灰を越えて風になる   作:雷光123

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湖道の脈動、影を退ける呼び声

 湖道へ踏み入れた途端、霧の濃さが変わった。白い壁に見えるほど密度が上がり、足首あたりの空気が静かに脈を打った。音もないのに、霧が“呼吸している”ようだった。

 

 胸の拍だけが、この場所の空気と噛み合っていない。

 俺の鼓動だけが、霧とズレている。

 

 アリスが袖を引いた。

 

「……空気が、ほんとに変だよ。ここ、普通じゃない」

 

 霧の冷えが指先へ触れた瞬間、彼女の呼吸がわずかに詰まった。

 あの夜の匂いを思い出したのだろう。

 

「……また、息が……。これ、記憶の痛み拾ってる……」

 

 霧の中で彼女の髪が湿った光を帯び、花弁紋だけがかすかに明滅していた。恐怖を拾うときの反射。だがそれは“危険の反応”でもある。

 

 前へ一歩進むと、灰の粒子が逆流するように舞い上がった。重さを無視するように、落ちた灰が上へ向かう。その揺らぎが鼓動と同じリズムで震えた。

 

 ──呼ばれている。

 その確信だけが、足を止めさせない。

 

 アリスが距離を詰め、声を落とした。

 

「戻ったほうが……。だって、これ、霧の動きが『内側へ誘ってる』よ……」

 

 確かに霧は道の奥へ向けて収束していた。湖へ繋がる一点へ、細い呼吸の道を作るように。

 

 足元に淡い影が揺れた。一瞬、自分の影が遅れて着いてくるように見えた。揺れのあと、影が本来の位置へ“追いつく”。

 

 遅れ像──意識が理解するより先に、胸の疼きが跳ねた。

 

「……影が、先に進んでる。違う、世界が……俺を見落としてる……?」

「やめて、そういう言い方……怖い……!」

 

 霧の方向を見据えると、同じ揺れが二度、三度。遅れ像は自分の動きにだけ出るのではない。“誰かがここにいた”という遅れの痕跡が、霧へ刻まれていた。

 

 胸が強く打つ。

 恐怖と前進の拍が同時に来る。

 

 さっき誰かが踏んだ気配だけが、霧の奥に薄く残っている。

 

 そのとき──霧の奥で、乾いた裂ける音がした。音というより、空気の“断裂”だ。続いて、靴裏で砂が斜めに削られる気配。

 

 何かがこちらを測るように動いていた。

 

 アリスが肩を跳ねさせた。

 

「今の……足音、じゃないよね……?」

 

 答えるより先に、霧が裂けた。

 白ではなく、灰とも黒ともつかない“隙間”が縦へ伸びる。

 影のような線が飛び出し、目の前を掠めた。速い。霧より細い軌跡。だが掠めた瞬間だけ、肩の稜線と腕の角度が“人の形”を残した。

 

 遅れ像が二つ、三つ、霧へ溶ける。

 動いた影と、遅れた影。

 その軌跡が互いを食い合うように揺れる。

 

 アリスが叫ぶ。

 

「下がって! あれ、こっちを……!」

 

 影は単純な敵意ではなかった。何かを探している。裂け目だけが、彼の動きに合わせて生き物のように動いた。

 

 裂け目の奥から、再び気配が走った。今度は真正面から。視界に映る前に、空気が細く切れる。

 

 身体が反射するより速く──疼きが跳ねる。

 次の瞬間、足元へ影が落ち、砂が浅く掘れた。

 

 人だ。

 童顔に見える稜線。

 だが動きが鋭い。

 破壊を前提にした身体の使い方。

 

 ほんの一歩で、空気の継ぎ目が裂ける。“動きが壊す”のではなく、“壊すために動く”ような癖。それが彼の輪郭にまとわりついていた。

 

 霧が薄く裂け、彼の目の光がこちらを射抜いた。殺意ではない。“試す”気配に近い。

 

 アリスが叫ぶ。

 

「だめ! 下がってってば!」

 

 影の男は動いた。

 走るのではなく、裂け目へ吸い込まれるような軌跡で距離を詰め──次の瞬間にはこちらの横へ移動していた。

 

 速い。

 観測が追いつかない。

 

 遅れ像が四つ五つ、霧の中へ流れる。その度に胸の疼きが跳ねる。湖の方向だけが、痛みを吸っていく。

 

 ──違う。敵だが、目的は殺すことじゃない。“確かめている”。

 

 影の男は霧へ一歩踏み込み、裂いた。裂け目が光も音もなく開き、灰が逆流する。その隙間越しに、湖の光が一瞬だけ覗いた。

 

 白い。人ではない光の像が、かすかに揺れていた。

 

 心臓の火が跳ねる。アリスが息を呑む。

 

「……今、見え……た? 湖の……あれ……」

 

 影の男はこちらを振り返ることなく、裂け目を閉じようとする。

 だが胸が拒絶した。

 

 湖を閉ざさせるわけにはいかない──

 そんな言葉にならない衝動が、身体の奥から跳ね上がる。

 

 足が前に出た。霧が揺れ、遅れ像が走る。その一歩は恐怖ではなく、抗えない前進だった。

 

 影の男がこちらを見た。刃にも似た視線。裂け目の光がその目の奥で細く反射する。

 

 対峙した瞬間、霧が鳴った。

 呼吸のような音。

 湖へ通じる一点だけが、世界の中心に見えた。

 

 アリスが後ろから掴む。

 

「行かないで……! あれは、ひとじゃない……!」

「ひとの動きだ。けど……目的は別だ。湖を隠そうとしてる」

「隠すって……どういう……」

「分からない。ただ──湖に“天使”がいる。そうとしか思えない」

 

