いた」
「誰からだ」
「ここらのことなら大体分かる」
「…………」
「薬もない。薪も足りない。冬越せると思ってんのか?」
「だからって、お前があんな連中の仲間になる必要はねえ」
「あるよ」
「ねえよ」
「ある!」
青年の声が響いた。
奥にいた小さな子供が肩を震わせる。青年はそれを見て、一度口を閉じた。
少しして、声を落とす。
「あるんだよ」
「…………」
「あそこにいれば飯が食える。寝る場所もある。働けば分け前も出る。ここらじゃ勝手に襲われることもない。異能があるだけで追い出されない。何ができるかで仕事も振られる」
「その代わり、他の奴から奪うんだろ」
「奪ってねえよ。決まりを守らねえ奴から取り立ててるだけだ」
「同じだ」
「違う」
「何が違う」
「死なない」
項司が黙った。
青年は項司を睨んでいた。
「死なないんだよ」
もう一度言った。
「角があろうが腕が三本あろうが、働けるなら関係ねえ。あそこじゃ、使える奴にはちゃんと飯が出る」
「使える奴には、な」
項司が低く言った。
青年の顔が僅かに歪む。
「じゃあ使えない奴まで、あんた一人で抱えてどうすんだよ」
項司は答えなかった。
「あんたはずっとそうだ。悪い奴から物を取るな。弱い奴を見捨てるな。子供を危ないことに使うな。困ってる奴がいたら助けろ」
「何が悪い」
「悪いなんて言ってねえよ!」
青年が叫んだ。
「あんたに拾われなかったら、俺は死んでた。ここにいる奴らだってそうだ。だから今度は俺が食わせようとしてんだろ!」
「そんなやり方でか」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
答えはなかった。
「畑は駄目になった。探しに行ったって、もう何も残ってねえ。物を作ってるところは全部誰かが押さえてる。水だってそうだ。薬だってそうだ。何にも属さずに生きていける時代じゃねえんだよ!」
「だからって――」
「だからって何だよ!」
項司が言葉を止めた。
青年が一歩近づく。
「あんたは俺たちを生かしたかったんじゃないのか?」
「…………」
「俺は生きてるぞ」
青年は自分の胸を叩いた。
「飯食って、働いて、自分の分け前まで貰える。ここに持って帰ってこれるくらいにはなった。それの何が気に入らねえんだよ」
「お前が、誰かを踏みつけて生きるようになったことだよ」
「踏みつけなきゃ、こっちが踏みつけられるんだよ」
「それじゃ何も変わらねえだろ」
「変わったよ」
青年は即答した。
「少なくとも、俺は死ななくなった」
静かになった。誰も口を挟まない。
私は二人を見比べる。
青年の言っていることは、よく分かった。食べ物がある。寝床がある。守ってもらえる。その代わりに働く。必要なら誰かを殴る。
単純だ。
項司の言っていることは、相変わらずよく分からなかった。
「……食料は持って帰れ」
項司が言った。
青年が目を細める。
「本気で言ってんのか」
「ああ」
「こいつらが腹減らしてても?」
「俺が何とかする」
「どうやって」
「…………」
「なあ。どうやってだよ」
項司は答えなかった。
青年が笑った。
嫌な笑い方だった。
「何とかする。考える。その時になったらどうにかする。ずっとそれだよな」
項司が青年を見る。
「もう無理なんだよ」
その声は、怒っていなかった。
「項司。もう、あんた一人じゃ無理なんだ」
項司は何も言わなかった。
◇
結局、食料は置いていかれた。
項司は最後まで受け取らないと言っていたけれど、青年は聞かなかった。
「いらねえなら捨てろ」
そう言って帰っていった。
もちろん、捨てなかった。
その日の夕食は、久しぶりに粥ではなかった。炊いた米に塩気のある肉まで付いた。子供たちは何度も器を覗き込み、食べ終わった後まで名残惜しそうに底を掬っていた。
項司はほとんど食べなかった。
「食べないの?」
「食欲ねえ」
「じゃあ貰っていい?」
「駄目だ」
「なんでよ」
「明日の分だ」
「そう」
なら仕方ない。
項司の向かいに座って食べる。
美味しかった。
「ねえ」
「なんだ」
「あの子の言ってること、間違ってる?」
「…………」
項司はしばらく答えなかった。手をつけていない器を見て、それから、さっきまで青年が座っていた場所を見る。
「間違ってねえよ」
「じゃあ何で怒ってたの?」
「間違ってなくても、嫌なもんは嫌なんだよ」
「そういうもの?」
「そういうもんだ」
よく分からない。
でも、項司自身も分かっていたらしい。青年の言っていることが間違っていないことくらい。
外では、もう誰かの縄張りに入らず生きていく方が難しくなっていた。水を汲むにも、食べ物を育てるにも、物を交換するにも、誰かが作った決まりの中でやるしかない。以前は道端で勝手に物を並べていた人たちも、今では決められた場所へ集まる。畑の周りには見張りが立ち、水場には順番があり、そこを守る人間には取り分がある。
項司の拠点だけが、その外側に残っていた。
畑は不作。蓄えていた食料も、もうほとんどない。薬もない。燃料も足りない。拾えるものは拾い尽くした。項司がどれだけ探し回っても、手ぶらで帰ってくる日の方が増えた。
それでも項司は、誰かに従うことを嫌がった。
青年は、進んだ。
項司は、進まなかった。
当時の私は、そう思っていた。