『傭兵さんよ。東方を旅し続けるんなら、ザリアへは絶対行っとけ』
『全くだ。世の中変わって見えるぜ、あれ拝んだら』
『ああ、神さまって奴はホントにいるんだな……ってよ』
「っ……!」
森を抜けた先の景色に、ローランとナツメは思わず息を呑んだ。
なだらかな高原地帯に建ち並ぶ、朝日に照らされた純白の廃墟。
それらを、空の一点から広がった虹色の薄幕のようなものが覆っている。
同朋の戦神騎士ジェラルドがラガニアで言及していた、"結界"という業だろう。
以前立ち寄った酒場で聞いた話に、誇張は一切無かった。
神の座す聖域。
そう表現するほかない偉容だ。
「あれが、ザリア高原か」
「すごい……あのキラキラしてるのは、"防護"の魔術の応用なんでしょうか?」
「"防護"の応用って言ったって、あの規模は……」
ローランは首をかしげるナツメに一瞬目をやるも、しかしすぐザリアへと視線を吸い戻された。
ありえない。
戦の中で敵味方多くの魔術師を見てきた、戦神の民の本能が呟く。
高原に広がる廃墟はこの森から見上げるだけでも、下手な小国の都より大きい。
あれらを丸ごと覆う"防護"など、何万枚が必要になることか。
その上、酒場の者達や戦神の諜報"砂粒"に聞いた話によれば、あの"結界"は常時保たれており、人間の侵入は不可能だという。
一方で動物達は平気で出入りしているとも。
「あっ」
ナツメが小さく声を上げる。
見ると、廃墟中央の城に絡みつくようにそびえている大樹から、鳥の群れが飛び立った。
餌場にでも向かうのだろうか、無数の翼が"結界"など存在しないかのように通り抜け、東へ羽ばたいていく。
「……"神"の業って奴か」
ローランはつい笑みをこぼした。
この大陸で最も旧き魔物、"霊狼"。
彼らの長ガドは未だ姿形を保つ"神"と呼んでもいい存在だと、エルフの老婆ルルシェはかつて言っていた。
それはつまり、フォルラザの戦神やオズワルドの竜神、エルフの祖である地母神と同格ということだ。
「ろ、ローランさんっ……なんだかウチ、緊張してきました……!」
「俺もだ。というか、まずあの"結界"の中に入れてもらえるのか……?」
畏敬や疑問を抱きつつも、ローランとナツメはとりあえず森を出て、ザリア高原に向かっていく。
麓にある整備された街道で改めて"結界"を見上げていると、小さな商隊と遭遇した。
商隊はこちらに構わず、主と思しき商人を含めて全員が下馬。
そして"結界"に向いて両膝を折り、黙祷を捧げ始めた。
なんとなしに、ローラン達もそれに倣った。
やがて黙祷を終えた商隊は下馬したまま、去っていった。
「……街道から離れて近づいた方がよさそうですね」
「だな。入るのを見られたら、大ごとになっちまいそうだ」
目立たず回り込むようにして高原を上り、廃墟を覆う"結界"の間際まで近づいたローランは、隣のナツメを見やった。
ルルシェと同じく地母神の子に生まれたナツメは、凄まじい魔力感知能力を有している。
しかし、ナツメは真剣な表情で眼前の淡く輝く薄幕を観察した末に、眉をひそめた。
「やっぱりそうです。これだけ近づいてもウチは……全然魔力を感じません。"霊狼"さんっていう魔物の気配も感知できないし」
「じゃあ"闇の廃都"にいた石の戦士達みたいな、魔術とは別の業ってことか?」
「どうなんでしょう……ローランさん、ちょっと"結界"に触れてみてもいいですか?」
「駄目だ。単純な魔力の壁じゃないのなら、何が起きるか分からない。……ルルシェの婆さんが事前に話をしてくれてるはずだ。素直に名乗ろう」
ローランは戦神の加護を欺くルルシェの首飾りを外し、息を大きく吸い込んだ。
パシュッ。
声を張ろうとした瞬間、首飾りから黄金の光が飛び出し、二人の周囲を旋回し始める。
「何だこりゃ?」
「これは、多分……あっ」
