湖へ続く霧道の奥で、空気が押し返された。霧が風でもない何かに払われ、壁のように揺れる。
その中央。白い光の粒をまとった小柄な影――天使端末が、胸を抱えて縮こまっていた。
「大丈夫か? 名前は言えるか?」
彼女はかすかに息を吸い、震える声を絞り出した。
「……わ、私……フィリア。フィリア=ルシェル……」
名前を名乗ったあと、眉を寄せて胸元を押さえる。
「たぶん……“観測端末”……。
でも……記録、ところどころ……抜けてて……」
言葉が途切れ、霧のノイズにかき消されるように弱くなる。
アリスがそっと肩を支えた。
「大丈夫だよ。今は無理に思い出さなくていいから」
フィリアはかすかに首を横に振った。
「……思い出したい……。
でも……“選ばされる”の……こわい……」
彼女の指先が宙をまさぐった。
自分の手を見ているはずなのに、その輪郭が半拍ぶれる。
光が少し遅れて追いかけてきて、形が安定しない。
「……手……ずれて……る……。
私……ここで……ちゃんと“在れてる”……?」
声も同じだった。
発したはずの言葉が、霧に吸い込まれてから遅れて返ってくる。
そのノイズに、彼女の肩が小さく跳ねる。
歩こうとしても足音が出ない。
逆に、立ち止まっていても“自分が歩いたような気配”が微かに揺れる。
「……見えない……。
自分が、どこにいるのか……ずれる……」
光の端末なのに、自分だけが光を外してしまうような、
そんな“存在の空白”が、彼女の周囲に滲んでいた。
その言葉だけは、どこか確かな恐れと一緒に震えていた。
光の粒子が指先から離れ、霧に触れるとすぐに揺れて消える。
「ここ……よく見えない……。
私……自分の……姿も……観測できなくて……」
彼女は必死に目を凝らして前を見ようとする。
だが視線は何度もぶれて、霧の中に沈む。
「……ごめんなさい……。
あなたたち、誰……?
どうして……私を……助けてくれるの……」
アリスが答えようとした、その瞬間──
霧が脈動し、背後の空間が“歪んだ”。
近づくと、髪がかすかに揺れた。
金とも白ともつかない細い髪が霧の光を受けてほどけるように流れ、肌は驚くほど薄い。
淡金の瞳は焦点を失いかけながらも、こちらへ向こうとする意思だけが揺れていた。
「……こ、ここ……見えない……光が、跳ね返る……」
声は震えているのに、必死に理解しようとしている響きがあった。
観測が乱れ、意識がずれるたびに、肩が小さく跳ねる。
彼女の輪郭は淡く揺れ、視線は何度も前へ向く。
“観よう”としているのに、観測が弾かれてはノイズになる。
光の端末であるはずなのに、この場所では自分すら捉えられない。
その震えが、逆に異常さを強調していた。
アリスがすぐ脇にしゃがみ込む。
「……フィリア、だいじょうぶ……? 手、冷た……あ、また光が……」
彼女の花弁紋が淡く点滅し、痛覚リンクが乱れを拾っている。
霧が脈動し──その瞬間、背後の空間が“歪んだ”。
音もなく、影が滲む。
低い声が霧の向こうで転がった。
「……端末がここにいるとはな。回収班が喜ぶ」
その声が、霧を裂くように近づいてくる。
アリスが反射で俺の袖を掴んだ。
「誰……? ねぇ、誰かいる……!」
霧が押し退けられ、一条の影が浮かび上がった。
黒羽外套。削れた頬骨。
足元に流れる灰。
視線はまっすぐこちらへ。
「灰羽セル……反体制ゲリラか」
ただし、単独での確保ではない。
後方で回収班が待っているからこそ、
彼は先行して“道を開く”ためにここへ来た。
影の男は軽く首を傾けた。
「少年よく知ってるな。渡せ。後ろの連中が回収を急いでいる」
フィリアが小さく震える。
「……か、回収……? 私……?」
彼女の声は震えているのに、目だけはこちらを探そうとしていた。
ノイズだらけの観測を、それでも握りつぶして前に伸ばすように。
俺は少しだけ前へ出た。
アリスの指が強く袖を引く。
「むり、だめ……! 敵だよ、あれ……!」
影の男は、薄い笑いを浮かべた。
「敵? いや、任務だ。端末を回収し、塔の光脈を切る。それだけだ」
「塔は光を流しすぎる。
世界は“ひとつの揺れ”に縛られたままだ」
セルマの声は淡々としていた。
怒りでも憎しみでもない。思想の断片を語る者の響き。
「自由は綻びから生まれる。
秩序の穴を開けたときだけ、世界は別の形を選べる。
だから俺たちは……“切れ目”を作る」
その言葉と同時に、足元の灰が細く逆流し始めた。
“切断すること”そのものが彼の呼吸であり、価値観なのだ。
「端末がいれば塔の光脈に触れられる。
価値はある。
だから回収する。
単純なことだろう?」
慢心――というより、
“揺らぎを開けるのは自分だ”という確信が滲んでいた。
彼の声に殺意はなかった。
その代わりに――慢心の匂いが、はっきり滲んでいた。
「少なくとも、お前たちに止められるとは思っていない」
霧がその言葉に呼応するように揺れ、
裂け目が細い線になって足元から伸びる。
灰の粒が宙へ逆流した。
アリスが息を呑む。
「……霧が……裂けて……る……」
影の男の足が影波を踏み、
