灰を越えて風になる   作:雷光123

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湖に呼ばれる白影、戻れない一歩

 湖へ近づく直前、リナは足を止めた。

 

「……これ以上はダメ。私が入ったら、場の位相がもっと乱れる」

 

 彼女の感覚はアリスより鋭い。異常領域に近づくほど、その“精度の高さ”が逆に危険になる。リナ自身もそれを理解していた。だから、結界がかろうじて安定している岩場の手前で待機することを自ら選んだのだ。

 

「二人のほうが安全に動ける。……リオ、戻れなくなるようなことはしないでよ」

 

 その声には、不安と信頼が半分ずつ混じっていた。俺はうなずき、アリスとともに湖畔へと踏み込んだ。 

 

 湖が見えた瞬間、空気の密度が変わった。

 

 音が沈んでいる。風も、枝の揺れも、俺とアリスの呼吸さえも。

 

 湖畔の水面はほとんど波を立てず、薄い白光粒が静かに揺れていた。

 

 アリスも思わず息を止めていた。彼女の瞳に映る白光粒は、ただの光ではなく、“呼吸しているように脈動する何か”として揺らめいていた。俺の隣で、アリスの指先がわずかに震えていたのを覚えている。光でも霧でもない。水に触れずに浮かんでいる粒子──“浮遊した記憶”みたいな、形を持たない光。

 

 足を踏み出すたび、周囲の温度が下がる。息を吐くと、白く凍った。

 

「……寒い。変だよ、ここ」

 

 アリスが小さく身を寄せる。湖面から吹いてくる冷気が、皮膚の上を内側へ滑り込んでくるようだった。

 

 胸の奥が引かれる。リナなら、この現象をどう読み解くだろう──そんな考えが一瞬だけ脳裏をかすめた。

 彼女なら、きっと冷静に現象の仕組みを割り出し、俺が感じている“理由のない懐かしさ”にも、言葉を与えてくれる。

 

 だが、今はそれすら許されないほど、湖が“むこう側”から触れてきていた。その感覚は、恐怖でも緊張でもない。もっと昔──名前も形も残っていない“懐かしさ”に似ていた。触れたことはないはずなのに、あの冷気は俺の内側を正確に撫でてくる。重心が前に倒れる感覚。恐怖と──もうひとつ、言葉にならない引力。

 

(ここだ……)

 

 湖の中心が、俺たちの“向き”を決めている。湖岸の岩場に近づくと、白光粒が一斉に揺れた。まるで、水面の下で誰かが息を吸ったみたいに──湖全体が、一度だけ“凹んだ”。

 

 次の瞬間、足元の影が震えた。

 

「……アリス、今の──」

 

 言い終わる前に、湖面が“膨らんだ”。水ではない。影だった。

 

 湖の底から押し返されるように、黒い揺らぎが連なってせり上がる。一つひとつは人の影の形をしていない。だが、複数の影が重なって、波を作っていた。

 

 影の波──。

 

(……呼吸してるのか?)

 

 水しぶき一つ上げずに、影だけが盛り上がって押し寄せてくる。

 

 アリスが息を呑んだ。

 

「リオ──下がって!!」

 

 腕を引かれ、反射的に足を引いた瞬間、影の波がさっき俺のいた場所を飲み込んだ。

 

 影が擦れる音がした。水音ではなく、冷たい布が裂けるような音。

 

「危なっ……!」

 

 影波は岩にぶつかって砕け散り、破片のような黒い残滓が地面に散った。それらはすぐに溶けて、また湖へ戻っていく。

 

「これ……“影異常”じゃないよ。もっと……強い……」

 

 湖畔に出た瞬間、音が死んだ。風が消え、息が白く凍って頬に貼りつく。

 

 湖面には白い光粒が漂っていた。星の残骸を水に沈めたような、無言の揺れ。

 

「……寒い。ここだけ、冬みたい」

 

 胸の内側が、ひゅ、と縮む。肺の奥を、何かが撫でた感触があった。

 

(……ここだ。霧じゃなくて、“湖そのもの”が脈打ってる)

 

 一歩踏み出すと、水面の光粒が揺れた。その揺れが──形になった。

 

「……来るよ、リオ」

 

 アリスが低く構える。

 

 湖面の下から、影が押し寄せた。波でも泡でもない。“向き”だけが集まった黒さ。

 

 水を押しているのに、水は揺れない。代わりに、地面の影がざわりと動いた。

 

(……影波)

 

 アリスの姿勢が、一段階低くなる。彼女が本気で警戒するときだけ見せる、“重心を地面に沈めるような構え”だ。横顔は静かなのに、目だけが敵の動きをすべて追っていた。足元の影が一瞬だけ自分の足から離れた。次の瞬間、湖畔全体が“傾いた”。

 

「下がってッ!!」

 

 アリスの手が“引き寄せる”ように伸びてきた。指先は冷えて震えているのに、力だけは強かった。

 

 直後、さっきまでいた場所を黒い影柱が貫いた。

 

 衝撃音はない。なのに、地面が低く唸り、影の裂け目が震えた。

 

「動きを読まれる! 影の“向き”が先に動いてる!」

 

 影の“未来”が先に動いている──そう理解した瞬間、背筋が冷えた。

 

(……避け方を読み違えると死ぬ)

 

 銃を構える。弾丸は普通の弾。造術で震えを抑える。

 

 影波が再び隆起する。地面の影がざらざらと右へ滑る。影が滑るのではなく、“未来の影”が先にそこへ走っていく。その奇妙なズレが、皮膚の裏側を逆撫でするように鳥肌を立てた。この一拍の誤差が、死に直結する。

 

(なら左──!)