「何じゃ何じゃ朝飯時に。間が悪いのう」
いつの間にか、見知った顔の老婆が近くの岩に座っていた。
刻まれた皺の深さに似合わぬ、輝く金髪と煌めく碧眼。
そして長い耳と、手に持った肉の器。
「婆さん……相変わらず急だな」
「ル、ルルシェ様!? お食事の最中でしたか!?」
「最中でしたな。あぐあぐ……ちょいと待っとれ。食い逃げになってしまう」
肉をかじりながらルルシェは姿を消し、しばらくしてまた現れた。
舌を出してころころと笑う、老婆らしからぬ毎度の仕草。
「わはは、首飾りの仕掛けが災いしてしもうた。乙女が恥ずかしいところを見せたわ」
「乙女……?」
「随分早かったの、ローラン、ナツメ。もちっとゆっくり旅をすればよいものを」
「……逆だよ。ラガニアに長いこと滞在して、太陽川でも結構粘って。あんたに"霊狼"の話を聞かされてから、だいぶ時間が経っちまった」
「すいません、ルルシェ様。道中色々なことがあって……」
「なーにを言っとるか。ワシは千歳をとうに越えたエルフじゃぞ? 大した時間ではないわい。ましてやガド様にとっては、欠伸一回分ほどよ」
「それならいいけどよ。だけど一応、あんたからそのガド様に予め紹介してもらってるわけだし」
「え?」
「え?」
沈黙。
風が吹いた。
「……わっはっはっは!!」
「忘れてやがったなババア」
「ルルシェ様……」
ジトっと睨むローランとナツメの前で、エルフの老婆は手を叩いて笑う。
エルフは奔放、気まぐれ、からかい癖あり。
そう語られる種族だと分かってはいても、先日しっかりと約束通り"姫神"戦の報告に来てくれたナギッサと関わった後だ。
落差でどうしても、冷たい反応をしてしまう。
「まあ、支障無いわい。ガド様の前では些事よ」
「些事って。俺達はあんたと違って人間だぞ? 事前の話もせずに神様が会ってくれるのか?」
「人間とはいえ、お主らは戦神の使徒に地母神様の子。それに、ガド様は全てご存知じゃとも」
「……? どういうことですか? ガド様ってお方は、この"結界"の中にずっといらっしゃるんじゃ……」
「お会いすれば分かるわい。ほれ、行くぞ。もうお許しがいただけとる」
ルルシェは"結界"の前で跪き、一度だけ頭を下げた。
そして、するりと中に入った。
ローランとナツメは顔を見合わせ、同じようにして中に入った。
「……っ」
"結界"をすり抜けた際の感触に、ローランは一瞬息を止めた。
身体が内側から清められたような、あるいはつぶさに観察されたような、快とも不快とも表現できない感覚。
ナツメは自分以上に何かを感じ取ったようで、真紅の瞳を揺らして"結界"の薄膜を振り返っている。
「さて、ナツメよ。お主の感想でも聞いておこうか」
「……魔力を感じました。本当にうっすらと、ですけど。直接触れたから……?」
「ほうほう。流石にわしと同じ生まれなだけはあるのう」
「俺も奇妙な感じがしたけど、よく分かんねえ。ルルシェの婆さん、この"結界"って業は結局何なんだ?」
「魔物が纏う魔力の鎧、エルフや人間が使う"防護"の魔術……そういった術の源流。要は魔力によるものじゃ」
「えっ……でもウチはさっきすり抜けるまで全然魔力を……」
「当然のこと。ガド様の魔力は、桁外れじゃからの」
ルルシェは指を一本動かし、足元にいた小さな虫を浮かせた。
「地を這う虫が、己の歩む大地の広さを知り尽くすことは出来ん。一生脚を動かしても、この大陸の大きさを掴めはすまい。あるいは、『広い』という認識すら持てんじゃろうて」
「……ナツメは人間だけど、地母神の子だ。魔力量はかなりあるはず。それでも"霊狼"の長とは、虫と大地ほどのとんでもない差があるってのか?」
「わしでさえもそうじゃ。あまりに隔絶した差は、正常に感じ取れぬ。それ故にあの御方はわしらエルフから……"神"を謳われる」
大きく身震いしたナツメ。
