湖道へ踏み入れた途端、霧の濃さが変わった。白い壁に見えるほど密度が上がり、足首あたりの空気が静かに脈を打った。音もないのに、霧が“呼吸している”ようだった。
胸の拍だけが、この場所の空気と噛み合っていない。
俺の鼓動だけが、霧とズレている。
アリスが袖を引いた。
「……空気が、ほんとに変だよ。ここ、普通じゃない」
霧の冷えが指先へ触れた瞬間、彼女の呼吸がわずかに詰まった。
あの夜の匂いを思い出したのだろう。
「……また、息が……。これ、記憶の痛み拾ってる……」
霧の中で彼女の髪が湿った光を帯び、花弁紋だけがかすかに明滅していた。恐怖を拾うときの反射。だがそれは“危険の反応”でもある。
前へ一歩進むと、灰の粒子が逆流するように舞い上がった。重さを無視するように、落ちた灰が上へ向かう。その揺らぎが鼓動と同じリズムで震えた。
──呼ばれている。
その確信だけが、足を止めさせない。
アリスが距離を詰め、声を落とした。
「戻ったほうが……。だって、これ、霧の動きが『内側へ誘ってる』よ……」
確かに霧は道の奥へ向けて収束していた。湖へ繋がる一点へ、細い呼吸の道を作るように。
足元に淡い影が揺れた。一瞬、自分の影が遅れて着いてくるように見えた。揺れのあと、影が本来の位置へ“追いつく”。
遅れ像──意識が理解するより先に、胸の疼きが跳ねた。
「……影が、先に進んでる。違う、世界が……俺を見落としてる……?」
「やめて、そういう言い方……怖い……!」
霧の方向を見据えると、同じ揺れが二度、三度。遅れ像は自分の動きにだけ出るのではない。“誰かがここにいた”という遅れの痕跡が、霧へ刻まれていた。
胸が強く打つ。
恐怖と前進の拍が同時に来る。
さっき誰かが踏んだ気配だけが、霧の奥に薄く残っている。
そのとき──霧の奥で、乾いた裂ける音がした。音というより、空気の“断裂”だ。続いて、靴裏で砂が斜めに削られる気配。
何かがこちらを測るように動いていた。
アリスが肩を跳ねさせた。
「今の……足音、じゃないよね……?」
答えるより先に、霧が裂けた。
白ではなく、灰とも黒ともつかない“隙間”が縦へ伸びる。
影のような線が飛び出し、目の前を掠めた。速い。霧より細い軌跡。だが掠めた瞬間だけ、肩の稜線と腕の角度が“人の形”を残した。
遅れ像が二つ、三つ、霧へ溶ける。
動いた影と、遅れた影。
その軌跡が互いを食い合うように揺れる。
アリスが叫ぶ。
「下がって! あれ、こっちを……!」
影は単純な敵意ではなかった。何かを探している。裂け目だけが、彼の動きに合わせて生き物のように動いた。
裂け目の奥から、再び気配が走った。今度は真正面から。視界に映る前に、空気が細く切れる。
身体が反射するより速く──疼きが跳ねる。
次の瞬間、足元へ影が落ち、砂が浅く掘れた。
人だ。
童顔に見える稜線。
だが動きが鋭い。
破壊を前提にした身体の使い方。
ほんの一歩で、空気の継ぎ目が裂ける。“動きが壊す”のではなく、“壊すために動く”ような癖。それが彼の輪郭にまとわりついていた。
霧が薄く裂け、彼の目の光がこちらを射抜いた。殺意ではない。“試す”気配に近い。
アリスが叫ぶ。
「だめ! 下がってってば!」
影の男は動いた。
走るのではなく、裂け目へ吸い込まれるような軌跡で距離を詰め──次の瞬間にはこちらの横へ移動していた。
速い。
観測が追いつかない。
遅れ像が四つ五つ、霧の中へ流れる。その度に胸の疼きが跳ねる。湖の方向だけが、痛みを吸っていく。
──違う。敵だが、目的は殺すことじゃない。“確かめている”。
影の男は霧へ一歩踏み込み、裂いた。裂け目が光も音もなく開き、灰が逆流する。その隙間越しに、湖の光が一瞬だけ覗いた。
白い。人ではない光の像が、かすかに揺れていた。
心臓の火が跳ねる。アリスが息を呑む。
「……今、見え……た? 湖の……あれ……」
影の男はこちらを振り返ることなく、裂け目を閉じようとする。
だが胸が拒絶した。
湖を閉ざさせるわけにはいかない──
そんな言葉にならない衝動が、身体の奥から跳ね上がる。
足が前に出た。霧が揺れ、遅れ像が走る。その一歩は恐怖ではなく、抗えない前進だった。
影の男がこちらを見た。刃にも似た視線。裂け目の光がその目の奥で細く反射する。
対峙した瞬間、霧が鳴った。
呼吸のような音。
湖へ通じる一点だけが、世界の中心に見えた。
アリスが後ろから掴む。
「行かないで……! あれは、ひとじゃない……!」
「ひとの動きだ。けど……目的は別だ。湖を隠そうとしてる」
「隠すって……どういう……」
「分からない。ただ──湖に“天使”がいる。そうとしか思えない」
