雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
項司の家が、あいつらの縄張りになった。
正確には、なったらしい。
「いや、なってねえよ」
項司はそう言った。
「なってるわよ」
「なってねえ」
「でも、あの子が食べ物持ってきてるじゃない」
「それとこれとは別だ」
「向こうは別だと思ってないみたいだけど」
項司が黙った。
青年が食料を運ぶようになってから、冬を一つ越した。最初は彼個人の分け前だった。やがて量が増え、米や保存食だけでなく、薬や燃料まで持ってくるようになった。
項司は受け取りたがらなかった。けれど、食べる子供はいる。薬を必要とする子供もいる。寒ければ火を焚かなければならない。捨てることなんてできるはずもない。
だから使った。
向こうからすれば、それで十分だったらしい。食料を受け取る。薬を受け取る。守られる。
ならば仲間だ。
少なくとも、彼らの決まりでは。
「一度話した方がいいんじゃない?」
「何を」
「私たちはあなたたちの仲間じゃありません、って」
「言ってる」
「聞いてもらえなかった?」
「聞いてはいる」
「じゃあ?」
「納得してねえ」
「面倒ね」
「だろ?」
項司が笑った。
珍しく意見が合った。
◇
その日は、青年一人でやってきた。
食料は持っていなかった。
それだけで、いつもとは違うと分かった。
「よう」
項司はいつも通りだった。
「久しぶりだな」
「……ああ」
「飯食うか?」
「いい」
「そうか」
青年の顔色は悪かった。
腰には拳銃がある。珍しいものではなくなった。銃弾そのものは相変わらず貴重だったけれど、それを集められる人間のところには集まるようになった。
食料も。薬も。武器も。人も。
何もかも、持っているところへ集まり始めた。
青年は、その持っている側にいた。
「項司」
「なんだ」
「最後に聞く」
「ああ」
「俺たちに入ってくれ」
項司は答えなかった。
「難しいことじゃない。ここが俺たちの縄張りだって認めてくれればいい。何かあったら人を出す。食料も今まで通り回す。病人が出たら薬も優先してもらえる」
「その代わり?」
「決まりには従ってもらう」
「例えば?」
「必要な時には人を出す。物資を出す。他所の連中を勝手に入れない。拾ってきた奴がいるなら報告する」
項司の顔が変わった。
「最後のは駄目だ」
「項司」
「ここに来た奴を追い返せってのか」
「全員入れてたらきりがないだろ!」
「だからって見殺しにはできねえ」
「まだそれ言ってんのかよ!」
青年が声を荒らげた。
「何年経ったと思ってる! もう昔とは違うんだよ!」
「ああ。知ってる」
「知らねえよ!」
青年が項司へ詰め寄る。
「知ってたら分かるだろ! もう勝手なことされたら困るんだよ。誰がどこに住んでるか。どれだけ食料があるか。何人働けるか。全部把握しなきゃ回らないんだ!」
「随分偉くなったな」
「茶化すな!」
「茶化してねえよ」
項司は青年を見る。
「立派になったって言ってんだ」
青年の顔が歪んだ。
「……だったら」
「ああ」
「だったら、言うこと聞いてくれよ」
「それは別だ」
「なんでだよ」
「嫌だから」
「そんな理由で!」
「十分だろ」
青年が何か言おうとして、やめた。
たぶん、何度も繰り返した話なのだろう。
私にも分かる。青年の言っていることは正しい。人が増えれば管理が必要になる。食料がどれだけ必要なのか知らなければ、配ることもできない。誰でも好き勝手に拾ってきたら、いずれ足りなくなる。
項司のやり方では、大勢を養えない。
そんなことは、もうずっと前から分かっていた。
「……今日、何しに来たの?」
私が聞くと、青年の肩が揺れた。
項司が私を見る。
青年は答えない。
「食べ物も持ってきてないし、話をしに来ただけにも見えないけど」
「雛子」
「何?」
「ちょっと外してろ」
「嫌よ」
「そうか」
あっさり諦めた。
青年は俯いたままだった。
項司が息を吐く。
「俺を殺せって?」
「…………」
答えはなかった。
必要なかった。
「そうか」
項司はそれだけ言った。
驚かなかった。怒りもしなかった。
「項司」
「分かってたよ」
「違う。俺は──」
「いい」
青年が顔を上げる。
「良くねえよ!」
「いいんだよ」
項司は笑った。
いつもの顔だった。
「俺が邪魔なんだろ?」
「……あんたが従ってくれれば済むんだ」