ローランもまた、自身の手の震えに気づいた。
戦神騎士に叙任され、初めて戦神の大剣を握った時を思い出す。
大いなる存在の一端に触れることを、許されたかのような──
「!!」
咄嗟に大剣の柄を握った。
強大極まる気配。飛竜か。
違う。地を駆けている。
「来ます! 四っ……え、四じゃないの!? 何この魔力量……!?」
「いや、四で合っとる。ナツメ、落ち着きなさい」
自身の魔力感知を疑ったナツメ。
半ば崩れた廃墟の隙間を遠方から、灰色の影が縦横無尽にすり抜けてくる。
やはり四つだ。
速い。速すぎる。
四つ全ては追いきれない。
ローランが大剣を構え、視線を走らせていると、ルルシェが緑の光球を浮かべた。
淡く輝く光が、ローランの頭へ直に語りかける。
心を鎮めろ、武の気配を抑えろ、と。
老婆の碧眼と目が合った。
恐怖や焦燥の色は無い。
ローランは荒く息を吐き、戦神の大剣を地面に突き刺して、手を離した。
トンッ。
一際高い廃墟の上に、一つの影が跳び乗った。
"結界"の光が、それを照らし出す。
『…………』
狼。
少し大柄な、凛々しい顔立ちの狼だった。
だがかつての大戦で対峙した飛竜を思わせる、尋常ならざる重圧がある。
こちらを見下ろす眼差しは冷やかで、品定めしているかのようだ。
これが、"霊狼"か。
残る三頭も追いつき、ローラン達を遠巻きに囲んだ。
驚くべきことに、彼らは最初の霊狼よりもなお大きく、圧力も強い。
廃墟の上に乗っている霊狼は、若者の類のようだ。
ローランはそれすら察知できないほど、自分が緊張していたことに気づかされた。
「ぅっ……!」
「どうしたナツメ!?」
「ローラン、心配するでない。彼らの魔力に少しあてられただけじゃ」
膝から崩れ落ちたナツメを、優しく支えるルルシェ。
老婆は黄金の光をナツメの額にかざしながら、口を開いた。
「──、──」
『──』
『──、──、──』
厳かな声音で聞き知らぬ言葉を奏で、地母神の子たるエルフが霊狼達と言葉を交わす。
数度のやり取りの後、三頭の霊狼は重圧をかき消して走り去っていった。
残ったのは、廃墟の上から見下ろしてくる一頭のみ。
「ふー、やれやれ。娯楽が無いのは分かるが、四頭も来んでほしいわい」
「んん……ル、ルルシェ様……ウチ、は」
「まだ休んどれ、ナツメや。霊狼の魔力量は飛竜に勝るとも劣らん。お主の魔力感知にいきなり複数入ってくれば、しんどかろうて」
「婆さん、まだ一頭残ってるぞ」
ローランは戦神の大剣を肩に担ぎ、霊狼と見つめ合った。
濃さのある灰色の瞳は、とても澄んでいる。
「……いつまでそうやっとるんじゃ。降りてこい、ジン」
ジンと呼ばれた霊狼は高く跳び、ローランの前に音も無く着地した。
『人間か? はじめて見た』
声はまだ高く、少年を思わせるものだった。
…………
……
…
まだ形を保っている廃墟の一つに入ったローラン達は、焚火を囲んだ。
ルルシェの熾した火が、薪も無しに周囲をじんわりと暖める。
しばらくして、横たわっていたナツメが身を起こした。
「すいません……ローランさん、ルルシェ様。ガド様にお会いする前に、ウチが足を止めてしまって……」
「気にすんな、ナツメ。霊狼の存在感は魔力感知の素質が無い俺でも堪えた。お前なら猶更だろ」
「魔物の住む地と聞けば、とりあえず魔力を探るのは自然なことじゃ。このザリアでは、それが悪手だったというだけのこと。まあ、彼らに敵意は無い。感知は抑えとればよい」
「はい、ルルシェ様」
「そういうことは事前に言ってくれよ、婆さん」
「大陸最高峰の魔物に囲まれる経験は貴重じゃ。お主らの今後を考えれば無駄にはなるまい? 道のりの果てには、同じく最高峰の飛竜が待っているのじゃからな」
「……まあ。そうかもな」
ローランとルルシェが話す横で目を閉じて、大きく深呼吸を繰り返すナツメ。
