湖畔に足を踏み入れた瞬間、息がひやりと凍りついた。
「……空気が薄いわけじゃないのに、なんでだ……」
胸の奥だけが別の拍を打つ。外気の温度と噛み合わない脈が、静かに皮膚の裏で跳ねた。
水面には白い粒がふわりと浮き、風もないのに漂っていた。
近づいた途端、耳の奥で細い鈴が震えたような気がした。
「……聞こえた? 今の……」
「……ねぇ、誰か……いるよね?」
振り返ると、霧の薄明かりの中でアリスの輪郭が揺れていた。薄桃色の髪は湿気で重く垂れ、青紫の瞳だけが冷えた空気に淡く光を返す。
「アリス、下がらなくていい。……ただ、落ち着け」
そう言うと、彼女は小さく息を呑んだ。
「無理だよ……こんなの、森の奥より怖い……」
外套の裾をぎゅっと掴む手が震えている。袖から覗く掌では、淡い花弁紋が微かに脈を打っていた。
白い粒の光が、その紋にだけ触れるように揺れた。
胸の奥に疼きが走る。
「……遠くじゃないな。ここだ」
鼓動が、どこか一点を示すように熱を寄せてくる。指先だけが周囲の温度と馴染まず、痺れが腕へ伝う。
「呼吸、合わせてもズレて……なんだ、これ……」
息を吸うたび重く、吐くたび軽い。胸の拍と空気の密度が噛み合わず、違和だけが濃くなる。
足元で砂利が沈んだように鳴った。その瞬間、湖の中央で何かが形をとった。
「……待って、あれ……あれ見えてるの、わたしだけじゃないよね?」
アリスが声を震わせる。
「見えてる。……白い、人影のような……」
淡い輪郭。背丈は子どもほど。水面からわずかに浮く白い線が、ゆらりと集まり、人の形へと整っていく。
胸が強く打ち、指先がしびれた。
「……近い。呼ばれてる……?」
アリスが胸元へ手を当てた。花弁紋が熱を帯びる。
「やだ……なんで、こんな……痛い……」
彼女の肩が跳ねる。それなのに、逃げるより先にこちらへ手を伸ばしてくる。
「アリス、触らなくていい。負担になる」
「でも……支えないと……誰かが倒れる音が、聞こえた気がして……」
献身の揺れが震える指先に乗っていた。
その時、耳の奥で短い電子音が揺れた。
通術石が勝手に開く。
『聞こえる? 二人とも──湖の位相がずれてる。観測拒否層が形成中』
リナの声だ。落ち着いた調子の奥で、解析のノイズが不穏に跳ねている。
『特にアリスは近づかないで。踏み込みで揺らぎが拡大する。……水面の座標も二重化してる。気をつけて』
「座標が……二重?」
思わず呟く。
『そう。今の湖は“見られたくない”。中心点がずれて……影も、呼吸も、正しく扱えない状態』
通信が途切れた。
霧の膜が震え、視界の奥行きがわずかに歪む。
影が二重に見え、すぐに戻る。
「……世界の端が、一歩ズレたみたいだな」
白い人影は、その歪みの中心で静かに揺れている。
「……行くの?」
アリスが袖を掴む。
「行く。……あれは、待ってる」
「根拠は?」
「胸が言う」
アリスの手が震え、一瞬だけ力を失う。
「怖いなら、後ろに」
「……そんな言い方……でも……分かった。離れないから」
霧の縁で、アリスは外套の端を掴み直す。恐怖だけじゃない。“誰かを失いたくない”という理由が、震えの奥で灯っていた。
湖面から立ちのぼる白い粒が震え、すっと弱まる。周囲の温度が落ち、靴底の感覚が曖昧になった。音が遠のく。胸の拍だけが響く。
白い輪郭が沈むように揺れた。胸の疼きが跳ねる。
「……痛くない……近づけば……触れられる……?」
喉の奥が熱くなり、内側へ戻ってくる思いに気づく。名前のない像だけが残った。
──失わせたくない。
その衝動が、一歩を押し出した。
アリスの瞳を横目に感じる。
水面から目を離せないのに、こちらを確かめようと揺れている。
足元で、影のように細いゆらぎが吸い込まれていく。風はない。水も動かない。世界の底だけが僅かに脈打っていた。
白い輪郭の足元で、水面が音なく沈む。“沈む”より“落ちる”。存在そのものが湖へ溶けたかのように。
胸の疼きが跳ね上がった。
「……違う、これは……怖くない……応えてる……」
気づけばもう一歩。水際へ至る。靴底が湿り、透明な冷気が皮膚へ刺さる。
「こんな冷たさ……なのに、嫌じゃない……」
白い輪郭がほどけるように揺れ、一瞬だけ“目”らしき光が点いた。淡く、短く、すぐに滲んで消えた。
息を呑む。
“生きている”。
そして──
“見ている”。
胸が震え、存在を捉えられた感覚が落ちてくる。
白影は無言のまま、揺れるだけで返事をした。
胸の鼓動が、その揺れとわずかに同期する。世界が寄ってくるような圧が喉を締めた。
「……助けを……求めてるのか……?」
答えは返らない。だが視線だけが、確かにそう言った。
湖面の白光粒が一斉に揺れた瞬間、疼きが跳ねる。“決定”の拍が胸に落ちた。
白い輪郭がもう一度だけこちらを見る。息を奪われる圧の中、口が勝手に動いた。
