下弦の肆・零余子の名前と僅かな出番から連想した事を小説にしました。
同内容をpixivに投稿しています。
優しい声
優しい顔
優しい手
似ていたから
想い出した
想い出してしまった
◇◆◇◆◇◆
その
私がまだ、人だった頃。
私は裕福な家に生まれた。
家が没落し、両親は私たち姉妹を残し、自殺してしまった。
私達の生活は困窮した。
今になって気付いた事がある。当時は解らなかったが、生活のために、姉は春を
私のせい。
私のせいだ。
姉一人ならどうとでもなったろうに、私にご飯を食べさせるために、そうせざるを得なかったのだ。
その事を考えると、胸を掻き毟りたくなる衝動に駆られる。
清らかだった姉に、そんな事をさせてしまった事を、申し訳なく思う。
どれほど辛かっただろう。どれほど苦しかっただろう。
けれど、姉は私にはいつも笑顔を向けていた。優しい笑顔を。
薄氷の上に成り立つ私達二人の生活は、やがて終わりを迎える。
姉が病死したのだ。
私は一人の家に帰りたくなくて、不用心に夜道を歩いていた。
そして、夜盗に遭遇した。
男は血に濡れた刀を持っていた。傍らには、斬り殺された人。
短い舌打ちが聞こえた次の瞬間、私の胸は刀に貫かれていた。
湿った感触、そして土と草の匂いがして、私は自分が地面に倒れている事に気が付いた。
だが、すぐにその感覚も無くなり、私は自分の命が終わろうとしているのを感じていた。
けれど、それでも、別に良かった。
だって、もうじき会える。
会えるのだ、姉様に――。
その時、耳元でヒュンッと、風切り音が鳴った。
脳髄に氷水を注ぎ込まれるかの様な感覚。
口に広がる血肉の味。いつの間にか、私は夜盗の男を喰い殺していた。
「ほう、これほどの血の量に即座に順応するとはな」
背後から、特段何の感慨も無さそうな声が聞こえる。
それが、無惨様と出会った日。私が鬼となった日の事だ。
◇◆◇◆◇◆
その鬼狩りの女性は驚いた顔をしていた。
私がぼろぼろと涙を流し始めたからだ。
「どうしたのですか?」
私は鬼で、彼女は鬼狩りだというのに、心底心配そうな顔をして、彼女は優しく尋ねた。
「あなたが、姉様に――、似ていたから――、私が、人間だった時の――」
震える声でそう答えると、彼女は小走りに駆け寄り、私をぎゅっと抱き締めた。
柔らかな感触。
胸に顔を埋めると、頭を撫でられた。
優しい手。
余計に涙が溢れてしまう。
「落ち着きましたか?」
「はい……」
私が泣き止むと、彼女は天女の様な声でそう言った。ゆるりと頷き顔を離す。
「私は胡蝶カナエ、あなたは?」
「……
一瞬、人であった時の名を名乗ろうかと思った。でも、やめておいた。
それから色々な話をした。
彼女は、鬼と人が共存できる方法が無いか考え続けている、と言っていた。
そんな事は無理だろう。有り得ないと言っても良い。鬼は人を喰らうのだから。
けれど、否定をしたくは無かった。
この人にまた逢いたい、そう想ってしまったから。
「あの、私はもう人を食しません。だから、また逢ってくれますか?」
彼女はキョトンとした顔をした後、にっこり笑って
「では、明日の同じ時間に、またここで」
私の表情が明るくなるのが、自分でも分かった。
「あ、あと、あの、姉様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
◇◆◇◆◇◆
それから三日ほど、毎晩姉様に逢い続けた。
姉様は私を撫でたり抱き締めたりしてくれる。
美しい顔で、甘い声で、優しい手で、柔らかな心で。
けれど、私の親愛の情の重さに、姉様は戸惑いを感じている様だった。
きっと、私が想っているほど、姉様は私の事を想っていない。
でも、それは仕方のない事だ。