「それは無理だ」
「なんで!」
「嫌だからだよ」
「死ぬんだぞ!」
「ああ」
あっさりしていた。
「俺が撃つんだぞ!」
「ああ」
「俺に!」
青年の声が震えた。
項司は少しだけ黙って、それから青年の肩を叩いた。
「悪いな」
「……何が」
「嫌な役やらせて」
青年が項司の手を振り払った。
「ふざけんなよ……」
「ふざけてねえよ」
「だったら従えよ!」
「それはできねえ」
「なんでだよ……」
項司は答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。
この男は、昔からそうだった。どうして子供を拾うのかと聞けば、目の前にいたから。どうやって食わせるのかと聞けば、何とかする。物がなくなったらどうするのかと聞けば、その時考える。
ずっと、それだけだった。
立派な考えなんて持っていなかったのだと思う。目の前にいたものを捨てられない。
ただ、それだけ。
「時代についていけなかったのは俺だ」
項司が言った。
青年が顔を上げる。
「お前は進め」
「…………」
「俺を殺して、次に行け」
「そんなこと言うなよ……」
「お前が生きるために必要なんだろ」
「違う」
「違わねえよ」
「違う!」
青年は泣いていた。
いつの間にか、大きくなったものだと思った。私より少し背が高い程度だった子供が、今では項司とほとんど変わらない。
拳銃を握る手だけが、ひどく震えていた。
「雛子」
「何?」
項司が私を見た。
「悪かったな」
「何が?」
「勝手に拾って」
「別に」
「勝手に名前つけて」
「別にいいわよ」
「そうか」
項司が笑った。
「じゃあな、雛子」
「ええ」
青年が拳銃を上げる。何度も下げそうになった。
項司は動かない。逃げない。止めない。
私は見ていた。
止めようと思えば、止められた。青年の腕を切り落とすこともできた。拳銃を壊すことも、弾丸が項司へ届く前に止めることもできた。
でも、項司は私を見なかった。
助けてとも言わなかった。
だから、見ていた。
「……ごめん」
銃声が響いた。
◇
項司は死んだ。
それだけだった。
建物が崩れるわけでもない。空が暗くなるわけでもない。誰かが死んだからといって、世界は何も変わらない。
青年はその場に座り込んで、ずっと泣いていた。
私は項司の死体を見た。
血が流れている。まだ温かい。
少し前の私なら、勿体ないと思っただろう。腹も減っていた。血は、そのまま自分のものにできる。あれば困らない。
でも。
「……いらない」
初めて、そう思った。
私は外へ出た。
もう、ここにいる理由はなかった。
歩きながら、自分の体を見る。小さい手。短い脚。項司に拾われた日から、ずっとこの姿だった。
別に戻せなかったわけではない。食べて、飲んで、血を増やせばいつでも戻せた。必要がなかっただけだ。
「…………」
血を巡らせる。
骨の形を伸ばす。筋肉を作り直す。皮膚を広げる。足りない分は、これまで蓄えていた血と栄養から補った。
視線が少しずつ高くなる。
服が合わなくなったので、途中で少し困った。
「……面倒ね」
結局、近くにあった布を巻いた。
振り返る。
項司の家が見える。子供たちの声がする。
あそこにいた子供たちは、たぶん大丈夫だ。青年がいる。食べ物もある。守ってくれる人間もいる。
項司より、ずっと上手くやるだろう。
時代についていけなかったのは、項司だった。青年は進んだ。私も、ここを出ていく。
だから、これでいい。
そう思った。
そういうことにした。
「じゃあね、項司」
返事はない。
私は歩き出した。
後になって、この時代について書かれたものをいくつも読んだ。
国が崩壊したこと。異能者同士の争い。各地に生まれた武装集団。そこから少しずつ、新しい秩序が形作られていったこと。
色々な人間の名前が残っていた。
けれど、芥項司という名前を見つけたことは、一度もない。
当然だと思う。
あの男は国を救っていない。大勢を率いたわけでもない。新しい仕組みを作ったわけでもない。ただ、道端にいた子供を拾った。食べ物を分けた。名前のない子供に、名前をつけた。
それだけだ。
歴史に残るようなことは、何一つしていない。
名も無き誰か。
そんな人間だった。
それでも私は、百年以上経った今でも、その名前を覚えている。
ひとまず、これで一章終わりです。
感想をいただけると嬉しいです。
次から一日一投稿となります。