 

 跳んだ瞬間、影の波が横から薙いだ。アリスが飛び込み、俺を押し倒す。

 

「伏せて!」

 

 影の刃がアリスの髪先を裂いた。

 

 アリスはそのまま影へ踏み込み、一撃で影の“輪郭”だけを砕いた。

 

「実体はない……! でも、輪郭なら崩せる!」

 

 影は崩れ、またまとまって立ち上がる。

 

 俺は“向き”だけを狙って引き金を引いた。銃声が浮いたように響く。弾丸が黒層をほどく。

 

「効いてる! でも全部は削れない!」

 

 波が一瞬止まった。その奥に──白い影が立っていた。

 

 小さな輪郭。少女の形。だが境界は淡く揺らぎ、影ではなく光の反射だけでできた形。その存在は、影波のただ中にいるくせに、周囲の揺らぎと“同じ揺れ方”をしていなかった。まるで、この場所の法則だけが彼女を拒んでいて、それでも必死にここに立ち続けようとしているように見えた。影にも光にも完全には混ざらず、ちぐはぐに震えながら、それでも形を“結ぼう”としている。

 

 その努力のような揺らぎが、逆に目を離せない奇妙な痛みを胸に残した。こちらを見ている。

 

(……あれは……天使端末?)

 

 胸の中心が熱を帯びた。恐怖ではない。引かれる感覚。呼ばれている──そう思ったが、声はない。けれど、彼女の揺らぎには、明確な“求める向き”があった。乱れた影波の海の中で、ただ一つだけ、俺のほうへだけ向いて形を揺らしている。

 

 まるで、誰かを探し続けて、ようやく見つけたような……そんな震え方だった。その震えは、恐怖よりも先に“応えてやらなければ”という感情を生み出した。

 

「リオっ! 戻って!!」

 

 アリスの声とは対照的に、白い影の揺れは弱々しかった。影波が揺れるたびに、輪郭が千切れ、断片が霧のようにこぼれ落ちる。まるで、“この世界にいられる時間”そのものが削られているようだった。そのたびに、小さな手が震えながら形を取り戻し、また──俺の方へ向けて伸ばされる。消えかけても、何度も。

 

(でも……あれは、逃げてない)

 

 白い影は影波の奥でじっと立ち、湖面の揺れに合わせて──“助けを求めるように”手を伸ばした。その細い腕は、折れてしまいそうだった。影でも光でもない輪郭が、揺れながらも必死に“形をとどめよう”としている。近づけば消えるのではないか──そんな不安を抱かせるほど、儚い存在だった。

 

 ──来て。

 

 影波が襲う。アリスが俺の手首を掴み、横へ引き倒す。影が地面を割る。

 

(……確かめないといけない)

 

「あれは……助けを求めてる」

 

「リオ、あれは……人じゃないかもしれない!」

 

「それでも……見ないわけにはいかない」

 

 白影が小さく首を傾げた。「来るの?」と問いかけるように。

 

(……行く。確かめる)

 

 影波が吠え、温度が下がる。霧の奥で白影の目が瞬いた──こちらを見て。

 

 白影は揺らぎの奥で、小さく手を伸ばしていた。

 

(……呼んでる?)

 

 胸の奥が強く引かれる。

 

「リオ、向きが乱れてる! 攻撃が読めない!」

 

「……でも、あれ……迷ってるように見える」

 

 白影は揺らぎとは無関係に“俺へ焦点を合わせていた”。

 

「リオ、お願い! 本当に戻れなくなる!」

 

 ……それでも。

 

 白影の指先は震えていた。触れられない何かを掴もうとするように。

 

(違う……これは“助けてほしい”という反応だ)

 

「……確かめる」

 

 湖面の白光が揺れ、白影が淡くひらめく。

 

(……お前は、誰だ)

 

 影波の底で、白影が一瞬だけ“立って”見えた。

 

「リオ──!!」

 

 影が弾け、湖が揺れ、その中心に白影だけが立っていた。

 

 水が喋るわけじゃない。影が喋るわけでもない。

 

 ただ確かに、“呼ばれた”。

 

(……行く)

 

 ここで一歩踏み出さなければ、この少女はきっと“完全に消えてしまう”。そんな確信が、どこからかわからないのに胸に流れ込んできた。俺は息を吸い、最後の冷気が肺を刺す感覚を受け入れた。その一歩は、戻れない一歩かもしれない。

 

 それでも。

 

 砕け散る影波の中で、白影は確かにこちらを見ていた。

 

 湖道は──さらに深く、ひらいていく。

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