ラガニアに滞在していた間に、熟練の魔術士であるジェラルドから魔力感知を抑える術はしっかりと学んでいる。
やがてナツメはすっきりした顔で、昼食の準備をし始めた。
『……どうしてその人間は、多くをかくしているんだ?』
ナツメの手がピタリと止まる。
床に寝そべった霊狼の若者ジンが欠伸をしながら、後ろ足で自分の首をかいた。
『ルルシェの力が、かくしているな。本当のお前は黒じゃなくて、白と赤だろ。地母神のにおいも力も、全てかくされている』
ナツメが青ざめた顔で、ローランを見つめてきた。
ローランは腕を組み、ジンへの答えを考える。
ルルシェが以前に言っていた通りだった。
霊狼は、ルルシェがナツメに施した業を簡単に見破ってしまった。
容貌を欺き、地母神の気配を消し、強大無比の魔術"地母神の瞳"を封印する、大いなる業を。
「あー……えー……」
「わはは、ジンや。珍しく物覚えが悪いのう」
『何だと?』
返答に窮していたローランの横で、ルルシェが呟く。
「前に教えてやったろう? 人間達はエルフを見ると、わらわら近づいてくるとな。それはわしらが美しく、珍しいからじゃとも」
『しわしわだろ、ルルシェは』
「エルフでなくとも、美しいものや珍しいものを人間達はとにかく欲しがるのじゃ。地母神の子は今、大陸に三人しかおらん。その一人であるナツメが多くを隠すのは、当たり前のことよ」
『……そうなのか?』
「わしがお主に嘘をついたことがあったか?」
『ウソをついているにおいは、よくしているな』
「わはは、こやつめ」
ルルシェはけらけらと笑いながら、ジンの腹をもしゃくった。
中々力押しの問答にローランは呆れつつも、年長の老婆に心の中で感謝した。
こういう時に舌が回る同伴者がいるのは、非常に助かる。
『よこの人間は、戦神の使徒だな?』
「……そうだ。フォルラザの戦神騎士ローランという。霊狼のジン、よろしく頼む」
『何をだ?』
「は?」
『フォルラザはルルシェに聞いている。戦神の使徒たちの群れだろ。……きしとは? 何をたのむって? よろしく?』
「えっ、それは……『よろしく』ってのは、その……ぉ……」
「あ、あの! ジンさん、『よろしく』っていう言葉はですね……」
ナツメが慌てて助太刀に入り、首をかしげるジンの相手をし始める。
ローランはルルシェを連れて廃墟の外に出た。
「……婆さん。霊狼ってのは頭が良いのか? 悪いのか? 単に鼻が滅茶苦茶利いて強いだけの奴らか?」
「ぷ、ククっ……頭はお主より遥かに良いわい。ただ、滅多にザリアの外に出ぬ魔物達じゃ。単純に、人間の言葉を聞き慣れとらん」
「つまりあのジンって奴が、まだ世間知らずの子供だからか?」
「まあそれもあるが、そもそも人間の言葉を話せる霊狼の方が稀じゃぞ? 今はジンだけだわい。だから他の者達はジンを案内役に残していったのじゃ。彼らには彼らの言葉があるからの」
「囲まれた時に婆さんが何か話してたのが、霊狼の言葉か」
「うむ。しかしローラン……お主、『よろしく』がどういう意味かも説明出来んのか。ぷっ」
「う、うるせえっ!」
ニヤニヤする長耳のババアに、ローランは頬を熱くして焚火に戻った。
『騎士ローラン。従者ナツメ。よろしくたのむ』
尻尾を軽く振りながら、見上げてくる霊狼。
苦笑するナツメが差し出したスープをローランはぐいと煽って、座り直した。
調子を狂わされる奴だ。
先輩のイオやアレクシス。後輩のノア。ラガニアの探究者ヴァッセルやリファ。
いずれの奇人変人達とも性質が違う、面倒な相手である。
しかし。
『ずずず。ほう……ほう……』
「ウチのスープ、どうですか? ジンさん」
『すーぷ?』
「あっ、『スープ』っていうのは……」
ナツメが明るく自然体で接することが出来るほどに、ジンは己の圧力を巧みに抑え込んでいた。