 アリスが息を止める。彼女の震えが伝わる。花弁紋が痛みを拾っているのだろう。

 

 霧が深く脈動し、裂け目がわずかに閉じかける。影の男が一歩踏み込む。止めようとしている。前へ進ませまいとしている。

 

 だが、胸の疼きは逆に強く跳ねた。湖の方向へ引っ張られる。恐怖よりも前へ出る力が勝つ。

 

 リナの通信が割り込む。

 

『聞こえる? 二人とも。……今の霧の脈動、完全に“観測死角”だよ』

 

 アリスが震えた声で答える。

 

「死角って……なに……?」

『簡単に言うと、世界が“見ていない場所”。でも……そっちの胸の反応、逆に安定してる』

「安定?」

『そう。あなたの胸だけが“正常に反応している”。本来あるべきものを捉えてる反応。だから疼く』

 

 天使──

 胸がその言葉に応えるように跳ねた。

 

 影の男が霧を裂き、裂け目を広げてくる。

 拒絶。

 通す気がない。

 だがその裂は、不自然なほど“弱点”を抱えていた。

 

 拒絶の気配が一段深く沈み、霧の奥がわずかに歪んだ。裂け目の縁が細く締まり、その中央だけが黒く沈む。影の男はそこへ足を乗せ、空気の継ぎ目を“さらに断つ”ように力を込めた。

 

 霧が悲鳴のように揺れた。

 

 次の瞬間、裂の線が道そのものを斜めに切り裂いた。通路の“観測面”がひとつ分、削ぎ落ちる。

 

 世界の片側が剥がれたようだった。視界の奥が、まるで紙の端のように折れ曲がる。

 

 アリスが息を呑む音が近い。

 

「……道が、消えて……」

 

 霧が破片のように舞い、空間の奥行きがわずかに欠ける。

 裂はゆっくりと広がり続け、このままでは湖への導線が完全に閉じる。

 

 胸の疼きが跳ねた。

 “そこを消されるな”と言うように。

 

 一歩、前へ出た。

 

 その瞬間、影の男の身体が反転する。

 指先が霧の薄膜に触れ、その一点から“二つ目の裂け目”が生まれた。

 動作は滑らかで、まるで呼吸と同じ自然さだ。

 

 空気が再び断ち切られる。

 

 斜め上から、裂が降ってきた。避けるより先に胸が反応する。疼きが動線を押し上げ、身体を半歩横へ逸らす。

 

 裂け目が足元を浅くかすめ、砂がひと筋だけ削れた。

 だが攻撃ではない。

 切断の角度は“湖への通路だけ”を狙っている。

 

 ──通す気は、本当にない。

 

 影の男が次の裂を生む。

 今度は横。

 道を完全に閉ざす角度。

 

 アリスが叫ぶ。

 

「だめ! そこ切られたら……!」

 

 裂けた空気の奥から灰が逆流し、視界が白黒の模様へ乱れる。

 世界が拒絶の模様を描くように。

 

 だが、裂け目の中心だけが──光を拒めていない。

 

 湖の方向から伸びる白い揺れが、裂に触れた瞬間、裂の線がわずかに滑った。

 

「……切れない? 光が、裂けを拒んでる……」

「そんな……そんなこと……ありえるの……?」

 

 影の男の指先が一瞬だけ止まった。

 裂の余熱が霧に散るが、切断の感触だけが戻ってこない。

「……?」という呼吸の揺れが空気に滲んだ。

 

 影の男が初めて動きを止めた。

 その眼の奥でわずかな困惑が揺れる。

 

 胸が跳ねた。疼きは確信のように熱を増す。

 

 次の瞬間、霧が大きく脈動した。

 

 影の男が裂を再び振り下ろす。しかし裂の入口が薄く滲み、“方向を失う”ように線が逸れた。

 

 裂は、そこだけに触れなかった。

 

 アリスが震えた声で言う。

 

「……あの人……ここ以上は、入れない……?」

 

 影の男は霧の縁へ足をかけ、湖の光を遮るようにもう一度腕を振る。

 

 だが裂は浅く、空気を切り裂く音だけが虚しく散った。

 

 天使光が脈打ち、霧が呼吸する。

 

 裂の象徴が、光の象徴に押されている。

 

 影の男の足元に遅れ像が溜まり、その数だけ動きが鈍っていく。観測死角へ踏み込むたびに、世界が“彼を見落とす”ズレが生じている。

 

 撤退の気配がふっと走った。

 

 影の男はリオではなく“湖”を一瞥した。

 その視線は、斥候が任務の成否を判断する冷静なそれだった。

 

 裂を一度だけ深く引き、霧に細い“退路”を作る。

 

 世界の隙間へ身体を傾け、裂け目の奥へ沈むように──影の男は霧へ消えた。

 

 裂は閉じ、霧が一度だけ静かに呼吸した。

 

 裂本来の強さではない。

 湖の光を前に、破壊しきれない迷いのようなものが揺れていた。

 

 白い残響が、霧の奥で揺れた。

 霧の奥で揺れる光が、胸の拍をひとつだけ強くした。

 胸の鼓動が一度だけ合わせてくる。

 

 湖の中心。

 そこだけが脈打つ。

 

 アリスが袖を掴む。

 

「ねぇ……もう戻ろ? こんなの、普通じゃないよ……」

 

「戻れない。……湖へ行く。霧の奥に、あれがいる。俺を……呼んでる」

 

 影の男の残した裂け目がわずかに震え、閉じる気配を見せる。

 

 一歩前へ出る。

 疼きは、迷いなく跳ねた。

 

「……湖へ行く」

 

 その言葉を落とした瞬間、霧が静かに脈動した。

 湖だけが、確かに呼吸していた。

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