空気そのものを斜めに断ち割った。
本当に、“空気を切っている”。
観測が遅れ、影の残像が三つ、四つ、霧に溶けた。
端末が目を押さえてうずくまる。
「……みえ、ない……観測……揺れて……」
胸の奥で、熱がひとつ脈打った。
痛みではない。
ただ“どちらへ動け”と、そこだけが鮮明に決まっている感覚。
影の男の動きよりも、霧の揺れよりも、
胸の拍のほうが先に来る。
――避けろ。
――立て。
――守れ。
そんな言葉にもならない方向だけが、
焼けるような熱で押し上げてくる。
自分の意思より先に、身体だけが正しい位置へ動く。
理解は追いつかない。
だが、フィリアに刃が向いた瞬間だけ、
胸の拍が鋭く跳ねるのは分かった。
胸の奥が熱く跳ねる。
痛みではない。
“そこを守れ”と脈打つような反応。
影の男が歩を進める。
「邪魔をする理由があるなら聞こう。
ないなら、退け」
アリスが震える声で答えた。
「し、理由なんて……! この子は……!」
俺は言い切った。
「渡す気はない」
影の男の目が細くなった。
刃に似た視線。
「……そうか。なら削ぐ」
霧が鳴った。
影が跳ぶ。
速い――観測がまた遅れる。
裂け目が俺の横をかすめ、砂が浅く削れた。
アリスが叫ぶ。
「だめ! そこは――!」
もう一撃。
横薙ぎの裂。
道を完全に閉ざす角度。
胸が反射で跳ねた。
痛みのような衝動が、腕を突き上げる。
身体が勝手に動き、半歩だけ横に逸れる。
裂け目は俺の背後で空気を切り裂き、そのまま霧へ消えた。
影の男が眉をひそめる。
「……今の、避けたか? 偶然だろう」
そう言いながら、また足元に影波が走る。
彼は知らない。
“胸の反応”が、避けるべき方向を押してくることを。
端末が震えながら声を絞る。
「まって……あの動き……湖の……光、ゆれて……る……?」
アリスが彼女を庇い、外套で覆う。
「見なくていいから……! 今は……!」
影の男は手をひらりと振った。
「端末は黙っていろ。回収するまでの辛抱だ」
その言葉に、胸の焼けが強く跳ねた。
“奪わせるな”。
理由は分からない。
でも、ここで渡せば彼女は壊される。
そんな確信だけが、内側で燃える。
男がもう一度裂を作る。
斜め前――俺とフィリアの間を断つ線。
だが、裂は途中で“滑った”。
影の男がわずかに目を見開く。
「……何だ今の。俺の刃が逸れた?」
彼女の周囲の空気だけが、薄く揺れていた。
光がそこに留まり、裂波を受けつけない。
本人は理解していないようだ。
「……や、やめて……こないで……」
影の男は鼻で笑った。
「観測端末の癖に、理由も分からず防いでいるのか。
面白いが、これくらいで止まるわけ――」
再び刃を振り落とす。
だが裂はまた滑り、霧の中へ逸れた。
男の頬がピクリと動いた。
「……死角か。
お前、そこに“観えない壁”でもあるのか?」
リナの声が耳の通術石を震わせた。
『聞こえる? 今の揺れ、完璧に死角。
そこだけ“世界が見てない”』
アリスがびくりと反応する。
「見てないって……どういう……!」
『逆に言うとね――
そっちの胸の反応だけが正常に働いてるの。
だから避けられてる』
影の男はこちらを睨みつける。
「……避けているんじゃなく、
“導かれて”いる、か」
男が足元の灰を踏みつける。
一歩。
二歩。
ゆらぎが濃くなる。
だがそのたび、遅れ像が男の足元に溜まり、
動きが少しずつ鈍っていく。
観測死角が、男の動きを“見落として”揺らす。
男は舌打ちした。
「……チッ。めんどうな地形だ。
ここ以上は深入りしない。
回収は後ろに任せる」
その声に慢心が滲んでいた。
そして──撤退の気配が走った。
男は霧へ裂け目を一線刻み、
身体をそこへ滑り込ませるように消えた。
裂は閉じ、霧が静かに呼吸を戻す。
その場に残った灰が、フィリアの足元だけを避けて沈んだ。
アリスが震える手で俺の肩を掴んだ。
「……ねぇ、本当に……戦うつもりなの……?」
フィリアは座り込んだまま、小さく問いかけた。
「……守って、しまった……? 私……」
フィリアは震える指で胸元を押さえた。
「……また……誰かの選択を……奪っちゃった……?」
その問いは弱いのに、どこか必死だった。
選択の強制を恐れる彼女が、いちばん気にすること。
俺は首を振った。
「違う。
奪われてなんかない。
俺が勝手に、守るって決めた」
フィリアの瞳がわずかに揺れ、
アリスがその肩をそっと抱き寄せた。
霧が静かに循環する。
セルマが消えた方向だけ、影がわずかに沈む。
湖の奥から、ごく弱い光が呼吸のように脈打った。
――進め。
胸の拍が、それに応えるようにひとつ跳ねた。
「……守る。
ここで立ち止まらない」
その言葉が、自分の意志としてはっきり形になった。
俺は二人を見た。
胸の焼けはまだ続いている。
けれど苦痛ではない。
“進め”という衝動だった。
「守るためなら、迷わない」
言葉にして初めて、それが決意になった。
霧がわずかに震え、湖の方角へ薄い光が揺れた。
――必ず守る。
そう呟いた瞬間、胸の疼きが静かに跳ねた。
湖だけが、また呼吸を始めた。