剥き出しならば飛竜に匹敵するほどの、異常な重圧を。
それは、彼が優れた戦士である証だ。
「婆さん、こいつらは……」
「だから言ったじゃろ?」
ルルシェはナツメのスープに口をつけ、微笑んだ。
「霊狼は"神"の一族、とな」
…………
……
…
ジンに案内されたのはやはり、広大な廃墟群の中央にある大樹が絡みついた城だった。
人の手による物と雄大な自然が交わった姿は歪にも関わらず、不思議な調和を感じさせるものだった。
「…………」
ローランは入口横の、ツタまみれの壁に触れた。
やはり、この城もそうだ。
ザリア高原にある純白の建物はどれも崩れかけているのに、戦神騎士の膂力で圧しても、今以上に崩れる気配がまるで無い。
この廃墟はどこかの段階で時が止まったかのように、保存されている。
「どうじゃ、ローラン。いい加減わしの話を……いいや、ガド様のお力を信じる気になったか?」
「別に疑ってたわけじゃないけどな。だが、ここまでだとは思ってなかった」
「ラガニアでリファちゃんが氷の魔術での保存について話してましたけど……ガド様はこれだけの廃墟を、本当に丸ごと……」
ナツメが改めて身体をぶるっと震わせ、息を呑む。
『何をやっている? はやく来い』
先に進んでいたジンが振り返り、促してくる。
ローランの目が勝手に、隣のルルシェを見た。
エルフの老婆は穏やかに笑っている。
ローランが軽く探りを入れるだけでも、ジンと似た気配が城内には多く感じられる。
もしも霊狼が魔力量や重圧だけでなく戦闘力まで飛竜と同格ならば、この"結界"の中に入った時点でもう自分達の行動は決まっている。
彼らの長に会い、認められる。それしかない。
「進むぞ、ナツメ」
「……はい」
ジンに導かれ、ローラン達は城を上がる。
やがて、真っ暗な大広間へ入った。
「っ!!」
後ずさったナツメの手を、ローランは優しく握った。
自分の手が、大剣の柄に伸びないように。
暗闇で僅かに光る、数十の灰色の瞳。
威嚇するような重圧は無い。
しかし、戦士の本能がひたすら警鐘を鳴らす。
命を握られている、と。
『──。──?』
『─』
『……──』
広間の隅に行ったジンが霊狼の言葉で何かを話し合っている。
そして帰ってきて、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
『みんな、まだ人間のことばで話してやれとオレにいう』
「……悪いな」
『いい。はやくガドと話せ』
霊狼の若者に急かされ、ローランは思いきって外套を脱いだ。
白銀の大剣と漆黒の胴鎧を露わにし、胸を張る。
「霊狼の長、ガド様! 神聖なる"結界"の内にお入れいただき、謁見の機会を賜ったこと、恐悦至極に存じます! 私は亡きフォルラザの戦神騎士、ローランと申します!!」
「じゅ、従者のナツメと申します!! えとっ……地母神様の子です!」
反応が返ってこない。
霊狼の長はもっと上階にいるのだろうか。
もう目は大広間の暗さに慣れたが、それらしい姿も気配も──
『……ガド。どうしてかくれている?』
ジンが虚空に問うと同時に、ローランの隣でルルシェが跪いた。
まばたきの直後。
『ジン、物事には順序がある』
厳かな声。
ローランとナツメの両膝が、勝手に床についた。
「!?」
巨大な影が、いつの間にか広間の奥に佇んでいる。
色褪せた、灰色の老狼。
だが、何も感じない。感じなくなった。
危機を訴えていた本能すら、黙りこくった。
声が出ない。身体が動かない。
丸まってくつろぐ魔物から、いや、"神"から目が離せない。
『人間達よ、案ずるな。もうじき慣れる』
『……ああ。前にルルシェが、ほかの地母神の子をつれてきた時と同じか』
『そうだ、ジン。ミイメと同じだ。こうして少しずつ慣らさなければ、彼らはすぐ消えてしまう』
慣らす? 消える?