三日間、私は食事をしなかった。鬼には回復能力がある。ずっと食べなくても生きていけるのではないか? その考えに望みを託し、私は飢えを耐えていた。
姉様に逢いたいが故に。
♢
ある夜、私はいけない事だと思いながらも、姉様の後をつけた。
姉様の家は大きなお屋敷だった。
夜更けだというのに、帰りを待っていたのだろう。『カナエ姉さん』『カナエさん』『姉さん』といった少女達の声が聞こえる。
私は、何だか苛々した気持ちになった。
私の姉様なのに。
それに、聞いた事がある。鬼狩りの柱には屋敷が与えられると。
姉様は、優しい言葉で惑わして、沢山の鬼を殺したのかもしれない。
いいや、姉様はそんな事しない。頭を振って、裏切られた様な気持ちを追い出す。
だが、僅かな疑念と嫉妬から、頭の片隅に生じた、もう人を喰ってしまおう、という思考がこびり付いて離れない。
私は人間のいない所に行こうと、山道へ向かった。
ふらふらと彷徨い歩く私は、木々に囲まれた暗い道で、小柄な少女の鬼狩りと会敵した。
凛とした雰囲気の、その少女の匂い、魂の匂いが姉様に似ている。空腹で過敏になった嗅覚が、そう感じ取っていた。
もしかしたら、『本当』の妹かもしれない。
酷く苛立ちを感じる。
ぎりっと音を立て歯が軋み、自分が歯噛みしている事に気が付いた。
私は鬼になって初めて、食欲ではなく、純粋な殺意から人間を殺そうと思った。
少女が刀の柄に手をかける。鞘からキリキリと不快な音が鳴った。
耳障りだ。
私は肉体の一部を植物の蔓の様に変形させ、少女を捕らえようと伸ばす。これに絡み付かれた幾人もの鬼狩りは、何も出来ずに、ただその血を、命を吸い尽くされて逝くのみだった。
少女はふわりと舞う様に躱し、抜刀する。
奇怪な形のその刀は、死の匂いを放っていた。
体重を感じさせない、羽根の様な軽さで、地面に降り立った少女は、猫科の猛獣の如く低く構える。
刀の切っ先の延長線上に、私の首があると気付いたその時、ドンと地を蹴る音がした。
地面が抉れるほどの踏み込み。
地を這うような低い突進から、鋭い刺突が繰り出された。
ぎりぎりの所で躱したつもりだった。だが、首に掠め、血が流れる。
流れる血は赤い。人の様に。けれど、命は流れて逝かない。
距離を取り、再び蔓を伸ばす。
四方八方、縦横無尽に乱れ舞い飛ぶ少女の動き。
型ではない。これは、剣舞だ。
だが、魅せるためではない。殺すための死の舞踏。
あまりにも、私よりも、憎悪と怒りに満ちた強い殺意。
躱した筈の鋭利な剣先が何処までも追ってくる感覚。
蔓で少女を捕らえると同時に、肩を貫かれた。
血が、花弁の様に中空を舞う。溢れ出でる、私の深紅。
だが、この程度の傷、鬼ならばどうという事は無い。
その筈だった。
「あっ!……がっ!」
私の口から苦悶の声が漏れる。
鬼になって以来、感じた事の無かった、耐え難い苦痛。
「うああああっ!!」
流し込まれた毒が、この身を灼く。呪いの様に。
止めを刺そうと少女が
私は勝つ事を諦めた。
血鬼術・
体を霧に変化させ、私は夜の闇へと消えていった
◇◆◇◆◇◆
熱く脈打ち、疼く。
少女に付けられた傷は、再生出来ないのみならず、どす黒く腫れていた。
人間を喰わなければ回復しないかもしれない。
だけど、ああ、だけど――。
人を喰えば、姉様に逢う資格を喪失する――。
恐ろしい。
これ程までに姉様に魅かれている私の心が恐ろしい。
霧に変化できる時間はごく短い。毒で朦朧とする頭と弱った体を引きずる様に歩く私の前に、短刀を持った男と金子を置いて平伏す男がいた。
夜盗だ――。
♢
美味しい――。
私は久方振りの食事に喉を鳴らしていた。
あんな見るからに不味そうな不細工な男でさえ、こんなに美味なのだ。あの美しく柔らかな姉様は、どれほどの美味なのだろう。