「……行く」
その一言を湖へ投げた瞬間、周囲の白光粒が一斉に沈み、湖が静かに呼吸した。
水面の奥で、白い視線が柔らいだように見えた。応えたのかもしれない。
湖面の白影だけが、世界のすべてを捉えるようにこちらを見続けていた。
水面のわずかな揺れが胸へ伝わり、息の落ちる場所が分からなくなる。言葉を飲み込むたび、胸の拍だけが静かに跳ねた。
「……なんでこんな感じになるんだ……呼吸が……ずれる……」
世界が一瞬だけ遠ざかり、次に近づく。
白影の輪郭が、空気の膜を押して近づいてくるように見えた。
「ねぇ……ほんとに行くの……?」
アリスの声が震える。
「戻れ。そこからなら……見失わない」
「でも……でも……置いていく気なんてないでしょ……」
「……置いていかない」
アリスは唇を噛んで、小さく針の音みたいな息を漏らした。花弁紋がかすかに光を返す。痛覚リンクが彼女の心臓の刺さりを拾っている。
「怖いなら、ここにいていい」
「……怖いよ。でも……あなたひとりで痛いのは、もっと……いや……」
胸の奥が少しだけ熱を増した。
守られたいのではなく──
守りたいという“衝動の形”は、こういう揺れなんだと分かった。
水面の光が再び大きく脈打つ。白い輪郭がわずかに前へ揺れた。
「……呼んでる。どうしてかは、分からないけど……確かに」
乾いた音がして、靴底が砂利を押し出した。その感触が消えた瞬間、湖の空気が柔らかく沈んだ。
「この……冷たさ……なのに、落ち着く……」
霧の白さが濃くなり、風の代わりに水の匂いが鼻を掠める。湖畔の静けさだけが、世界の軸を支えている。
アリスが小さく呟く。
「……こんな場所なのに……あなた、迷ってない顔してる……」
「迷ってるさ。ただ……近い」
「近いって……」
「胸が、触れそうだって……言う」
アリスは答えず、ただ裾を握りしめた。それでも引き留めようとしない。震える手を握りしめ、瞳だけでこちらを追う。
白影の縁がひときわ大きく揺れた。水の上に描かれたその存在が、こちらの体温へ触れようとしている錯覚が走る。
「……見てるな。ずっと……」
白影は応えるように、ほんの少しだけ輪郭を濃くした。胸の拍が、また世界と同期する。音が遠のき、白い世界だけが残る。
「どうして、呼ぶんだ……誰なんだ……」
声は自分のものとは思えないほど、弱く押し出されていた。
アリスの影がかすかに揺れる。
「……言葉……届いてると思う?」
「分からない。でも……届いてる気がする」
水面の白光粒がその言葉に反応するように揺れた。
「ほら……今、動いた」
「やっぱり……わたしたちを……見てるんだ……」
アリスの声は不安と希望のあいだで揺れていた。
足元へ、すっと影のような冷えが流れ込む。白影が近づくと、世界が薄い膜で包まれたように変質していく。
「……この感じ……前にも……どこかで……」
胸の奥が熱を帯び、一瞬だけ焦げるような痛みが走った。
思い出す寸前の感覚が手にかかったまま、どこかで止まっている。
「触れてほしいって……言ってる気がするんだ」
「こわい……けど……でも、そんな気もする……」
アリスが半歩だけ近づく。花弁紋が揺れ、冷気と反応するように淡く光った。
「アリス、だめだ。そこで止まれ」
「でも、わたし……あなたが一人で近づくの……」
「大丈夫だ。……ほら、あれを見てくれ」
白影が微かに揺れた。その揺れには敵意がなく、ただ“存在を知らせたい”だけの静かな波があった。
「こんな……弱い光なのに……なんで、怖くないの……」
アリスが呟く。
「分からない。でも……放っておけない」
ゆっくりと一歩踏み出すと、湖面が呼吸のように沈んだ。白影は揺れ、光を少しだけ強めた。
「……行くよ」
言葉が自然と漏れた。
アリスの瞳が大きく揺れる。
「気をつけて……ほんとに……ほんとに気をつけて……」
「大丈夫だ。……呼ばれてるだけだ」
胸の疼きがまた跳ねる。湖面の白粒がその拍に合わせて揺れ、世界が静かに傾いた。
白影の中心が、淡く脈打った。まるで“ここだ”と言っているように。
「……もう隠さなくていいのか。なら、行く」
足を踏み出した瞬間、水面の白い膜が薄く割れた。冷たさがすべての感覚を包み込む。
アリスが叫ぶ。
「待って! そんな近づいたら……!」
「大丈夫だ。分かる。……これは恐怖じゃない。呼応だ」
白い輪郭が揺れ、その“目”らしき光が一瞬だけ濃くなった。
胸が引かれる。音も言葉もなく、ただ存在が呼ぶ。世界が静かに閉じ、湖畔の光が溶ける。
「……行く」
その一言を口にした瞬間、世界の空気がひとつ息を吐いた。白影の光が、わずかに柔らいだ。
アリスが震える声で呼ぶ。
「……戻ってきてよ……絶対……」
「戻る。必ず」
胸に落ちた疼きが、静かな確信を作った。
白影は湖面の中央で揺れながら、こちらを、世界のすべてを捉えるように見続けていた。