アリスが息を止める。彼女の震えが伝わる。花弁紋が痛みを拾っているのだろう。
霧が深く脈動し、裂け目がわずかに閉じかける。影の男が一歩踏み込む。止めようとしている。前へ進ませまいとしている。
だが、胸の疼きは逆に強く跳ねた。湖の方向へ引っ張られる。恐怖よりも前へ出る力が勝つ。
リナの通信が割り込む。
『聞こえる? 二人とも。……今の霧の脈動、完全に“観測死角”だよ』
アリスが震えた声で答える。
「死角って……なに……?」
『簡単に言うと、世界が“見ていない場所”。でも……そっちの胸の反応、逆に安定してる』
「安定?」
『そう。あなたの胸だけが“正常に反応している”。本来あるべきものを捉えてる反応。だから疼く』
天使──
胸がその言葉に応えるように跳ねた。
影の男が霧を裂き、裂け目を広げてくる。
拒絶。
通す気がない。
だがその裂は、不自然なほど“弱点”を抱えていた。
拒絶の気配が一段深く沈み、霧の奥がわずかに歪んだ。裂け目の縁が細く締まり、その中央だけが黒く沈む。影の男はそこへ足を乗せ、空気の継ぎ目を“さらに断つ”ように力を込めた。
霧が悲鳴のように揺れた。
次の瞬間、裂の線が道そのものを斜めに切り裂いた。通路の“観測面”がひとつ分、削ぎ落ちる。
世界の片側が剥がれたようだった。視界の奥が、まるで紙の端のように折れ曲がる。
アリスが息を呑む音が近い。
「……道が、消えて……」
霧が破片のように舞い、空間の奥行きがわずかに欠ける。
裂はゆっくりと広がり続け、このままでは湖への導線が完全に閉じる。
胸の疼きが跳ねた。
“そこを消されるな”と言うように。
一歩、前へ出た。
その瞬間、影の男の身体が反転する。
指先が霧の薄膜に触れ、その一点から“二つ目の裂け目”が生まれた。
動作は滑らかで、まるで呼吸と同じ自然さだ。
空気が再び断ち切られる。
斜め上から、裂が降ってきた。避けるより先に胸が反応する。疼きが動線を押し上げ、身体を半歩横へ逸らす。
裂け目が足元を浅くかすめ、砂がひと筋だけ削れた。
だが攻撃ではない。
切断の角度は“湖への通路だけ”を狙っている。
──通す気は、本当にない。
影の男が次の裂を生む。
今度は横。
道を完全に閉ざす角度。
アリスが叫ぶ。
「だめ! そこ切られたら……!」
裂けた空気の奥から灰が逆流し、視界が白黒の模様へ乱れる。
世界が拒絶の模様を描くように。
だが、裂け目の中心だけが──光を拒めていない。
湖の方向から伸びる白い揺れが、裂に触れた瞬間、裂の線がわずかに滑った。
「……切れない? 光が、裂けを拒んでる……」
「そんな……そんなこと……ありえるの……?」
影の男の指先が一瞬だけ止まった。
裂の余熱が霧に散るが、切断の感触だけが戻ってこない。
「……?」という呼吸の揺れが空気に滲んだ。
影の男が初めて動きを止めた。
その眼の奥でわずかな困惑が揺れる。
胸が跳ねた。疼きは確信のように熱を増す。
次の瞬間、霧が大きく脈動した。
影の男が裂を再び振り下ろす。しかし裂の入口が薄く滲み、“方向を失う”ように線が逸れた。
裂は、そこだけに触れなかった。
アリスが震えた声で言う。
「……あの人……ここ以上は、入れない……?」
影の男は霧の縁へ足をかけ、湖の光を遮るようにもう一度腕を振る。
だが裂は浅く、空気を切り裂く音だけが虚しく散った。
天使光が脈打ち、霧が呼吸する。
裂の象徴が、光の象徴に押されている。
影の男の足元に遅れ像が溜まり、その数だけ動きが鈍っていく。観測死角へ踏み込むたびに、世界が“彼を見落とす”ズレが生じている。
撤退の気配がふっと走った。
影の男はリオではなく“湖”を一瞥した。
その視線は、斥候が任務の成否を判断する冷静なそれだった。
裂を一度だけ深く引き、霧に細い“退路”を作る。
世界の隙間へ身体を傾け、裂け目の奥へ沈むように──影の男は霧へ消えた。
裂は閉じ、霧が一度だけ静かに呼吸した。
裂本来の強さではない。
湖の光を前に、破壊しきれない迷いのようなものが揺れていた。
白い残響が、霧の奥で揺れた。
霧の奥で揺れる光が、胸の拍をひとつだけ強くした。
胸の鼓動が一度だけ合わせてくる。
湖の中心。
そこだけが脈打つ。
アリスが袖を掴む。
「ねぇ……もう戻ろ? こんなの、普通じゃないよ……」
「戻れない。……湖へ行く。霧の奥に、あれがいる。俺を……呼んでる」
影の男の残した裂け目がわずかに震え、閉じる気配を見せる。
一歩前へ出る。
疼きは、迷いなく跳ねた。
「……湖へ行く」
その言葉を落とした瞬間、霧が静かに脈動した。
湖だけが、確かに呼吸していた。