理解の及ばない言葉。
少しして、ローラン達は糸が切れたようにその場に這いつくばった。
「はぁっ、はぁっ……! な、何だ今の……!?」
「っ、ぅっ……え、ルルシェ様……?」
ナツメが呼びかけても、ルルシェは跪いて目を閉じたまま、微動だにしない。
ジンがローラン達の傍に寄り添い、行儀よく座った。
『人間もエルフも、やっぱり弱いんだな』
『ジン、責めてはならん。お前達は我の裔が故に、生まれつき慣れているのだから』
『……そういうものか?』
『そうとも。この場へ足を踏み入れた直後に、消えなかった。我が姿を見せても、なお生きている。それだけで、この者達は強い存在だ』
老狼の言葉に、ローランは戦慄した。
大広間に入り、この"神"に対面するだけで、二度も死の淵に立っていたというのか。
ナツメも青ざめ、目を見開いている。
『ルルシェよ。その者達に予め話さなかったな』
「然様にございます」
『ミイメの時は、"結界"の前で何度も言い含めていただろう』
「あ奴はどこか浮ついたところがあったため、厳しく忠告いたしました。しかし私めは、この二人の強さを固く信じておりましたので」
『それは黙っていてよい理由にはならぬ。戦神の使徒と己の同朋に、自覚無く死線を越えさせた。……そのような軽率は控えよ』
「申し訳ございません。猛省いたします」
『我にではない。二人の人間に、謝るように』
ルルシェは言われた通り、ローラン達へ向き直って頭を下げ、謝罪の言葉を発した。
怒ることも失望することもできなかった。
今は、眼前の"神"だ。
『ローラン、ナツメ。我はガド。よくぞ参った』
「は……ははっ!」
ローラン達は畏まり、ひれ伏した。
圧力も気配も、全く感じ取れない。
完全な無。
それがかえって不気味だった。
すぐ前には、巨大な老狼が確かに佇んでいるのに。
あまりに隔絶した差は、正常に感じ取れない。
ルルシェに聞かされたことを、ローランは実感した。
カチカチ、とナツメが小さく歯を鳴らしている。
地母神の子ならば、少しは何かを感じるのだろうか。
『……卿の奔放も、度が過ぎるな』
ふと、ガドが呆れたように呟いた。
『純白の髪。真紅の瞳。そして、生命を広く捉える業。凡庸な人間と交わり、これほどの子を産み落とすとは』
「!!」
『力があれば何をしてもよいわけではない。己の裔を弄ぶ行いさえ、我は好ましく思わないのだ。卿の子らがその出生故に、どれだけ苦しんだことか』
「……!?」
『飛竜を持ち出すな。深く長く繋がっていても、今は小さき者達として生きている。それを引き合いに出すなど、恥を知れ』
ローランはひれ伏したまま、視線を左右させつつ気配を探った。
ガドは一体、誰と話しているのだ。
ジンでも、周囲で見ている霊狼達でもない。
まさか、地母神なのか。ナツメの母が今、この場にいるというのか。
ガドと同じだ。何も感じられない。
『去れ。これ以上の見物は認めん』
大きな尻尾が軽く床を撫でる。
ズズンと城が激しく揺れ、ナツメが引きつった声を漏らした。
『……まったく、困った女だ。ルルシェよ』
「何でしょうか?」
『同朋に伝え、戦神の使徒達にこれを配ってこい。加えて竜神の契約者の内、王とディーン。月の王。探究の王。太陽の王女と騎士達』
ガドが息を吐き、大広間に転がる無数の小石を動かす。
立ち上がったルルシェは、くすりと笑った。
「だいぶ余りますぞ」
『好きに使うがよい。そなたの同朋にも、一族の要となる者はいよう。あるいはそなた達が目をかけている者も』
「お心遣い、畏れ入りまする。……今日はやたらにお優しうございますな、ガド様」
『過ぎた気まぐれには、相応の気まぐれで応じる。それだけのことだ』
「なるほど。子として親の振る舞いを恥じ入るばかりです」
『上手く話すように。行け』
「ただちに」
ルルシェが小石を魔術で拾い集め、ローランとナツメに一つずつ渡して姿を消す。
渡されたのは、何の変哲も無い石ころだった。
「ガド様、これは……?」
『肌身離さず持っていろ、ローラン、ナツメ。それがこの世のためだと思え』
先ほどから何が起きているのか、理解しきれない。
石ころを持っているのが、この世のため?
わけが分からないまま、ローラン達はガドの石を懐にしまった。
『二人とも、楽にするがよい』
「はっ!」
「あ、ありがとうございます!」
ローラン達は身体を起こし、居住まいを正す。
逆にジンは欠伸をして、その場に丸まった。
『それで?』
「え?」
『この地へ何をしにきた?』
老狼が穏やかに目を細めた。
何を、と言われても。
ローランは多くの衝撃で固まっていた頭を何とか回し始める。
確か、確か──
「な、何だったっけナツメ……?」
『バカかお前』
ジンが舌を出し、ナツメがずっこけ、"神"が声をあげて笑った。