食餌を終えた私は、湖を見付け、傷を洗った。水面に私の姿が映る。
紅い目、血を垂らした口、異様なほど白い肌、二本の角。
醜い。
相応しくない。
この醜い化物が、姉様の隣に在るのは、相応しくない。
私は自分の角をがっしりと掴み、力を込めた。みしみしと脳に響く。
「ああああああっっっ!!」
ばきりっ、と音を立てて角が折れた。
折れた角を湖に投げ入れる。波紋を描き、沈んでゆく。
湖はすぐに静謐を取り戻す。けれど、私の心は波立ったままだ。
ずっと。
姉様と出逢った時から、ずっと。
角はもう再生していた。
もうじき夜が明ける。
私は廃屋に潜み、日が沈むのを待つ事とした。
毒のせいか、体が酷く怠い。だが、幾分かはましになっている。どうやら、命は取り留めた様だ。食事を摂ったおかげだろう。
けれど、半端に飢えを満たした事で、余計に食欲が抑えられなくなっていた。
食べたい。
食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい
姉様を食べたい。
あの柔らかな肉を嚙み潰して血を啜りたい。
嗚呼、やはり私は鬼なのだ。
やがて、日が沈み、真円の月が、深く暗い夜を淡く照らす。
人知れず、鬼が跋扈する、朱闇の時。
冴え冴えとした月光を浴びて、夢見る様なふわふわとした足取りで、私は歩く。
姉様と出逢った場所へ――。
♢
口元が血で汚れている私を見て、何があったのか悟ったのだろう。姉様は酷く悲しい顔をした。
冷たい夜気に包まれて、青白い月の光が降り注ぎ、悲痛をたたえる姉様は夢の様に美しい。
例え、それが悪夢でも。
「姉様。姉様のお屋敷を拝見しました。姉様は柱だったのですね。今までどれだけの鬼を殺してきたのですか? 優しい言葉で油断させて、私も殺すつもりだったのですか?」
そんな筈は無い。
そんな筈は無い事は、解っている。
解っているのに、私はそんな意地悪な事を言ってしまった。
私だって、数多の剣士を殺し、大勢の人間を喰ってきたというのに。
「私は――、私はあなたを救いたかった。けれど――」
「姉様は優しいのですね――。残酷なほどに」
姉様は、はらはらと涙を流し始めていた。手が震えている。
姉様が私のために涙を流してくれている事に、悦びを感じた。
こんな時だというのに。
鎌首をもたげる。濃く、黒く、暗く、昏い欲望。
愛よりも深く。
姉様を食して一つになりたい。
抑えようもない程に膨れ上がった欲求は止め処なく。
衝動に操られる様に、剥き出しの爪と牙で、私は姉様に飛び掛かった。
眼前に、薄桃色の花弁が舞った。
ように見えた。
その瞬間、逆袈裟に斬り上げられ、私の身体は跳ね上げられた様に夜空を舞う。
「ごめんなさい。あなたを救えなかった」
姉様の声が聞こえる。
次の一撃で、私の首は断たれるだろう。
この人になら殺されても良い、という想いと、この人に私を殺させてはいけない、という想いが交錯する。
私は――
血鬼術を、発動させた。
私は本当はどうしたかったのだろう。
本当は姉様の事をどう想っていたのだろう。
私は……。
◇◆◇◆◇◆
夜闇を駆ける。
ぽろぽろと零れ落ちる涙。
追って来る気配は無い。それに安堵すると同時に、少しの寂しさを覚えた。
既に再生した、斬られた箇所を撫でる。太刀筋が全く見えなかった。
涙で歪む視界で、震える手で、あれほどの斬撃を繰り出せるなんて。柱とは皆あれ程までに強いのだろうか?
並の隊士とは比較にならない。もしも柱に遭遇したら、交戦せず即座に逃げてしまおう。
姉様とも、二度と逢わない様にしよう。所詮、鬼と人が共に在る事など有り得ないのだ。
「さよなら、姉様――」
別れの言葉を口にする。
はっきりと声に出す事で、決別の意志が鮮明になっていく。
けれど――
けれど、まだ涙は零れ落ち続けていた――。
(了)